8新刊が出ていたので、思わず買ってみた。巻と9巻が出ていたので、買ってみた。ちょっと途中から冗長になって、遠ざかって、、、そのままなんでか新刊が出ないので、忘れていたのですが、ストレスがある時は漫画か小説でいやすので、バンバンかってしまいます(←反省)。
しかし、これってハーレム的なシュチュエーションなのに「そういう漫画」に見えないのはなぜだろうと前から思っていたのですが、これって女装をめぐる繊細な自意識の話だからななんだろう。そもそも軸は、主人公の「女装癖」をめぐる「自分と世界のとの距離」がテーマの話なんだと思う。
焦点がそっちにあるから、どれほどえげつないセクシャルな話になっても、読者からは、「それが主人公の自意識のひねくれ度合いの反映」と見えるので、あまり情欲的な意味には取りにくいんだと思う。同じ系統でいえば、スタイルが全く違うけれども、実は同じ読後感を少女マンガの志村貴子さんの『放浪息子』にも感じる。これは、小学生の主人公でしかも少女漫画ということもあって、『ゆびさきミルクティー』のようなセクシャルなエスカレートがないので、不思議なファンタジー色を感じる。
この物語の基本は、主人公由紀(とものり)が、「女装した自分である「由紀」」に惚れこんでしまい、自意識の迷路に入り込んでしまったという部分の「悩み」なんだよね。ハーレムモノとしてもポルノ(青少年は普通そう読むでしょう?(笑))としてのオンパレードのようなんだが、主軸がバッチリ、自意識の迷路の話になっているので、不思議な読後感がある。この手の典型的な話にしては、9巻と感を重ねていることも、ただ単に、Hなもので読者をつなぎとめているわけではないからだろう。
まぁ自分の女装に惚れるというのは、非常にわかりやすい「ナルシシズム」であって、語源のナルキッソスの逸話そのままですよね。ただねーなかなか「イっちゃってる」なーと感心するのは、親友が女装した自分に惚れちゃってデートを繰り返す話は、凄いなーと思うんだよね。上記の設定を作った段階で「この話のヴァリエーションは確かにありうるんだけれども、にしても、ジョークやギャグに回収しないでマジで書いているところが、なかなか凄い。「好きな男の子を癒してあげたいがために自分の体で慰めてあげたい」という思考の果てに「ちんぽ舐めていいよ」ときたかっ!!!これは、すごい(笑)。
いや人間誰しも、男性であれば「女性的な部分」への理想と憧れがあって、もちろんのことこの理想と憧れは、男性側のファンタジーなのだが、そういうものには「世界から受け身に愛されたい」という願望がある。これは進んでいくと英雄願望と同一なのだが、具体的な段階では、「男から求められる・奪われる自分の身体」というものでシンボライズされがちだと思う。
ようは、ものすごぉーく純粋な愛で、男から身体を求められるってのは、「とっても真実な愛だよね」というやつだ。これを、肉体的なものを除いたものが、中世ヨーロッパで発達させた騎士道(チルバリー)というやつだ。純粋な何かへ、報われることのない忠誠を尽くすことこそ(基本は、王や自分より身分の高い人の「妻」への忠誠という形となる)が「愛」だというナルシシズムの倒錯。
それを、「ちんぽ舐めていいよ」と来たかぁ!!と、唸ってしまった(笑)。しかしもって、自分の「存在」や「容姿」が、自分の親友である(もちろん男だよ!)亘(わたる)に、どういう意味を持っているかを考え抜いて、ちゃんと「女として映っている」ことを計算している。うーんこわい(苦笑)。
ちなみにいうと、黒川水面(みなも)の設定も興味深い、亘が彼女を称して(というか水面自身が自称で)「わがままで計算高い」という風にいっているが、彼女も「純粋な男性のご都合主義のファンタジー」である、由紀の女装姿の女性に相対することで、自分の「女」の部分を強く意識せざるを得なくて、由紀にハマっていくんだよね。このへんは、うまいなーと思う。
もう一歩、なにかもっと苦しい設定があると、とても重苦しく美しい文学になるんだが(笑)、その辺は軽やかに避けるところがエンターテイメントだなーと思う。
ちなみに、この由紀にとって、ナルシシズムを破る存在であるのが、ひだりの存在であって、だからこそ、由紀は彼女を物凄く大事にしている。けれども、SEXをしてしまうことは、由紀にとって女性であることをなくすことであるし、それ以上に、彼女を「大事にとっておく」というひだりと由紀の関係性こそが、二人を、というか由紀を今の地点のナルシシズムに閉じ込めて、かつそれ以上深みはまらせないストッパーになっいるので、、、、由紀として怖いことは、ひだりを抱いてしまって、それでもなお「何もかわらない自分がいたらどうしよう?」という部分だろう。