『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』 宇野朴人著  ミクロとマクロのバランスをちゃんとハードSF的に描きながら、それでもキャラクターのドラマが書ける素晴らしい作家

ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXIII (電撃文庫)


客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■世界はマクロの複雑さにチャレンジするべく漸進していると僕は思います。

先日、富野由悠季さんの『聖戦士 Aura Battler ダンバイン』(1983-1984)を見ていて、16話:東京上空、17話:地上人たち、18:閃光のガラリアのあたりで、異世界バイストン・ウェルから東京に戻ってきてちゃうシーンがあるんですが、ここで、主人公のショウ・ザマは、両親にあうんですね。けれども、オーラバトラーの戦闘で東京に多数の死者が出ており、彼の両親、とりわけ母親はそれが受け入れられなくて、「彼は私の子供じゃない」と言い続けるんですが、途中で本音が「私の築き上げてきたキャリアをどうしてくれるのよ!」と叫んで、ショウ(見ている観客も)は、自分の母親に一度も生まれてから愛されたことがないんだ、圧倒的に自己愛優先で息子を息子として直視していないことが、ありありと見えてしまうんですね。この辺の、ディスコミュニケーションというか、親子が多いのですが、とにかく人の「分かり合えなさ」を描くさまは、富野由悠季は、とてもねこっちくて、胸をざわつかせる描写を繰り返し繰り返し執拗に描いています。これって『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ君にいたるアダルトチルドレンが量産される理由ですよね。要は、親といえども個人のエゴで生きており、全く子どもなんか、というか他者なんか見ていやしねえ、という。まぁ、これは悪い側面での事実だと思うのですが、この典型的パターンを執拗に描いて、それが、最終的には、死に至って、永遠に解決つかないさまを見せつけるというパターンが冨野さんには多いといつも思うんですよね。この人の分かり合えなさの強烈な認識が、1985年の『機動戦士ゼータガンダム』のカミーユビタンくんの精神崩壊、発狂エンドにつながっていくわけですが、物事の根本的なところ、人が分かり合えなくて、その「どうしようもなさ」は、大きくマクロに波及していき、最終的には殺しあう、カタストロフ(戦争)を止めることはできないという大きな認識につながっていくのが、彼の世界観だと思います。もちろん、人の革新などのニュータイプなどの発想は、この人間は殺しあう、戦争をするものであるという悪をどう超えるか、という冨野サーガの大テーマに結実していくわけです。

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というか、僕が言いたいのは、冨野さんの話ではなくて、戦記物やマクロの作品を描くと、こうした「マクロメカニズムによってもたらされる帰結のどうにもならなさへの無力感」というものが、必然的に出てきます。マクロというのは、人類史レベルの、政治や経済などの、個人の意思ではどうにもならないことのつながりの連鎖の波及によって起こる出来事というのは、個人ではどうにもあらがえないんだ、ということ。まぁ、これは事実です。浅田次郎さんが、大正生まれの人間の人生をターゲットに物語を描くそうなんですが、それは、この世代の日本人は、特に男性は、ものすごい死傷率なんですよね。もちろん大戦争があったからです。浅田さんのお父様の世代になるわけですが、このなんでかわからないものを書いてみたい、と思ったというのは、とてもすごい大きな動機だと思うんですよ。えっと話がそれたんですが、ことほど左様に、マクロメカニズムによって発生する連鎖による、特に大きな出来事、、、例えば戦争とかにおいては、個人の意思なんて吹き飛んで行ってしまうし、特に、物語の世界では、個人の夢や欲望など、本当に小さいミクロの思いが、ずたずたに引き裂かれていくく物語をよく見ます。英雄というのは、こういったマクロの出来事に、帰結をもたらすように関わる個人なんですが、とにかく、もし戦争などのマクロの出来事がなければ、小さなすれ違いで済んだことが、どんどん拡大していき、人生を引き裂き人を不幸に陥れていきます。

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まぁ、リアリスティツクに考えると、物語自体は、巨大な解決をもたらすご都合主義の装置(デウス・エクス・マキナDeus ex machina))なので、悲劇の物語の類型にも乗っ取るし、かつマクロの波及の「どうにもならなさ」の表現として、どうしても個人が犠牲に不幸のどん底に落ちていく物語が多い。ましてや物語の主人公や英雄と呼ばれる人々が、個人レベル、ミクロレベルに幸せになるというのは、ありえないなぁという定款が、戦記物のような戦争を扱った作品には、多い気がします。


