『落下の解剖学』(Anatomie d'une chute)2023 ジュスティーヌ・トリエ(Justine Triet)監督 夫婦とは何か?

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★5つ)

親友のまぎぃさんと、2024年3月23日(水)の休日(春分の日)に、日比谷シャンテの15時15分の回を日比谷シャンテで見てきました。2月に公開されて、3月20日に見に行ったが休日だったからだろうけど、席は満席で、かなりの盛況だった。ちなみに、フィルマークスの記事とは違い「物語三昧」のブログは、常にネタバレ全開なので、ネタバレを避けて観に行きたい人は、読むのはやめた方がいいです。

第76回カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作です。2024年は、メジャー級の作品でなく、マイナーなものもできるだけ劇場にみに行きたいと思っているので、行けてよかった。といっても、ハリウッド的大作じゃないだけで、今年の超話題作だけどね。ジョナサン・グレイザー監督によるホロコーストを題材とした『関心領域』(2023)とともに、ザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)は、二つの話題作の主演女優ですね。東ドイツテューリンゲン州ズール出身のドイツ人の俳優ですね。今年(24)時点で45歳。顔立ちは、とてもドイツ人的に見えるので、それもこの映画の舞台であるフランス語圏のプレンチアルプスに住むということに意味を与えていますね。


🔳ミステリとして見ないことが鑑賞の作法

実は前情報ゼロで行きました。普通に見ていれば法廷スリラーとして観れるのだが、ハリウッド的文法を期待していると、肩透かしをくらう作品ですね。終わった時に、法廷ミステリーとは違い、結局のところ「彼女が夫を殺したのか?それとも夫の自殺だったのか?」の真実がわからないまま、物語は終わります。息子の証言によって、彼女は無実を勝ち取るのですが、結局、真実がどうだったかがわからないので、普通の観客はモヤモヤしてしまう。典型的なハリウッド的文法ではあり得ない様は、まぁ考えてみれば当たり前ですね。ちなみに、典型的な法廷スリラーでハリウッド的なものは、直近ではオリヴィア・ニューマン監督の『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』(2023)ですね。

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まぁ、カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作で、フランス映画とくれば、それは当たり前じゃないですか。この賞を取るのが、わかりやすいハリウッド的なカタルシスがあるわけがない(笑)。逆に、最後の終わらせ方で疑問が残るが故に、調べたり、考えたり、話したり、、、と、ヨーロッパ映画らしい作品だと納得。終わった後、いろいろ調べて、結局この作品は何が言いたかったのか調べまわりました。そして、そうやって、なぜ監督はこういう描き方をしたのか、何が言いたかったのか、と観終わった後に喚起させるエネルギーは、さすがの作品なんだと思う。ジュスティーヌ・トリエ監督の、キャリアベストの集大成が納得の作品。

🔳本質は、夫婦とは何かを問うこと?

初見で見ると、裁判の中で明らかになる夫婦の諍いを「想像」で再現した長回しのシーンが、迫力満点。だけでなく「夫婦という関係性の本質を抉っている」感じがして、胸に突き刺さってくる。これって夫婦のパワーゲームの赤裸々な闘争を描いていて、家庭の中に閉じ込められてるが故、誰もが体験しているのに、社会的に共有されていないモノだ。これが見事に可視化されている。

そして、これがあからさまで、胸がざわつくのは、通常は家父長制の男性優位社会の中では、こういったパワーゲームの強者の位置は基本的に男性で、搾取されるのが女性だったのに、このケースの場合は、立場が逆転しているので、変なポリコレやフェミニズム気分に惑わされず、この「パワーによる相手の押さえつけ」がどれだけ尊厳的に苦しいかが、ビンビン伝わってしまうからだろう。ドイツ人のちょっと強面のザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller)が、バイセクシャルで、2回浮気をしているんですが(いや実際はもっとか?)相手が女性ということ、また本人も女性であるけど、肉体関係だけなんだから、その程度許せよ的な雰囲気が、強者の立場(稼いで才能があるのは彼女の方)で言い放たれると、これは養われている立場の夫は、しんどいですよね。この関係性は、通常の男女では、逆ですよね。


このシーンこそが、ジュスティーヌ・トリエ監督が描きたかったモノなのではないかと思う。またこのシーンには仕掛けがあって、たしかに明らかに主人公であるサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は成功した小説家であり、一家の大黒柱として稼ぎ、性的にも奔放で、エネルギーも溢れて、夫より優位に立っているように見えるのだが、住んでいるここは、フレンチアルプスのど田舎の山の上。もともと、妻はドイツ人で、夫はフランス人で、元はロンドンに住んで英語で子育てをしてい国際結婚の夫婦だったわけで、夫のわがままに合わせて、フランスのど田舎で不自由なフランス語を使い暮らすサンドラは、かなり厳しくつらい譲歩を夫にしている。夫の故郷で、暮らしているわけだから。ドイツ人であるサンドラにとって、フランスの田舎で暮らす苛立ちは、裁判などでもフランス語の使用をしなければならなかったり、強く伝わってくる。それは、何度も彼女がいうように、夫を「愛している」からだろう。

