『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』日本映画の家族の解体と再生、日本文学の私小説、そして欧米50-60年代ハードSFの正統な後継者として(2)

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』庵野秀明監督 1995年から2021年の27年間をかけて描かれた日本的私小説からSFと神話までを包含する世界最高レベルの物語(1) - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


その(2)です。4万6千字ぐらいあります。馬鹿すぎます。なんで、おれこんなにがんばっているか?それは、、、、自己満足です。満足したいんだよ、アウトプットして。さて、その(1)ですでに、ペトロニウスは、全面賛成派というか、この結末で素晴らしかったと思っていることがわかるはずです。僕は、僕が見たかったすべてを見せてくれたと思っています。

エヴァンゲリオンシリーズ全体を通しての全体像を理解するための三層構造での理解

エヴァは難解な作品です。というのは、ガジェッド、ジャーゴンというかそのディティールが豊饒なため、「そこ」に目が行ってしまって、全体で何が言いたいかのイシューを外してしまいやすい。なので、僕は理解するためには、3つの次元でのそれぞれ結論を考えると、すっきりすると思いました。ペトロニウスエヴァ理解ですね。今回すべてを見直して、解説動画見まくってて、自分なりの理解の補助線を作りました。

1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として~人類を超える存在を感じるセンスオブワンダー

2)庵野秀明私小説:日本映画の正統な後継者として~内面のセカイが世界につながっており、イマジナリー(虚構)のセカイの出来事は心と世界(現実)を変える。

3)物語の次元でキャラクターたちの結末~他者を他者として実感すると、すべての存在に実存が生まれていく


この3つで、それぞれ考えればいいと思っています。


1)は、ハードSF、ここでは『星を継ぐ者』『人類補完機構』『結晶世界』『月は無慈悲な女王』『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』とかとかのSFのイメージです。諸星大二郎さんの『生物都市』とかね。

ちなみに、なんでもいい(笑)。要は、人類補完計画とは何か?とだけ考えればいい。もう少し付け足すと、ハードSFから神話につながっているイメージで、あノアの箱舟や「人類の起源は何か?」という部分につながる神話的な視点ですね。

2)は、小津安二郎監督の『東京物語』から是枝裕和監督の『海街diary』や『そして父になる』の家族の解体と、疑似・自覚的家族を通しての家族の再生のテーマとの連関

一言でいうと、シンジ(庵野秀明)が、動機が壊れてしまったのはなぜですか?(=家族が壊れていたから)、とその再生にはどうすればいいですか?(家族の再生を通しての実存の回復)

3)は、既にその1で書きましたね。出てきたキャラクターのその後が見たかった。これは普通の物語欲だと思います。

アニメーションとして、物語として、ハッピーエンドにしてほしいよ、どう考えても、これだけキャラクターに感情移入させられたら(笑)。1)と特に2)を描くたために現代アート的に、徹底的に視聴者の実存を攻撃したり、物語を破壊したりしているけれども、それだけ破壊してバラバラになったものをどう回復するかが物語のエンドでありテーマになるべきは、やはり物語ることはじめた人には、課せられる使命だと思う。


この3つの次元でどのように決着をつけたのかで、考えてみたいと思います。初見の感情的感想は、その(1)で書いたので、こちらはもう少し分析批評的に。


1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として~人類を超える存在を感じるセンスオブワンダー


■面白いものはすべてこめた原点に戻ってみよう~『トップをねらえ!』と『ふしぎの海のナディア』を見直したとき

今回すべてのエヴァシリーズを見直して思ったのは、庵野さんが面白いというものはすべて込められているんだ、と思ったことでした。僕が最も連想したのは、『トップをねらえ!』と『ふしぎの海のナディア』でした。『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』は、SF作品として、これほど素晴らしいものはないと思っています。SFのセンスオブワンダーというのは、僕にとってハインラインジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』(Inherit the Stars)、『ガニメデの優しい巨人』、『巨人たちの星』、『内なる宇宙』などなどの作品です。端的に、何をSFのセンスオブワンダーというかでいえば、やはり大きな柱は、


人類がどこから来たのか?そしてどこへ向かうのか?


について、物語っている作品です。聖書の旧約聖書(ノアの箱舟)ですね。もしくは、ミッシングリングについて、ものを考えるときです。もっと具体的に言うと、SFのテーマでは、人類よりもより高度な高次元の存在が、この広い宇宙のどこかにいると考える物語群です。ハードSFのテーマ群の中では、神話に足を踏み入れている部分ですね。いまだ神話といっていいのか、ハードSFといっていいのか、悩みどころですが、今はグラデーションという理解でいいのではないかと思っています。ここ部分が、庵野監督が面白と思っているところなんだなと思うのです。だって毎回テーマになるんだもん。


ナディアのノアの箱舟のシーンは、今でも胸に強く印象づけられています。とはいえ、ある意味、当時のガイナックスの軽いノリと80年代のサブカルチャー的には、何ら奥深さのないただの記号としてのムー大陸とかアトランティスの記号だったんだろうと思うんですよ。でも、ちゃんとした尺のある物語で、アニメーションで、言い換えれば映像で、「人類の起源」について見るのは初めてでした。1990-91年の放送でしたよね。多分、高校1年生ぐらいだったと思います。あの時の衝撃は、今でも忘れられないです。ノアの箱舟とかの神話のイメージと、ハードSFのイメージ(当時は全然つながりあるという認識なかったところで)が、いきなりビジュアルと物語でガツンと接続させられて、うぉぉぉぉぉぉと思ったのを覚えています。これが忘れられなくて、これらの作品は、教養として子供たちにも、小さいころから見せています。


そして、『トップをねらえ!』(1988-89)は、小学6年生ぐらいだったと思います。最初は、ノリコのおっぱいがあまりに柔らかそうに揺れるのに目が釘づけでした。あの衝撃は、今でも忘れられない。観始めたときは、ただのパロディギャグナンセンスアニメだとばっかり思っていました。ここで初めて、ウラシマ効果エーテル宇宙などのSFの概念を知りましたし、なによりも人類の「凄さ」を感じたのは、この映像を通してでした。いや、いいすぎじゃない。というのは人類の持つ建設建造能力の凄さってのを、そのスケールを、こんなにも身近に感じるものはいまだありません。最終回のブラックホール爆弾のスケール、そこに至るまでの軌道ロープウェイ。オーストラリア大陸を眺める起動エレベータの俯瞰ショット。あの時の衝撃は、今でも夢に見るほどです。僕は工場とか大きな橋とか、人類が作った建築物を見るのが好きなのですが、それは、この時のSFのセンスオブワンダー・・・・人類が神に挑戦する技として、科学技術がもたらす凄さを実感したからでした。木星を使ってブラックホール爆弾を作るとか、まじかよ!の連続でした。30年近くたって、息子とみても、二人でまじかよ!の連続です。子供たちと、ナディア見ても、もしかしたら人類は、もっと高次元の人類がいて、それらが創ったサルに過ぎないのではないか?とか、思って、興奮してみていました。これだよ、これ!このセンスオブワンダー!。宮崎駿の『未来少年コナン』にもこれらがあふれていました。ああ、日本人の僕らはなんて幸せなんでしょう。こんなイメージの凄さを、子供時代からエンターテイメントで心に植え付けることができるなんて!。


「これら!」が見たいんですよ、いつでも。


そして、これらのムー大陸とかアトランティスの謎とかノアの箱舟とかが、人類の大ベストセラーであり何千年も残る「物語類型」なわけじゃないですか。これをSF的な、近代的な視点で武装して見たいんですよ!。そして『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』は、それを余すところなく見せてくれる作品でした。ここで、僕は庵野秀明という名前を覚えたんです。凄い人がいる、と。だって、こんなヴィジュアルイメージ、ハリウッドのすげぇ大作でも見たことなかったですよ。アニメーションだからこそ作れる「心の中にある映像」をそのまま再現することができるからこそだろうと思います。このころのカットの美しさ、映像の凄みは、スーパー天才アニメーター庵野秀明が、自分の能力をフルに注ぎ込んでいるだけに、凄かったです。(その後エヴァの新劇場版はある意味、組織を使うというレベルに移行したため、映像のキレという意味では、少し落ち着いた気がします。その代わりに実存性が増すんですけどね)。


そして、そのどちらの「終わり方」が、僕には見事だと思っていました。


SF作品というのは、特にハードになればなるほど、設定自体が語りたくて、「物語の次元=キャラクターの物語、人生、ドラマが全うされる」のが消化不良になるものが多いんです。たとえば、世紀の傑作である『幼年期の終わり』。これは、旧人類を滅ぼして、新人類の時代になる話です。ここで語りたいのは、「人類が、万物の霊長の座から降りるというマクロの絶滅の物語」であって、ジャン・ロドリックスはどうなるの?とか、オーバーロードって結局どんな人なの?とか、『星を継ぐもの』のヴィクター・ハント博士の内面の話とかにはならないじゃないですか。キャラクターたちの人生のドラマの話じゃないからなんですよね。でも「この背景」を使って、庵野監督は、タカヤ・ノリコとお姉さまの、ナディア・ラ・アルウォールの、ジャン・ロック・ラルティーグの、ネモ船長やエレクトラさんの物語をものがってくれるじゃないですか。素晴らしかったです。


オカエリナサイ



コリーナさんが流れ星に向かって「早くサンソンやみんなが帰ってきて、これからはもうこんな思いはしないですむように」お願いして、、、、そして、その後が、マリーによって語られるじゃないですか。



あの、圧倒的な「物語が終わった!」感覚。



終わった後、数日は、魂が抜け殻になるような、「一つの大きな人生」を体験した感覚。物語が終わってしまったという圧倒的な喪失感。



あれが、キャラクターのドラマが全うされているという感じです。シンエヴァでも、これと同じ感覚が訪れました。庵野監督が、描きたいものは、ずっと変わっていないんだと物凄くうれしくなりました。そうだよ、こういうのが見たかったんだ、と。小難しい分析なんかどうでもいいんです。この膨大なキャラクターたちの圧倒的な実存感覚と、世界が描かれる感じ。この世界が描かれている感じ・・・・は、実は、私小説の内面世界とは、まったく相反します。この相反するものが接続している物語を描けているところが、素晴らしいのです。


人類補完計画とは何か?~旧人類を抹殺して新人類へ進化するプロセスの人類の終末と再生を描く

欧米の古典SFや旧約聖書ノアの方舟の話に戻るのですが、庵野さんの描きたかったのは、この「世界の終末と再生」なんじゃないかと思うんですよね。なぜかって、過去に何度も描いているし、そもそももっとも面白いテーマだと思うんですよ。絶対、庵野さんの本質は、私小説よりこっちだと僕は思うんですよ。とにかくイギリスのSF作家、アーサー・C・クラーク幼年期の終り(Childhood's End)』とかJ・G・バラードの『結晶世界(The Crystal World)』(1966年) をぜひとも読んでほしいのですが、あの感じです。えっと、最近だと、アレックス・ガーランド監督の『アナイアレイション 全滅領域』とか遠藤浩輝さん『EDEN 〜It's an Endless World!〜』とか村田和也監督の『翠星のガルガンティア』とかもこのラインです。ちなみに、背景のテーマが分からないと、バラードとかガーランド監督の話とか、さっぱりわかりません(笑)。いきなり人間が、石になります、、、石になる過程を描写されるだけだったりするわけなので(笑)。これは、諸星大二郎さんの『生物都市』もそうですが、旧人類が絶滅して別のものに変質していくその喪失感がテーマであり、人間がヒューマニズムにあるような万物の霊長ではないのではないか?という懐疑がその背後にある大きなテーマなんだと思うんです。大学受験の現代文とかで、よく出てくる話題ですよ、ヒューマニズム批判とか近代理性批判ってやつです。それを、物語にすると、こういう感じだとおもうんですよね。人類は万物の霊長とか言っておごっているけど、ミッシングリンクとかその起源は、いまいちまだわからんのですよ。もしかしたら、人間を「創った」より上位の存在がいてもおかしくはないのではないか・・・・?、みたいな感じ。この物語類型を前提として、人類を「別の存在に作り変えてしまおう」というゼーレの意志は、人類の究極の夢の一つで、もし、人間が他の存在に作られたモルモットや猿のような存在かもしれないという「人間存在に対する恐怖と疑念」が前提にないと、なんで、こんなことをしようとするかが、さっぱりわかりません(笑)。EoE(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君にThe End of Evangelion)においては、ゼーレは、ガチのカルト集団になってしまいますが、ゼーレという組織が持っている意思は、なんというかSF的には、とてもなじみ深い発想なんですけどね。ここにこれ以上の理由はありません(笑)。


