『「資本」論―取引する身体/取引される身体』 稲葉振一郎著 とてもよい社会思想史の導入書

「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)
稲葉 振一郎

筑摩書房 2005-09-06
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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)


おもしろかった。すごく。とても良い社会思想史の教科書・導入書だ。



「私たちの生きる基盤である資本制を軸とした文明社会の仕組みを明らかにしよう」


という欧州古典社会思想家たちの野望を、わかりやすくとても上手く整理しているとおもう。



□目次


プロローグ 自然状態からの社会契約

1)「所有」論
1.戦争状態と所有
2.国家の存在理由とは?
3.私的所有への批判の矢

2)「市場」論
1.交換から分業へ
2.交換の果ての市場
3.市場への不安と懐疑と反発と

3)「資本」論
1.「資産」とは何か?
2.資本のつくられ方
3.「所有」の変容と株式会社

4)「人的資本」論
1.マルクスの労働問題重視
2.「労働力=人的資本」論
3.拠点としての「所有」
エピローグ 法人、ロボット、サイボーグ〜資本主義の未来



□オーソドックスなヨーロッパ社会思想導入の書

稲葉振一郎さんは、その最初の著書『ナウシカ読解』とワイアードでのコラム『地図と磁石』での社会思想と経済学の大きな流れの、わかりやすく全体を見通した分析でとても注目していた。こういう超難解な世界で「わかりやすく全体を俯瞰する」できるというのは、とても貴重な才能だと思います。

ナウシカ解読―ユートピアの臨界ナウシカ解読―ユートピアの臨界
稲葉 振一郎

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僕は実務家で、普段から時間があまりないビジネスマンなので、読書をする目的は、学者として象牙の塔にこもって定義を論争したいのではなく、「おおざっぱな全体感」を把握して、いった「どこ」で何が議論されているのか?ということがまず俯瞰できるということです。新しい世界観を得るときには、まずそういったものを作らないと、無駄にタコつぼ(=枝葉末節)にはまってしまったり、本当の論理の対立や問題点を見過ごして、感情論に陥ったりと、いってみればそこで議論されている本質から遠ざかってしまうからです。そういう、実務家や専門家でない人に、知の世界を、知の世界で得られた業績を広く敷衍していくという作業も、立派な学問だし、大学機関や知識人の多いなる使命だと僕は思っています。もちろん、わざわざ大上段に言うからには、こういった知の世界への水先案内という「機能」が日本には、とても弱いという意識があるからです。ですから、僕が導入本や、こうした俯瞰できる本をとても注目するのは、そういった背景もあります。まぁ自分が、全体像を知りたいのに、低コストで!(これ重要)なかなかそれをうまく教えてくれる人が、言ないということに悩んでいるというのもあります。

ちなみに、なんでこの人の話が、こんなに好きなのかなーと思っていたが、それはやはり「文明・資本制社会をの仕組みを解明しようとする」欧州社会思想のオーソドックスな視点がよく生きて血となり肉となっている人だからだと思う。大学時代から、17〜18世紀の近代ヨーロッパの古典的社会思想は、とても好きだった。社会に出て忙しくなったいまでも、アダムスミスの『諸国民の富(=国富論)』やヒュームを趣味で読むくらいだから、相当すきなのだと思う(笑)。まぁ生活の役に立つとはいえないけど(苦笑)。



□『道徳感情論』アダムスミス著/自由競争の前提
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002362694.html

□『国富論』アダムスミス著/最適化の果てに http://petronius.ameblo.jp/petronius/entry-10002333519.html

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だから、社会思想史に興味がある人には、とてもわかりやすく全体を俯瞰されており、かつ分類的な無味乾燥さがないダイナミックな筆致は、とても楽に読めると思う。僕の好きな「世界の終末を描く物語」の謎解きを読んでいるような、スリリングな展開であった。


なぜならば、ヨーロッパの古典社会思想とは、



『この世界がどうなっているのか?、どのように作られたか?の謎を解く物語だからだ』。



そして、こういうふうに物語のように読みやすいのは、筆者が、抽象概念を噛み砕き血となり肉として、「自分の言葉で」表現できているからなんだと思う。こういう平易な書き方は。多少定義等に文句をつけたいところもあるかもしれないが、「本質をわかりやすくたくさんの人の紹介する」というのは、こういう書き方でないとできないと思う。



□人間は、どこからきて、どこにいて、どこへ向かうのか?


人間にとって「自分が、どこからきて、どこにいて、どこへ向かうのか?」というのは、切実且つ最も重要な根本命題だと思うのだが、その問いのバリエーションとして、



いま僕たちが住む『この世界』とはどんな世界なのか?


この世界はどのような仕組みとルールでできているのか??




