『エーゲ海を渡る花たち』(2019-20) 日之下あかめ著 15世紀末のエーゲ海をめぐる幸せな旅行記

エーゲ海を渡る花たち(3) (メテオCOMICS)

評価:★★★☆星3つ半
(僕的主観:★★★★星4つ)


本日3巻読了。素敵な物語だった。15世紀半ばのあたり半島北部フェラーラ侯爵領からエーゲ回を超えて、ベネチアネグロポンテクレタ、現イスタンブール黒海東沿岸部、そしてアレクサンドリアへ。


物語の基本骨格は、現クリミア半島出身のオリハという女の子が、行方不明の妹のミアを探す物語。そこに、フェラーラの商家の令嬢として育てられているけれども「世界を見てみたい!」と好奇心あふれるリーザという少女が協力するというもの。


僕は、こういう歴史の世界を観光できる物語というのが好きで、見つけたらよく見るようにしているのですが、これは凄く出来が良かった。キャラクターもかわいいし、物語の骨格がシンプルだし、様々な寄港地での食べ物や服装などトリビアが満載で、この時代の具体的な風景がヴィヴィッドに伝わってくる。こういうパターンの物語って、よくありますよね。最初の出会いのシーンで、フェラーラの東にあるコマッキオの鰻の網焼きが出てきた時は、よだれが出そうだった。ああ、こういう描写はいいなーといつも思う。小説とかだと、具体的なヴィジュアルで見ることができないので、想像に頼るのですが、画像で見ると一発だったりすることも多いんですよね。そういうのが見れるところが、こういう旅行記的マンガの素晴らしいところ。ちなみに、こういう作品は、グーグルで画像検索しながら、その場所や服装などを、イメージで見ながら、方法と観光気分で見るのが僕のお気に入りの読み方です。あと、グーグルマップで検索しながらね。そうすると地理感覚、時間間隔など、具体的なものが、実際に行くのにはかなわないにしても、なんとなく心の経験値に積み重なる気がして、幸せな気分にひたれます。そして、できれば、実際に行ってみて、さわってみて、着てみて、食べてみることができると、経験値が何倍にも跳ね上がると思うのです。ちなみに、最近は、ジョージ・ワシントンとハミルトンの自伝を読みながら、地図で独立戦争の戦略・戦術を考えながら見てるんですが、、、絵で見るのでは飽き足らなくて、アサシンクリード3で当時のアメリカ、ニューイングランドを観光中です。こういうのって、あまり抽象的に「歴史の結論はどうだったのか!」とか「何が歴史的に意義あるイベントだったのか!」みたいな、年号や抽象性で理解すると、歴史を学ぶ醍醐味が薄れていしまうといつも思うのです。この時、たとえば17歳くらいの少女はどんな服を着ていたのだろうか、、、どんな風に脱いだり着たりするのか?、何をおいしいと思って食べていたのか?、ジュースは、お酒は?、旅をするならどこまでいける、どういう理由で?、船は帆船なのか、ガレー船なのか、その場合は、、、とかとか、、、具体的に想像して、知っていくこと「それそのもの」が美しく楽しいと思うんですよね。こうした「具体性」は、「主観性」を設定するしかないといつも思っています。主観性って、ようは、物語として、そこのキャラクターとして、その人の目から見たら、世界がどう見えていたかを考えるってこと。こういう空想は、いつもドキドキします。フェラーラから船でベネチアに向かう時に、湿地帯を通り、フラミンゴの群れに遭遇するところとか、胸が躍りました。イタリアは、学生の頃だいぶ回りましたし、いろいろ本も読んでいるし、仕事でも何度も訪れましたが、、、、「知識というフィルターなし」には、そこにあっても見ていないものが多くあります。逆に、一度体験していて、その後に様々な視点や視座を学ぶと、「あの体験はこういうことだったのか!」と驚く時が多く、体験がさらに深まります。そういうの、僕は好きなんです。旅行するときは、ぜひともその地域の歴史を勉強したほうがいいし、行った後に勉強しなおすのも素敵です。ちなみに、学生の頃この辺りは放浪したことがあるので、食べ物は似たようなものをだいぶ食べたことがあるので、まざまざと思い出して、幸せな気分になりました。


しかし、単に15世紀半ばのこの地域、イタリア全域からエーゲ海を抜けてイスタンブール、コンスタンチノーポリスへの旅行記として楽しむのも、十分に面白く素敵だったが、それ以上に、リーザとオリハの二人の友情が、とても深く素敵に思えた。なぜかといえば、何度も作中で「幸せな旅行記」と、ありえないほど幸運に恵まれた、普通ではありえないことが強調されているが、、、僕もそう思う。この時代に女のみで、少女が、このような旅をできるはずもなく、したところで、基本的には、襲われて、犯されて、殺されるか、奴隷として売られて死ぬか、、、という高い確率の「現実」しか全く思い浮かばない。だから、この日常系のような、穏やかな人生が、あたりまえではなく、幸運に恵まれた「ありえないこと」という雰囲気が、常に感じるんですよね。別にそこまで作中にそういう「匂わせ」があるわけではないので、僕の主観的なものなのかもしれませんが、、、。だって、この時代の距離や、女性の不自由さを考えれば、大前提として、クルム(黒海沿岸の町)から、ジェノバに嫁に出されたオリハが、家族と再会したり、ましてや難民になった可能性のある妹と会える確率なんか、これっぽっちもないじゃないですか。あたりまのように「ガールミーツガール」で、リーザとオリハは仲良くなっていますが、ほんの一瞬の偶然で、もしくは意思にかければ、もう二度と会うこともできないはずです。だからこそ、「一緒に旅がしたい(ただそれだけのこと!)」というのは、命をもかける難しい決断になるのです。


オリハという女の子は、父親の命令でジェノバの軍人の三男坊に嫁いだのはいいけれども、船で到着してみたら、相手は死んでいて、、、、その家で養いきれなくなったので、ボローニャの学者に助手になるんですが、もともとは結婚相手として紹介していて、これって体のいいお払い箱というか人身売買だったんじゃないか、と思うんですが、、、、彼女が、遠くの町からきて様々な語学を操ることができたので、助手として雇ってもらえることになったんですよね。基本的には、世の中の99%の人は、自分の人生なんか選べません。暴力的に投げ込まれた場所で、関係性の中で、何とか「自分の居場所を見出す」ことしかできないわけですよね。マクロ的に、そうならない「自由な世界」を創るのは大事なことですが、ミクロの世界に住む我々一般人にできるとことは、ほとんどありません、いつでも。その暴力的に与えられた狭い世界で、何とか生きていくしかないのです。ましてや、15世紀末の中世なんぞ、本当に自分が選択できることなんか、全くなかったでしょう。ましてや当時込められている女性の身では。


そういう不自由な世界だからこそ、選択肢がほとんどないからこそ、「出会い」を大事にして、価値ある絆に育てていくことは、難しく不可能でありながら、美しく素敵なことだな、と僕はしみじみ思いました。


エーゲ海を渡る花たち(1) (メテオCOMICS)



やはりここでは導入本としては、塩野七海さんのベネチアの本が、おすすめですね。ここをとっかかりにすると、いろいろな世界が開けると思います。


海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年(上)―塩野七生ルネサンス著作集4―


ちなみに、最近、少女マンガとか少年マンガとかの区分けがよくわからなくなってきた。もうこの辺り勘みたいになっちゃったなー。