そして、ゼーレのじいさんどもは、もう人類を「より高次元に進化させる」ということに決断を下して実行してしまっているんですよね。


まず、この前提が、ほとんど説明されることもなく大前提として、進んでいるのがエヴァンゲリオンのセカイなんだ!とわかっていないと、????っなってしまいます。まずこれ大事。「そういうものだ!」と思って考えないといけない(笑)。このラインの読みでいうと、実は、エヴァンゲリオンのシリーズは、旧劇場版で完結しています。あれは人類が次の存在になり切れていない失敗だったかもしれませんが、50-60年代SFの黄金期の持っていた人類の文物の霊長ではないんじゃないかという疑念と懐疑を描く物語類型としては、完璧だと思うんです。しかも、次の存在になり切れずに、シンジがアスカに「気持ち悪い」といわれるとか、最高のセンスオブワンダー。「他者が心にいない地獄」というものを、具体的なヴィジュアルとキャラクターの物語で、恐ろしく感情移入させてくれました。巨大な綾波の首がちぎれて、その血が月にびしゃってかかるシーンとか、もう凄すぎます。今見ても、物凄い。天才アニメーター庵野秀明の「見ている世界」を、そのまま再現できるアニメという媒体だからこそ行きつける極地。


いま、シンエヴァにおける「キャラクターたちの物語の終わり」を見て満足して納得している自分からすると、この当時の旧劇場版の、完成度の高さ、素晴らしさが分かります。


キャラクターたちのドラマトゥルギーを期待してみていたから、物凄い攻撃に感じてしまったのだけれども、上記の類型のラインで考えると、完璧です。よく諸星大二郎の『生物都市』が出るんですが、このテーマを鑑みれば、人間が、人類が、異なる存在へメタモルフェーゼというか変異していく怖さが描けたら、それに尽きるんですよ。巨大な綾波や、様々な意匠は、この物語を見事に完成させていると思います。また、人間の内面に入っていき、自己愛の汚らしさをこれでもかとえぐり、というのも見事です。


もう『結晶世界』が、まんまなんですが、これらのSFの脚本構造を分解すると、


A)マクロ:人類が滅びていく寂寥感



B)ミクロ:登場人物(主人公)の内面が壊れていく


この二つが重なることによって、成り立っています。このシンクロがうまくいくと、破壊的な物語のドラマトゥルギーになります。このラインで考えると、旧劇場版の


A)旧人類が絶滅していく=インパクトの失敗で新人類になり切れない失敗(巨大な綾波とか)

B)シンジが自分のナルシシズムから抜け出せないで孤独で壊れていく(シンジの鬱の迷走)


という脚本の構造は完璧です。アスカで自慰をして最低だと呟くシーンとか、もういたたまれなさと、シンジの立ち直れなさ、動機が壊れてしまって、どこにも行けなくなっている閉塞感が最高でした。が、それは同時に、多感なティーンエイジャーだった我々リアルタイム世代には、直撃する恐怖は、それはそれは凄いものでした。これが、1980年代のバブル期のユーフォリア (Euforia)な感覚にとどめを刺すような、凄まじいインパクトをもたらしましたね。いまでも、テレビシリーズの終わりの「おめでとう」や旧劇場版の「気持ち悪い」は、胸に残って、人格形成上忘れられないオリジナルな原体験の記憶として胸に刺さっています。この世代の巨大な原体験として、日本の歴史に残るものでしょう。このミクロのシンクロ、感情移入と、旧人類が滅びるという黄昏のマクロ背景が重なったからこその、傑作の物語でした。


だからエヴァンゲリオンシリーズの大枠の脚本構造は、テレビシリーズで完成しています。あれで、すべてなんですよ。前に書きましたが、全体の構成上、ヤシマ作戦と男の戦いの二度のピーク(盛り上がり)が来て、その極大の盛り上がの感極まった頂点から25-26話の精神崩壊ですべてが叩き落されるウルトラ鬱展開。旧劇場版は、この25-26話のリライトになるので、これがさらに厳しくなっている。だから新劇場版で作り直されるときに、どういう構造をとるかと言ったら、同じなんです。なので、Qで叩き落されなければならない。問題は、「その次」、ここからどう抜け出すか?になるわけです。なので、序、破、Q、シンの4つに分解されるのは、今振り返ると、非常に論理的です。横道にそれますが、このSFのテーマ設定は、非常に普遍的だと思うのです。特に、マクロ(人類の滅亡)とミクロ(=キャラクターが人類の代表として祭壇で問いに答える)という構造は、2020年に最終回を迎えたばかりのアメリカのドラマシリーズ『ハンドレット』でも、まったく同じ構成でした。これは陳腐といいたいのではなく、考え抜くと「普遍」に到達するのだと思うのです。

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■創造と破壊が同時に繋がってる感覚はSFの重要なモチーフにして神話に至る究極の物語構造

SFのスキームを超えて、神話の構造になっていますが、廃墟(終末後の世界)を描くことと日常の再生を同列、並列に描くことで見せるマクロのレベルの映像は本当に美しい。えっと、何を言っているかというと、僕の感覚ではですね、ヴンダーってノアの箱舟なんですよね。ちなみに正式名称は、「AAAヴンダー」であり、AAAは“Autonomous Assault Ark”(自律攻撃型方舟)の略ですね。まんまです。えっとえっと、僕がSFのセンスオブワンダーを感じるものは、最終決戦のBからCパートの部分、ヴンダーが地球に降下するときに、「種を保存したエントリープラグ型の傘?のようなもの」を射出しますよね。僕は、タンポポのシーンと呼んでいます。あのシーンが、目がクラッくらして、もう眩暈するほど感動したんですよね。「戦うだけじゃないんだ!!!」って。シンジの意志によってエヴァがない世界に作り変えた、というのは、僕は宇部新川駅だとは思っていません。僕は「ニアサードインパクトで滅びかかっている人類世界」という今のセカイは続くのではないかと思うんですよね。これは後で詳しく話します。なぜならば、ヴィレ、クレディツトや第三村の組織のあり方、また人類の種を保存し、再繁茂させるプロジェクトといい、人類復興の手が、見事に打たれている。このセカイは、もう一度発展して新たなる世界になっていくことを、僕はまざまざと感じるんです。


これはもう、神話ですよね。人類の滅びと再生の。


人類が復興した数百年、数千年後には、この出来事は、聖書のような神話、宗教として語り継がれていくに違いありません。僕は旧約聖書ノアの箱舟などの、共同体が滅びて再生するというテーマは、「人類がどこから来て、どこへ向かうのか?」という人が最も知りたい世界、宇宙観にこたえてくれるセンスオブワンダーだと思います。これをヴィジュアルで見せてくれるときに、その(1)で話した、日常と非日常の入れ替えを人は感じるようになり、それがすなわち、


この世界の実相への敏感さ。


になると思っています。まぁ宗教学でいう聖書におけるハルマゲドンの機能の解釈です。SFや神話の重要な効果で、この「感覚」が感じられるかどうかが、世紀の傑作と呼べる作品かどうかの分水嶺になると思うのです。そして、みなさんは、この壮大なヴィジュアルを見て、それを感じられましたか?。僕は、ドッカンドッカン感じましたよ。トップをねらえでの軌道エレベータ、軌道ロープウェイで宇宙に出るとき、最終話の白黒のシーン(岡本喜八監督の沖縄決戦ですね!)、ナディアの種の保存の宇宙船、クジラとの邂逅のシーン、思い出しただけで、初めて見たときのセンスオブワンダーの胸の高鳴りが止まりません。


庵野秀明監督が「面白いものはすべてぶち込んだ」みたいな趣旨の話をしているのですが、この人のSFマインドが、ほんとすげぇ!!!!!!と思うのは、このエヴァという作品が、


庵野秀明私小説という内面を追い続ける閉じた世界(ミクロ)

壮大なハードSFと神話体系をも縦断する人類スケールのでかさ(マクロ)


が、同時にあるんだよっ!!!!ってところなんですよ。これが、相互にリンクしていったり来たりしている。そして、それが、何がすごいかっいうと、アニメーションという「ヴィジュアルで見せてもらえる」というのと、文学作品にありがちな抽象的なものに飛躍しないでアニメーション映画というキャラクターの次元で語られ続けていくことです。もう、凄いよ、としか言いようがありません。


■KREDIT(クレデイット)独立運営承認とは、すなわち各国主権の独立宣言~ネルフを倒すだけじゃない。ちゃんと人類再生の手は別に打たれている

それと、人類が社会を構成するための「組織間の連携」が、かっこいい!と、その(1)で書いたんですが、Bパートのヴンダーが出航するするシーンで、KREDIT(クレデイット)という支援組織がりますよね。ミサトがヴィレの最高指揮官として、ヴィレの指揮コントロール下にあったそれらの組織の指揮権を放棄する?みたいな書類にサインをしていますよね。


これも胸が熱くなった。というのは、これ、ヴィレという攻撃を主体とする軍事組織によって、すべての民生が、軍政下にコントロールされていたことを示しています。要は軍事政権なんですね。ヴィレって。でも、ちゃんと攻撃主体の軍事組織と「民生部門」を切り離して、独自の指揮権を与える格好になっています。たぶん、生き残っているコロニー群は、世界中にいくつもあるのでしょうが、当然のことながら、それぞれの国籍や政権は違うのだろうと思います。たとえば、日本の第三村と、中国の生き残りの村と、アメリカの村は、どういう権力構造になっているのでしょうか?。たぶん、対NERVの最高軍事組織であるAAAヴンダーは、実力組織なので、すべての権力を握っていることでしょう。対NERV、人類補完計画の切り札、実行部隊として、数々の強制的なロジスティクス徴収を行ってきたのではないかと思います。そうでないと、あんな組織を保てないと思うんですよ。ようは、日本人の葛城ミサト大佐という実行部隊の長に軍事力がすべて握られているわけです。これを中国やアメリカが黙っていると思います?。もちろん、そんなこと言っている場合ではないと言って、軍事政権で掌握しているのでしょうが、そこには、もともと国際連合の反NERV組織が母体ですから、憲法国連憲章が生きているのではないかと思ったんです。各国、各共同体の主権を、尊重して、最終出撃時は、すべての指揮権を放棄するというような。


また、こうなると、なぜKREDIT(クレデイット)が、ヴィレと別組織になっているかもわかります。民生部門なんですが、『未来少年コナン』のハイハーバーをもとに考えれば人類が再発展するための最重要課題は、交易です。この汚染された台地間、長大な距離を、移動できるだけの科学技術や乗り物は、容易に軍事転嫁できますし、それを支配したものが、次の人類の王です。この「万人の万人に対する闘争=北斗の拳状態」を避けるために、交易を担う、、、、、それだけではなく、環境の浄化を担う「国際的公共を担う民生部門」を、独立した組織にしているのだろうと思います。これが、未来の人類唯一の軍事組織、警察組織、科学インフラの担い手になって各国は、復興に専念するんだろうと思うんです。・・・・みたいなことが、透けて見えたので、興奮しました(笑)。このミサトさんのサインは、人類復興のための憲法国連憲章みたいなものだと思うんですよね。確実に、そのベースは、旧国連からひきつでいるのではないかと思います。その名称が、「クレディツト=信頼」とされているところが、熱い。エモい。軍事力やインフラなどの公共のコモンズが抽出できないのは、フリーライダーを生むからです。それを避けるには、、、信頼しかないんですよ。僕はこの組織を、機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズで描かれたセブンスターズが創設した治安維持組織ギャラルホルンを連想しています。もしくは『沈黙の艦隊』の超国家軍隊ですね。この話も、かなり細かくしたので、知りたい人は、下記の配信をどうぞ。

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僕がこのセカイも、並行世界として続くのではないか?と思うのは、「最終回タイトルは古典SFから引用」で、ジェイムズ・P・ホーガンの『未来からのホットライン(THRICE UPON A TIME)』が使用されていて、パラレルワールドではない世界を、過去や未来に起きたことを否定しない方法で物語を描こうとした作品だからです。


■人類の進化による旧人類の切り捨てという50年代SF大家たちの後継者として~どこまでも日本的でありながら、世界へつながる壮大なマクロとミクロの物語

思いついた端からあまり構成考えないで書いているので、わかりにくいですが、(1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として、でいいたいことのまとめです。

