220〜223時間目 (1) 現代の受け手は「我慢がきかない」?〜過去編の位置づけをどう考えるか?

あまりに面白かったので、久々の分析を。


■過去編をやりすぎると現在のステイタスがロストする?〜古典的な骨太の物語か?それともキャラ萌えか?

この「旅立ちのラカン編」は、僕にとってはたまらなく面白いシリーズで、なんでたった数回で終わってしまうの?と、憤ってしまいました(笑)。これは、マクロ的にいうと、長期連載をしているときによく発生する主人公などの過去を描く、いわゆる「過去編」の位置づけをどう扱うか?って問題だと思うんです。だって、上のシーンとか見てんも、シリアスすぎるでしょう(笑)。普通の漫画ならばこの過去編だけで、1巻分くらいは余裕で尺を取ると思うんですよね。


なぜ、それをしなかったか?というのが今回の考察の目的です。長々書くので、テキトーにお付き合いください。


ちなみに僕の感想は、ああ、確かにこの話ならば、短くかなり端折って言いたいことを、慙愧の念に苦しみながら削らざるを得ないだろうなぁ、と思い・・・その潔さに、赤松スタジオのプロフェッショナル性を感じてしまいました。えっと、わからない人もいると思われるので(過去ログを読んでいただければわかりますが・・・(汗))、ネギまを読むにあたって、鑑賞上の前提としていることを再確認してみようと思います。超鈴音編についてリアルタイムで書いていた記事は、以下ですね。

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■160時間目「世界が平和でありますように」① 革命家は思想に殉じるべき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10022483996.html

ネギま160時間目「世界が平和でありますように」② 全体と個人の対立という問題系と?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10022913567.html

■158時間目 『誰もが未来を背負っている!』 正しさを否定することは少年マンガの禁じ手
http://ameblo.jp/petronius/entry-10020653670.html

僕は、この作品を、市場の声に合わせて、いいかえれば、週刊連載の読者が楽しんでもらえること(赤松健さんの日記をみると、アンケートの結果などを重要視しているように見えます)を、作品制作過程での最重要理念として置いていると、考えていんます。しかしながら、超鈴音編でのストーリー展開を、僕は「思わず暴走」してしまった、という風に表現しました。どういう意味かというと、細かく説明してみましょう。この『ネギま』は、これまでの赤松作品の『ラブひな』のような一話完結のラブコメディーではなく、明確なドラマツゥルギーの柱をもった、つまり、全体に流れる骨太の構造をもった作品です。僕は、この作品の大きな柱を、天才富樫義博さんの『ハンター×ハンター』と全く同じ、「幻の父性を追う」というドラマツゥルギーをその根幹に置き、それを、30名の女の子のクラスメイトという箱庭的な永遠の日常(萌えとラブコメディー)というカバーで装飾した物語だ、と思うんですよね。ちなみに、ラブコメディーという基盤を構造に持つが故に、『ハンター×ハンター』ほどストレートに善悪を超えるような世界観を描きにくいという構造上の問題点を、ネギま持っていますね。「児童文学という設定」をしてしまったJKローリングさんの『ハリーポッターシリーズ』も同様の問題点を抱える少年の成長物語ですね。

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バトル編とクラスメート編などの対立軸も、この本質の構造から導き出せる表現上の対立軸です。


そして、この作品には、明確な骨太の物語があるので、その話が製作者側で乗ってくると、「語りたい!」「語り尽くしたい!」というような古典的な骨太なドラマへの追及現象が起きるんですね。なんというか、ラブコメディー的な要素が強い作品なので、萌えなど衣装の部分を追求するカジュアルというかポップな志向性がとても強い作品なのに、赤松健さんの過去の作品の中でも特筆してこの作品は、古典的物語性の構造を有しています。いろいろな記事を読んでいる限り、最初期(連載前)の時点からこのドラマツゥルギーを柱に据えて、物語を展開させる気は満々だったみたいですね。なんでなんでしょうか?。だから、不思議に、まったく異なる志向性が、ダイナミズムみたいに行ったり来たりする緊張感を与えて、そこが僕にはとても興味深い。そういった振り子の行ったり来たりで特に激しかったのが、超編です。