というとても大きな枠での問いかけは、とても興味深い。




ちなみに、この問題意識から派生した疑問が、17世紀から誕生するホッブスジョン・ロック、ルソーら「社会契約論」の論者たちです。またそれに続いて登場したスミス、リカードウ、フィジオクラットそして、マルクスエンゲルスたちの「資本制の社会仕組みを明らかにする」という問題意識です。人間の社会は、資本主義という仕組みで覆われた近代社会になってしまい、このシステムの『外』に行くことはもうできない時代になっています。だから、この資本制の近代文明社会が、どのように組みあがっているか?という「謎」を解き明かせば、僕たちがどういう世界にいるのかががわかるはずなのです。



□学問の本質とらえ、その議論の流れを大きい枠で捉えること


学問や学説の流れを見るときに、1)「全体の流れと本質」にこだわる人2)「専門的な微細な部分」にこだわる人がいる。このどちらも、手法にすぎないのでどちらが優れているとはいえない。しかしながら、新書のレベルで、かつ広範な読者に対して送られているメッセージとしては、やはり?が僕は優れていると思う。


そもそも「マクロの次元での大枠としてどうなっているか?という経緯・歴史の知識」がなければ、いったいいま何を議論して、どこで問題点が対立しているかが不明確不透明になっていまい、その場の感情論や学閥の対立ばかりが問題になってしまう。そういう議論は、お遊戯だ。僕は、なんちゃってパンピー読書人なので、蛸壺的な専門議論やあまりに専門の世界だけで通じる常識や前提を言われても困る。基本的に、真の知識人でほんとうに頭が良く物事が根本の原理からわかっている人は、他人に非常にわかりやすく説明することができると信じているので、そうでない人を見ると、ああー頭が悪いんだなーと悲しくなってしまう。「全体的な流れと本質」の整理は、「これまで書かれ・考えられたことの繰り返し」なので、批判するのは簡単だ。こう云えばいい。「なんら目新しいことではない」と。けど、そうではないだろう?。大抵の人は、「これまで考えられてきたことの本質」は、まったく理解できていない人が多い。


この本もホッブス、ロック、アダムスミス、マルクスら社会思想詩の古き巨人がでているが、彼らの悩んだテーマは、ほぼ全て現代で問題になっていることと遜色がない。その「遜色のなさ」をどれだけの人間がわからずに、したり顔でこんなのは目新しくないと叫んでいるだろうか?。大抵の学者は、教授は、知識人は、ほとんど意味のないゴミのような職業的マニエリスト(=細かいところにこだわって本質が見えず、真の意味でのオリジナリティにかける人々)だと僕は思う。もちろん専門的職人が、大学機関にとって不必要だとは思わないが。


しかしだからこそ、古典を読み知の巨人と会話すること、彼らの足跡を随時立ち戻り確認することこそが、いまだに重要なことなのだ。天才などという者、真に学問をできる頭脳の持ち主は、稀に神が微笑む瞬間にしか生まれない稀少なものなのだ。だから、もう一度繰り返すと、議論をするときには、大きなパースペクティブや前提となるパラダイムからちゃんと説明しないと、新書や導入書としては、何を言っているか意味不明になりやすい。そもそも学者のくせに、定義や論拠がはっきりしていない人ってとても多いではないか!。何もそんなにいつも、定義や論拠を確定させたソシアルサイエンスがちがちの用語法を使えとは云わないが、そうでなければ、やはり『核心として何が云いたいのか?』というのがわかるよう話をもって来るべきだ。




□導入教育の教材として/「知」を知る世界への導入口

たぶん大抵の読書人は「そこまで学問的な整理ができているわけではない」し「知りたいことはずばり本質」だと思う。専門的な鋭い新しい切り口は、論文で読むべきモノだと思う。ましてや新書系は、どういう理念の下に書くかは、編集者が深く考えるべき問題だと、常々僕は思っている。日本の大学、高等教育のレベルの低さは、なによりも



1)教導方法のレベルの低さ



2)多様なジャンルの置ける導入教育教材のレベルの低さ



にあると思っている。



だから、「そういう」ことを考えないと、日本の学問レベルは下がる一方だと思うのだ。また、学問という「おもしろいもの」に耽溺する人が少なくなるというのは、一度しかない人生でもったいないと思う。『知』は、とてもエンターテイメントなのに。教育システムや教育にかかわる人材のレベルが低いせいで、このような面白さを知らない人が世界にたくさん居るのは、残念でならない。最も、明治維新以来、日本は輸入立国として、理系・・・サイエンスとりわけテクニカルなものを学ぶ人材を充実させ、またそういったことを学んだ人々が、得をするような産業構造を作り上げてきたので、それ以外は必要ないという思想なのだろうが。大学機関にあまりにも、知そのものを追求する中立性という、ヨーロッパ神学以来の伝統がないのは、とても悲しいことだ。リベラルアーツがこれほど弱いのも、その流れであろう。


以下書きたい記事(といいつついったい・・・何年たっているのだろう?(苦笑)


■基本概念を押さえる〜「State of nature(自然状態)」から社会契約へ

■国家という怪物への盾としての私的所有


ちなみに、僕のテーマとして追っている「空白の日本近代史」や「統合と分裂の狭間で病めるアメリカを観る」や、それに自意識の問題は、この議論の言葉や大枠の概念が頭に入っていないと、ほとんど通じない話のはずです。できれば、ヨーロッパのこのあたりの社会思想史は、学んでくれながら話ができると、、、最高なんだけどなぁ。