庵野秀明さんという人のこのタイトルの選び方や、様々な作品の作り方から、オタクとしては古い世代(僕は第一世代と呼んでいますが…)で、時系列のアーカイブ意識がある人だと思っています。えっとこれは、小室哲哉さんがミスチル桜井和寿さんを評していったいて何かの記事で読んでなるほどと思ったのですが、小室哲哉さん(第一世代)がミスチル桜井和寿さん(第二世代以降?)で大きな「音楽の創造の仕方」が違っていて、第一世代の自分は、音楽自身の歴史意識を時系列で持っていると分析していて、桜井さんの音楽を見ると、そうした古い世代が持っていた「音楽がどのような仕方で発展してきたのかの歴史の時系列の順番が記憶にない」ので、「アーカイブとしてひとまとまりで認識していて、時系列意識がなく、その時々にフィーリングでよいものを組み合わせる(=歴史や時系列の意識がない)」といっていました。えっとどういうことかというと、音楽を創造するときに、小室哲哉さんは、「音楽がどうやって発展してきたかの歴史的知識の蓄積の記憶がある」ので、たとえば(僕の勝手な意訳です)、クラシックの非常に硬い仕組みから、それに反抗してジャズのインプロビゼーション(楽譜にとらわれない演奏方法)ができたとか(てきとう)、もしくは、白人音楽がアメリカに来て、黒人音楽とぶつかることで、カントリー、ジャズ、ブルース、ヒップホップなどに展開してきたその歴史的な「文脈の意味」を知っている。もっというと、たとえば、音楽がもっと多様な音源を探して民族音楽に音源を求めていったりなどの、「時系列の発展」からインスピレーションを得て創作をする。要は、過去の「順番の記憶」という文脈を踏まえて、想像するんですね。音楽を聴くときにも、「この時系列の文脈」を前提に解釈をする。しかし、既にそういった膨大な音楽のアーカイブの蓄積を「前提として生まれている新世代」は、アーカイブの中から、意味や歴史などの文脈を無視して、最適な組み合わせなどを創造しようとする、というようなことです。


アニメーション作家でいうと、宮崎駿さんが、まごうことなき第一世代という認識です。高畑勲さんとかもまさに。彼らの歩みは、そのままアニメの歴史的展開の本筋を追えます。オリジナル至上主義的なものです。が、それ以降の世代になると、そうした歴史文脈は無視して、様々な記号を文脈無視して感性で組み合わせるようになります。ガイナックスのころの作品を思い越していただければいいのですが、要はパロディが主軸になっていくことになります。それはオリジナルの文脈が枯渇することと、あまりに蓄積されたデータが多すぎるので、「それをまとめ切る努力を放棄して断片の組み合わせになる」という時代的な傾向をさしてのものでした。ややこしいこと言っていますが、なんとなくわかりますよね?。昔の作家には、オリジナル性があったけど、最近の作家は「どこかで見たことある記号を組み合わせてばかりいる」ような言説です。が、庵野秀明という人は、不思議な人で、、、というか、これが2020年代に行きついたクリエイターの到達点なのかもしれないのですが、歴史的文脈の時系列の意味をよく知り抜いており、にもかかわらず、パロディ的に様々な「過去の作品の記号を組み合わせる」という創作をする、要は、古い世代の特質と新しい世代の特質を、極限まで推し進めている人なんです。シンのシリーズのシンゴジラやシンウルトラマンとかを考えればよくわかると思います。


それはパロディあであり過去のオリジナルの利用


であるにもかかわらず、


換骨奪胎、温故知新して、「その本質のオリジナル性」を新しく叩き直すのです



その意味で、僕は、SFの黄金時代だったアシモフハインライン、ホーガンらの正統な後継者に思えるのです。だって、「彼らが思い描いていたヴィジョンを今の僕たちの分かる記号と文脈で再現しつくして、その先を見せてくれているわけ」じゃないですか!!!。僕らは幸せですよ、こんな凄いものを見れて。しかも、この世界に通じる巨大なテーマに、僕らは日本的私小説の視点という極めてローカルかつ、「僕らが感情移入しやすい」文脈で、これを体験できるんです。なぜって、庵野秀明さんが、日本語で考える日本のクリエイターだからです。こんな、幸せでラッキーなことはないと思います。こんな幸せはないぜ!!!!、日本に生まれてよかった!。ちなみに、ここで重要なのは、パロディなど記号を使用する流用は、表面だけで「本質の文脈」が失われるのが当たり前だと思われていたことです。80-90年代ずっと、そう僕は思っていました。記号で戯れる感じ、わかる人には一発でわかると思います。中身がないもの。記号の戯れは、ポストモダンニューアカデミズム(笑)とか、80年代のボードリヤール『消費社会の神話と構造』の言説などを思い出せば、覚えている人はよく覚えていると思います。でも、そうじゃなかったんですよね。あれは、バブル期の一時のあだ花。ちゃんと骨太の物語が戻ってきて、なおかつ、過去のオリジナルの記号がアーカイブ、遺産、土台として豊かさを増すという、素晴らしい時代に僕らは生きています。『シンゴジラ』を見れば、わかりますよね。できるんですよ、ああいうものが。




2)庵野秀明私小説:日本映画の正統な後継者として~内面のセカイが世界につながっており、イマジナリー(虚構)のセカイの出来事は心と世界(現実)を変える。


そして、もう一つのレイヤーである私小説として読みを考えてみましょう。


■ゲンドウ(父)とシンジ(息子)の対比構造から、父もまた「別の他者」であることに気づき

さて、本題のDパート。物語的には、SFのテーマである人類補完計画旧人類を抹殺して新人類を作ることは、既にほぼ終わっています。なので、ゼーレとしては、もうことは終わった感(笑)が強いのだと思います。だとすると、ゲンドウがいったい何をしたかったのか?、するのか?が、言い換えれば、私小説的な部分での問題解決が、最後の最後のカギになります。このあたりの考察(=言動が具体的に何をしたかったか)は、まだ自分的には、分解がうまくできていないのですが、ドラマトゥルギーの本質は、ただ一つで、それは明らかな納得が僕にはあります。


あの有名な電車のシーン。25-26話のシンジの内面を描写し、彼の動機が心が壊れていることを見せつけるシーン。


ああ、まさか、それがそのままゲンドウで行われるとは。もう内容なんて、どうでもいいんですよ(笑)。これがシンジの孤独との対比になっているだけで、すべてはオーケーなんです。いいかえれば、「人は孤独を抱えて生きていて分かり合えない」という命題を、シンジ(息子)も、ゲンドウ(父親)も、、、、いいかえれば、自分だけではなく、自分の親であっても同じなんだと喝破していることになるからです。これが具体的に見えることがすなわち


「父親もまた別の人間であり対等な存在なのだ」


ということを、実感することになるからです。なので、何をいっているとかとかそんなことどうでもいいんですよ。シンジという主体が「親も別の主体」だということは、それを「それを眺める視点」がある時点で、完成だからです。ここでは、ゲンドウの孤独が語られます。そして、ゲンドウが、唯一救いだったのが、ユイという自分の愛する女性だったことが語られます。まぁぶっちゃけ、僕的には内容はどうでもよかった。ここで、父親もまた自分と同じように、不遇感、孤独感を感じている「別の人間なんだ」ということが、わかればそれでいいからです。そして、「それ」は、すでにゲンドウの「内面」を主語に語るという時点で、達成されちゃうんです。ユイさんやべぇよ、という話は下で別に解説。この辺は「見ればわかる」レベルなんで、解釈というよりは、事実ですよね。


■『式日』で母を問い、シンエヴァンゲリオンで父を問う~誰が悪かったのかという不毛な問い

さて、私小説という言葉にどういう意味を持たせて語っているのかといえば、それはアダルトチルドレンのことを指しています。それがを何かといえば、哲学でいえば、唯我論に閉じ込められた状態。竹田青嗣さんの『「自分」を生きるための思想入門――人生は欲望ゲームの舞台である』だったと思うのですが、村上春樹の『ノルウェイの森』の評を思い出します。

”「ノルウェイの森」のひそかに埋めこまれたひとつの疑問とは、おそらくつぎのようなものだ。現在、わたしたちが非日常的な超越項によって現実を超えようとする情熱に固執すれば、「世界」はプラトニックな幻想空間へと変容し、いわば出口のない迷宮としてわたしたちに現れる。しかし一方で、「世界のなりたち」から目をそらして自分の現実だけを生きようとする」ならば、埋め尽くすことのな出来ない「深い井戸」のような喪失観を内部に抱え込むことになる。・・・(中略)・・・おそらくこのアポリアは、現代人における社会と個人との倫理的な関係意識の核心的な問題点をよく象徴している。そして、この難問を生きようとする作家のモチーフが「ノルウェイの森」に独特の内閉観を与えており、また同時に、この内閉観に時代的なリアリティを与えているのである」

これは、ネットで今適当に検索して出てきたやつなので(笑)、ぜひとも竹田さんの文章を読んでほしいのですが、ノルウェイの森の主人公が「どこでもない場所にいる」と感じるシーンの分析をよく表していると思います。けれども、僕は村上春樹に特異なというよりは、これは日本の私小説一般に内在している論理なのではないか、と考えています。ちなみに、上の文章は、超、、、なんというか衒学的、高踏的な部分を抜き出していてかっこいいのですが、竹田さんの上記の本は、もっとわかりやすかったです(笑)。これを細かく分解して解説してもいいのですが、ようはね、、、、どうも「よくわからない」、深い深い喪失感、孤独感に「閉じ込められている」と感じる感性があるという話をしています。それで十分だと思います。要は、個人はさびしさを抱えて生きるのがデフォルトなんだってこと。この寂しさは、共同体が壊れて、むき出しの個人が都市で生きるので感じるものですね。いいかえれば、家族(=共同体)が崩壊して、個人になった時、人は孤独とどう向き合えばいいのかってこと。


でもこれは、どこからくるの?。なんで、そんなに人は孤独なの?。


という問いは、夏目漱石個人主義からはじまって、日本の文学で連綿と問われるのですが、「その孤独を直視する」と、どうも「迷宮に閉じ込められる」ような感覚に人は陥るみたいなんですね。この、「わけのわからない閉じ込められた感覚」を言うのは私小説の特徴ですが、それを具象化すると村上春樹の『羊をめぐる冒険』とか、田山花袋の『蒲団』とか安部公房の『箱男』みたいな感じになります。特に『箱男』とか読んでみてくださいよ!、まじで意味不明ですから。でも、これが「孤独に閉じ込められた心象風景の内部世界」を描写しているんだと位置づけると、物凄くすっきり理解できます。「そこ」に逃げ込みたいのだけれども、本当は出ていきたいという動機が隠れているという二律背反の前提も含めて解釈すると、物凄くすっきりします。これは、僕の愛する評論家中島梓栗本薫)さんの受け売りなので、気になる人は、彼女の評論家デヴュー策にして傑作の『文学の輪郭』をお勧めします。めちゃくちゃ具体的に細かく説明してあるので。知的スリラーなスリリングな評論ですよ!。


話がずれました。この感覚を、僕はアダルトチルドレンとか「ナルシシズムの檻」と呼んでいます。「出口に抜け出ることができない、閉じ込められた孤独な感覚」。


この感覚に対して、日本文学は様々なアプローチをしてきましたが、僕は、日本の映画やアニメーションは、この問いに対して、一貫して「家族の解体」というテーマからアプローチしてきたとみています。この話も長くなりすぎるので細かく解説しすぎませんが、なぜならば、ほとんどすべてのアダルトチルレンの不遇感の最終的な「ではなぜ、そんな自分になったのか?」という原因の追及は、


親が悪い!=家族が壊れている


という帰結に到達するからです。もちろん、これは、疑うべくもない、シンプルな真実であって、そりゃそうだとしかなりません(苦笑)。自分が自分であることを形作るのは、子供時代の関係性だからです。なので、小津安二郎監督の『東京物語』からはじまって、僕は、よく山本直樹さんの『ありがとう』や幾原邦彦監督『輪るピングドラム』をあげますが、家族が壊れているがゆえに、自分が傷ついて、ボロボロになって、アダルトチルドレンになったという話になるわけです。いろいろな物語のパターンはありますが、ここで言いたいことを抽象的に言えば、家族が壊れていて、親から適切な「愛」を受けれなかったので、アダルトチルドレンな「自分(=何ものでもない僕ら)」になったという原因意識です。ちなみに、庵野秀明さんは、とてもこのラインに沿って、「壊れている自己の回復」を模索する私小説の全領域を、丁寧に踏破していると思います。過去に『式日』について書いた記事を引用します。

アダルトチルドレンから意志的たろうとする大人への道〜実存の回復の物語

いまに至るまで庵野監督は実写で『式日』(岩井俊二監督が俳優として主人公!)や村上龍の小説を実写化した『ラブ&ポップ』または『キューティーハニー』を撮っており、アニメでは津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』 を作っている。これを時系列ですべて追っている人からすると、実存回復・・・・逃げることではなく、責任を引き受けて自ら物語の主人公たろう!(それは世界に対して受け身でもある)ということを模索していく過程がありありとわかりました。

中略

1)病んだ少女(ラブ&ポップ)~これ宮台真司さんの援助交際の話とシンクロしますよね。


2)それは実は自分の内面の病みなんだ!&それは親のせい!(式日


3)しかし、親からの連鎖を断ち切ろうぜ!そして美しい日常へ!(カレカノ


4)つーか、そんな無駄なこと悩んでないで、突っ走ろうぜ!(キューティーハニー


というような流れ(笑)で、1)-3)を描いてしまっている(=積み上げている)が故に、軽やかに4)以降を庵野監督は描くのがしんどかったというかうまくできなかったのだと思うのだ。そもそも生真面目な人は、内面なしでダイレクトに世界を楽しむ人を描くことも理解することもできないと僕は思う。なぜならば、考えないで感じる人!(byブルースリー)だから、そういう人は。


https://petronius.hatenablog.com/entry/20090710/p2
2009年7月


安野モヨコという特異点~なぜマリだったのか?