けど、僕は、橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』(2010-2012)や『ガッチャマンクラウズ』(2013)などで、ずっと、考えてきた文脈は、英雄一人にすべてのマクロの問題を解決させるというような物語の類型を、どうにかして超えようという流れを昨今の物語には感じます。LDさんとの物語マインドマップの講義「3-1.竜退治の彼岸〜富野から庵野に至るロボットアニメの戦史」で、冨野監督の、戦争をする生き物である人類を何とか超えることができないかという切なる願いが、すべてボロボロに裏切られていく過程を見ました。ここでは、長く説明しませんが(講義をぜひ聞いてください)、我々は、物語のアーキタイプ(元型)として、人類が悪と戦って倒す(=物語のアーキタイプとしての竜退治の系譜)物語が、どんどんインフレしていき、倒すべき悪をより、強くしていくインフレスパイラルの頂点で、究極の全である天使より「人類そのものが悪なのだ!」という告発を受けることになります。これが、倒すべき究極の悪だとすると、それをどうすか?ということが、絶望的な戦いとして物語の系譜で追及されてきました。これに一つの解決をもたらした系のルートの説明はここではしません。これが解決できなかったルートとして、圧倒的な巨大な存在である天使からの「人類は悪であり滅ぶべき存在である」という告発に絶望的な戦いを挑んだのが『伝説巨人イデオン』(1980)でした。これが最終的に、解決不能なルートである!と、絶望に満ちた形で、ゼータガンダムカミーユは発狂エンドを迎えます。

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さて、この大きな物語類型の系譜の枝葉として、僕は、社会的に巨大な問題に対して、その解決を「英雄=主人公」だけに依存する形式に対するフラストレーション、違和感があると思っています。いいかえれば、朴には、なぜ、主人公、英雄ばかりが、そんなに社会の複雑な課題を引き受けて苦しまなければならないのか?、なぜ、マクロの課題が主人公の実存にリンクしてしまい、最後には崩壊に至ってしまうのか?、それ以外の道はないの?という、感覚があります。上記のLDさんが示した大きな太い幹の系の一つに、なぜその問題を主人公(ミクロの一人だけ)が抱えなければいけないのか?という問題意識を見ます。もちろんこの人類が悪だという告発に対する巨大な答えの一つとして、脱英雄譚の物語があるのですが、メインに行く前に、こういった巨大な問題を抱えるのが、なぜ一人でなければいけないのか?という問いは重要な物語作劇上の問いだったと僕は思うのです。


これに対して、はっきりと意識したのは、やはり『まおゆう魔王勇者』でした。これは、善と悪の二元的対立を永久にクリア消す運動の中に生きている、魔王と勇者が、ある時、この善と悪が殺しあう永久運動の世界から、その外に出れないか?と問いかけたことから物語始まります。魔王が、勇者に問いかけます。「あの丘の向こう」が見たくないか?。「まだ見ぬ地平を見て見たくないか?」と。これは、素晴らしい問いかけでした。この問いには、殺しあう運命に支配された物語に役割から、自分たちも自由になれないだろうか?という強いメタ意識があります。メタ意識は、なぜ生まれたのか?というと、この世界が繰り返し同じことを繰り返しているので、それを超えるのはどうすれば?と考えたことによります。物語の主人公たちもそうですが、受け手も同じです。また、これか?と思うからです。繰り返されると、その先が人は見たくなるものなのです。ここでは、英雄に頼らない世界を作るという物語の系譜として、『まおゆう魔王勇者』のメイド姉のエピソードは、くわしく語らないので、下記の記事を読んでください。


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メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1


これが正しいとかではなくて、物語の一つの系として、英雄・主人公に世界の責任をすべて押し付けることの卑怯さが、この辺りからとても意識されるようになってきていると僕は分析しています。社会的な背景分析やアナロジーは、too muchなので、そこは割愛しましょう。まぁ、わかると思いますが、この問題意識に対して、ストレートに、『天鏡のアルデラミン』は意識されているのがわかると思います。そもそも、イクタ・ソロークは、英雄になんかなりたくない。英雄になると、殺される、過労死する、と何度も最初の最初からいっており、この物語の大きなテーマとして、マクロの課題を押し付けられる人間、英雄=主人公が、人生を摩耗されて使いつぶされていくことへの、強い拒否があります。そのことを認識すると、下記の僕が指摘している問題意識がつながってくるとは思いません?。

ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン (電撃文庫)

この理由は、物凄くよくわかるところが、この作品の人間関係における、救済が何から来るかの射程距離が凄い長いことを感じさせるんです。それほど複雑な設定を感じないので、これは設計力というよりは、作者の宇野朴人さんの人間理解力、人柄ゆえでしょうなーたぶん。えっとね、ハローマ・ベッケル、エルルファイ・テネキシェラ、ジャン・アルキネクスのキオカ側の物語を見れば、トラウマによって、人の動機を支配する洗脳、、、洗脳よりももっとひどいかもしれない、けど、トラウマによって人生が追い詰められて、人生を使い潰してしまう系統の非常によくあるくらいエピソードを設定を背景に持つキャラクターばかりだ。こういう激しいトラウマによって人生を駆動している人々は、物語に登場させると、通常「死によって解放される」以外は、選択肢がないものです。


