評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)
艶と萌がない、というのは、昨今の売れるファンタジーの基準から外れますよね。それと物語的なご都合主義、特に、全能感(=主観的欲望の発露と充足)がベースでないものは、ライトノベルを支える若者読者層から外れてしまう。けれども、逆に、本読みの、なんという言葉でいいあらわせばいいのかわからないが、読書好きの層からすると、こういう硬質で、厳しい人間理解と世界の仕組みの「どうしようもなさ」に対してのクールな視点は、極上のテイストとなる。これは売り方が難しいな、と思いました。というのは、ファンタジーで売ってしまうと、購買する年齢層は低くなるのであまり受けないでしょうし、そうはいっても架空世界の物語なのでファンタジーはファンタジーで、これを読んで、おっ、と思う層は、なかなかファンタジーには手を出さないと思うので。
とりあえず、結論を言っておけば、友人に勧められたのですが、非常に面白かった。何が面白かったか?と問えば、その「厳しさ」が面白かった、です。
厳しさとは、
1)人間理解の厳しさ
2)マクロの仕組みという外部のどうにもならなさ
3)人間関係の彩が織りなす結論が、全能感(=主観の欲望の発露ではない)に至らない
という意味で。
ここで説明することを分かってもらうには、僕の、「小説家になろう」の分析を読んでくれると、よくわかるのですが、一言でいえば、「小説家になろう」のサイトのコアは、いかに、主観的な欲望の発露のパターンをずらしていくか、紡いで行くか、ということの集合知でした。これは、ライトノベルとは言いませんが、ある程度「マス足り得る」層が、最も求めているものが何か、ということのわかりやすい指標だと思います。物語の原初的な基盤的欲望なんだろうと思います。けれども、これほどマスにならないけれども、同時に存在している欲望の一つとして、逆に「厳しさが見たい」という欲望も僕はあると思うのです。というのは、物語世界の構築とは、「世界の再現」にあるわけで、ご都合主義的なものを極まりすぎると、どうも現実っぽくないとがっかりしてしまいます。
ファンタジーで、ああこれは厳しいな、という「厳しさ」が前面に出ている作品は、ぱっと思いつくもので大きく二つあります。
『獣の奏者』と『十二国期』シリーズです。特に、よくよく考えると、『月の影 影の海』などは、異世界ファンタジーものの、主観的欲望の充足という売れ線のテーゼに対する、ものの見事な、アンチテーゼになっていますよね。これが過去の作品だということを考えると、著者のセンスの良さ、これをカバーを変えて販売した編集のマーケセンスには脱帽します。厳しいってのが、どういう意味かは、下記のような記事で、淡々と描いています。また、この時の引用が、『ランドリオール』を書かれているおがきちかさんの『獣の奏者』への感想ですね。この比較(世界に対しての厳しさ甘さの度合い)を意識して、ファンタジーをたくさん読みこんでいくと、いろいろなものが見えてきて、興味深いと思います。
『獣の奏者』 上橋菜穂子著 世界が人にきびしいです
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090824/p3
『獣の奏者』 上橋菜穂子著 帰るところがない人は、より純粋なものを求めるようになる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090607/p3
『獣の奏者』 上橋菜穂子著 傲慢さを捨てられなかったのは・・・・だれのせい?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100306/p1
渋くて本物感あるファンタジー小説を読むと、あー自分の描いてるものってたしかに「まったり」なのかもな、と思います。自分では「まったりファンタジー」て言われると、そう? って思うんだけど(比べるような描き方はものすごくおこがましくて恐縮なんですけど)「獣の奏者」は確かに「子供にも読ませたい…かもしれない…大人の物語」なんだなーと思います。小説だからかな? ランドリは「大人でも楽しめる子供向け」な気がするもんね。十代後半を子供って言うなら。