この辺の履歴は、そのまんまだよなと思います。ちなみに、この「抜け出ることのできないアダルトチルドレンの心の闇」からの「脱出の方法」に、キューティーハニーのような女性をもってきているところに、ブレイクスルーのキーは、「そんな悩みを持たない女性に出会うこと」という道筋があって、このあたりは、シンジの最初の相手が、惣流・アスカ・ラングレー(承認欲求の話が出るまでの彼女は、まさにシンジを変えてくれそうな女の子でしたよね)であり、その後と、真希波・マリ・イラストリアスというキャラクターが登場していく文脈と重なります。ファム・ファタール(Femme fatale)ですね。女の子に、異性に救ってほしいという話。これと、庵野監督の安野モヨコさんとの結婚、その後の『監督不行届』は、とても分かりやすい道筋だと思います。とはいえ、アダルトチルドレンの闇からの脱出には、「他者をの存在を受け入れること」なのですが、惣流・アスカ(旧劇場版)で、「女の子に救われるという救済の道筋」を一回ぶっ壊しておかないと、安易に、女の子に救われるという甘ったれた話になってしまうので、このルートに容易に行けなかったんですよね。とてもロジカルだと思います。ようは、もし相手の異性も、同じようにアダルトチルドレン(=承認欲求の闇)だったら、どっちも救われないよね、ということ。相手が承認欲求を抱えている確率は、だいぶ高いです。そういう人は同類なのでひかれあうから。だから、惣流とシンジは、結ばれてはならなかったんだと思います。逆算して考えると、物凄く論理的。惣流・アスカにとっての、救済の異性は、シンジじゃなくて、「大人の男性」だったんですよ。そう考えると、最初から加地さんが好きな彼女は、良い嗅覚をしていたんだと思います。


少し戻ると、明らかな私小説である、『式日』(2000)についてです。『式日』は、藤谷文子さんが原作と主人公というかヒロインですね。藤谷さんは、スティーブンセガールの娘さんで、今ロサンゼルスに住んでいるはずね。『町山智浩アメリカの今を知るTV In Association With CNN』でよく見ます。いやー時の流れを感じます。そして、主人公の俳優!は、なんと岩井俊二さん。なんと主人公の名前は「カントク」くんです(笑)。ここでは、すべては母親が悪いって方向で話が進みました。大竹しのぶさんの見事な演技が光る渋い映画です。庵野監督の故郷である山口県宇部市が舞台になっており、この映画が、シンエヴァの最後のシーンと重なりますよね。私小説は、内面世界であり、その内面世界の壊れている理由は、子供時代の記憶(=親)にあるわけであると考えると、まさにの映画だともいます。ここで抜けているのは、「父親」です。母親については、『式日』で描かれたと考えていいでしょう。というか、悪い親というのは、母親になるケースが多いんですが、それは、「マターナルなもの(=自分を甘やかしてくれるもの)」に逃避して逃げたいという気持ちを一度去勢しないと、「父なるものの(=現実の過酷さ)」というものにチャレンジできないからではないかと考えいます。なので、次は、父親が描かれなければならない。NHKのドキュメンタリーでも、父親のことがクローズアップされていましたが、父なるものを、受け入れて理解していくこと、父を相対化していく心理的プロセスが、この閉ざされた不毛感覚からの脱出のキーなんですよね。


でも、父親を相対化するって、どういうことだろう?と思うんですよ。


エヴァは、よくディスコミュニケーションの話だって言いますよね。ゲンドウやミサトが、もっとコミュニケーションをとれば、説明すれば、もっとうまくいくんじゃないかって。でも、僕はそうは思わないんですよね。これをメタファー的にとらえているんですが、自分の父親とか母親と、皆さん、分かり合えるほど話せます?。仮にたくさん話している人でも、親が嘘をついていない(=自覚的でなくとも欺瞞なしで精密に自己分析をできていて言語化できている)なんて保証どこにあります?。自分自身ですらも。そんなの、わかるわけないんですよ。だって「相対化」って、心の中のプロセスの問題だから。自分時の孤独の闇の問題であって、それが解決つかなければ、いつまで堂々巡りであって、その理由が、父であろうが母であろうが、どこまでループし繰り返すだけだと思うんですよ、それが、アダルトチルドレンの問題。だから、ゲンドウを相対化できたというのには、シンジの何らかの内的転換があって、「それを見たゲンドウ」が触発されて、ああいうことになったととらえるべきだと思うんです。シンジの内的転換については、その(1)で話しました。順番が重要で、ここに虚偽問題というか、そのルートをいっても解決しないというルートがはっきり示されているんだと思います。


原因が、親が悪い!ルート


このルートは、原因はわかるんですが、「じゃあどうすればいい?」というか解決方法がないので、無限ループなんです。


好きな異性(女の子)に救済されたい!ルート


このルートは、相手が、同じ承認欲求を持っていたら(その確率は結構高い)、これも無限ループで傷つけあうだけになってだめなんです。もちろん偶然、マリや安野モヨコさんのような、大丈夫!という人に出会って、救われちゃう可能性もありますが、その辺は偶然の支配する確率論ですね。他者に期待しているのは、逃げなので、自分自身を肯定できなくなりやすいと思います。『彼氏の彼女の事情』がまさにそうでしたね。雪野のような素晴らし女性に出会って結ばれても、有馬君は、結局救われない。自分に、自分の家族に向き合っていないからですね。


ということで、順番としては、やはり「自分自身」に向き合わないとだめなんですね。


多くのループものや成長のビルドゥングスロマンは、この「行き止まりのルート」による地獄を凄まじく描くのは、「このルートは意味がない」と心底体感させないと、みんなそこへ逃げたがるんです。60年代の映画で『イージーライダー』とか、バイクで爆走しても、解放なんかされませんよ。『パリ、テキサス』のトラヴィスみたいに、意味不明のこと言って放浪の旅に出ても、だめなんですよ。要は、解決策がないと悶々と悩んで、「逃げだしたい」といっているだけなんですから。逃げたいくらい苦しいのはわかるんですが、解決方法と問題を直視しないと、どこへ逃げても「逃げきれません」。この「自分の中に他者がいない問題」というのは、現実認識ができていない(客観視ができない)ことなので、「自分を取り巻き、形作っている現実」というものが、どういう構造で、どんな可能性を秘めているのかを、すべてイマジナリー(虚構)でいいので体感して体験しないと、ベストの選択肢、最も救済される可能性が高いルートを選べなくなるからなんだと思います。この並行世界のループによりヤバい選択肢を排除していくというのは、ノベルゲーやエロゲーの一世を風靡した物語構造ですね。ロードムービー的になって、様々な体験をするというのも同じ意味合いがあるんだろうと思います。この苦しい「自己」を救済するものを探し続けるという比喩だと思うんですよ。でも、解決策が見つからないので、「ただ苦しい自分」を延々と表現するだけの物語になってしまう。もちろん、こうした「自分自身とは何か?」を問う物語は不変・普遍です。ただし、その時代、地域によって文脈が異なっているし、具体的な表象は変わっていきます。


では、「自分自身に向き合う」アプローチをするにはどうすればいいのか?


吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』で問われていたすべての答えがここに~自分自身を直視するためには、レイヤーに分けて別々に考えろ!


僕はブログで、「ナルシシズムの檻」と、このアダルトチルドレン問題をよんでいます。自分の心の中に閉じ込められてループして、孤独に病んでいくこと。この唯我論の中に閉じ込められていき、自己言及のループのような世界に「閉じ込められる閉塞感」というが、1990-2010くらいまで日本のサブカルチャーでは繰り返されていました。というか、アメリカ映画では1960-70年代のアメリカニューシネマにこの問題が表れていると思っています。ちなみにアメリカ文学では、1920年代の『華麗なるギャッツビー』ですね。この問題意識は、普遍的なものだと思います。また各国のローカルの文脈と絡まって、さまざまな表象の仕方をするので、この視点で、様々な作品を探してみてみるのも面白いと思います。というか、僕の物語を見る軸の一つです。アメリカでは、都市文学にこの「個人主義の孤独」が凄い表れていると思います。だから、村上春樹さんが好きなアメリカ人作家は、みなこの系統ですね。ジョン・アーヴィングとか思いだします。

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ちなみに、日本のサブカルチャーの90年代以降、これらは並行世界の物語類型に結実しています。「自分の心の世界に閉じ込められるような閉塞感」は、ソトとウチをわける壁がモチーフになりやすいがために、「この壁を超える」ことや「繰り返されるループのセカイから脱出する」という物語群を生み出しました。このあたりのも既刊7巻の「物語マインドマップ・物語の物語」に書かれていますので、もし興味がある人はそちらで。説明はうざいので端折ると、村上春樹1Q84』、幾原邦彦輪るピングドラム』、吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』などなどの傑作群みたいなやつ!という感じの理解で(笑)。もう少し柔らかいところでは、麻枝准さんの『Angel Beats!』や安倍吉俊さんの『灰羽連盟』とか思い出します。ちなみに、小説では、やはりなんといっても村上龍の『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界II』ですねぇ。さて、僕は、以前、吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』が、庵野秀明のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』の問いに対して、真っ向から答えた、そして答え切った作品んだ!と喝破しました。この話も、うざいほど長いので、興味のある人は、配信か過去のマヴラブの記事を読んでみてください。

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僕は、このルート、、、、自己救済がなされるには、いくつものレイヤーにおいて、すべて答えを出して、「自分が手を汚す覚悟」を持たないと、前に進めないと仮定しました。この問題は、自己決断(=自分の手を汚す覚悟を持つ)の問題なのですが、この時に重要なのが、「自分の立ち位置を明確にする」という時間的作業が必要なことがわかりました。このあたりは、レイヤー(層)になっていて、個人、友人、愛する人、組織、国家、人類などグラデーションごとに、自分がどういう位置づけで関係なのかを明確にしないと、「自分がどこから来て、どこへ向かうのか?」という一歩が踏み出せない。考えてみれば単純なことなんです。でも、それを、心理学の夢分析みたいに、とにかく難解に、抽象化したり具体化したり、さまざまな視点で見直さないと、自分が閉じ込められている孤独の仕組みが「納得」できないのが人間なんですね。なぜならば、各レイヤー間の答えは「矛盾して整合性が取れない」からなんですね。めちゃくちゃ簡単じゃない。たとえば、自分の愛する恋人を殺さないと世界が救えないとか、とにかく矛盾ありまくりのものなので、それに対して「どう行動で答えを出すのか?」には、覚悟がいるんですね。だから「手を汚す」という表現をしています。これは宮崎駿の少年の夢が持てなくなった問題のことで、「好きなもの(ゼロ戦とか飛行機)を追求していたら、仲間が皆殺しにあって大戦争が起きました」、その罪を背負っても君はやりたいですか?という問いに答えないといけないからです。宮崎駿は、これに「それでもやる!」と答えるまでに、長い時を要しました。まぁ本当は、既に『未来少年コナン』でとっくに答えは出ているので、やはり90-00年代の日本的な時代性だと思うのです。ハウルとか、セカイ系張りに、いやに悩むじゃないですか。宮崎駿御大の人間性から言えば、「そんなの女の子をすぐ助けろよ!(ラナを助けるに決まっている!)」で、ほんとは終わりなんでしょうが(笑)。ここで前回の(1)の記事で話したように、エヴァには、大きな問題点がありました。それは、人類のためというネルフやヴィレ視点と、シンジ君の個人の視点やアスカやマリの異性の視点があっても、中間の組織や国家がすっぽり抜けていて、それが表に出てこないので、シンジが自分の取り巻く仲間たちの実存にリアリティを感じられないというものです。


これ、言い換えると、セカイ系(=中間集団が抜けている)のことを言っています。


日本のエンターテイメントにおける特有の病というか、構造的欠陥なんです。なにもエヴァに限ったことではありません。宮崎駿の記事で書きましたが、彼が『風立ちぬ』で、日本や大日本帝国の歴史と向き合って直視し、そこから逃げないと決断したときに、「少年の夢」=生きていこう、前に進もうという動機が戻ってきます。それが、構造的にエヴァにはない。