いつも思うんです。確かに、物語の主人公たちは、「どうにもならないマクロの流れ」で人生を、自分を壊して死んでいく、その刹那の輝きが美しい、と。グインサーガで、イシュトバーンのあのせつない若かりし頃を見ていると、殺人王、僭主として最悪の不幸に落ち込んでいく姿は見るに忍びなかった。けど、それにあらがらいながら、マクロの巨大な流れに乗り、戦い、贖い、立ち向かっていくのが人生と思いました。


とりわけ、皇帝シャミーユの問題意識は、まさに、この問題を、ミクロレベルだけではなく、国家、歴史レベルのマクロの問題意識に接続したときに起きる問題です。カトヴァーナ帝国という、国としての命脈がつきている腐った国家の指導者として、それではどうするか?という問い。既にこの作品では、主人公たちに高い歴史認識社会工学的な認識があり、帝国が既に国家としての寿命を終えてしまっていること、国の持つアンシャンレジームが、既に国を長期に繁栄させることができないことが、はっきり認識されています。なによりも、イクタやシャミーユなどの為政者レベルの人間が、そのことを常識のように認識しています。歴史的にも、この世界において、キオカ共和国の多民族国家の原理、科学的思考をベースにする理念が、超長期的には、人類の在り方としては正しく、そちらが発展することも、為政者レベルは認識しています。けど、、、、しかし、、、、そんなことがわかったところで、じゃあ、そうするかは、難しい。ちなみに、こうした腐った帝国が、滅びるモデルを考えれば、どう考えても、ハードランディングとしては、フランス革命であって、国が血で血を洗う内戦になって、総崩れで崩壊していくことになります。そうした社会的に背景の中で、その国を指導する立場にある指導者は、どうすればいいか?と、この物語は問いかけるわけです。フランス革命の歴史でもいいですし、大日本敵国の崩壊でもいいですが、あらがえない歴史の大きな波にのまれてボロボロに崩れ去り、血で血で洗う殺しあいを人類は経験してきました。なので、基本的には、戦記物には、そういう物語が多い。というか、よほどご都合主義的でない限り、リアリティとしては、それを超える方法は、なかなか見つからない。建国の物語のファンタジーなんかであれば、強い英雄が出て国をよくしました、めでたしめでたし、で終わりますが、社会的に細かい構造の描写をすると、それはなかなかできなくなります。とりわけ、カトヴァーナ帝国は、近世に近いレベルの時代背景があり、官僚制度が発達し、既に軍官僚によって国が隅々まで統治されており、貴族から為政者のレベルだけではなく、民衆もどっぷり軍官僚のシステムに依拠していて、そこから自立できないさまがたっぷり描かれています。なので、クーデターが起きやすい状態なんですね。南米の国々や、1930年代の日本のような状況なわけです。なので、為政者としては、絶望的な、民衆による自立を育成する「絶対王政による上からの啓蒙主義」になるわけですが、その時間的余裕がほとんどないことも、既に為政者はわかっています。さて、この状況でどうするか。歴史を見ると、三部会しかないんですよね。要は、議会による民衆の自立を促す構造ですが。。。。。まぁフランス革命では、血で血で洗うボロボロの結果を招きました。腐りきったアンシャンレジームの変革や、科学的近代的思考の導入、枢軸国的な上からの近代化になれた奴隷意識などなど、一回ガラガラポンしないと、どうにもならないのです。この同じテーマを、描いていたのは、流血女神伝シリーズですね。結局、ルトヴィア帝国は、このぎりぎりのラインを、超えることができずに、革命によって崩壊してしまいました。ドミトリアス皇帝は、まさに、問題に早くから気づいていた英明な君主でしたが、結局のところ、気づいているだけではどうにもならず、英明で頭のいいだけでも、どうにもなりませんでした。この世界観では成功例の一つとして、ユリ・スカナのバンディーカ女王による、上からの近代化が描かれていますが、この英明な絶対王政の啓蒙君主は、力でクーデターを成功させた強大の権力の持ち主で、かつ長期間にわたって最高レベルの政治を敷き続けた女傑でもあります。僕は、オーストリア・ハプスブルグ帝国のマリア・テレジアを連想しますね。そんな彼女も、自分の死と後継者問題で、結局のところ問題を先送りしただけという風にも取れます。戦記物やマクロを描く物語では、この近世のぎりぎりのラインが描かれることが昨今多くて、それは、くしくも栗本薫が言ったように、ファンタジーの戦記物として、「英雄がまだ英雄でいいられた最後の時代」だからなだと僕は思います。この後は、国家や世界の歴史は、一人の英雄によってひっくり返ることはなく、ある種の歴史の必然や、巨大なメカニズムによって世界が動いていくことになるからです。そこに個人の意思が介在する余地は、非常に少なく、なかなか一人の主人公が主観として眺めることができて、マネージ、制御できるような物語世界を描くのが難しくなります。

