評価:★★★★☆4つ半 しかし傑作
(僕的主観:★★★★4つ)
この作品は有名ですよね。あまりに感想を書こう書こうと思っていたら、日がたって細かい内容を忘れてしまった。『マブラブオルタネイティヴ』の感想は、はし君とかGiGiさんという仮想読者が明確にいてくれて「待っていてくれる」という意識があるから、書くんですよね。実際書くのはめんどうくさい。『リヴィエラを撃て』をつなさんが待ってくださっていたように。この作品は会社の後輩と、山崎豊子や城山三郎作品が好きで、お昼にランチをしながら感想をよく言い合うのですが、そこで満たされてしまっているので、それ以上書こうというパワーが起きにくいのでしょうね。やはり感想を書くということは、コミュニケーションによる承認と、別の切り口の提示を求めているのでしょうね。
リヴィエラを撃て〈上〉 (新潮文庫)
高村 薫
新潮社 1997-06
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ちなみに、細かいことを抜きにして、実はラストに非常な不満と不思議さがある。
この作品は傑作だ。
>商社マンの沖は、社内では「戦列外」とみなされている京都支店長に配属された。社長や相談役の接待が主要な任務であるこの肩書きをまとい、鬱屈した日々を送る。若いころ開発輸入のために汗水たらして開墾したインドネシア・スマトラ島のとうもろこし畑に今も思いをはせ、そのとうもろこしを飼料にした養豚場の建設事業計画はいまだあきらめきれない。
これは、アマゾンのレヴューにあったものの引用
ようは左遷された商社マンの日々を描いた作品なのですが、この沖という人物は、京都支店長クラス。左遷とはいえ、この年齢で、この役職であれば、なかなかのレベルです。この会社・・・・扶桑商事は、たぶん、伊藤忠商事と丸紅がモデルの一流の総合商社(総合商社と呼べるのは既に5つくらいしかないから一流も二流もないですが)という設定なのだと思う。そこで、40代後半で支店長職ならば・・・・まぁ、、、とはいえ地方の支店じゃー明らかな左遷ですけれどもね。とはいえ、商社は、天下り先がそれほど多くないと思うので、将来が安泰かといえば少し怖いところですが、少なくともなんとか生活はそれなりで維持できるでしょう。夢も希望も抱かずにじっとしていれば。
しかし、企業戦士は、その才能と人生のすべてを、ビジネスに捧げている。全体(=会社)の命令に家族を崩壊させながらも人生をささげる。シゴトとはそういうものだ。そのくらいでなければ、いまでも、真の意味での経営幹部の登竜門は開かれない。
ましては、団塊の世代ぐらいまでのジャパニーズ・エコノミックアニマル・ビジネスマンには、軍事力による安全保障がない世界で、唯一の日本人としての誇り、そして食べていくための手段として、「これしかった」のだ。オルタネイティヴ(=代替選択肢)のない世界で、人生をぶち壊しながら、個を捨て、戦ってきたのだ。僕の父たちの世代だ。たぶん僕らの世代は、親が早く帰ってくるなんて見たことない人が多いだろう。僕も見たことがなかった(笑)。いまでも、全世界の訳のわからない所へ飛ばされて帰ってこれないビジネスマンはたくさんいる。意にそわない信じられないビジネスにボロボロになりがら撤退戦に人生をささげる人がいる。この作品は、そうした企業戦士たちの、、、とりわけ日本株式会社の最前線営業マンとして誇りを胸に・・・・・そして人間を明らかに駒扱いする非人道的な(しかしそれはビジネスには絶対に必要)待遇の中で、60〜70年代を駆け抜けたエコノミックアニマルの経済戦士たちの背中を描いている。
僕は、涙というか感慨には、この作品は見れない。それは、ここに描かれる仕事と家庭の挟間の葛藤で揺れるビジネスマンたちの姿が、あまりに自分とダブるからだ。このへんの描写力は、さすが城山三郎さんだ。圧倒的な共感をビジネスマンからているというのは非常によくわかる。時代こそ違うが、今の自分たち置かれている環境と全く変わりはない。描かれているビジネスのいくつかは、僕も経験した類のものだ(笑)。