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・・・・と指摘していたら、『シンゴジラ』を庵野監督は描くわけです。さすが、としか言いようがない。ここにおいて、すべてのレイヤーにおける答えはそろいました。そして、(1)で指摘したとおり、ヴィレやクレデイット、第三村の人類生き残りの組織、共同体には、におい立つような実存感が宿り、シンジ君は動機を取り戻すことになります。もちろん大きな背景として、時間が過ぎた、というのがあります。1980年代までのバブルの高度成長を超えて、2000年代以降は、がたがた悩んでいると生存していけないほど世界が苛酷になっていく・・・・というよりは「未来の夢や希望によって現実をごまかす」ことができなくなったので、「リアルな現実」が見えるようになってきたといったほうがいいかもしれません。もう2020年代で「希望がない」(村上龍)なんて戯言いう甘い人はもういないと思うんですよね。なので、多くの物語が「人類が滅びた後」を描くときに、90-00年代ぐらいまでは「それが生き抜くサバイバルの地獄」と表現されていたのですが、2010年代以降の物語では、「世界が過酷なは当たり前なので、過酷とはとらえない感性」が広まっていきました。僕らが、何年にもわたって考察している「新世界系」の話ですね。ようは『進撃の巨人』で、壁の中でぬくぬくとしていた人にとっては、壁の外は地獄です。でも、壁の外の過酷な生存競争を「当たり前として育った新世代(今の子供世代)」は、それは現実なので、特にひどいとは思わない。時代を支配するパラダイムが変わっている。だから、2021年の現在に人類が滅びる最前線の「第三村」や支援組織クレディトを描くと、「滅び」よりも「その現実でどう生き抜くか」にフォーカスがあたるんです。もう「滅び」云々なんてことを話してるほど、余裕はないし、「終わってしまった」ことを話しても意味がない感性が広がっているからだと思います。だからこそ、第三村の実存感に、シンジ君が触発されるのは、よくわかります。


つまりは、14年たっているんですよ。ニアサードインパクトから。


これは、アズキアライアカデミアの‘Youtub配信シンエヴァ特集でも細かく説明したことですが、最後のシンジ君がいた宇部新川駅はどこか?という問題と直結する問いです。これらのレイヤーにおける覚悟を、いいかえればそれぞれのルートを並行世界のように経験することが、「現実で覚悟をもって生きる動機」の駆動につながるということを示しています。ここで、イマジナリー(虚構)と現実のどちらが大事かというときに、そのどちらもつながっているもので、両方大事なのだということが、はっきり言われていると僕は感じました。


これ、日本的私小説の問いにおける、明確な答えになっています。


「現実と虚構どっちが大事なのか?」、もしくは、「現実に帰る・還るのが正しい」のか?


という問いに対して、現実でちゃんと生きるには、虚構でちゃんとルートを制覇しなければ、現実に帰っても意味がないと言っているんです!!!(これめちゃくちゃ、驚きの指摘でした)。もう一つまぎぃさんの指摘でいえば、虚構と現実は「見る視点」で入れ替わるので、「虚構」自体も現実だという視点(これ後で説明します)。この辺りは、 東浩紀さんが『クォンタム・ファミリーズ』(2008-2009)で描いていて、さすが、とうなってしまいました。


これ、とても重要なことだと思います。ここにおいて、テレビ版のエヴァの質問・・・・「なぜ、自分の心の中から抜け出せないのか?」「ナルシシズムの檻の中にはまったままなのか?」という疑問に対して、「各レイヤー(自分・異性・仲間・国家・人類)のすべてに覚悟をもって現実に帰れ」としたマヴラブの答えに、照応しているのが分かります。あ、ちなみに、僕は、庵野さんや吉宗さんが、そういう意識をもって作ったとか言いたいわけではありません(作家がどうおもったかとかは、そういうのは僕にはどうでもいい)。日本的文脈の中で、時代の大きな疑問に対して、本気で格闘しているクリエイターは、究極同じ普遍的な問いに答えざるを得なくて、彼らがそれに答えているクリエイターだといいたいのです。そしてみている僕ら受け手は、その背後にまるで問答のような文脈を見る気がするのです。ちなみに、現実と虚構をのどっちを選択するかというテーマは、広がりがあって、ハリウッド映画では、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』(1999)、ジムキャリー主演の『トゥルーマン・ショー』(1998)、そして最近ではこれにガチっと答えたスピルバーグ監督の『レディープレイヤー1』(2018)などがすぐ連想されます。それぞれに「どっちを選ぶのが正しいのか?という設問に対して、どう答えているか」を分析しながら見ると、面白さが倍増しますので、おすすめします。


■戦後日本的エンターテイメントの究極構造~私小説の世界とSF神話の結合というセカイ系の極大点

前述しましたが、庵野監督の凄いところは、ミクロの「私小説のセカイ」と先に説明した「ハードSF、神話レベルのマクロの世界」が融合している点にあります。これは極めて日本的で、村上春樹が日本を代表する作家なのも、まさにそういうところからきているともいます。村上春樹の『1Q84』『海辺のカフカ』などが典型的ですが、私小説の「自分の心の中の世界=イマジナリー(虚構)」の各レイヤーを、並行世界の各世界線ように旅(ロードムービー!)しながら、「自分」の欠けているものを探していく。日本的です。めちゃめちゃめそめそして、「自分」をめぐってぐるぐるしているように見えながら、セカイ、世界を変える救うような行動に到達するための覚悟の旅なのです。このように俯瞰すると、狭いミクロでうじうじしてるように見える私小説の悩みが、すげぇかっこよく思えるようになりました。日本文化、凄いって(笑)。ミクロで趣味の世界、職人的なものに没頭する文化のくせに、いきなりキれて開国して帝国を形成したりするところは、いやはや日本的なのだなぁって(苦笑)。あっこれ、もしかして実践へぶっ飛ぶ陽明学朱子学との対比で)か!?。


各レイヤーで、答えを探すこと。


これどういうことか?というと、各レイヤーにおける、「他者(コントロールできないもの)に出会っていくこと」に他ならないと僕は思います。ちょっと抽象的になっているので、もう少し敷衍すると、「他者」というのは、アウトオブコントロールなものです。言い換えれば「自分の自由にならない別のもの」です。各レイヤーで、「自分が思い通りにならない最大限の苦しみ(笑)を味わう」ことで、他者のコントロール、支配不可能性について体感していくのです。だから、自分を救ってくれそうな少女、惣流アスカに「気持ち悪い」といわれるし、自分が支配できそうな人形のような綾波レイは、巨大な化け物と化す。これは、コントロール不可能性の体感の比喩なんだと思います。


そうして虚構の世界で全ルートを制覇ていくと・・・・・「これしかない」というルートに突き当たります。その時に、つまり「欠けているものを埋める」=「各レイヤーにおける覚悟を決める」ことをすると、「現実への帰還」のチャンスが訪れます。ここまで行くと、主人公(ここではシンジ君)は、他者を他者として受け入れることが可能になります。そうしたことで初めて、シンジ君(=感情移入の先である我々)は、父親・ゲンドウもまた「他者である」ことに思い至ります。だから、これを見たときに、100点満点だよ、と思ったのです。だって、私小説庵野秀明シリーズで抜けているのは、「父親を他者として認める視点」なのだから、これが描けたら、完璧ですよ。ここで、これを描かなかったら、だめでしょう!という核心を叩き込んでくれた。しかも、この抽象的なものを、ヴィジュアルで見せてくれているというのが、凄すぎます。


■シナリオは、TVシリーズと同じ構造~面白いものをすべてぶち込んだ、しかしただ一つ足りなかったもの「外部」

しかし、、、、、ちょっと抽象的な説明が続いたんですが、そもそも、エンターテイメントの権化のような庵野監督が、物語を終わらせられなくなるくらい病み苦しんだのは、なんだったんでしょうか?。それは、上記で、様々なレイヤーの答えを出して、自分を確立しても、なぜか、「どこにも行けない」という閉塞感がぬぐえなかったんだろと思います。それは僕らも同じです。


極端なことをいえば、エンターテイメントのドラマトゥルギーの力学がもたらす予定調和すらも拒否するような。


僕は、「閉じ込められた自己」から脱出という意味で、外がない…「外部」がない問題と呼んでいます。


これは、1990-2010年代の重要なテーマだったと思うのですが、やはり2021年ぐらいになるまで、、、、2020年代になるまで「外に抜け出る」という感覚が、どうしても描けなかった気がするのです。



■日本映画の正統なる後継者として~家族の崩壊から再生を通して自己の自立を描いていく日本的物語の到達点

僕は、この「私小説的問題意識」というのは、日本固有の文脈があると思っています。夏目漱石個人主義のさびしさをめぐる議論からの系譜なのですが、あまりそこまで行くと、疲れるので、ここでは映画の文脈での最近の気づきを書きたいと思います。というか、別に批評がしたいというよりは、ぶちゃけ、エヴァンゲリオンとか物語を「もっとより深く理解して納得したい」ためなんで、、、、ここで大きく、疑問に思うことは、やはりエヴァの物語が、ヤマアラシのジレンマとか、「人との距離感」についてもっと言うと「ディスコミュニケーションの恐怖」「他者との分かり合えなさ(=ATフィールド)」を大きなテーマにしたのはなんでだったのか?。そして、その掲げたテーマに対して、どのような結論を導き出したのか?、、、もっと大きく言えば、エヴァって物語は何だったのか?を、大枠で自分が納得したいんです。


その時に、僕は、私小説(=内面に閉じ込められた孤独=他者を他者として受け入れられない唯我論)の問題意識を、日本映画が、アニメーションがどのようなアプローチで対処してきたのだろうか?って考えたときに、「家族の解体」だ!と思ったんですね。そして、映画友達のノラネコさんと是枝裕和監督『海街ダイアリー』(2015)『そして父になる』(2013)、岩井俊二監督『ラストレター』(2019)『東京物語』(1956)『東京家族』(2013)(小津安二郎監督と山田洋二監督のリメイク両方)の話をしていて、昨今の邦画は、この「家族の解体」のモチーフを、「家族の再生」にかじを切っているのではないかという議論をしているときに、はっ!と思ったんです。この家族がの崩壊、そしてそれを再生していくプロセスをさらに分解すると、父、母、子のコミュニケーション、ディスコミュニケーションが「実際にどのように行われているのかをつぶさに見せるという物語」になるのではないか?と。1990年代までは、家族を描くと、それが「いかに壊れているか」に焦点が合っていました。が、しかし、それ以降、じわじわと「壊れてしまった家族」がどういう風に再生されていくかに焦点があっている気がします。是枝裕和監督の最新作は軒並みそれですし、『万引き家族』(2018)なんかもまさにそれでしたよね。是枝裕和は、『そして父になる』から明らかに、「壊れてしまっている家族」を、どうやってちゃんと再生していくかを「壊れた地点」から考えようと試行錯誤していて、本当に素晴らしい日本を代表する監督です。2018年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞をするのは、まさに評価文脈はわかっているなぁと思います。まさに日本的なるものの神髄を追っていて、それでいて普遍に到達している。だから、これが世界的にも日本のオリジナルとして海外で高く評価されている。こう考えると、庵野監督の遍歴、これまでに説明した『式日』などが、ドンピシャにこの流れに沿っている、極めて日本の実写の監督の持つ大きなテーマに沿っていることが分かります。前に書いたように、これって庵野監督の得意技なんですよね。記号をかき集めているように過去の作品の焼き直しをしながら、「その本質」に到達して、その先を描く。ああ、この人は、日本映画の正統なる後継者でもあるんだ!と、邦画ファンとしても、胸がぐっと熱くなる思い出もありました。ちなみに、韓国映画の傑作群もこのラインで、共同体の自明性が崩壊していく刹那を切り取るものとして考えると、よく理解できるようになると僕は思っています。つまりは、近代化の過程で、自明で無自覚な「共同体」が解体されていき、むき出しの個人が現実(という過酷さ)に生で直面さらされる「その変動」を描く。ここに傑作が生まれやすい。日本映画が1950-60年代、韓国映画が1980-90年代に傑作が集中するのは、非常に単純に、その時が近代化の端境期で古くからある共同体が解体されるからだと思っています。


さてさて、こう考えると、ミクロのテーマにおいて、シンジ君(庵野監督の私小説)の内面問題が、家族の崩壊と再生のテーマに結びついていく、そして、「それ」が、「外部に抜ける」ための大きなトリガーとなってゆくというのは、日本の物語が戦後ずっと課題してしてきたことへの、見事なシンクロです。ええとね、シンジが追い詰められていった背景には、セカンドインパクトや母親(ユイ)の死によって家庭が崩壊していくからですよね。葛城ミサトもそうですよね。お父さんとの関係。今思うと、セカンドインパクトって、バブル崩壊と高度成長の終わりなんじゃないかなぁ(笑)って気がしないでもない。いや社会還元論にしたいわけじゃないので、これがそうなんだ!と言いたいわけじゃなくて、巨大な社会変動があると、親の世代が人生めちゃくちゃになるので、子供世代が深刻なダメージを負うんですよね。みんな社会の再建に必死だし、もしくは、過去の思い出に縋り付いてわけのわからんことをする(自分の奥さんクローンで蘇らそうとか、、、、)。そりゃ子供もアダルトチルドレンにもなりますわ。旧劇場版までは、この「家族が崩壊している」部分にフォーカスがあっていたので、これによってどんな苦しみが生まれるかが、えんえんと描かれる。一番大きいのは、親の適切な愛情を受けていないから、他人との距離感が分からなくなって、「他者を他者として受け入れられなくなって」、自分の心の中に閉じこもる。シンジ君の振る舞いって、まさにこれでしたよね。


