『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)2013年 John Curran監督 自分探しの一人旅が、女性にも拡大しているのだろうか?

奇跡の2000マイル [DVD]

客観評価:★★★3つ
(僕的主観:★★★3つ)

■あらすじ

1977年に、ロビン・デヴィッドソン(ミア・ワシコウスカ)という女性が、オーストラリア西部の砂漠地帯約3000キロを横断すを横断しようとするところから物語ははじまります。彼女は用意周到に、ラクダを手に入れるためにラクダ牧場で2年ほど無休で働き、ラクダ4頭を手に入れます。そして愛犬一匹とともに、アリススプリングスからインド洋に向かって徒歩で冒険をはじめます。先立つものがほとんどなかったため、ナショナルジオグラフィックのスポンサーを受け入れます。人間嫌いの彼女は、いやいやながら同行の男性カメラマンを受け入れます。カメラマン役は、スターウォーズ新作のアダム・ドライバー。7か月に及ぶ命を懸けた砂漠踏破は、彼女がなぜ日常を捨てて人間嫌いになって、この一人旅に身を投じたのかの過去が少しづつ明らかにされてゆく。


■自分探しの一人旅が、女性にも拡大しているのだろうか?

最近、町山智浩さんのラジオにはまっていて、紹介されているのを片っ端から見るように頑張っているんですが、多すぎて見切れていません(←多すぎて、無理(笑))。とはいえ、2週間で15本は見たから、頑張っていますよね!(笑)。さて、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)2013年。『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』2014年と、女性が、自分探しで冒険をするという系統の話で同じ。連続で映画化されることから女の子、女性の「自分探し」が一般化したともいえる気がします。もちろん、そもそも、1977年に原著は出ているわけですが、一般化という意味では、この映画は大きな波のように感じます。たしかに、町山さんも指摘されていますが、男性がこういった自分を探すために、放浪するという形式の本は、昔からたくさんあって、僕らの世代だと沢木耕太郎さんの『深夜特急』が、やはり有名ですよね。とはいえ、約20年以上前、僕もかなりのバックパッカーでしたが、世界中いたるところに女性で一人旅をしている同じようなバックパッカーは、男性比率は少ないもののそれなりにいました、日本人の女性でさえも。けれども、普通の人が旅に出るよりはちょっと、ぶっ飛んでいる人が、行くという感じがまだあった気がします。でも、こういう風になると、誰でも普通の人が行く、という感じになっていく感じがします。ちなみに、Tracksは、Wildに比較すると、マジな冒険家的な匂いがします。そもそもお父さんも探検家ですし、準備の念の入りようは、半端ない。けれども、Wildのほうは、人生どん底になって傷ついた女性が、ふと思いつきでロングトレイルに挑むという感じで、こちらのほうが圧倒的に、その場のノリ的な感じで、Cheryl StrayedのWild: From Lost to Found on the Pacific Crest Trailのほうは、2012年ですから、実に35年くらいの差があるわけで、そりゃ動機は全く違うよな、と思います。この二つは、見比べると、冒険家が冒険を望む感じと、一般の人が心の傷をいやしたくなったり自分を見つめたくて、どこか遠いところへ行くことの違いが現れていて興味深いと思います。ちなみに、女性の冒険家もたくさんいて、『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』を書いた19世紀のイギリスの冒険家イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird)さんとかもいるので、冒険が男性の専売特許というわけではもちろんない。けれども、それが世俗化して行く過程では、男性の盛り上がりと少しタイムラグがある気はしますね。やはりじわじわと、現代は女性が権利を拡張している感じがしますね。

ふしぎの国のバード 1巻 (ビームコミックス)


■エゴイズムとセルフからの脱出を描く脚本の1970年代と2000年代(現在)の違いを感じる

ちなみに映画としての評価なんですが、両方とも、僕としては、面白くなかった。映画としての出来は、どちらもいいので、根本的に悪いという意味ではなく、僕との間隔にはヒットしなかったという言い方が正しいだろうか。広大なPCTやオーストラリアの砂漠が、ただの心象風景の舞台のようで、ほとんど意味を感じられなくて、要は心の問題の話だからだと思うからです。なので、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうが、そこに極端にフォーカスしている分潔く、ああ、自分探し、自分癒しなんだなというのははっきりわかってまだ見れた。けれども、『奇跡の2000マイル(原題:Tracks)』のほうは、その背景説明が、あいまいなので、いまいち。子供時代に抱えたトラウマが原因、遠因になって、極端な旅に出かけていくという動機の構造は、同じ。また、物語的なカタルシスとして、自然を進む過程で、自分と向き合い、断片的な過去がフラッシュバックして、自分を内省するというドラマトゥルギーも同じ。けれども、『奇跡の2000マイル』は、微妙にはっきりと原因がわからないので、かなりの部分想像力に頼ることになるし、彼女自身のふるまいに、エゴが強く出る部分はあっても、エゴが解放されるような解放感を感じられないので、なんだか不完全燃焼になってしまう。なので僕の好みとしては、両作品とも、とても評価は低い。ただしこれはもちろん観点の問題もあって、アダルトチルドレン的な「心のトラウマ」と向き合って、自分自身を探していく心理過程に興味がある人にとっては、けっして悪くない作品だろうと思う。そもそも、自分を探すために必要なことは、「一人っきりになって孤独を感じること」で、それによって余計な世間や社会の雑音が聞こえなくなるので、自分に向き合うしかなくなって、心の問題を深堀できるからです。そういう意味では典型的な作品。