流血女神伝 帝国の娘 前編 (集英社コバルト文庫)


こうした背景が、シャミーユには降りかかるわけです。


彼女が、軍政に近い、凶暴な絶対王政の君主として、軍と官僚を支配下に、力で置くのは、ある種必然です。帝国で「下からの自治、自立運営」が育っていない地域では(旧枢軸国的だなー)、それしかないんです。おお、以前書いた、昭和天皇の話とすごい重なります。


『知られざる皇室外交』 西川 恵 著  天皇陛下の持つ時間と空間に広がりを持つ視野とその一貫性に深いセンスオブワンダーを感じました
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180210/p3


裕仁天皇の昭和史』山本七平著/英明で啓蒙的独裁君主を望んだ戦前の日本
https://ameblo.jp/petronius/entry-10001941342.html

裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)


状況はそっくりですね。昭和天皇と。軍によるクデーターにより、いつ自分が暗殺されるかわからないこと。軍の傀儡政権になり下がりやすいこと。政治家は、君側の奸ではないが、常に君主を利用しようとしていること。そしてなによりも、もっとも、民衆が凶暴で無知で、そして、どうしようもないほど虐げられていること。。。。ちなみに、少し設定は異なる時代のものになりますが、マクロの大きな波がミクロの人生をどうしようもなくさらってしまう、その無力感というか、切なさをこれでもかと描いているファンタジーは、沢村凛さんなどがいいと思います。これ、泣けます。



『黄金の王 白銀の王』 沢村 凛著 政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120126/p1


『瞳の中の大河』 沢村凛著 主人公アマヨクの悲しいまでに純粋な硬質さが、変わることができなくなった国を変えてゆく
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111217/p7


黄金の王 白銀の王 (角川文庫)


僕の問題意識が伝わっているでしょうか?



さて、ではどうすれば?となります。今まで見てきたファンタジーの戦記物とは、結局のところ国が崩壊して、マクロもミクロもズタボロになるというのが、結論でした。少なくともご都合主義ではなく幸せにになった話を、見たことがない気がする。時代的に、世界の善を証明する不可能性からアダルトチルドレン的な生きる意味の消失につながる物語類型はあったので、僕の視聴、読書歴がそうだというだけかもしれませんが。


そのなかで、『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』には、読んでいてすごく希望が持てるのです。それは、作者がマクロとミクロのバランスをちゃんと計算して、俯瞰して見ている仕掛けがそこかしこに見えるからです。ずっと書いているのですが、イクタ・ソロークが熟女好き&マザコンで、ロリコンじゃないところなどは、よくよく考えていると思うんですよ。実に自然に、彼が、シャミーユに手を出さずに見守ることができるという関係性を作り出しているんですが、手を出すこと、、、抱いてしまうことは、それは対等になることではあるんですが、同時に同じレベルまで下りて行ってしまい、救済するということが、、、、そうでなくともシャミーユの持つミクロの課題は、マクロの課題と不可分に結びついている人なので、ものすごく難しく、というか不可能になってしまうんですよね。そういう設定を最初から考えておかなければ、こういう風な描写にならないと思うんですよ。この辺は前のブログの記事で書きましたね。これはとてもミクロ的な関係性の話なのは分かりますよね?。イクタのマザコンなのは、彼の過去からきている人格の重要な部分ですが、この設定、それで人妻ばかり狙っている遊び人の設定は、もちろん、彼がヤンウェンリーや無責任艦長タイラーなどの類型の将軍で、普段ダラダラしていて、およそ真面目とは程遠いとか、そういうダメな人間として描くが、戦争はめっぽう強いという部分が、カッコよさやコミカルさを生み出すというたぐいの類型ですが。