「獣の奏者」はとってもとっても面白いので大人の人にはおすすめしますが、世界が人にきびしいです。サッパリしてないです。クライマックスがアレですが、もう、世界全体がすり鉢なの。抗えないすり鉢のような世間。そーゆーゴリゴリいう音が迫ってくるストレスを楽しめる人にはものすごくおすすめです!ヒーローが不在で生物学者が「できるだけのことはしますけど…」って話。
私は最後に世界に平和が訪れるRPGが好きだし、最後にはれないが成就するラブロマンスが好きだし、つまりピアズ・アンソニイとビジョルドが好きです…甘ちゃんですみません…。
ランドリはねー、こー、どんな時でもホワイトノイズみたいに「いい予感」みたいなのがあって、実際にいいことがあったら読者さんが「やっぱりね!わかってた!」って思うマンガだといいなーと思って描いてます。登場人物を巻き込む世界は夢みたいな上昇気流がいいな。ていうかそんなんしか描けないんです。http://d.hatena.ne.jp/chika_kt/20090823
ゆるゆる+メリハリ+バランス<前の日
もう少し、作品分析によってみましょうか。
1)人間理解の厳しさ
2)マクロの仕組みという外部のどうにもならなさ
3)人間関係の彩が織りなす結論が、全能感(=主観の欲望の発露ではない)に至らない
こう書きましたが、1)の人間理解の厳しさ、というのは、この作品の主要な登場人物であるアマヨク少尉と彼の父、そして彼の伯父である南域将軍ドールフェンディの人格描写が、典型的です。
南域将軍は、自分の出奔した妹(父の妾の子)のことが終生忘れられなくて、彼女の面影をアマヨクに重ねて生きています。決して、恋情ではなく、厳しい貴族社会の頂点を肉親を押しのけて、何もない状況から裏の手を染めて伸し上がった彼からすれば、真の家族といえる人は、その妹でしかなかったからでしょう。そして、この設定をつくっておいて、南域将軍ドールフェンディが、数十年にわたって影の立場から溺愛に近いなというほどアマヨクを見守ってサポートするのですが、アマヨクの人生最大の危機に、アマヨクの娘が出てきた途端に、アマヨクをさくっと見捨て裏切り、その娘を手に入れて溺愛して育てることになります。これは非常によくわかる描写で、南域将軍ドールフェンディにとって、真に大切なものは、彼の「妹の面影」であって、アマヨクそのものではなかったのですから。ずっと、なんで娘を産まなかったんだ、という述懐が何度も出てくるのですが、これは伏線なのですね。
また、アマヨクの父親。貴族の屋敷からアマヨクの母と駆け落ちしたのですが、この男が、多分とても意志の強い女性だったアマヨクの母とは違い、とても意志の意志の弱い人なんです。こういう「現実」を全く直視できない人、というのは、よくいます。僕の知り合いでも、自分の娘が死にかけているのに、死にそうな人を見たくない、とかたくなに娘に会いたがらない人がいました・・・信じられますか?それ。でも、そういう人はたくさんいるんですよ。「厳しい現実」を見たくない、という人は。そうやって、人生は生きていけるのです。ちなみに、娘に先立たれたその人は、100歳で今も健在です・・・。この父親も同じで、そのことによって、実は、父親らしく息子のことは愛しているのですが、アマヨクは、人生において「ただの一度もその愛情を感じることはなく」また、彼の最大級の人生の試練であった告発裁判でも、父親が現実を直視しないが故に言った言葉が、敵対者の告発材料に証拠として取り上げられてしまいます。ああ、現実を生きていない人の、なんという悲しさか、、、。彼にはそんなつもりなどまるでないのに、現実を見ていないが故に、最もしてはいけない裏切りをしてしまうことになるのです。そして、そのことを彼はわかっていません、、。薄々分かっているけど、現実を直視できないから、それを認められないのです。