実際は、母親が自殺して、叔母にあずけられて厳しい寄宿舎生活をしていて、そのために飛び出してヒッピーになっていたというのが裏にあるのですよね。全部描かれていないので調べるか本を読まないとわからないのですが。これって、まさに1970年代の話なんですね。なので、あきらかにヒッピーの仲間とつるんでいたことが描かれている。なので、この作品は、カウンターカルチャー的な文脈で本来は読み取るものなんだろうと思います。少なくとも著者は、そういう動機で、生きている。わかる人のはとても良くわかるカルロ・カスタネダとかそういう流れですね。かといって、時代的にこの感覚もかなり古いし、僕はカウンターカルチャーは、とてもエリート臭の強いもので、世俗化して一般化してきている現代の人々には、臭みが強すぎるので、それをあまり描かなかったように感じます。それはそれで正しいかもです。

The Active Side of Infinity

ちなみに、「自分探し」と「大自然」という組み合わせを考えるならば、脚本の終着点としては、大自然の中に一人孤独でさらされる経験や、映像を打ち出すことにより、自己(セルフ)が、宇宙の中では相対的に小さなもので、こだわる必要があるのだろうか?という諦観や悟りとまでいかないまでも、自己の相対的卑小さを描いていくことが、感覚の変容という観点からの王道のストーリーだと僕は思う。ようは、自分探しの根本原因は、強すぎるエゴ・セルフをどのように解体して中和するのか、というところに物語のドラマトゥルギーがあると思うのです。強すぎるとすれば、それをいかに弱くできるかがダイナミズムだと思うのですよ。というか、強いものを強く描くと、英雄の大冒険スペクタクルになってしまうと思うんで、あまりにテーマや現代的文脈にあわない。


ところが、どちらも、自分が、自分以外の「何かによって生かされている」という感覚が、あれだけ巨大な自然の中で生きていながら全く感じられず、本当にいまいちの映画だった。アボリジニが出てきて、宇宙の大きさを感じられないなんて、よほど原作が、エゴイズムなんだろうと思ってしまう。特に、Tracksの主人公の、スポンサーや自分をサポートしてくれる写真家に対しての、ぞんざいな扱いは、いったい彼女は何様なんだ?とずっと思う感じだった。もちろん、自分探しなんだから、それは仕方がないのかもしれないが。これは、監督の興味が、「自分探し」の部分に偏っていて、大自然そのものをを表現するというところに、重きを置いていないからだと思う。もちろん、監督らが、もともとそういう意図で撮ったといわれてしまうと、それまでなのですが。

わたしに会うまでの1600キロ [DVD]

でも、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうは、やはりとても現代的文脈ですよね。2012年日本が出ているのもあって(実際に Pacific Crest Trail を歩いたのは1995年)、冒険家的なにおいやカウンターカルチャー的な自分探しのぶっみゃくいがまったくしない。いっそ潔く、自分探しにフォーカスしている。まぁ、そもそも Pacific Crest Trailは、砂漠が多いので、なんも考えられないというのはあるんですけど。


あっと、いま思いついたんですが、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』は、どちらかというとトラウマからの解放を描いていて、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)は、自己実現を描いている感じがしますね。なので、同じ自己の探求、自分探しの葛藤としても、両者に非常に違いがある。


僕は、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)のロビン・デヴィッドソン(ミア・ワシコウスカ)には、とても嫌な感じがしたんですよね。それは、同行していたジャーナリストの男性に対する扱いが非常にぞんざいで、エゴイスティツクに見えたからです。ただし、ここが評価で難しいところなのは、彼女のこういうをエゴがいやらしい自分ばかり見ているいやな人間ととるのか、、、しかし同時に、ほぼ生きるか死ぬかというレベルの大冒険にほとんどすべてを捨てて飛び込んでいるスケールと気合の大きさは、否定できないものがあって、このスケールのデカさを評価するのか、そうでないのかによって、評価が180度変わる気がします。


ノラネコの呑んで観るシネマ
わたしに会うまでの1600キロ・・・・・評価額1700円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-856.html


ちなみに、ノラネコさんの『わたしに会うまでの1600キロ』は、1700円と評価が高い。自分探しの旅の寓話として評価すると、この評価には納得する。また、シェリル・ストレイドのほうが人間的に、とても共感する。人生どん底になって、旅に出るというのは、とてもよくわかる。こちらのほうが、エゴに臭みがない感じがするんですよね。冒険家的なテイストがある、ロビン・デヴィッドソンには、俺が俺が、的な自我が感じてしまって、主人公を好きになれなかった。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1


前にこう言うのを書いたんですが、『奇跡の2000マイル』(原題:Tracks)には、1970年代のカンターカルチャーやアメリカンニューシネマなどの系譜の、「支配されたくない」「ここから脱出したい」というような、抑圧からの解放を強烈に志向するテイストを感じますね。見ていて、『欲望の翼』のラストシーンのような印象を受けました。ということは、僕の中の文脈では、これは、「何かから逃げていく」文脈に感じるんだろうと思います。


欲望の翼 [DVD]


ちなみに、『わたしに会うまでの1600キロ (原題 WILD)』のほうは、逆で、逃げているものからもう一度再生を志向して、一歩を踏み出す印象を受けます。このあたりが、1970年代と2000年代の同じ「逃げる」ことに対しての志向性の違いに感じます。


Tracks


ちなみに、男性版のこれらとの比較も考えてみたいですよね。自分探し。大自然放浪系。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]