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でも、これは、要はただのヒーローなんですよね。けれども、イクタのヒーロー、英雄像への認識は、かなりメタ的で手が込んでいます。すべての英雄は過労死するという言葉にあるように、英雄というものがマクロの奴隷であることを彼ははっきり認識しています。この時点でかなりメタ的で、単純なヒーローにはなりえない。しかしながら、マクロの奴隷であることをメタ的認識したヒーローは、基本的に碇シンジ君のように動機を失います。というか動機を失うのは言い過ぎなのですが、ようは、「なぜ英雄にならなければならないのか?」、個人の幸せのほうが大事なのではないか?ということが、テーマというか頭に上るようになるんですよ。なので、逃げるということが常に意識を上るわけです。しかし、シンジ君のおめでとうもそうですが、この逃げるのは悪手です。だって、結局幸せはどこにあるのかというと、自分の「大切な人たち」面識圏内の関係性の中にあるということは一つの真実で、それをずたずたに破壊するのがマクロなんですよね。たとえば、彼は父と母を失っていますが、軍事の天才であった父バタサンクレイであっても、所詮英雄としてシステムに組み込まれるしかなく、それを拒否するときには、死しか逃げ道がありませんでした。なので、大事なものを守るためには、マクロを改良するしかないという結論に、結局なるのです。特に、イクタにとっては、マクロの殉じるのが人生と定めている相手を魂の半神と認識してしまっており、そうしたら、戦うしか方法がないんですよね。マクロの奴隷から逃げるには、本気でマクロと戦うしかなくて、それはもう奴隷そのものなんですね。。。。


という、構造的な英雄の問題点、ミクロとマクロのはざまで、ミクロ(=大事な人と関係性)を守るためには、マクロ(=ミクロを破壊してしまう大きな波)を何とかするしかないという構造。要は戦うしかないんです。


しかし、、、、マクロとの戦いは、どれほど優秀であっても、それに人生をささげることになるがゆえに、ミクロから引き離されてしまうというジレンマが起きます。


という射程距離が、既に最初からセットされているのが、素晴らしいと思ったんです。ああ、最先端の物語なんだな、と。英雄にも人権はある!とでもいいましょうか(笑)。基本的に、英雄、指導者、リーダーには、人権がないというのが、大衆の発想です。英雄、勇者といった選ばれた人々の、彼らの個人としての幸せwどう考えるか?または、個人が救う世界なぞ、しょせん個人をいけにえに捧げ続ける社会にすぎないわけで、そんな個を無視した社会はだめなんだ!というのが、大きな人類の流れだと思うのです。もちろん、そういう単純な正義感は、衆愚政治ヒトラーを生み出すわけで、人類は手痛い代償をはらっていて、そんなに単純じゃない。


このダブルバインドの制限ある構造で、それではどうすれば?世界を変えられるか、世界をアップデートできるか、個人は生存戦略をできるかぁ?というのが、現代の物語の最先端だと僕は思います。



■ミクロとマクロのバランスをちゃんとハードSF的に描きながら、それでもキャラクターのドラマが書ける素晴らしい作家


前巻は、僕の読書歴の中でも最高レベルのSF体験だったようで、何度も読み返しています。


ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXII (電撃文庫)


ハードSFの定義をどう考えるかは様々ではありますが、この巻が、とてもSF的なエピソードを扱っていることは疑いようもありません。タイトルにあるように、この作品の世界観、「この世界がこうあること」の謎が説明されます。この世界がマクロ的にどのように形成されたかを「解き明かす」ものは、ハードSFといっていいのではないかといつも僕は思います。けれども、わかると思うのですが、マクロ的なテーマ、特にこうした実感を超えるようなハードSF的なテーマというのは、まさにその通りで、「実感することが難しい」ものなんです。だって、グレッグ・イーガン(Greg Egan)やジェームズ・グレアム・バラード(James Graham Ballard)とか、話は物凄い面白いのですが、ミクロ的にキャラ萌えしたり、キャラクターの関係性に一喜一憂したりはしないでしょう。あくまで主要なテーマが、マクロ的なものだからです。もうちょっとわかりやすいのでは、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』とかですね。このバランスってとても難しくて、良質のハードSFは、やはりテーマによっている。まぁ、テーマそのもののコンセプトを描くことこそが目的なんだから、そんなミクロのキャラクターの信条とかどうでもいいんだよ!といってしまえばそうなんですが、僕は、出来れば両者が絡まっている話が見たい。

んで、ネタバレになってしまうんで、まだ読んでない!という人は、避けてほしいんですが、宇野朴人さんは、このあたりのバランスがとてもいい人だと僕は思うんですよ。タイトルと、その終着地点としての「この世界の秘密」が解き明かされたXII巻を読めば、この作品が最初から計算されたSFの物語であることがわかります。「ねじ巻き」の意味が、アルデラミンの意味が最初読んでいる時も、アニメを見ている時もさっぱりわからなかったんですが、ここへ来てそれがすべて解き明かされます。この辺りは、物語を読んでほしいのですが、これだけ綿密に設計されたSFであるにもかかわらず、キャラクターのミクロの関係性がとても豊かなんですよね。実際、このマクロの謎解きと同じくらいに、謎解きのエピソードに出てくる立花博士と助手のサプナ物語は魅力的でした(とういうか、超好きすぎる!!!)。前回も書いているのですが、ぐだ×マシュにしかぼくには見えないんですが(笑)、この二人の話、、、サラッと書いてあるけれども、けっこう百合の恋愛話としても、というか愛の話としても、深い話だと思うんですよね。立花博士って、世界すべてを愛している人で、こういう科学者的な人は、個人に愛を向けることがありえない性格の人なんだろうと思うんですよ。この人が、それでも、節を曲げて個人の愛を受け入れるには、世界を救う級のことがあって、かつもうどうしようもない世界が滅びるぐらいのことがないと、個人に愛を向けないと思うんですよね。だから、サプナは待つしかかっただろうし、それは成就しないはずの愛だったんはずなんですが、まさに世界が滅びて、世界を救済しちゃって、ギリギリのところまで来て、ついに、、、となる。これ、とてもドラマチックな恋愛エピソードだと思うんですよね。この情緒的なミクロのお話が、ハードSFのマクロの謎解きにちゃんとリンクしている。これ、素晴らしいと思うんですよねぇ。これはこの作者の魅力だと僕は思います。