ここで描かれているのは、「夫婦という関係性」の複雑さだ。

パワーゲームの観点では、すっかり冷めて、お互いの尊厳を傷つけあっていて、すでに抑圧的な関係になって、先がないのは、嫌というほどわかる。しかし、激しい喧嘩だけではわかりきらない複雑に絡み合った愛情が、夫婦関係というものの難しさだ。ここまでこじらせていても、愛しているということはあり得るのだろうと思う。この辺りの「難しさ」と抽象的に言ってしまえば簡単だが、それを具体的に見せ、体験させてくれるこの映画は素晴らしい。パルム・ドール納得の深みだ。


ちなみに、ジュスティーヌ・トリエ監督の意図からすると、フランスのポスターが「正」で、アメリカ、日本や他国で展開されている「死んだ夫が倒れている」ポスターは明らかにミステリー者としてミスリードしている。監督が描きたかったのは、「あの幸せで愛し合った夫婦」が「なぜここまで歪に壊れた関係になっていくのか」なわけだから、幸せだった二人の写真を打ち出す方が正しい。


描きたい本質がずれていないので、『La Bataille de Solférino』(2013)、『Victoria』(2016)、『Sibyl』(2019)と観たいところだが、見る方法がないかも。また、インスパイアされたと監督が語っている『A MARRIGED COUPLE』や『scenes from marriage(ある結婚の風景)』を観たいところ。参考に聞いた町山智浩さんの解説で、ジュスティーヌ・トリエ監督の興味は、「夫婦の姿を描き出すこと」がやりたいことなんだという視点は、僕も非常に納得。そこで出してくるクライテリオンで影響を受けた映画をジュスティーヌ・トリエ監督が挙げていて、彼女の興味がずっと一貫しているという指摘は、なるほどでした。

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🔳結局どうだっのか?〜夫は自殺したのか?それとも、妻に殺されたのか?

いろいろ背景を見ていくと、ジュスティーヌ・トリエ監督自身は、この結論をつけていないんだろうと思う。だから主演俳優のザンドラ・ヒュラーに、演技の上で、明言していない。自分が実際、殺したのか、そうでないのか知らないまま演技させられるザンドラさんは、たまったもんじゃないでしょうけど(笑)。なぜなら、上で書いたように、夫婦の関係性を赤裸々に炙り出すことが、そのプロセスを白日の元に炙り出すことがやりたいことだとすると、このパワーゲームの激しさの中で、本質が炙り出されればいいわけで、ミステリーとしてのオチは、どうでもいいからだ。

ただし、僕個人のいろいろ背景を知った上で見ると、これは旦那の当てつけの自殺なんだろうな、と思う。でなければ、彼女を挑発して、激昂した夫婦喧嘩を全て録音して保管していたりしない。これで彼が死ねば、かなり有名な小説家である彼女の裁判で、このデータが公開されて、旦那を死に追いやった女として烙印を押されることは、間違いない。

ただしこう解釈してしまうと、この旦那が、本当にクズなダメ男に思えてくるので、、、、そこまでクズだったとは思えないんだけど、って感じがする。というのは、息子の事故の責任を背負って心に傷があって負い目があるから奥さんにも強く出れない、、、というのは、非常によくわかるはずで、それで男性としての尊厳を失っていくのは、決して彼がクズだったからではなく、よくあることだと思うので、、、彼がそんな激しい復讐をしようとするほどの怒りがあったとは思えないんですよね。

もう一つ言えば、息子との関係性だ。僕は、全編見ていて、息子は父親に心開いているように見えました。しかし、息子は、母親(ザンドラ・ヒュラー)とは面と向き合って会話していないように見えるんですよね。事故で弱視になった息子をホームスクールで、家で勉強を毎日教えていることから、そりゃ父親との関係性は深いだろうから。・・・だとすれば、母親を陥れるような自殺は、残された目が不自由な息子にとって、非常に苦しいものになるんですよね。それって、息子を切り捨てる行為なので、、、そこまでするかなぁって思うちゃうんですよね。


でもだからこそ、目の見えない11歳の一人息子の決断がよくわかる。


この作品は、最初からサンドラ(妻)の視点で話が進むが、途中から、息子に切り替わる。裁判を通して、両親がどれだけの内面の苦悩を抱えていたのかを知り、それについての決断を迫られることになる。この時に、父親の苦悩、男性性としての尊厳が失われている内面の煩悶を知り、もちろん状況的には、「母親が殺し方かもしれない」可能性は残るんだけど、母親と生きるということを「決断」するんですよね。母と生きるのならば、彼女が無実であるという「真実」を選ぶわけです。そして、多分、この息子も、考えたと思うんですよね。もし、父親が母親を陥れる自殺をしたのならば、もしくは、少なくともそれを告発するような録音データを残しているとしたら、それは、息子を切り捨てるということに違いない。その父親の尊厳よりも、母との関係を大事にすること「決断」するんですよね。これ、単純に、それが有利であるからという損得のメリットではないつもりで書いています。息子にとって、自分の事故が、両親の内面にそれほど深い亀裂をもたらしていたことがわかっていなかったんだと思うんですよね。それを知る過程で、彼は大人になっていった。そして、残りの母との「家庭」をどのように維持して、生きていくかを考えたのならば、どうせ結論が出ないのならば、自分で真実を捏造する(あの証言が嘘なのか本当なのかはわかりませんが)ことを決めたんだと思います。夫婦とは、家族とは何か、ということを深く考えさせられる映画でした。

🔳参考

ダニエルがピアノを練習している曲がいい。結構胸にざわつく。

Suite española No.1, Op.47 – V. Asturias (Leyenda)
スペイン組曲 第1集 作品47 – 第5番 アストゥリアス(伝説)

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