特に、超編は、ある種、革命を起こすべきロマンチシズムを、「真剣なレベル」で描いていったが故に、本質のストーリーからするとまだ枝葉な上に、話が熱くなりすぎて、話が「進み過ぎてしまったんですね」。少なくとも僕はそう感じました。だから、当然、あそこまで思い込んだからには、超鈴音は「死すべき!」(笑)って、思いつめたんですよ。いや、そう思った読者が、こういったラブコメ的な萌を中心とする読者にしては、かなりいたと思うんですよ。それって、考えていれば、まったく違うもの(=萌え)を求めている人々に、異なるメニューを食べさせ続ける荒技なので、かなりのテクニックですよね。


でも、これって人気的にどうだろう?ってところまで、やっぱりいったと思うんです。ちなみに僕のような、深読みは、実際にはあきらかに雑誌の主要な読者層ではないというのは、よくわかってきました。少なくともブログなどで書評的な感想を書く層は、「楽しさ」よりも「複雑さ」や「深さ」などを話題性に取り上げる傾向があり、そういう層は、人気を支える「読者」でも「購買層」でもないんですね。ネットで書評書く層なんかは、もう少し客観的に漫画を読む層は別のカテゴリーとしてるべきで、そういう人の好悪の意見は、売り上げとか人気と外れたところにあるんですよね。


バトル編とクラスメート編の対立が生まれるのも、「毎週の週刊読者」でアンケートを書く層は、基本的に、「そういう風にのめり込んで熱くなる」ことをどうも避ける傾向があるようなんですね。あまりに熱すぎる展開は、キャラクターたちに「在るべき感」を与え過ぎて縛り尽くすので、読者が幻想を楽しむ余地を封殺してしまようなんですが・・・。まぁ理由は軽々しく言えませんが、どうも「物語る」という部分と、「キャタクターに萌えるというか、愛するキャラを見たい」という部分は、相反するようなんですね。たしかに、骨太の物語のドラマツゥルギーが、一度発動すると、主人公と脇役がハッキリしてしまい、ものごとのフレームアップ(=焦点の合わせ方)が、一部に偏ってしまい、同人誌的な細部を独立して分解して偏愛するというような読み方を封じてしまう部分があるからかもしれませんね。いってもれば、脇役になってゆえが出てこなかったら、そらー僕はさびしくて胸が張り裂けそうですわーーーとか、そういう感じ。



とはいえ、やはり本当に面白い物語は、「この物語る」部分がしっかりしていないとダメなわけで、、、というか、この部分がない作品は、時代的にどんなに売れても、時代を超えたり残ったりはしないんですよね。えっと、まぁネギまには、こういった対立構造が隠れていて、「週刊連載の読者の人気」というバロメーターを指標に、この「物語の骨格」と「意匠(=クラスメートと萌え)」の部分の割合が、かなり激しく綱引きするようなプロデュースを赤松健さんは、しているように僕には思えます。僕の思い込みかもしれませんが、、、まぁ日記に書いているから、間違いないとも思いますが(笑)。とすると、これほども面白い(と僕には思える)ラカン編を、とにかく、意味不明なほどに省略して短縮化するのは、強い理念というか意図があってのことだと僕は思うんですよね。

こういう「潔さ」に、ビジネス的なプロ意識を感じて、僕は燃えます。ようは、「自分の本当に描きたいもの」と「市場が望んでいるもの」というものを、徹底的に客観視して、客体化して、バランスとった展開をしているということですから。やっぱり赤松健さんという人は、ビジネスセンスのある人だなぁと感心します。なかなかこう思いっいりよく、市場の声を第一義に!とは考えられないものですよ。とりわけクリエイターなど、ゼロからモノを作る人には、自分の主体性やエゴを削る行為なので、なかなか難しい。そういう部分を、ばっさりいくこういった過去編の扱いとかが、僕には、胸にぐっと来るんですよ。ああ・・・プロだなぁ。理念があるなぁって。

予想どうりというか、この次の週に、こうやってお風呂場萌え萌えシーンが、ストーリーの直線的な流れとは何の脈絡もなく出てくるところは、やっぱりこうやってバランスを取ろうとしている製作者の理念を感じます。



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■それは、端折りなのか、情報圧縮なのか、演出なのか、断念なのか?(笑)