さてこうして見ると、僕には最初に思った残念な点が一つある。それは宗教について、、、「この世界が僕らがいいる世界とは全く違う現実なんだ」ってことを描写する「怖さ」や「凄味」が弱いことです。というのは、この社会は、フラクタルシステムが形成されてから1000年の時が経過しているという設定ですね。かつ、教団?が「この世界は終わりつつある」ということを伏線でいっていることから、フラクタルシステム「自体」のメンテナンスや開発改良は、どうも現代の人類の手に余るようになんですね。ということは、この教団って、このシステムをベースに生まれたある種の管理のための宗教なわけです。中心のシステムに手を入れられないとすれば、科学ではなく「宗教」になっていくはずなんです。意味は失われて儀式にいろいろなものが変更されているはず。そうであれば、これほど世俗的な感覚が残っているよりは、主人公たちに、僧院への強烈な畏怖や恐怖などの感情があるはずなんですよね。でもそういうのが全然ない。また、そういった宗教性を演出しようとすると、明らかに僕らには理解できないなんらかの感覚が描けないと、、、

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110213/p1

フラクタル』 (FRACTALE)  A-1 Pictures制作 山本寛監督 環境管理型権力からの脱出を人は夢見るのか?

ちなみに、この物語は、そのあたりのところはうまいと思います。女性が軍隊になぜか多く進出しているなど、実にさらっと描かれている点でも、その根拠が実によく考えられていて、これがちゃんとしたSF作品なんだ、としみじみも思わされます。この作品が、ライトノベル、たくさんの人々に支持される物語でありながら、そのあたりの大衆のエンターテイメントのバランスを持ちながら、コンセプチュアルなハードSF的な設定をブレイクダウンして、バランスが保てていることに、僕はこの作者の才能を感じます。


■ライフリング(rifling)施条(しじょう)が変える世界〜第一次世界大戦軍事革命をさかのぼる

さて、この作品で僕は、とても「次世代の物語の扉を開くヒント」のようなものを見ている気がします。上記で、本来は救われるはずがないシャミールの救済可能性について、とても設計されているところが、僕はとても興味深いものとして考えています。というのは、この手のファンタジーの戦記モノにおいて、マクロに圧倒されるミクロの悲劇というのは定番のようなもので、よほど戦記もの作品類型をメタ的に考えておかないと、通常の英雄物語を描いた時点で、それを超えることができなくなるものだからです。この英雄物語をどう乗り越えていくかという視点を、LD教授は、1)テクノロジーのイノヴェーションによって世界が変わる、2)情報圧縮論-物語技術自体の進歩が必要という視点を提出しています。この辺りは長くなるので、また整理は今後に譲るとして、おおざっぱに言うと、この世界が戦争を繰り返して殺しあう繰り返す仕組みの中にある時、「それ」を乗り越えるためにはどうすればいいのか?というテーマを考える時に、主人公(=英雄一人)の問題ではなく、これが「みんなの問題」だと認識すること、また世代を超える時間がかかることであるという認識を持つことで、ヒーロー濃度を下げるという方向性がどうも取られているとしています。これは『まおゆう魔王勇者』や『魔法先生ネギま』、ガンダムサーガで見事に描かれていく問題意識なのですが、この問題認識が『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』がはっきり示されていることが、見て取れます。

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この脱英雄譚の物語類型は、最前線のものなので、このテーマがすべてビルトインされているのは、僕は古典的な戦記ものの作風の中で、素晴らしいと思うのです。まずは、なんといっても、皇帝シャミーユの問題意識です。彼女は、カトヴァーナ帝国が、軍事官僚制の中で、民衆が自立意識、自治の参加意識をもって国政に参加していないことが、国が傾いていく根本原因の一つだと認識しています。だからこそ、議会を活発化させようとしたり、各地の自治制度を機能させるような背策を次々に打ち出しています。そして、フランス王国の最末期と同様に、既にそれが「もう遅い」ことであって、中国の皇帝制度と同じで、一度根本を破壊しなければ、国が自立意識を取り戻すことは難しいとも認識しています。ああ・・・これ、浅田次郎さんの『蒼穹の昴』の西太后の話と全く同じですね。これは、言い換えれば、英雄が世界単独で救える神話の時代と、英雄一人では世界を変えることができな近代的な世界との過渡期を描いている作品になるわけです。