でも、怖れている話ばかりしても、しょうがない。時は流れるのだから。では「壊れたものを元に戻す?」、例えば、ユイをよみがえらす?とかは、やはり無理があるんですよね。だとすると「元に戻す」のではなくて、違う形で再建設するしかなくなる。その時重要なのは、原因を追究して、「自分がこうなったのは親のせいだ!とかセカンドインパクトのせいだ!」とかいう原因論を言っていてもだめなんですね。原因追及は、筋が悪い。自己認識のために必要なステップなんですが、原因がわかっても、問題が何も解決しない。なので、ループしちゃう。じゃあ「傷ついた同士で傷を舐めあえばいいのか」といっても、それも「気持ち悪い」とか言われちゃって、お互い不幸になるだけ。でも、14年も過ぎて、みんな大人になる過程で、必死に生きて、自分の居場所を受け入れていった仲間(ケンスケやトウジ)を見ていて、「ああ受け入れるしかない」って、なっていくんだと思うよ。この「現実は受け入れるしかないんだという諦観」というのが、僕らが話してきた「新世界系」の重要な到達点ではないかと僕は思っています。重要なのは、そこまでいくには時間がかかる!ということ。たぶん「生きていくしかない」という現実を受け入れたときに、他者が認められるようになるんじゃないかなぁ。僕は、第三村で家出したシンジが、ずっと何も食べてなかったので、おなかがすいてレーションを泣きながら食べるシーンって良いなぁと思ったよ。だって、あそこでものを食べる、おなかがすくというのは、「体が生きたいと思っている」「生きるのを受け入れる」ってことだもの。そのあと、憑き物が落ちたようにすっきりしているのは、そういうことだと思う。

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新海誠の到達したセカイ系の結論のその先へ~落とし前をつけること、責任を取ることは、「結果を保証する」ことじゃない!

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今回のシンエヴァには、様々な素晴らしいセリフが続出しますがシンジ君の「落とし前をつける」と「やってみるよ」というのは、本当に素晴らしかった。僕は、この二つのセリフに集約できる解釈を、


「落とし前をつける」:自分がやっていない(意図していない)ことに対しても責任を取らされ、とろうとするのが大人。自分の意図ではなく、綾波(好きな子)を守り誰がために起きてしまった、ニアサードインパクトであっても、それによって引き起こされたことに、この辺りが難しいのですが責任というよりは、やはり「落とし前」はつけるという感じになるのだろうと思います。


「やってみるよ」:本当にアスカを救えるかどうかわからない(=結果は保証できない)。でも、自分にできる手段、オプションがあるならば、失敗によって自分が死ぬようなことがあってさえも、チャレンジするよ、という意味。これは、「覚悟」が定まってないとできないことです。


これをして、大人になったんだなぁ、シンジ君ということを言っていたら、まぎぃさんからものいいがつきました(笑)。この部分は、アズキアライアカデミアのシンエヴァ特集で話しているので、そちらもどうぞ。


実は、新劇場版の「破」と「Q」の構造は、新海誠監督の『天気の子』のセカイ系への答えと、類似の構造になっているという話をしていたんです。焼き鳥屋で(笑)。ちなみに新宿の鳥茂というお店です。もうめちゃうまいの!。ってそれはどうでもいいんですが、長くなりますが、、、ってこの記事自体がアホみたいに長いですが、説明してみます。僕は、この映画の解釈を、新海誠監督が次世代の子供たちに向けたメッセージとして解釈しました。一言でいうと、世界よりも好きな人を選ぼう!ということです。そして、その「決断」には、「できるかできないか!なんてしゃらくさいことは考えるな!」と。長いですが抜粋してみます。

間違っていても、その気持ちが本当ならば、叫んで行動に移せばいいじゃないか!って。



それがものすごい説得力を持って、感じたのは、エピローグというか、だいぶ水に沈んでしまった東京の「日常の風景」が丁寧に描かれているところです。この世界が滅びてしまった風景って、押井守さんとか、いろんな人がずっと描いてきているじゃないですか。でも、僕には、何となく、とてもマイナスかつ否定的なものに感じたんですよね。「ちゃんと世界を救えなかったから」「正しい決断や成長をできなかったから」だから、「こんなふうに世界は滅びてしまいました」みたいな。でも、脱英雄譚の話ですが、そんなのを一人の少年や少女(勇者やヒロイン)に押しつけるの卑怯じゃない?というのも、もう凄くみんな実感しているんだと思うんですよ。


世界がめちゃくちゃになっても、それって、天災であって、「それでも日常は続いていく」のであって、それをおれが、僕が、あなたが、私が、責任をとる必要はないんだ!、ってすごい言われているような気がしたんですよね。


セカイ系の類型って、大きな文脈として、本来を世界を救う(竜退治をする)男の子が善悪の問題(何が正しいか)に疲れ果てて、無気力になってしまったので、すべてそれを女の子に押しつけたという構造なんだと思うんですが、、、、じゃあ女の子がヒーローに勇者になればいいのかというと、それは一つの系なんですが、それでも「世界の責任を個人に押しつけている」構造は変わらないんだよなって。


これからの時代を生きる人々に、そんな難しいことを背負わなくてもいいよ、と言っている気がしたんですよね。だって、東京が沈没したって、世界がどう変わったて、その世界で、人は生きていかなきゃならない。そこに個人の意思なんざ、ちっぽけすぎて、意味をなさない。


唯一意味を成す、大事なことって、好きな人のために、大事な人のために、なりふり構わず動けたかってことだけだと思うんだよね。少なくとも、僕はうちの息子に、娘に、世界の責任を考えるような感情ののらないマクロのことで悩む暇があったら、大事な人のために動ける人であってほしいと思う。もちろん、マクロの責任なんか、無視しろと言っているわけじゃなくて、、、、まずは「原点はどこにあるか」「最も大事なことはどこにあるか」を確認しなかったらだめだろう、と。


『天気の子(Weathering With You)』(2019日本)新海誠監督 セカイ系の最終回としての天気の子~世界よりも好きな人を選ぼう!


そして、この行動って、まったく新劇場版の『破』における綾波(ポカ波の方ね)を助けたシンジ君の行動そのものじゃないですか。


そして、その「結果」として、『Q』を突き付けられるわけです。好きな女の子を助けたら、世界が滅びました・・・・・って(苦笑)。そして、好きな女の子自体も救えませんでしたって。それを告発して、突き付けられんです。そりゃ「もう、わけわかんないよ!」となるのはよくわかります。でも、これまさに『天気の子』の時に僕が話した文脈と全く同じです。「本質的に、実際に陽菜ちゃんを救うのならば、弟君も救わなきゃいけない、、、それには金と力がいるけど、どっちももっていない無力な穂高君」というところの評価をどう考えるか?。また「陽菜ちゃん一人の犠牲で、東京が救える(何万人もの命が救える)ならば、彼女を助けるならば、世界も同時に救え!そうでなければ彼女がその罪を背負ってしまうことになる」という物語の構造。これ、まったく同じことが、Qにおいて、鈴原サクラや北上ミドリに告発されるんですよね。私たちの家族がみんな死んだのは、お前のせいだ!って。これ事実ですよね。シンジ君にとって、それが、意図したことでないとしても。なので「落とし前をつける」必要が出てくるわけです。


と、ここでさきほどのまぎぃさんの意見は、新海誠監督の次世代の子供たちに向けたメッセージとして、


責任なんか考えず、好きな人を救え!行動しろ!、その結果世界が滅びたって、それはお前のせいじゃねぇ!!!


というメッセージを、大肯定したい!!!というのが、当時の僕とまぎぃさんの出した結論で、この結論は一切変わりがないんです。でも、シンジ君の「落とし前をつける」ということを、「自分が意図していないことでも起きてしまったことに責任を取る」という言い方にしてしまうと、じゃあ、穂高君にそこまで考えろ!とか、世界を救えないならば陽菜ちゃんを救うな!と言っているようになってしまう、それは間違っているという風になったんですね。これ、振り返って考えて、僕の使った「責任」という言葉が安易だった気がする。というのは、「落とし前をつける=責任を取る」というときに僕の文脈では、大きな前提が2つ隠れています。というか、少なくともシンエヴァには、そう描かれている。


1)責任を取るのは、「みんなで」取るものであって、やったのがシンジ君でも追い込んだのは、その周りの大人と環境なのだから、世界に属するすべての人が責任を取らざるを得ない
ミサトさんがヴィレを作ったのはまさにそういうことですよね。シンジ君に、本当の意味で、エヴァに乗らない選択肢を与えるため)


2)ここでいう「責任を取る」とるというのは、イコール「問題を解決する(=この場合は世界を救う、インパクトをおこさない)」ではない!んです。ゼーレが起こした旧人類皆殺しのインパクトは、止めようがないけれども、その「起きてしまった残酷な現実を直視します」といっているだけなんです。「直視する」というのは、「問題なんか解決できない」けれども「自分にやれる精いっぱいはやります」というだけなんです。この「自分にやれる精いっぱい」は、世界を救うのには何の役にもたたないかもしれなくても、やれるオプションの限り精一杯トライすると。。。。だから「やってみるよ」になるんです(涙)。


これこれまでの物語三昧やアズキアライアカデミアのこの20年近くの分析を聞いている人はよくわかると思うんですが、「結果が保証されないのに人は行動できるのか?」という問いなんです。これまでの物語の、動機レスな、やる気が出ないという物語類型のそのすべてが、「結果を保証してくれないと動けない!」という出発点からはじまっています。でも現実というのは、「そもそも結果は偶然によって作られる」ものなので、この命題は、絶対に実現できないんですよ。だから、ウハウハやハーレム(自分が欲しいものをくれる、結果が保証された世界)とかをつくっても、そのハーレムが実は並行世界で虚構だったので脱出なければならないというような構造に、長い目で見るとなってしまうんです。人間は、結果が保証されているような世界では飽きて、喜びを見いだせなくなるんですね。だから「偶然に支配される現実」という残酷な真実を「直視したら」、結果なんか保証できるはずがない。だから「起きてしまったこと」は、みんなでシェアして「起きてしまったことにできる限り精一杯ベストをその時その時で尽くすしかないんだ」というのが、最終結論になるんです。


そして、これこそが、「現実で生きる心構え」ってやつなんです。


これは明らかに、トウジやケンスケたち、第三村で生きている人々の意志ですよね。「世界が滅びたニアサードインパクト」であっても、ケンスケは、「悪いばかりじゃない(=これって、トウジとヒカリの結婚についていっていますが、自分とアスカのことも言っているんだと僕は今思います)」といいますよね。マクロ的なレベルで起きたことって、「起きてしまったんだから」、それを受け入れて前向きに生きていくしか、それしかミクロのちっぽけな人間にはできないんだ!と言っているんです。もちろん、できる精一杯は、する。自分を、自分の大事な人を幸せにするために。そして、なかにはヴィレのミサトさんや加地さん、リツコさんのように、世界のマクロに手が届く人々もいる。でも彼らも一人じゃどうにもならない。だから組織を作る。一人に頼る卑怯な方法ではなく、みんなでシェアするために。そして、前線で戦う攻撃部隊のヴィレであってさえも、彼らだけでは人類を「再生させる」ということのには、役に立たない。だから、クレディットの独立承認をする・・・・いいかえれば、第三村の、その他の普通の人々の、モブの人々を信頼して、人類の未来を任せるしかなかったんです。


これは、、、、「普通の人々」、人類への信頼!です。


さてこう見ると、「落とし前をつける」「責任を取る」「やってみる」という言葉に僕が考えている構造が、新海誠のメッセージを肯定したことと、矛盾していないと思います。いいんですよ、大事なことは、好きな人のために行動を起こすこと!そこに理由なんか、結果の保証なんかいらない。けれども、それは「そこ」だけでは終わらない。「起きてしまった現実を受け入れて」ずっと戦い続ける覚悟が必要なんだ!ということ。シンエヴァの構造が、新海誠監督の「その先」に到達していることが分かります。


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■日本的な「私小説」の物語としての宇部新川駅の現実風景~「宇部新川」は、もともとあった「上位世界」、つまり我々の現実世界との接合点


アズキアライアカデミアのシンエヴァ特集で話した話は、宇部新川駅はどこなのか?という設問でした。


物語を見るうえでは、監督が、クリエイターが意図したイシューはなだったか?を問わないと、枝葉末節にとらわれることになるといつも僕は思っています。そうすると、何を話しているのかわからなくなる。なので、イシュー(その本質)は何か?というのを、考える癖をつけるといいです。そうすると、世界がもう少し単純にクリアーに割り切れるようになっていきます。シンヴエヴァは、複雑な物語ですが、構成上、この「宇部新川駅」のシンジ君(神木隆之介)がいた場所が、どこなのかは、監督がいったい何を考えてこの物語世界を創造したかの本質だと思うんです。