、、、いいたいことのほとんど省略してしまっているなぁ(苦笑)。って。


最初のラカンの画像もそうですが、この部分って、顔のないラスボスが、確実にナギと何らかの会話をしている可能性が高い、、つーかしてないはずがないんですが、その経緯をすべて端折って、ラストの「ラスボスを倒したシーン」だけを描いています。こんなのありかよ?って思いますが、いや確実に、「この会話のシーン」が、ネギまの全連載の主軸をなす部分に当たるはずで、ここは確かに今の段階では書けないのはわかるんですが、それにしても・・・・(苦笑)。すげぇはしょりですよね。


もちろん、GiGiさんとLDさんが、漫研のチャットでおっしゃっていたように、

GiGi >> ラカンの目から見たナギの冒険と、詠春の目から見たそれは、また違ったりする可能性があるんですよね。そうゆう複眼的な視点を持ち込む意味でも、断片で留めたのはうまいなあと思いますね。

LD >> でも、正に僕は「旧時代」という言い回しをした点ですけど、過去バナ具体的に描いても、めちゃめちゃ文字通り絵に描いたような英雄譚があるだけのはずなんですよね。…それを「圧縮」して読者の想像に預けるというのは…実は大正解のはずで。


この「端折り」は、読者に想像力を掻き立て、かつその後、同じ話を他の主要人物の視点から描くことでミステリー効果を高めるという黒沢明監督の『羅生門』やエドワード・ズウィツク監督の『戦火の勇気』的な演出技法だよね、とかもいえます。事実その効果は確実にあるでしょうし、少なくともこの映像や情報が、「ラカンから見たものだ!」という大前提が繰り返されているので、それは狙っている部分があると思います。けれども、いやー僕は、それを狙ってやったというよりは、ほんとはここの部分が描きたくて描きたくてい方がないんだが、けど、それをやると構造の前提としている読者からの離反を招いてしまうので、大きな断念があって削除した、という感じがするんですねぇ。というのは、それは、僕がこういう骨太のドラマツゥルギーが大好きでたまらないんだが、それが全面に押し出て展開する物語は、かなりの確率で連載の人気が急降下して、打ち切られてしまうというのを何度も見ているからなんですよ。まぁ勝手な妄想ですが・・・。

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■現代の受け手は「我慢がきかない」〜だって楽しいものは、選択肢は、その他に溢れているもの


現代の週刊連載の読者ってのは、どうも「我慢がきかない」ようなんですね。いや、週刊連載レベルには、常にこの読者の「我慢のきかなさ」ってのは、前提にあるんだろうけれども、ここ10年くらいは、その度合いは加速度的に早くなっている気がします。えっと、それは、たぶん漫画などエンターテイメントの市場が成熟くしているので、かなりの消費者が物語の類型にかなり慣れ切っている・・・つまり、あるエピソードを書いた瞬間に、その帰結まで予測してしまうというリテラシーの高い消費者が多いが故に、そうでなくても週刊レベルで読者をあおりたてなければいけない週刊連載システムに、かなりの強い圧迫が加わっているんじゃーないかと思うんですよ。同様のもので、僕はつい最近終わったアニメーションの『コードギアス反逆のルルーシュ』を思い出さずにはいられません。あれもそういったジェットコース感覚を感じずにはいられませんでした。

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あの時の僕の結論は、作り手側が、ある程度、受け手に「この作品は、これまでとは違うかも!」という期待感を煽り、かつ長丁場のテンションを保ってもらうためには、キャラクターの萌え度、、、というか単純に主人公だけのドラマではおさまらない豊饒さを記号性に与えてあげなければならず(これ、うまい言葉が見つからないのでまずはこういう言葉で代用しておきます)、そういった


1)記号の過剰性


を設定しなければならず、加えて受け手のテンションを保つために、「これまであった物語類型だ」としらけさせないためにも、次々にその物語を展開していなけばならず、ある程度の


2)端折り(=ショートカット)


をして、「その次があるかも」という風に、大きく物語を進めていくことになります。えっと、この辺の議論と、漫研のLDさんの情報圧縮論やモジュール論とは重なるところもあろうかと思いますが、まだ僕がよくわかっていないので、似たようなもの、として置いてください。

この技法が必要になる大前提は、消費者のマーケットが成熟したために、異様にリテラシーが高い受け手が多数存在するが故に、2)「すぐ飽きられてしまいやすい」ことと、1)「物語の本筋とは関係ないキャラクターの記号性に想像力を挿入する受け取り方に強い需要がある」という現代の日本エンタメのマーケットの構造的特徴を、前提にしているが故です。


■記号の豊饒さを前提とすること?〜どういった構造的圧力があるのだろうか?