ただし、、、、今はビジネスの環境はかなり変わった。その本質こそ変わらないもの、日本は、世界のグローバルトップランナーに成り上がり、基盤的ストックを充実させた世界でも富める国になった。資源と軍事力こそないものの、そんなものは、オランダでもモナコでも、北欧でも・・・ほとんどそうだ。資本主義で重要なのは、ストック(=資本蓄積)と、その資本を生み出す基盤であるインフラストラクチャー(物的なものか知的資本かはその国の風土による)だ。それがあれば、手段はいくらでもある。だから、外部環境(=マクロの要因)とスタイルはかなり変わっている。が・・・・商売の本質は、決して変わることはない、と僕は思う。だから、この時代のエートス(=行動様式)は見る価値があると思うのだ。
■セカイ系の批判を超えるには、組織という中間集団を描くこと
えっと、セカイ系の批判というのを考えていて、それって
世界
社会 → ここを中抜き
自分
ってのがセカイ系なんでしょうけど、(って思ってましたけど
http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/64664880.html
本と映画と、時々仕事
こう考えた時に、社会・・・・中間が抜けてしまうということを指します。これは、社会学やヨーロッパの政治哲学ではよく指摘される問題点で、社会とは、中間集団と呼ばれます。ようは、世界・全体・国家を個人にいきなりダイレクトにつなげてしまったのがナチズムや共産主義、スターリニズムの失敗であったのだから、その間に重圧な組織や共同体を作れば、いいのだ!という発想です。これが、たとえば、イギリスでは階級制度の擁護につながります。つまり、優秀な指導層である貴族層が安定していたほうが、大衆・労働者層のように揺れ動いて国家に利用されやすいやつらよりましだ!とい発想です。この辺をよく描いていたのが、高村薫さんの『リヴィエラを撃て』でしたね。なぜ階級社会が要請さえれるのか?ってことです。
まぁ逆に労働者を組織して労働組合を強くしようとか、家族を擁護して核家族を強くしようとか、、、、各国の政治はいろいろな挑戦をしています。ちなみに日本で中間集団と呼ばれるのは、あきらかに企業ですね。企業が、国家に近い承認システムになっている。これは、ようは、世界全体を描くときに全体(=世界)と個(=個人)だけを描くのではなくて、個人が国家に関わるためのツールとしての「組織・共同体」を重視しましょうという政治哲学の常道です。
だから日本社会のリアイティを、個人・家族、国家以外で描くとするあらば、最も有効なのは企業組織の在り方を問うことなのです!。
会社ですね。僕が、山崎豊子さんや城山三郎さんにこだわるのは、そのへんをうまく描いている小説家だからです。しかし、この『毎日が日曜日』は、組織の中で翻弄される個人は描けているのですが、その組織自体をどうすれば意志的にコントロールできるかという点が、消失しています。
理由は簡単です。
考えてて見てください。大組織、、、、商社ならば三井物産、三菱商事とか、官僚ならば通産省でも総務省でも内務省でもいいのですが、そういった巨大組織を『個人』で意思的にコントロールすることなんて・・・・想像の埒外にあるでしょう?。会社組織はそこまで出ないにしても、もともと中央集権大組織の基本は軍隊です。軍隊の識見と指揮命令系統は、絶対です。その末端・・・・・もしくはマネージャークラスには、そんな全体なんてぜんぜん見えません。
この作品は、その中級幹部である担当部長レベルや支店長クラスから上を仰いだ世界を描いています。
組織や企業共同体をテーマにすることは、セカイ系的なことを乗り越えるためには、重要な考え方です。ただし・・・・・マクロ(=全体)に翻弄されて、全体の奴隷になり下がるしか…そのあきらめしかないというのは、意味のない結論です。この小説の最大の欠点は、けっきょく、沖が、マクロの、会社という全体をコントロールする視点まで到達できないで、しょせん、サラリーマンは駒でしかないというところで尻切れトンボで終わってしまったところです。
僕らは、その先が見たいんです!!。
②に続く(たぶん)
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