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フランスのマリーアントワネットでも、清朝西太后でも、流血女神伝のドミトリアス皇帝でも、基本的に、この過渡期の物語で、統治者側に生まれついた人で救われた人はまったくいません。単純に史実でさえも、そんな人は見えないし、当時その先の出来事が見えていなかった中で、「その先」の次のパラダイムを予期して手が打てるほどの凄い人はいないからです。パラダイムの変化期、異なるシステムへの移行期は、先が見えない真っ暗な世界で、人は右往左往するしかなく、たいていは、マクロの冷酷で残酷な波にさらわれていくことになります。少なくとも「旧来の価値観」の側に生きている人が、生き残ることはほぼ皆無に等しいのです。王が、英雄が世界の中心でなくなるかと木の時代に生きるファンタジーで、まともに国家やマクロを描けば、それに押し流されることしか描けないからです。しかし、あきらかに、皇帝シャミーユは、このあたりの問題意識を深く理解しています。彼女の人生が暗く影を差すのは、多民族国家キオカ共和国の理念を、幼少期に目のあたりにしているからですが、逆に言えば、時代の大きな流れが、既に科学と多民族を許容できるキオカの理念には勝てないことを、ちゃんと理解しているということになります。これ、これまでのファンタジーにはない、国家レベルの政策のマクロ認識だと思うのです。途中の巻で、マシュー・テトジリチの実家に帰るエピソードがありましたが、封建国家の封建領主と、そこに派遣される派遣官僚の統治の具体的なねじれなど、いやはや、難しい言葉で書かれていないのですが、この人、とても政治哲学に明るい、、、というか、政治哲学を政治哲学的に抽象論で語る人は、別に頭がいいというわけでもなく、いやむしろ悪い人なんですが・・・・・そうではなくて、具体的に物語とエピソードとキャラクターでちゃんと説明しているのです。これ、作者が素晴らしいと僕は思います。こうでなければ、物語を書いている意味がない。戦記ものを書く人は、マクロが先行して、小難しいことを小難しいレベルで描いてしまい、キャラクターが全く生きていない、自由に動かないケースがほとんどなんですが、この人はその両方が、ちゃんと物語とキャラクターの次元で書けていて、僕は唸りました。


また、『まおゆう魔王勇者』がとても自覚的だったのですが、世界が変わっていくことは、イノベーションによって、科学によって具体的に起きていること、この作者ははっきりとわかっている。抽象論で描くのではなく、たとえば、トルウェイ・レミオンという主要人物は、これからの戦争が、射程距離の長い銃兵が重要な働きを為す時代が迎えることを、軍隊という組織レベルで理解しているのですが、これはまさに、ライフリング(rifling)/施条(しじょう)が、軍事革命として、軍事の在り方を一変させていく第一次世界大戦のころの世界の変化と同じものです。『まおゆう』で、繰り返される殺し合いの・戦争のメカニズムの、あの丘の向こうを見たいと思った時にどうすればいいのか、と問う時に、その答えは技術による社会のインフラストラクチャーの変化、という視点が導入されました。僕はこの時の記事で、世界を良くしようという意識にとって最も大事なのは、社会をどのように具体的に変えていくかの、社会工学の意識であり、少なくとも過去の世界の設定のファンタジーを描くのならば、「どのような具体的な技術の変化が」「どのような波及効果を生み出したか」をトレースすれば、大きな物語のヒントとなると書きました。ちなみに、未来ではありますが、ガンダムサーガの未来において、地球連邦政府を安定的に生み出して、継続させるには、3つの地域それぞれにエネルギーを確保自律運営できる軌道エレベータという解決策が出されているのですが、これは、クラークの『楽園の泉』などで人類の貧困や殺し合いの主要原因の一つであるエネルギー確保の安全保障問題について終止符を打つ科学的解決方法としてメジャーなものであるからです。

楽園の泉

レミオンのライフリングの効果は、砲兵の威力が加速度的に増していく軍事革命の始まりです。今はまだライフルですが、これが、巨大な砲に適用されていくことは間違いありません。というか歴史的な事実だし。という部分は、作者は見事に理解しています。だから最新刊で、威力の増した砲撃によって、要塞を守る拠点防衛がまったく成り立たなくなる様を、兵たちにまざまざと見せつける訓練シーンが、出てくるわけです。いやはや、この人は、良くよくわかっているなぁと唸ります。戦記ものを描くにあたって、近世から近代にいたるあたりを設定した場合、このテクノロジーのイノヴェーションによる軍事革命が、第一世界大戦を誘発していくことは、意識しなければなりません。ちなみこの辺のグレートウォーの技術的背景を、とても分かりやすく、見事にマクロ的に解説しているのは下記の本で、これは物凄いおすすめの良書です。