ちなみに、岡田斗司夫さんがいっていたように、「完璧に答えがある」ようにとらえるべきではなくて、ある程度あいまいにされているとは思うんですよ。でも、そうはいっても、少なくとも、28歳?でいいんだよね?神木シンジくんの宇部新川駅の場所、それと、テレビシリーズ、旧劇場版、新劇場版、シンエヴァにおけるニアサードインパクトが起きてしまった世界と、世界がいくつも並立していて、「この物語世界線の関係性をどうとらえておくべきか」は、監督が世界を現実をどうとらえるかの、最重要ポイントになるはずです。なので、「答えのない答えを探す気持ち」で、この辺りを悶々としゃべるのが、映画ファン、物語ファンのだいご味だと僕は思います。


で、そうはいっても、アズキアライアカデミアメンバーと、ペトロニウスの結論は、神木シンジ君の到達した宇部新川駅は、


現実(我々が住むという意味でのこの) と虚構の「接点」


というのが妥当なところから、となっています。いまのところ。アズキアライアカデミアの配信の時は、死んだ人が行っている「アヴァロン(理想世界・理想郷)」ではないかというLDさんの意見に沿って分析していましたが、これも捨てがたいラインですが、それよりは、やはりまぎぃさんの解釈する現実と虚構の「境界」にある設定まで、たくさんのシンジ君の遍歴で到達することができたというのが、論理性がつながります。ちなみに「アヴァロン(理想世界・理想郷)」解釈の時は、その場合、線路の向こう側にいる「一人で立っているアスカ」は、式波ではなくて、惣流・アスカ・ラングレーの方でないとおかしいというのが確認ポイントでした。このあたりも、今後、ブルーレイなどがでて、考察が進むでしょう。楽しみですね。


えっと、物語のイシュー的には、シンジ君の内的転換が、「第三村の実存」によって起きたとするならば、第三村をとりまく「ニアサードインパクトが起きてしまった世界」を、もう一度、ゼロから消してやり直すというのは、ドラマトゥルギー上できないはず。あのニアサーで滅びた世界が、「かけがえのない唯一の現実」でなければ、シンジ君の内的葛藤が意味をなさないものになるからです。イシューというか、ドラマトゥルギーの構造を追えば、「やり直しのできる世界」であっては、やはりおかしい。


でも、すべてをやり直したような理想世界にみえる宇部新川駅は、なんなのか?。シンジ君は、どこに到達したのか?。


これって、文学作品なんかで、良く到達するポイントなんですが、「我々の住む現実」との「境界」だと考えると、なんとなくすわりがいいなーと思うのです。というのは、個人的には、28歳の神木シンジ君が、スーツを着たサラリーマンのようになっているのが、インパクト大で、、、、というのは、自分も「そのプロセス」経て、ここにいるパンピーサラリーマンなので(笑)。感情移入したんですよね。ああ、これから出勤か、、、朝起きるのにニアサー起こすぐらいの覚悟いるよね、って。物語の類型を振り返ると、並行世界系の話は、結論が「現実に還れ」という説教で終わる形式が多いです。オチとしてとても普遍的だからです。なので、ああ「現実に還れ」の結論かな、と思いたいところなんですが、この記事全編で、第三村の実存を考えていると、「ニアサーが起きてしまった世界」こそが唯一の現実であるという解釈を譲ることができません。で、はたと困ってしまう。この道筋で考えると「ニアサーが起きた世界を唯一のセカイとして、現実を直視して受け入れることができた(=SF的にはゴルゴダオブジェクトに到達した)」からこそ、「ご褒美でアバロンに行くことができた or ゼロからやり直すことができた」という解釈はいまだ可能です。でもしかしながら、テーマ的に、世界線を「やり直すことができる」というメッセージは、イシューからそぐわない。


で、宇部新川駅にドローンで撮影したみたいに上空の視点に上がっていくラストシーンは、群衆の人々が、アニメで描かれています。映像自体は、基本、現実の風景なのに。だとすれば、ここが「現実」と「虚構」の、どっちでもない「境界」と考えるのは、ありです。


その場合は、じゃあメッセージとして、どう解釈できるのか?。といえば、「現実」と「虚構」のどちらも、「ほんものの世界」であって、それを、直視で来た人間だけが、そのどちらでも、ちゃんと生きることができるという意味になるはず。これだと、我々の住む現実からは虚構に見えるエヴァンゲリオンの物語(虚構)自体を本物と直視して生き切るからこそ、その両方の観測ポイントに至れることができるとなるので、第三村の実存が唯一性を持ちながらも、「現実に還れ」という普遍的並行世界の物語の結論のメッセージが機能します。このへんだな?と今は思っています。


■すでにわれわれは「新世界」+過酷な現実に10年以上前から立っている?

まぎぃさんから、いろいろ批評の記事を見ていて「宇部新川駅=我々の生きている現実=過酷な生きる覚悟がいる世界」というラインで解釈すると、「そんなの少なくとも10年以上前に、われわれ日本人は、「そこ」に立っているんだよ」という意見を見たんですという話を聞きました。どちらかというとネガティヴな意味ですね。ようは、このオチはすでに古いといいたいわけですから。つまりは、2000年代以降の、バブルが崩壊して低成長・縮小時代に入ったマクロの世界を生きるわれわれ日本人は、「こんなのいわれなくてもわかっている」といいたいわけです。


これは、なるほど、わかる意見です。というのは、僕らが「新世界系」で分析してきた話が、まさにこれだからです。セカイ系から新世界系へという言い方をしてきました。『進撃の巨人』の壁の向こうに出てから、『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』などなど、様々な次世代の物語は何だろう?という問いの中から、どうも新しい世代は、少なくとも2010年代の後半から、アダルトチルドレン系の「僕って何?」みたいな問をする姿勢は、ほぼ一掃されました。最初から「世界は残酷だけどキラキラ美しい」という前提受け入れて=直視しているものが物語ばかりが目立つ。なので、物語の始まりから、最初から主人公が住んでいる世界は残酷。ちなみに『鬼滅の刃』のアニメ第1話のタイトルが残「残酷」でしたね。ここ、わかってる!とうなりました。ここで重要なのは、主人公たちが、その残酷さを悪いものだとは思っていないというポイントでした。それは「現実」なので、最初から受け入れて、当然のもの、コモンセンスとして考えている。これが新世界系の要諦でした。セカイとか心の内的世界に逃げ込めるのは、高度成長期の名残の、物質的に余裕があって残酷な現実(バブルが崩壊してネオリベラリズム浸透以降の世界)にさらされていない甘えからくるものだった!という考え方ですね(苦笑)。


ちなみに、一貫してイマジナリーな内的世界に関連するものをカタカナの「セカイ」と表記して、現実認識を直視している新世界系的な視点でのものを「世界」と漢字で表記しています。この記事全編にわたってしていますので、読むときそう思って読んでください。


なので、やはり1995年から27年の期間を考えると、旧世代的なものから新世代的なものを「つなぐ装置」としての物語になっていると思います。いろいろな人が、卒業イベント的なことを言っている感覚は僕は非常に同意します。それは、エヴァンゲリオンをリアルタイムで見た世代には、どう考えても卒業だと思うからです。でも、これが素晴らしいのは、うちの子供たちもそうですが、若い世代にとって、当たり前のように過酷な現実を前提に生きる若い世代にとっても、それが、非常に納得のできる仕組みになっていることです。だって第三村で生きるトウジやケンスケ、加地君(息子の方ね)って、まさに新世界に、壁の向こうに生きているのがナチュラルボーンの覚悟ガンギマリの人々でしょう?。


僕は、なので、これをオチが古いとはみじんも思わない。まさに、いま世代間の分裂が激しい時代に、つなぐ装置として記号としてコミュニケーションツールとして意味を凄く感じるし、、、、、なによりも、虚構と現実が等しく価値があり、その遍歴を通して、「現実に還れ」となる物語類型、、、、タイトルに挙げた、日本映画の家族の解体と再生、日本文学の私小説、そして欧米50-60年代ハードSFというテーマの正統な後継者として、普遍到達していると思うからだ。


アドホックな視点では、いまさら現実に還れと、既に斜陽が現実になった日本社会の「過酷な現実」に戻るという視点は、僕は明らかに間違っているとらえ方だと思う。


というのは、日本社会は、日本の未来は、暗くもないし、斜陽が現実にもなっていないと思からです。このあたりのマクロの評価は長くなるの別に話そうともうが、僕は日本の未来は素晴らしいと思うし、いま日本生まれ育っている若い世代は、素晴らしく幸運なところに生まれたと思っている。僕が、そう思う理由は、素晴らしいアニメーションが、物語が、どんどん芽吹いているから(笑)。なによりも、日本の若い世代は、すでにこうした厳しい「パラダイムが変わってしまった新しい現実」をちゃんと受け入れて、覚悟をもって生きていると僕は凄く思う。そうであるならば、貧乏で苦しく弱者が踏みつけられる過酷な現実の覚悟を問うという意味で、このオチの現実社会への帰還をとらえる文脈は、僕は間違っていると思うからだ。強者と弱者という対立構造の二極化は、古い世代のだめな視点だと僕はいつも思う。まぁ、この辺りは今の世界の経済のステージや評価と絡むので、長くするのは避けましょう。でも、少なくとも、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』『チェンソーマン』が生まれる日本、それを支持する子供たちを考えたときに、いや、もうこれ、絶対大丈夫でしょう!過酷とか、若者は思っていないよ!と思う。過酷なのは、、、、実は、「その現実についていけない年を取った年寄り世代だけ」ということが、たぶんわかっていないんだと思う。。。。(苦笑)。



■システムの奴隷である「セカイに閉じ込められた自己」からの解放~セカイ系の終着地点のその先に

答えは、現実に戻れ?だったのか? また大人になれということだったのか?、実は、最近考えているのは、この「問いの立て方自体がだめ」なんじゃないかと思ってきました。えっとね、僕はアラフィフの40代後半なのですが、僕が学生時代に(今も)好きだった学者に宗教人類学者?なのかな中沢新一さんと社会学者の宮台真司さんがいるんですが、えっと、1980年代のニューアカデミズム(浅田彰さんの構造と力!とか)そういうのね。これが流行っていたんですが、僕はしつこく、ずっとまだ好きで読んでいるんですが(笑)、この人たちが立ててた問いが、1980年代以降の後期資本制の社会では、人間はシステムの奴隷になってしまって、社会の「外部」に出ることができなくなったしまったがゆえに、リアルな自己を体感できなくて、苦しくなっていくという、柄谷行人的な(と言ったらお二人は怒るかもですが)近代理性批判的な問いを掲げていたように感じるんですね。

えっと、この場合の、「システム」というのが僕らが取り巻く社会のことです。社会に役割が決まって、資本主義のパーツとして、歯車として自由が何もない息苦しい構造。「外部」というのは、このシステムの円環のループの輪から外れているもの、です。この辺りは、宗教学や人類学の容疑に慣れている人は、良くわかる感じだと思います。まぁハレとケとか祭りの話ですね。当時お二人が、おお素晴らしいなと思ったのは、明確な具体的なターゲットを定めてフィールドワークをしていたことでした。中沢新一さんは、チベット仏教。本当にチベットまで行って修行するとか、狂っているにもほどがあります。宮台真司さんは、援助交際の少女ですね。これの気合もガンギマリです。かっこよすぎる二人です。これはっきりと、抽象化すればわかるのですが、宗教的解脱の体験か、運命の女=ファムファタルによって、自分が解放されたいって読み替えられると思っています。いや僕の勝手な解釈ですが。長くなりすぎるので端折りますが、「どっちもだめだったね」という感じに本人たちは思っているように感じます。この1980年代から40年以上の時を経て。その後の書いているものや行動を見ると。実際宗教的解脱みたいなものは、社会的にオウム真理教のような新興宗教に取り込まれて村上春樹さんの『アンダーグラウンド』ではないですが、やはりシステムの外にでは出れない。個人的解脱?のラインも、ファンタジーにしか見えません。『虹の階梯』ですね。アメリカの文脈だと、カルロスカスタネダの 『呪術師と私』とか(うぉ、懐かしすぎる!)。これ、結局、中沢さん自体が、もう一度チベットに修行に戻ればわかるんですが、、、、社会の現実に生きることを選んでいることからも、だめな方向なんですよ。じゃあ、運命の女!、女の子に救われるか!!!といっても、あれってアダルトチルドレンで、別にシステムの外にいるわけでもなくて、ただの同じ人間でした、という結論だと思っています。だって、宮台真司さん、普通に結婚して、驚くほど幸せな家庭を築ずいているじゃないですか(苦笑)。あ、この宗教的な方向性がゼーレで人類補完機構で、女に救われたいというファムファタルがアスカやマリの話だって、僕は感じてみていたんです。でも、このライン、だめだなーって。この選択肢じゃ、救済は来ない。あ、いいパートナーに出会って幸せな家庭をつくると、救われちゃうのですが、このあまりに普通な結論では、ちょっとパンチが弱いです。ドラマとして(笑)。

でも、彼らが問うている質問の設定は、いまだ輝きを失わない本質的なものです。


虚構と現実の対立の「その先」という外部へ。人間にとって「外部」とは何か?。「外部」に行くというのは、救済されると読み替えてもいいのかもしれません。村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の恩寵とかのことだと僕は思っています。



この「外部」が、感じられたかどうかが、この物語の最後の評価ポイント。なぜならば、システムの奴隷になる閉塞感は、ひたすら「どこまでも逃げていくにしても、どこへ逃げればいいのかわからない」という円環ループで表現されてきたからです。ちょっと、投げつけますが、、、、このアホみたいな長文を、読んでいるあなた、、、、あなたは、エヴァンゲリオンシリーズという物語全部を体感して、この「外部」が感じられましたか?