アマヨク少尉は、事実上、人生においてただの一度も肉親の愛情、家族の愛情に触れることがありませんでした。彼が死ぬまで、敬慕して愛し続けた南域将軍ドールフェンディは、実は、彼自身ではなく「彼を通して彼の母の姿」を見ていたことが、冷酷にも物語でクライマックスで如実に示されます。
1)と3)なんですが、これが、このコミュニケーション不全(愛情が完全にすれ違って壊れてしまっている)が著者の描きたかったた事とすれば、それはあまりに悲しすぎます。けれども、それぞれが、思う気持ちは、嘘ではないのです。冷酷な南域将軍ドールフェンディは、ただひたすらに、自分の妹の面影を思っていました。自身の政治的立場ではあり得ない、縁の切れたアマヨクを子ども時代から溺愛するようにサポートとするほどに。それは、妹の子供だからです。けど、アマヨクの娘を見た途端、アマヨクが死ぬのが確実な裁判の敵対者側に寝返ってしまいます。その娘を助けるために。。。。ほとんど、ノータイムで何も考えず。。。それほどまでに、南域将軍ドールフェンディの妹への愛情は屈折してそして大きく盲目だったんでしょう。アマヨクを主人公だとすれば、僕は、本当に胸がつぶれるほど悲しくなります。実の父に事実上疎外されていた上に、実の父のようにずっと深く深く敬愛していた南域将軍ドールフェンディに、人生の一番のクライマックスで裏切られるのです。そして、それは、憎しみなどではなく、異なる愛のためでした。鳥瞰して人間関係を眺めれば、これがおかしいことだとは思いません。誰もが自分の最も大切なことを、追及していた結果です。・・・・しかし、なんて、なんて厳しいのでしょう。
というようなことを、描きたい人は、この世界の「どうしようもない切なさ」、絡まってしまった人間関係の彩なす織り目は、時にとんでもない悲劇を紡ぐことを示したいのだと思います。そして、それは物語として、素晴らしい!!と僕は思います。こういう系統でふと思い出すのは、イギリスの作家カズオイシグロさんですね。
僕はこの系統の世界認識、物語類型のキーワードを、世界の圧倒的な関係性の重さと深さに対する「無力感」とよんでいます。
ただ、最上段で僕が、この作家をして「艶がない」といったのは、逆にいえば、このように「絡まるだけ絡まった人間関係やマクロの出来事」というのは、とんでもない悲劇を起こすと同時に、とんでもない幸福を起こすこともある、という部分が抜け落ちていることです。これは、世界の圧倒的な豊饒さに対する無力感を描く作家が、ドラマトゥルギーでその悲劇が到達するところをピークに世界を設計してしまうために起こりやすいと僕は思うのです。しかしこれだけの作家です。そういった部分も見てみたいと僕は思います。
ちなみに、絶望する状況下で、基本的になんら希望はないにもかかわらず、生きることの肯定が描かれたファンタジーで思いだすのが『ディバイデッド・フロント』ですね。著者は、他の作品を読むと僕的にはテイストがとても世界への姿勢がマイナスで、、、つまりは、基調低音として世界が「とんでもなくひどいところだ」というベースがあるんでしょうね。けど、このディバフロは、その基調低音をこれでもかと見せつけつつ世界に対して絶望的でもありながら、希望が紡がれるとてもすばらしい作品でした。僕はこういうのが、凄く好きなんです。世界が凄く厳しいけど、それでも、人間だもの。希望を持って、世界を肯定して生きていきたいじゃないですか。そして、そんな過酷な世界にも、時々、えっ!!!というような、幸福がこぼれおちてくることがあるものなんです。
ディバイデッド・フロント〈1〉隔離戦区の空の下 (角川スニーカー文庫)
『ディバイデッド・フロント』 高瀬彼方著 「世界が絶望的な状況にあること」と「世界に絶望すること」の違い
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080720/p1
まぁ、水準を群抜いているので、あんまり「その先」とはいわず、いいんですけど、十分すぎるほど面白しろいので。もう直ぐもう一つのほうも出ますね、楽しみです。
ちなみに、北方水滸伝が凄く連想する感じだなー。