この辺は、よくわかっていないので、感覚的な部分で、、、、。用語とかめちゃくちゃなんだけど、思考のカスみたいなのは絞り出してみるんですが・・・えっと、ルルーシュネギまもなんだが、昨今の物語には、「感情移入の対象の誘導」がうまくできないという現象が起こるんですよね。上記の1)と2)が発生するのが、このこととどう関連付けられるのかはまだ何ともいえないんだけれども、「感情移入の対象の誘導」って、基本的に物語においては、あまり混乱するはずがないものというお約束があったはずなんですね。つまり、主人公はだれか?ということが自明であったかどうかってことです。少なくとも、そうだなー手塚治虫さんの時代から1980年代までは、まだまだ「大きな物語」が生きていた時代というイメージがあったと思うんです。80年代までのマーケティングプランの基本も、柱となる消費のスタイルがあって、それを前提に多様化しているという感じだったはず。つまり、受け手の側に、ある程度集約されるスタイルや価値観の統一点みたいなものがあって、それを軸にすると、基本的に「主人公はだれかわからない?」ということはおこりようがなかったはずなんですね。

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こういった「受け手側」の環境が、表現システムの「主人公が誰であるかが(=視点の誘導ポイント)自明である」という構造を、入れ子のように保証していたわけです。そして、集約された視点から「外れる視点」というのは、極めてイレギュラーであるという前提が成り立つので、大きな物語が招聘されるという構造になるわけです。メジャーとマイナーがはっきりと二分化できた、ということです。そういうときには、漫画の表現システムの特徴である、書かれたキャラクター(=記号)に感情移入されるという仕組みが、特に混乱せず一人称として機能します。それが、同一化しているか否かを問わず、そのキャラクターを世界観上の集約地点として物語を進められるので、そこでは物語が、「作者が意図した物語として」、受け手に感受されることをある程度、自明に受け取れたんです。繰り返しますが、これが「大きな物語」があったということと、ほぼニアリーイコールになると思います。

えっと、大きな物語、とは、「作者が意図した統一的な世界観をストレートに受け取る」ことと「受け手の側の大多数がこの前提のお約束に対して違和感を持つことも反乱をおこすことがないこと」です。なるほど、書いていてわかったが、需給の一致しているポイントが、最大公約数になっている最適地を見出しているという意味になりますね、これ。作者の側が出したメッセージが、ストレートに同じメッセージとして受け手側で再現されるものが、支持される度合の過半を占めるということ。


しかしながら、何がきっかけかは、まだ僕にはなんともいえないんですが、90年代ごろからこの自明性が失われていきます。ここは社会分析になってしまうので、その本質的な原因は、いったん棚に上げるとしましょう。ただ、漫画のメディアでは、なんといっても同人誌の登場が、それを一番あらわしている。「受け手」の想像力のあり方が、それまでの最大公約数に収斂して、基本的に受け身であるという状態から、自己の解釈が優先され作者のメッセージとは異なる物語世界の有り様を再創造してしまうということですから、これまでとは全然違う。


また、リテラシーが上がったのか下がったのか難しいところですが、あまりに多種多様な物語の「類型」になれている70年代以降の多様な消費社会を体験した世代の層にとっては、最大公約数になりうる物語の「大きな類型」は、既に、消費され尽くして、飽きてしまっているので、常に物語に「既視感覚」が生まれてしまうようです。つまり、「あれ、これってどっかでみたなー?」とか、「このパターンは、どうせこうなるんだろう?」という、物語のドラマツゥルギーの展開に対する、軽視が生まれている。


こういうことから、受け手の「読み方」が、空洞の記号と舞台を設定して、その関係性を読者が自身の手で再構築するということが、しやすい物語というものに、需要が生まれるようになったんだと思います。ネギまなんかも特徴的ですが、31人のクラスメイトとか、その記号の関係性に、読者が想像をする(=自己を仮託する)余地を持つものが、もしくは、全面的に好きなように解釈しろ!とするようなスタイルの作品が90年代以降まれるわけです。


