『ストックホルムの密使』  佐々木譲著  「国体護持」とは?「皇統の継続」とは?〜祖国が信じられないキャラクターを軸にあぶり出す

ストックホルムの密使〈上〉 (新潮文庫)ストックホルムの密使 (下巻) (新潮文庫)

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★5つ)

■第二次大戦秘話三部作の最後〜戦争初期、真珠湾攻撃、敗戦の3ポイントを描く

著者の第二次大戦秘話三部作という初期の作品を、これでやっと読了。素晴らしかった。さすが佐々木さん。この時代を深く堪能させていただきました。『武揚伝』『五稜郭残党伝』『警官の血』『昭南島に蘭ありや』など幅広いテーマで重層的に物語を描きつつ、かつ過去の重い歴史的な出来事をテーマに取り上げているにもかかわらず、全ての軸に「読ませて引き込んでくれる」エンターテイメント性を失わない、素晴らしい作家さんで、僕は大好きです。読む時は、余裕がある時に、深く耽溺してと決めているので、こつこつ読んできました。この作品は、『ベルリン飛行指令』『エトロフ発緊急電』に続く第二次大戦秘話三部作の最後です。前2作が、とんでもなく面白かったので、これも期待しており、期待に違わないものでした。かなり古い作品ですが、素晴らしい作品は時代性に左右されないなと思いました。


■「国体護持」とは?「皇統の継続」とは?〜祖国が信じられないキャラクターを軸にあぶり出す

それにしても、山崎豊子さんの『二つの祖国』を読んだ時に、終戦直前に語られる「国体護持」や「天皇陛下の存続」が、なぜにあんなに日本最高級のエリートたちが悩みもがき苦しむのか?、それがよくわかりませんでした。これは、日本近代史を俯瞰する上での、僕がまったく理解できないで、ずっと悩んでいるポイントの一つです。いや言葉はわかるんですが、そこで語られていることの「実態」というか「本質」がピンとこないんですね。たとえば強烈な天皇主義者であった小室直樹さんとかが、天皇は凄い!と叫んでも僕にはやはり腑に落ちないんです。機能的には、天皇という存在が社会工学的に日本の歴史において統合的なシンボルと機能している事実は、よくわかります。その機能的凄味も。けど、ある種の強度である宗教的熱狂を母体とする崇敬の意識は、現在持ち合わせていない僕のような「真っ白な地球市民」であるに現代日本人には、現在の強度(これも無いわけではありません)以外では、その成り立ちや構造、理論、そして具体的展開、個人の意識への結びつきを相当噛み砕いて説明してくれなければ、さっぱりわからないんです。だから、何をそんなに熱くなって、命を賭けてまで、守ろうとしているのか?がさっぱりわからなかったのです。なぜそれが重要か?というのが分からなければ、東京大空襲沖縄戦、玉砕の島々、そして原子爆弾を落とされた長崎、広島の人々の命よりも重要なのか?と問われた時に、そこに住む一般の市民の命よりも重いとは到底思えなくなるんです。誇りが存在しない(=ナショナリズムが微弱な)現代日本人の価値観からすると、人の命に優先される精神的価値があるとは「実感できません」。実際に、佐々木譲さんの作品の問いかけも、日本人のエリートたちが「祖国=国体」をなんとして守ろうと命を賭したり政治劇に明け暮れる対比として、そもそも祖国から見捨てられていて「祖国がない人」にとって、真に祖国たりえるものは何か?ということを追い求めさせ続けることで、作中の対比バランスを作っています。

二つの祖国〈上〉 (新潮文庫)

だから佐々木譲さんの第二次大戦秘話三部作の大きな軸となる主人公は「祖国を信じられない」人々でした。『ベルリン飛行指令』の安藤啓一海軍大尉は、日本戦闘機乗りのエースであるが、アメリカ人の母を持つが故にハーフとして差別に苦しみ、『エトロフ発緊急電』の日系2世のケニー・斎藤は、国際義勇軍としてスペインに参戦して、民主主義、共和国、革命の理想の嘘に絶望し、米軍の日本潜入スパイとなり(ここで知り合った帝国を破壊してやろうと命を賭ける朝鮮人のテロリストの話も同じ流れですね)、そしてこの『ストックホルムの密使』の主人公森四郎も、孤児として育ち、家族や日本人であることの価値を見出さすことなく根無し草として生きている、、、、こういう軸を設定することで、その対比として国家に対する無限の献身が要請されたWW2の世界を描いていきます。