日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか

この英雄物語をどう乗り越えていくかという視点を、LD教授は、1)テクノロジーのイノヴェーションによって世界が変わる、2)情報圧縮論-物語技術自体の進歩が必要という視点を提出しているという話だったのですが、僕はこのアルデラミンという作品のなかに、様々な1)と2)の萌芽というか種のようなものを感じます。近世から近代にいたる戦記ものを描く時に考えなければならない要素がワンセットで認識されている。このことが物語レベルで人口に膾炙してきたのは昨今で、まだまだメジャーとはいいがたいのですが、やはり『まおゆう』が大きかったと思うのですが、近代的な技術が持ち込まれた中世レベルの国家が、どう変質していくのか、、、これは、「小説家になろう」の異世界に現代のテクノロジーを持ち込むパターンの物語の思考方法にも、色濃くあると思うのですが、様々なそうした物語が描かれてきて、消費者の物語リテラシーが上がってきていることが原因ではないか、と思うのです。いいかえれば、2)のLDさん的な物語に技術が進歩している、と。


このあたりの問題意識は、


国家の次元として、帝国や王国は維持できない。なぜならば、民衆の自治意識、参加意識が育まれなければ、国が官僚組織に寄生するだけの寄生虫になってしまい、複雑になっていく社会の要請にこたえることができなくなるからだ。かといって、上からの改革を為せば、民衆はさらに寄生虫になり、自助努力ができなくなっていく。ちなみに貴族政治による腐敗が、軍官僚による統治の効率性によって生まれているなど、なかなか社会工学的に興味深い視点で描かれています。


また銃のライフリングに代表される軍事革命により、中世から継続している戦争の在り方が一変する。この中には、戦死者の桁数が跳ね上がる近代戦争の発展が含まれており、このためには、軍事の科学的な進展のスピードアップ、大量生産、それに関連する常備軍のや徴兵制の必要性などが絡んでくる。そうであれば、民衆の参加意識が高いキオカ共和国に圧倒的に長期的には分があることがわかります。



このあたりの問題意識は、すべて、作者に認識されているし、、、、なによりも、主人公たちシャミーユやイクタ・ソローク、ジャン・アルキネクスなど為政者たちが、これを、明確に認識しているところが素晴らしい。彼らは、自分たちがどんなゲームをしているかとても自覚的です。そしてなによりも、イクタ・ソロークが、最初からこのゲームをメタ的に克服するためにはどうすればいいのかと、強く意識しているのも素晴らしい。もちろん、スーパーマンとしてそれを知っているわけではなく、バダ・サンクレイが国家により殺されていることなど、育ちとしてミクロの性格形成で、英雄になることが、どういうことかをちゃんと「距離をもって達観できている」ことから来ます。うーんとねぇ、この達観した感覚は、大局観や歴史的な鳥瞰視点なんですが、物語の中でこの視点を強く持っていた人は、有名な人では、やっぱりヤン・ウェンリーですね。田中芳樹さんの歴史に残る傑作『銀河英雄伝説』の主人公です。ただ、ヤンは、あまりに歴史仙人(笑)的で、どうしようもないマクロの波に抗い、世界を変えるという野心はあまり持っていなかったのですが、これがなぜかと言えば、彼が技術的イノヴェーションによるインフラストラクチャーの変化というものを前提に入れていないからなんですね。自由惑星同盟は、数百年単位で、技術の変化がありまりません。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)


でも、百年単位で技術の変化がないということは、我々の生きる現代では、ありえないと思います。



うーん、まだまだ書きたいことがあるのですが、長くなりすぎたので、いったんここまでにしておきます。「ここ」は、僕が次世代の物語を考えるときに、コアになる最前線の部分なので、がっつり、これが反映されているエンターテイメントが見れて、僕はとても幸せです。というか、立花博士とサプナのエピソードはほんとよかったなー。



『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXII』 宇野朴人著 僕はこの宇野さんという作者がとても大好きです。彼は世界の美しさを知っていると思います。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20171020/p1

『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミンXI』  宇野朴人著 どのように人々の参加意思をつくりだしていくのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170109/p2

『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』 宇野朴人著  安定した戦記モノで、マクロとミクロのバランスがとても良いです!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170109/p1



コミックス途中で完結してしまったのですね、、、楽しみにしていたのに、、、、。


ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン VII (電撃コミックスNEXT)