えっと、この二つのものをまとめると、たとえば、このラカン編で、ナギの実は師匠だった!とわかったキャラクターがいましたよね。これって、1コマなんですが、この1コマで、ネギ→エヴァとの師弟関係の類似性が想起されて、ああ、同じような関係があったんだな、と連想されてしまいます。この関係が、仮に将来一切ほとんど語られることがなくとも、読者は、この1コマの関係性の提示だけで、さまざまなパターンを連想してしまいます。これが仮に本筋と関係ない関係性の空白があれば、そこに膨大なサイドストーリーや特殊な関係性(たとえば、恋人同士だった!とか(笑))を読み込んで、別の物語として甘受してしまいます。これが、関係性を自己の手で再構築する層の存在と、物語の類型に「慣れに慣れた」そうが描かなくてもそのプロセスを脳内補完してしまうことの典型です。少なくとも、僕はこのひとコマで、そこまでの可能性を一瞬で感じました。この感覚は、たぶん漫画が好きな人ならば、普通に起きると思うんですよねー。


ああ、、、なげぇ、、、えっとね、いいたいことは、これではなく、、、、では、こういったスタイルを持つマーケット(=読み手)は、表現の部分では言えば、いったいどこに視点が誘導される圧力が存在するのか?って事です。つまり、基本的な主人公であるキャラクターと、主観とされている一人称から、ずれて感情移入する性癖がある読者がかなりの層として存在する、ということですよね?。この層は、素直に読む層と比較して全体のどれくらいの割合を持つのか?、また購買層・・・それが、週刊か単行本かによっても違うのですが、そのうちのどれくらいが、購入を決断する層足りうるのか?ってことです。


えっと、二つの問題提起をしていて、一つは表現上の問題です。つまり、視点の誘導にバイアスがかかるのではないか?っていっているんです。もともと漫画は、3次元の空間を2次元で表現するために、多視点を常に同時に包含するという特徴がありますよね。それにもかかわらず、これが主格であるという人称の誘導があるわけですが、これがどういった圧力で主なる感情移入ポイントだと決定されるんでしょうか?。いや、ぶっちゃけ、コマに5人いたら、そのだれに感情移入してもいいわけですよね?。過去の鳥獣戯画とか、どう読めばいいのか説明されて背後の「読み」を説明されないと、さっぱりわかりません。では、主人公であるというのは、ストーリーによるのか、それとも表現上の演出によるものなのか?、またそういった「お約束」を破壊する力学は、どういった部分がから生まれてきているのか?。特に、お約束の破壊は、逆にいうと、「新しいレベルのお約束」があるって事ですよね?。だって、同人誌のファンがつきやすい作品とそうでない作品が、如実にあるじゃないですか。どういった物語を描きたいか?ってクリエイターが考える時に、その手法の選択は、意識したほうが絶対いに決まっていると思うんですよ。


また、もう一つは、僕は漫画だけを好きなわけではないので、仮に、現代のエンターテイメントの需要層が、「主観とされている一人称から、ずれて感情移入する性癖がある」つまり、もっと遡ると、自己の解釈を補強するようなマテリアルを探しているということが消費上の高い訴求ポイントであるとすると、ようは、自己の存在感覚(=自己の世界解釈)が補強されるマテリアルであれば、どんなものでもいいという仮定が成り立つはずです。そうすると、ある一つのメディア媒体に対して、極度に集中するという行為が、お祭り的に発生することはあっても、一貫して安定して成立するとは思えないんですよね。えっと、難しく言い過ぎだな、うんとですね、えっとね、一言で言うと(継続して)「売れない」(笑)という現象が生まれるわけです。仮に売れても、物語の質ではなくて、自己の補強をするお祭りの儀式が行われる瞬間偏って販売が伸びるわけです。こういう傾向があると、古き良き評論家や過去のストーリーが重視された物語を愛する人にとっては、「漫画は面白くなくなった」「質が下がった」という結論に飛びつくわけです。まぁ「その人」にとっては、それは正しいのですが、マーケット全体ではもう少し深掘らないと局所の極論になってしまう気がします。この一つのメディア媒体が面白く中うなったて来な議論は、映画でも、本でも、漫画でも、アニメでも、美術でも、音楽でも、ほとんどのジャンルで叫ばれるので、現代日本の構造的特徴といえると思います。