もう一世代進めば、ほぼ戦争を知る世代は日本からいなくなるでしょう。実際、それなりの年齢である団塊のJrの僕には、戦争の実感が、日本がまだ貧しく、雄々しかった時代の感覚がほとんどありません。ましてや、現代の20代は、まったく想像の範囲外でしょう。だから現代の20代の大学生が、祖父の人生を探偵のように探る『永遠のゼロ』もそうでしたが、「そもそも知識が全くない人」にわかるように物語を設計してくれないと、ほとんど感情移入も理解もできません。ある種の合意事項・共通認識が、なくなるのですから。そういう意味では、もちろん同時代に書かれるわけではないの、このような「現代の日本人」から感覚や価値観が隔絶している場合には、それを導入させてやる仕組みが重要だと僕はいつも思います。もちろん、ただ説明しても面白くない。この佐々木譲さんのように、祖国を持たないアウトサイダーたちに頼らざるを得なくなった、祖国を信じる人々というキャラクター設定をすると、「人を真に動かすものは何なのか?」ということがあからさまに浮き彫りになります。ちなみに、佐々木譲さんは、祖国と対比しているのは、男性にとっては女性だ、と考えているようですね。基本的な構造が、女性の存在によって救われる、という構造になっています。

永遠の0 (講談社文庫)


異世界としての大日本帝国の臣民の心性を理解するポイントとは?


そして、再度繰り返すと、WW2時代にあった我々現代日本人が最も理解しがたい感覚とは、日本人の最良と最悪の部分を代表した「帝国臣民としての誇り」でありそれが構成する「国体(天皇を中心とした秩序(政体))」なんです。大日本帝国の構造は、そこに住む人々の内的拘束、内的様式、全てにこれが刻印されて設計されており、この感覚が理解できないと、当時の感覚は理解できません。まるで異世界の人を理解するつもりで臨まないと根本のところで現代に我々とは異なる世界なのですから。とはいえ、それほど極端に難しいというわけでもありません、戦前の日本も現代のわれわれと同じく、憲法を軸とする立憲民主主義国家であり、議会政治と資本主義が駆動する近代国家ですから。けど、やはりその根本にあるのは、パックス・トクガワーナ体制による鎖国された日本で形成された日本人の精神構造を、むちゃくちゃな社会工学的アクロバティックで、近代人として再構成・再形成し直したわけですから、その軸となった「天皇を価値の中心とする心性」については、よくよく読みとかないと、致命的な間違いを犯してしまいかねません。ことが単純ではないのは、この「心性」こそが、中世の世界に生きていた自然人のような日本人を近代人に仕立て上げた根本の価値体系なので、資本主義も、リベラリズムも、デモクラシーさえもこの概念を軸に駆動しているからです。別モノとしてとらえることはできないことが、なかなか理解することができないようです。渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を読んで思ったのですが、実は生活世界の様式や心性のあり方は、徳川時代の日本人の方は、「資本主義社会で生きる人間からすると」まるでユートピアのような、完全な異世界なんですね。実は、こちらの方がまったく異なってしまっているので全然理解できないものなんですが、何となく僕には理解がしやすかったのは、近代資本主義社会には、ユートピア文学の系統が根強くあって、僕ら後期資本制の世界に生きる人にとっては、「いまの世界ではない世界」を夢想する時に、こうした自然と共に生きるユートピアのイメージが強固な形であるんですね。「いまの私たちとは逆の存在」と考えればいいわけですから。それからすると、純粋な形での資本主義が駆動している明治期から昭和初期にかけての大日本帝国は、そもそもヨーロッパ的な社会民主主義がいきわたって、且つ共産主義ソ連が崩壊して、アメリカ型の資本主義が世界を覆いつつある現代の「資本制」の中に生きる僕らにすれば、微妙に組み合わせがややこしい、わかりにくい世界なのかもしれません。特に、ファシズムや初期の荒々しい資本主義(=帝国主義)と結びついた各国、特に枢軸国側での土俗性(たとえば反ユダヤ天皇)など、近い割には極めて異質という部分がとても難しいのかもしれません。ちなみに渡辺京二さんの『逝きし世の面影』素晴らしい本なので、これはお薦めです。明治初期から徳川期の日本人というのが、いかに、現代のわれわれ後は異質な存在なのかが、これでもかってくらいによくわかります。この断絶が分からないと、次の断絶もわからないと思うのです。50年あれば、人間は作り変えることができて、一つの文明は滅び去るんだってことが。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ (洋泉社MC新書)