僕はね、、、、、これ、感じられたんですよ。映画批評では、この「外部」、システムの外を垣間見せてくれる映画群に宮台真司さんは、しびれるほど素晴らしい評論を、どかんどかんといつも書いてくれるのですが、「システムの外に出る」というのは、ほとんどのケースが「物語の予定調和から外れる瞬間に垣間見せてくれる聖なるもの」を、題材に扱うので、基本的には「物語自体がちゃんと完結する」とか「キャラクターのドラマトゥルギーが消化される(=ありきたりな物語)」物語じゃないものがテーマになってしまうんですよね。なので、読み解かないと面白くない、物語のドラマトゥルギーの公式を外れるものが多い。なのでめちゃくちゃマイナーなものばかりになる。マイナーで難しいので、「解釈の力」がすごく必要な高踏的なものになってしまいやすい。でも、エヴァは、エンタメでありながら、それを僕は感じます。


つまりね、現実と虚構の連関の構造示し、その「長い長い遍歴(27年の長大シリーズ)」果てに、現実の境界に立ったシンジ君を見たときに、システムの、社会の予定調和の奴隷として生きるしかない僕らが、それでも「現実」と「虚構」の際に、境界線上に立って、前に進もうとする時って、僕はとても聖なるものに、社会のどこでもない場所に立ちながら、「自分」を足で踏みしめる神木シンジ君の姿勢に、目線に、僕はそれを垣間見ますよ。


この辺りは、今後もこつこつ考え続けたいなーと思います。んで、この現実と虚構について、ノラネコさんの評価の部分を抜粋しておきます。

ちなみに作者の過去の発言の影響からか、本作のラストを虚構の否定であると読み解く向きも有るようだが、逆だと思う。
還暦を迎えた庵野秀明が辿り着いたのは、大人も子供も基本的には一つであるように、虚構には現実が必要だし、現実を生きるには時として虚構が必要だという、スティーブン・スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」で導き出したのと同じ境地ではなかろうか。
だからこそ、ラストショットで決してフォトジェニックではない現実の中に、虚構のままの二人を解き放った訳で。
TV版の完結編としても、新劇場版の完結編としても、100%納得の世界線である


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そしてVRワールドでの決戦は、いつしか現実世界と重なり合い、ポップカルチャーを搾取の場としか見ない者たちは、どちらの世界でも、大好きなものを守ろうとする人々によって打ち倒される。
クソみたいな現実からの逃避の場だったとしても、それがあるから救われる人もいるし、虚構から現実を変えることだって出来るのだ。
虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼに、クリエイターの矜持がにじみ出る。
ここまで来ると、劇中のハリデーがだんだんとスピルバーグ本人に見えてきたのは私だけではあるまい。
フィクションを形作るのは、現実世界での色々な経験に裏打ちされた、誰かに知ってもらいたいクリエイターの想い。
オタクの夢の世界としてのオアシスは、さらにディープなオタクだったハリデー=スピルバーグの、埋もれていった夢や涙や後悔の墓場でもある。
だからこそ、遂に対面を果たしたハリデーと、究極のファンたるパーシヴァルと会話は、とても切なくて優しいのである。


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そう、現実を生きるためには、虚構が必要なんですよ。そして同時に、ちゃんと虚構といもう一つの現実を生きるには、現実が僕は必要なんだとも思っています。ちゃんと他者(=アウトオブコントロール)なものを、直視して生きていれば、現実と虚構は、両方あったほうがいい、というか両方あって人間なんだと思います。



いやはや、素晴らしい物語でした。エヴァンゲリオン。ありがとう、すべてのエヴァンゲリオンに、ありがとうと伝えたい。僕たちは、虚構と現実、両方大事なんだということをかみしめさせてくれる物語。



最後に、ちょっと蛇足を。



田辺イエロウ先生の結界師か!綾波ユイの主人公「格」に謎が深まる!

さて、いろいろな視点で語っていたんですが、いろいろ考えがまとまってくると、どうしても「不可解なポイント」があって、それが、綾波ユイこと、シンジのお母さんなんですね。この人、最後の最後でシンジが選ぶ選択肢をすべて「読み切った上」で、マイナス世界のゴルゴダオブジェクトにいるじゃないですか。これ感覚的に言うと、すごく不思議な感じがして、


え?最初からすべてわかっていたわけ???


という疑問がわきます。というか、わかっていたとしか思えません。論理的に考えれば。それって、ちょっと人間には思えない。そもそもエヴァ初号機を設計できるとか、おかしいオーバーテクノロジーです。とまぎぃさんに話したときに、ああ、これは「第一始祖民族」説という設定があるようですよ、と教えてくれました。僕は事実がどうか知りたいわけじゃないのでちゃんと確かめていないのですが、ユイの最後になった機能から逆算すると、普通の人間ではありえないので、彼女が「第一始祖民族」の生き残りであるとか血を受け継ぐ最後の人(ゼーレの爺たちは肉体をなくしている)という説には、一票です。ナディアやネモ船長のアトランティス人の末裔設定から比較しても、それはありえそうな設定です。が、そういった設定確認は、どうでもよくて、、、、そうなってくると、僕は物凄くイメージがわいたのは、田辺イエロウ先生の『結界師』という傑作マンガです。ここに出てくる主人公の母親である守美子さんのお話。そっくりで、めちゃ思い出した。

この作品を見るときの重要なポイントとして、「主人公のドラマトゥルギー(義守)」と「主軸のドラマトゥルギー(世界を守る+母親守美子)」が、交わっていない、関係ないところにポイントがあると僕は思っています。この世界を眺めるときの特徴として、通常の物語の類型では、この主人公の視点と、物語自体のメインテーマが、一致していないと、「何を言っているのかがわからない」意味不明の物語になりやすい。だから、本来は、ずれてはいけないんです。ところが、それが、非常に関連づけられない形で、物語が描かれている。母親が世界を救うという、ガンギマリの覚悟で、世界をガチで救っちゃうのに対して、主人公も、その兄も、何一つ無力で、意味がない。細かく義守の力が必要とかそういうことではなく、母親の守美子のさんの「自分を犠牲にして世界を守る」という救済プランに対して、何一つ影響力を与えることができなかったという意味で、言っています。

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というのは、本来「世界を守った」のは、主人公の母親である守美子さんであって、ほかの人たちって、実は世界に関して何もかかわってなくない!?という驚きのだったんですが、主人公(=メインのドラマトゥルギー)が、主軸ではないところでの世界の多様さを見せつけるという意味でのアンチドラマトゥルギーの傑作ですので、ぜひともおすすめです。とすると、守美子さんは性格的にまだわかる(自分にできることは自分がするしかないと、見切っている性格が何度も出てくるので)んですが・・・・ユイさんって、だいぶ性格「アレ」な人じゃねぇ?って気がしてきます(笑)。ゴルゴダオブジェクト、マイナス宇宙という「時間のない世界」で待っているので待つのは苦痛ではないでしょうが、それにしても、この地獄に引きずり込んで自分の夫のゲンドウ君を顧みないこと、凄まじい。むしろ、私がいなくなって、右往左往してボロボロになっているゲンドウ君、かわいいとか思っている感じがしてなりません。子供(シンジ)ができたんで、そっちに興味が全振りしているのだろうというのはわかるんですが、ちょっとゲンドウ君に対してサドすぎないって?。ちょっと達観して見すぎだよ、あなたなという気がします。そういう意味で、庵野監督は母性に対して一切期待していないのかもしれません(笑)。


富野由悠季という天才~日本エンターテイメントには、異世界・並行世界に行って体験することによって現実に戻ってモチヴェーションを取り戻す物語類型の伝統がある

昨日、友人と話して、これなんでダンバインのオープニングで号泣するのかわけわからん自分という意味でのジョーク?みたいなつぶやきだったのだが、それには「はっきりとした理由があるよ」と親友に指摘・説明されて腰が抜けた。富野由悠季さんって、物凄い人なんだ。わかってはいたけど。。。僕は何もわかっていなかった。ダンバインは、あきらかに「異世界に行って戻ってくる」ことを通して、父母からのトラウマを超えて、生きる気力を取り戻すというシンエヴァのフォーマットと一致している。というかむしろ元祖といってもいい日本エンターテイメントに、指輪物語的なファンタジーの概念を導入した画期的な作品。構造がほぼ同じなんだから、そりゃ泣くよ、シンエヴァで感動したならば、と言われて目からうろこが落ちた。いやはや自分、さすがだな嗅覚と思いました(笑)。なんというか、ちゃんと本質に感動できているんだな、とうれしくなりました。まぁ個人史的述懐はおいておいて、これは僕の物語を見る視点、物語分析の要諦から言えば、当然の帰結なんです。ここで挙げてきた、村上春樹の『1Q84』、また物語の物語の分析で僕が挙げている村上龍さんの『五分後の世界』、吉宗綱紀さんの『マブラヴ オルタネイティヴ』、富野由悠季さん『聖戦士ダンバイン』、庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、それぞれが、「自分」を確立するために、「世界」を把握するために、現実と異なるセカイの行き来を通して行うという類型になっています。同じことを繰り返しますが、彼らが意識して、自覚してこうした呼応をしているかは、僕にはどうでもいいことです。むしろ、意識していないでも、きっとこのような「形式、類型の連鎖、普遍的な問いかけに対する真摯にこたえようとする姿勢の共通性」は起きるのだともいます。なぜならば、僕らは同じ時間と空間を生きているのですから。ただ、これだけはっきりしていると、もうこれは伝統といってもいいぐらいのものだろうと思います。日本的エンターテイメントの本質に到達している形式なんだろうと思います。時系列的にみると、いや、これ明らかにオリジンは、富野由悠季ですね。『機動戦士ガンダム』の父に母に事実上捨てられ疑似家族(ホワイトベースの巻き込まれた戦友のことね)が形成されていくそこに帰るアムロファーストガンダムの答え、『伝説巨神イデオン』の世界のマクロに対する答え・・・・考えてみると、とんでもない人だ。こんなクリエイターが、何十年にもわたって作品を創り続けていて、それをアーカイブで見れる、もしくは人によっては、庵野さんの世代などは、リアルタイムでそのたうちまわる格闘の歴史を見続けているわけですね。僕らは素晴らしい時代に、土地に生まれていると、日本素晴らしいと、ほんと心底思います。


一つ、ワクワクすることと、もう一つがっかりすること。僕はまだ富野作品をそれほど見ていないのですね。バイストンウェルは好きで小説はかなり読んでいたのですが、アニメはまだ抜けているもんがたくさんあるし、なによりも、リアルタイム世代とは少し後の世代なので、見方が甘いのです。子供時代にしか見ていないから。それは、まだ未踏のフロンティアが自分の中に眠っていることで、ワクワクします。半面、こんな凄い作品群をちゃんと見てなかった自分って、と情けない気持ちにもなります。LDさんから、「その程度も見ていないのですか?仕方ないですね(冷静に切って捨てられました)、では白富野からのほうがいいですから、まずザブングルから行ってみましょう。」ときつい命令が来ています(笑)。『海のトリトン』『無敵鋼人ダイターン3』『無敵超人ザンボット3』この辺りはちゃんと見直さないとだめですね。ダンバイン以降は、リアルタイム世代なので、だいぶん見ているんですが。まだまだ甘いですね。クンフーが足りなすぎる。人生時間が足りなく、無様に生きていくのでしょう。でも、がんばります。


■おわりに

とりあえず、あとでリライトしたり、誤字脱字変えたりこつこつしておきたいのですが、今の感覚のを超したくて、出せるものは出し切りました(笑)。4万7千文字書いた。ほんとうは、まだまだ言いたいことあるけど。まだ、Youtubeでもまとめたいので、もう少し考え続けたいと思います。いや、エヴァに出会えて幸せです。2021年の3-4月は、お祭りのような、幸せな時でした。


ということで、現実に還ります(苦笑)。まず現実に還る第一歩として、富野さん作品を見ないと、、、、?え、違う??