ログ・ホライズン
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まおゆうの人の新作。まだ第一部が終わって、第2部が少し書きかけのところ。
止まる間もなく、いま書かれているところまで、読了。
信じられない、、、、ここに来るっかっぁぁ、、、ってほどの作品。(まだ途中なのに・・・)
これは、ゲームの中に取り込まれた話なんですが、、、下があらすじですね。
巨大オンラインゲーム〈エルダー・テイル〉をプレイ中の日本人ゲーマー約三万人が、どうやらその世界に召喚されてしまった。ゲームの世界の常識と中世世界のテクノロジー、魔法と科学、プレイヤーとノンプレイヤー。 混沌としてすべてが無秩序になりかける世界の中で、内面的引きこもり体質の主人公シロエ(腹ぐろ眼鏡)がサバイバルを開始。 そこがゲームの世界なのか? 異世界なのか? 謎は深まっても「毎日」は待ってくれない。
旧友直継、無口な美少女暗殺者のアカツキ、友好ギルドのマリエールやヘンリエッタも加わって「アキバの街」の生活が始まる。 異世界系冒険日常物語。
さて、ここまで読んだだけで、川原礫さんの『ソードアートオンライン』を思い出す人は多いでしょう。最初の部分を読んでいると、ほとんどパクリかよってほど似ています。まぁ、このゲーム世界に取り込まれるという話はたくさんあるので、あー「よくあるやつね」ぐらいに思っていました。ましてや、凄く面白いし、軽快に読めるんですが、あまりに「よくあるはなし」なんで、ああーーまおゆうクラスは、さすがにそんなに毎回はムリだなぁ、、、ぐらいに思っていました。
・・・・・・11〜14スレッド?に行くまでは・・・・。
そこへ来て、、、、へっ、、、、うそ、あれって、そういうこと?????????????????????????????????????と、そのメガトン級の収束に、胸が震えました。
この普通の類型の「ゲーム世界に取り込まれる」という話の、何がそれほど、僕に感動をもたらしたかは、いま超ウルトラ長編として準備しつつある、「まおゆう」の記事にネタバレ上等詳細解説は譲るとして、観賞上の僕が思う注目ポイントを、ぜひ強調しておきたいので、以下を気にして読んでみてください。まぁ僕の勝手な評価ですが・・・、、、でも、ここ、絶対に、凄いポイントだと僕の経験値は叫ぶんですよ。
まずね、本当は『ソードアートオンライン』の核心部分の素晴らしさを批評(というのはおこがましいけど)感動した部分を、書きかけているやつが終わっていないんで、なかなかこの「差異」を示すことが難しいのですが、、、、
構造上、物凄く大きな差異が、あります。
それは、人が死ぬか死なないか?、です。
これはネタバレというほどでもないので、説明すると『ソードアートオンライン』では、全員フルダイブ型のゲームに「閉じ込められた」ので、そこで死ぬとなると、ゲームギアという脳にその幻想世界を見せている機会によって焼き殺されるという「設定」があります。なぜそうなったか、というのは、この素晴らしい小説を読んでみてください。
僕が書こうとうしてたSAO(ソードアートオンライン)の記事の核心は、この「ゲームで死んだら実際に死んでしまう」という設定から、現実を現実として選びとる(=コミットする)というのは、「選択によってなされる行為である」という現代社会の、生(=生きること)の不毛感への挑戦状をたたきつけているところが、言い換えれば「再帰性」を意識させることであって、この不毛な日常にもう一度性の喜びをもたらすという「次の時代の物語」が備えなければいけない核心を備えている、というものでした。これが、十全に認識され、さまざまなエピソードや描写で、感じられるのが、SAOの素晴らしい点でした。
単純に言いかえれば、ゲームの中でも死んじゃうってことから、ゲームであったって、現実であったって、そこに心の動きがあれば、それは唯一性を生むんだ!ということを言っているんですね。
僕が、次世代の物語の要件として、「ぼくって何?」とかいう内面の問題と、日常を生きる不毛感という現代社会の構造的問題点への近似、というか、、、その構造的隣接を毎回いうのは、このブログの読者ならわかってもらえると思います。内面で「この世界に価値はあるか?」ともんもんと悩むことは、すなわち、日常の現実世界に生きる実感が感じられにくいためであって、、それが僕らの生きる社会だからなのです。エヴァンゲリオンで、「おめでとう!」とかいって心の問題解決が世界の存続よりも優先しちゃったのも、村上春樹が小説えんえんと並行世界をふらふらしているのも、同じモチーフの展開です。
その不毛感・・・現代社会の構造的退屈を打破することこそが、現代文学の最高にして最終的な目指すところだ、と僕は思っています。そして、その解決方法は、同時に我々の生きる不毛感の実践的解決処方でもあるわけです。
そして、それがインプロヴィゼーション・・・いいかえれば、唯一性や一回性の回復である、という結論も、哲学の次元ではほぼ出ていることです。
ただ、その具体的処方が分からないので、そこに個別解決方法の描写という意味で、政治と文学のセグメントが招来されている、というのが僕の考え方です。
・・・・難しくなった。
ようは、SAOの素晴らしい点は、「ゲームであっても人は死ぬ」という条件が与えられた時に人がどういう姿勢で生に臨むのか?が、見事に描かれていた点だと僕は思っています。
ところがっ!!!!
全く同じ設定で、同じ描写が延々と続くこのママレードサンドさんの『ログ・ホライズン』は、人が死なない!んですね。
僕が、最初落胆したことは、、、、、許してください。
僕の「読み」なんて、その程度なんですよ(←ちょっとうれしい)。
それをして僕は、「ああーーー所詮まおゆうほどは、毎回はムリか・・・・」・・・・でも、、、、うん????ご飯がまずい(=これ死ぬほど重要!!!!)とか、構造上なんか、明らかに違和感があって、、、またタイトルも思わすぶりで、これって、、、、、まおゆうのテーマと重なるタイトルなのに、、、なんでこんなに平凡な・・・・
って、、、、11〜14スレッド目くらいで(はっきりわかったのは14でした)、そのすべてが当初からの設計であったことに気づいた時に、胸がうちふるえました。
ああっ、、、この人はっ!!!この作者は、まおゆうで目指した『あの丘の向こう側』をここでも見るつもりだよっ!!!!!!って涙が・・・・・
14スレッド目まで、まぁ面白いと思うのですが、これをよくある物語だと思わないで、、、読み進めてください・・・・・
マクロの革命が、見れます。
内面の悩み、、、よくある偽善の悩みが、革命に結びつくその瞬間を。
これ以上は、もったいないので、書きません。
僕は、胸がうちふるえました。
まおゆうも、腰が抜けるほどの作品でしたが、そのウルトラ超弩級の同じテーマを、こうもやすやすと描ける作者の才能に、脱帽です。
物凄い傑作にであった時しか言わない、非常に傲慢なセリフを、、、、、、