■ヨーロッパ近代の基礎としてのキリスト教と、日本近代の基礎としての天皇制・それを胚胎した尊王思想

ちなみにこの価値体系を作り上げた伊藤博文ら明治の元勲たちは、この社会工学的な実験の本質を、きちっと理解して、徹底的に対処していました。そういう意味では、「人間のあり方」そのものを再構成してしまうことであり、凄まじい洗脳作業ですよね。・・・いや、身体観そのものを作り変える作業なので、「洗脳」というレベルではないかもしれません。近代国家の建国は、すなわち、日本人のあり方を作り直すことだった、、、というより存在しなかった「日本人」という概念を作り出した、と言っていいでしょう。徳川期の尊王思想を文脈として、それを、ヨーロッパの近代資本主義の奥にあるキリスト教徒の絶対神との契約関係に重ね合わせて、個人と天皇という縦の関係を作り出すという学説は、最近結構いろいろなところで見るようになりましたが、やっぱり一番わかりやすい、なんちゃって読書家レベルで読むのならば小室直樹さんが一番いいです。いろいろな所に分散して書いてありますし、キリスト教の「予定説」の概念と重ね合わせないと難しいのでこれ一冊で、「わかった!」とはならないけども。それと、徳川末期から明治初期にかけて、尊王思想は武士などのエリートの思想であって、一般の民衆にとっては「天皇ってなんだ?」くらいのレベルでした。明治維新の元勲たちが、天皇を思想の軸にネイションステイツ(国民国家)統合を為そうとしたのですが、それはほとんど上手くいっていないようでした。それが大反転するのは、日清戦争日露戦争です。世界史のレベルでいえば、ほぼ奇跡に近いことが起きているんですね。この「奇跡」を軸に、天皇教ともいえる強固な仕組みが大日本帝国の基礎として浸透していくわけです。その経過は、『日清戦争─「国民」の誕生』などを読むとよくわかります。

日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)
日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

さて、前にも書きましたが、なんだかんだいっても、近代日本の空白地帯(明治元年旧9月8日(1868年10月23日)から1945年の8月15日敗戦まで)に、イメージが僕にはありませんでした。イメージがないので、右翼のように日本万歳!とも思えないし、左翼のように帝国主義日本を解体!というどちらのイデオロギーも理解できませんでした。誇る対象も、解体攻撃する対象も、はっきりしないからです。だからイデオロギーに素直に馴染めない。自分が生きて育った国だから、当然ノスタルジーとともにペイトリオット(=郷土を愛する気持ち)はあります。が、それは僕にとって、この平和で、成熟して、軸の価値が存在しない「終わらない日常」であって、「いま僕が生きる現実」が過去の歴史と、価値的な一致・接続を感じないので、自分がどこにいるかよくわからないフワフワなものになってしまうのです。では、インターナショナリスト的なナショナリズムから解放された地球市民になれるかっていうと、消費者という存在としてはもちろんなれますが、日本語という刻印をされているこの身体の部分に、どうもそぐいません。なぜならば、日本人であること、この列島の土地の記憶に連なる末裔であることは圧倒的なリアリティがあるからです。


僕は漫画や小説が好きです。ではそれはどういうことか?。それを生み出す仕組みと、それを生み出すことに魂を捧げた来た人々の積み重ねを愛することなんです。そうすると、絶対に、ペイトリオット(=郷土を愛する気持ち)的な気持ちに至るのです。なんでもそうです。「そこに存在すること」を肯定するならば、確実に歴史(=過去の記憶)と接続されてしまうのです。その接続が曖昧になっていることは、自意識の緩さ、「そこに立っていることの根拠」を失しなわさせてしまいます。現代日本人のアノミーの大きな部分は、歴史的な接続性がないこと、健全な愛国心(=パトリオッティズム)がないことも、大きな要因の一つだと僕は考えます。その一つは、建国に当たっての立憲の理念(立憲の背後にある建国の父の夢)が存在しないからです。1945年以降、再度、国を作りなおすときに、その部分の自立性が失われてしまったことが日本の迷路へのエントリーの始まりでした。とはいえ、後発の資本主義国として旧枢軸国には、自由主義の「草の根のからの発展と自立性」がないが故に、どうしてもこのような「迷い」は常に生じてしまいます。だから僕は日本独自の課題だとは思いません。また、時代をも少し進めてみると、消費者としてグローバルな存在となりつつある後期資本制の成熟社会に生き、リベラリズムが浸透しつつある我々は、むしろ歴史的な接続性がないことや、愛国心がないことがもしかしたらアドバンテージになることだってありうるかもしれません。このへんは先のことなので、単純には予測できません。


話が、佐々木さんの本からかなりずれてしまいましたが、基本的に彼の本は、シンプルなエンターテイメント性に貫かれています。男性のとっての解放であり拠り所である「女性」というわかりやすいロマンティシズムに、それが必ずしも成就しないハードボイルドな側面。女性が拠り所であるのに、女性に逃げることができないことで、なんというかやせ我慢?的なハードボイルド・ダンディズムを呼び出してしまうんですね。彼の軸は常にこれです。ただとても上手いのは、今回の作品のように、森四朗は孤児であることで、母と妻という女性の原型が自分の中に無いが故にずっと追い求めるのですが、これと対比して家族に充足している人々が、大切なものを見失っている醜悪な姿や、それの延長線上としての祖国を守ろうという気概と対比させられることによって、いろいろなもの炙り出されてくるんですね。この三部作でいえば、祖国を信じないで「大切なもの」を探し続けるキャラクターを配置することで、大日本帝国という祖国はどれほどのものなのか?という問いが終始付きまとうが故に、逆に、祖国というモノの価値の根源まで毎回問われてしまうのです。ああ、上手い作家というのはこうなんだなーと感心しました。



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