『Shall We ダンス?』 ピーター・チェルソム監督 妻への本当の愛情

Shall We DanceShall We Dance
Richard Gere, Jennifer Lopez, Susan Sarandon, Lisa Ann Walter, Peter Chelsom


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Shall we ダンス?Shall we ダンス?
周防正行

角川ヘラルド映画 2006-10-20
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評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


周防正行監督の大ヒット邦画『Shall We ダンス?』 をピーター・チェルソム監督がリメイクしたものです。リメイクものは見るに値しない作品が多いが、これは見事。邦画の脚本自体が、素晴らしかったせいもあるが、ハリウッドの製作人が、変にゲテモノ的に解釈しないで(米国にとっての日本は相変わらずサムライとゲイシャガール)、ストレートに理解して「良さの本質」を描いているので、とても見やすく、見応えのある作品にまとまっている。見比べる価値もあるし、リメイクということで期待していなかったこともあり、なかなかに感動した。ジーンと泣けちゃいました。同行の妻も泣いていたから、多分デートで見るにも十分な作品でしょう。どこかのインタヴューでで主演のリチャード・ギアが、


「オリジナル版の周防監督の脚本は、完璧であって、リメイクにあたって変えるところはなかった。」


と云っていたが、まさにその通り。演出の要である各キャラクターの動機(モチヴェーション)の解釈は、100%といっていいほど同じであり、そもそものオリジナル作品の脚本構造の完成度の高さが、リメイクされて(役者や状況を入れ替えて)初めて際立って理解できた。いい脚本は、シュチュエーションや役者を問わないのだな、と関心しきり。


しかし、ただ一点だけ、邦画と全く異なる解釈が為されている部分がある。それは、リチャード・ギアスーザン・サランドンの夫婦関係の解釈だ。


これはリチャード・ギアも喧伝しており、結構有名な話だが、実際に映画を見ると日米の夫婦関係の違いを非常に強い形で見せられて、非常に興味深かった。これほど見事にツボが違うのは、たぶん米国における家庭・夫婦観と、ものすごく異なっているということだろう。異文化理解にも重要ポイントかもしれない。


実は、個人的には『この部分の米国解釈』に僕は、落涙。



ネタバレ(まだ見ていない人は読まないほうがいいかもしれません)




まぁ、というほどでもないので書いてしまうと、そもそも日本版も米国版も日常に飽きている主人公(日本はサラリーマンで米国は遺言処理のサラリーマン弁護士)が、その日常つまらなさからくる心の空洞を、草刈民代ジェニファー・ロペス役のダンス教師というマドンナにほのかな恋心を抱くことから始まり、その恋心が『ダンス』という「非日常のここではないどこか」へ主人公と連れ出してしまうことで、埋めるという脚本構造になっている。日本版の主人公役所広司の妻はあくまで影の存在であり、脚本のメインはあくまで「主人公のダンス教師への憧れ」である。いわゆる寅さんシリーズのマドンナのような存在である。そして、包容力のある妻は、そんな男のわがままを影から見守ってあげる、大きな包容力のある存在として描かれている(ように僕には思える)。だから、核家族である家庭を成立させている大きな要因は、夫婦の愛ではなく娘の存在である。


そうすると、男性の「日常の退屈さによる脱出願望(=ダンス教師への恋心)」は、妻との関係よりも明らかに上位に来てしまうのだ。もちろん、道徳的に浮気を肯定するのは変だから、ここで解釈としては妻との関係は、「娘がいること=家庭そのものを維持すること」は、しょせん一時の火遊びよりも「もちろん」大事なんですよ、という言い訳が存在する。つまり、妻というより母の包容力という意味だ。


ところが、米国版で主人公であるリチャード・ギアは、そうした自分の「日常の退屈さによる脱出願望」を、妻と一緒に解決できなかった自分を悔いて贖罪意識を強烈に持っている。これは、米国人が理想とする夫婦という関係が、一種の絶対性を持っていて、あらゆることより上位に来る価値観であるということではないかと、僕は思ってしまう。


えっ?わからないですか?


よく米国とアジアの違いは、横と縦の違い、と文化人類学的に比較されます。


米国人にとって親孝行(=親や子供を大事にする)という価値観よりも、横(なによりも配偶者と友人たち)が優先するのです。


逆に、日本や韓国、中国などアジア人(実は中身は微妙に違うが)は祖先崇拝感覚が強く、妻(他の氏族)との関係よりもそもそも「イエ」の方が優先するので、親への孝行と子供への関係の方が、重要と長年考えられてきた(らしい)。ここに西洋文化による騎士道精神から発達したロマンティックラブが微妙にエッセンスされて、米国においては、「配偶者との関係」というものは、強烈な純粋さを持つ「ものでなければならない」という圧力が存在するのだ。じゃ、なんで離婚が多いの?。とか突っ込まないでくださ(苦笑)。これは、文化の型を云っているのです。それ以外に近代の女性の経済的自立の問題もありますし、なによりもそういった倫理的基準による圧力が大きいせいで逆に結婚が長続きしないという逆説も存在すると思うので。


まぁ難しい話は置いておいて、つまりですね、この話の本質は「日常の退屈さ」に倦む主人公が、はじめは「ダンス教師へ憧れ」にはじまり、その憧れが「ダンス」という非日常へ主人公を連れ出すことにあります。その非日常の中で主人公は癒されるわけですが、リチャードギアのあの後悔溢れた懺悔の演技は、それを世界で一番大事な妻と一緒にできなかった自分を悔いている、のです。彼は自分が許せなかったんです。なんとかっこいい男だ!!!。僕はここで、涙がとまらなかった。(そのとき流れる音楽も、またいい!)それに不器用で言葉では説明しない男性の演技をさせたら、リチャード・ギアは天下一品。『プリティーウーマン』の実業かも、ほんとうは物凄いロマンチストなどだけれど、それを忘れて経営者をしているうちに、自分でも自分が仮面を着けていることを忘れてしまった孤独な男を演じていました。

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たぶん、団塊の世代(いわゆる周防監督や役所広司)までの日本的家族観は、どうしても強烈に家族優先主義の色合いが強く、バブルの80年代を超えたあたりを子供時代・青春時代に原体験を持つアメリカナイズされた世代とはかなり異なるのではないでしょうか。僕は断然、米国の解釈に共感しましたし、日本版も素晴らしかったがあーこれは疲れたオヤジが見る作品だなーとも思いましたもん。あのころは、『失楽園』に代表されるオヤジ世代の終身雇用制が崩れる中での不安感を煽る作品が広範囲に売れた時代でしたので、その臭みも強く感じました。

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そういう意味でこの夫婦の描き方で、実は脚本の本質がいっきに変わってしまうのです。同じ「日常の倦怠感」からの脱出でも日本版は男性側からのみ描かれていて、米国版は、夫婦というものを主体に描かれているのです。これは非常に興味深い日米文化論比較だったと、思いました。