また、そもそも自己の存在感覚の補強であるとすると、そもそも、過去の「大きな物語」が持っていたような、ある種の「世界そのものを再現してしまおう」とするような巨大な意志からほど遠いものが生まれてきます。類型は出尽くしているし、相当高度なキャラクターの関係性や表現のバロックの上に成り立つので、技術的な意味での質自体は、極めて高いのですが、そもそも受け手の目的が、つまり売れているポイントが、「自己の存在の補強となるマテリアル」であり、それを壊さないゆるいドラマツゥルギーの舞台が志向されるわけだから。大きな物語とは、逆にいうと、タイトで隙のないドラマツゥルギーであって、そこには作者の偉大な意思は垣間見えても、読者のような「受け手」にすぎないものの想像力の介入する余地がない。だから、忌避する。

そうすると、ようは、「それが漫画である必然性はない」なんらかの、自己の空虚さを埋める代替物としてのエンターテイメントとなって、それは、ようはなんでもいいんですよね?。

ただ、わかっているのは、受け手もそんなに馬鹿ではないということで、かといって「そういう舞台だけを想定する」記号というか器を用意すれば、それで人が群がるというと、そうではないようで、やはり根源的なレベルので「質」の高さ、、、ここでは、大きな物語的な、タイトなドラマツゥルギーによる熱量というものも要請されるわけで、、、、僕の知りたいのは、この比率がマーケットに置いてどれくらいのものなのか?って事です。両方あるのはわかっているんですが、これを二元的に対立させることは意味がなくて、たぶんグラデ−ションになっているんだと思うんですよね。それと、この層が、たとえば携帯電話のコミュニケーションでも、恋人と映画でも、スポーツでも、なんでもいいのですが、「それをそれとして選ぶ」必然性の決定要因がどこにあるか?って事が知りたい。


その選好の構造を描かないと、エンターテイメントというか、人間が生きる「余暇」に対する消費の割合が、どのように発生するか?その構造によって、どういったスタイルのものが必要とされるか?ってことは分からないと思うんですよ。



ちなみに、わけわかんねー長文なんで、ここまで読んでいる人って、いないと思うんですが(苦笑)、この疑問のはざまに、ネギまの話のふれかたが存在していることは、お分かりいただけると思うんですよね。僕は、ネギまのタイトな古典的ともいえる骨太の「失われた父の背中」というドラマツゥルギーの部分にいれあげているんですが、そういうのは、どうも市場は好きじゃないようなんですね。けど、やっぱり、萌えとかだけでは、僕には魅力は感じられない。かといって・・・・みたいな。


物語の類型は、「強さのインフレ(=成長を極限まで肯定する・勝ち負けで世界を見る)」や「二元論の対立によるドラマツゥルギー」のような、感情移入と自己成長を同一視する形式に対する激しい需要を、徐々になくしていっています。それは、素直にストレートに、激しい自己同一化(アイデンティファイ)すること、いいかえれば対象にコミット(=没入)することが、好ましいものではない、かっこいいものではない、という意識が広汎に生まれたからです。ただし、この類型が、人類普遍的に人の動機を喚起する類型であることも、このファーストステップを経ないと、人は、認識を深めないで、ただの感情の癒しというか気分のリニューアルだけで終わってしまい、より深いところまで人の感情移入を誘わないという問題点があることもわかってきました。このへんの構造をもう少しわかりやすくしていけば、作劇術上の「その先」が見えてくるんではないか、という気がしています。


ちなみに、こういったある一つの分野が、バロック化してパターンが出来上がるというのは、映画でも、絵画でも、どんな芸術分野でもあったことですが、ことアニメや漫画、小説の昨今の日本のマーケットは、これがかなり行き着くところまで行きついているので、どうも過去あったことよりもさらにその先へ進んでいる感じがします。というのは、1)の作法は、そもそも同人誌マーケットや行動に教育化された大衆エンターテイメン(以下消えてしまいました(涙))


閑話休題

・・・・・あれ?この先まだかなり長く書いたのに消えてる・・・・。????なんでだ・・・。くそう・・・これ、なんかか書きかけ途中のにすり替わってしまっている・・・。おかしいなぁ。