相原実貴さんは、『SO BAD』以来、ずっと好きで読んでいる。実際、あの頃提起された関係性の問題が、ずっと続いているだけで、大きく飛躍しているわけではないんだけれども、そもそも物語の作り方が完成されていてエンターテイメントを外さないことと、「そうはいっても」少しづつ同工異曲で、じわじわと「最初に提起された問題」はじわじわ、いろいろなケースを適用しながら、進化している。その「果て」にどこへ行きつくのか?というのを僕は見てくて、ずっと追っている。いやまーただたんにこの人のかくラブストーリーが好きなだけでもあるんだけれどもね。
これね、女の子にとって、恋はどうやったら幸せに成就するのか?っていうことをかなりうまい「問いかけ」で設問しているんだと思うんですよ。
もちろん少女漫画なので、恋愛の序中にその存在意義と面白さがあるんだけれども、『SO BAD』では、イケメンの男3兄弟から逆ハーレム状況になって、そのうちの二男を選ぶという選択でした。この時の、長男はそもそも主人公の最初からの思い人でした。けれども、その思い人に魅かれているうちに、その思い人には他に好きな人がいて・・・とかなるんですが、そこが力点じゃない。その長男には、「はっきりと自分でやりたいこと(=仕事でも何でもいい)があって、その優先順位が、最高ランクにある人」だったということですね。えっと、意味わ伝わるかな?。つまり、わかりやすくいと長男にとっては、「仕事と彼女(=妻)どっちが大切?」と質問したら、躊躇なく、仕事になる人なんですよ。もちろん恋愛の時期のショートスパンでは、多少女の子を狩り落とすために、女の子の優先順位を上げることがあるかもしれませんが、ロングスパンでは、彼は「自分の実存の充実と解決」がすべてに優先しているエゴイスティツクな人なんですね。ようは、「釣った魚にえさはあげない」タイプの人なんですよ(笑)。だからどんなに恋焦がれても、主人公を「対等な存在」としては見てくれないんですね。それが分かるので、「対等な存在」として一緒に歩いてくれる二男を、主人公は選びました。これは、恋の成就の仕方としては、憧れ(=幻想)よりも等身大の愛情と対等な目線が優先されたという意味で、やはり男女平等の観念が浸透していることや、そもそも等身大が幻想に打ち勝つ時代性だな、と僕は思います。まぁー多くの少女漫画ではこういう傾向はとても強いと典型的な類型だと思うんですよね。
けどね、でも、これは高校生とかの恋というショートスパンでものを考えていること、また結婚という現実が射程に入っていないことから、成り立つ公式であって、これがその二つのステージを射程に入れると、そもそも現実の社会は、男女平等にはなっていない、また男性女性にかかわらず結婚した家庭が平等に機能することはまれで「どちらかが責任を背負って外で狩り(=金を稼ぐ)をしてくる」という構造が非常に安定的です。少なくとも、日本の社会は、この核家族であり専業主婦を前提的に社会が構成されており、それ以外の選択肢は、特殊要件が成り立たないと、まず成立しません。実際のところ、先進各国では、男女平等と女性の権利拡張と同時に離婚率は急上昇しました。もちろん出生率も大幅に下がるという現象を生みました。これは、女性が我慢して苦しさに耐えないと、社会が再生産されないようなシステムを近代社会が構築していた、ということの証明です。ちなみに、その後、経済成長率の停滞があり、共働きでないと家庭が食べていけない社会が登場し、そのケアと、家族形態の多様化を経て、、、つまり、核家族や専業主婦を前提としない社会形態を前提とする社会が20年かけて構築されたことで、ヨーロッパやアメリカでは、離婚率の落ち着きと出生率が向上に逆転しました。つまり解決方法はあるのです。出生率が上がらないのは、日本社会がいかに遅れていて現実を見ていない男女差別社会かの証左だと僕は思います。
僕の家庭も共働きですが、現実の過酷さを見ていると、「女は仕事を辞めてしまえ!」と叫ばれているようにしか、思えません。制度的にも道徳的にも。日本は、ほんと古い・・・。出生率が上がらないというのは、「社会が再生産されていく仕組み」が壊れているということなので、未来を捨てている行為なんですよ。子供がほしいほしくないは、権利です。でも、社会全体として再生産が促されなければ、その社会自体の基盤が滅びるじゃないですか。そこに議論の余地は僕はないんだと思うんですよ、優先順位が違うし、ミクロの権利問題とマクロの社会再生産問題は次元が違うので、同じ俎上の議論じゃない。
おっと話がずれた。
えっと、このように『SO BAD』には、男の子を好きになる(=恋愛)という問題に、「相手が自分をどう見てくれる存在か?」というサブの問題提起がありました。一貫して、作者は、「それは対等な存在としてみてくれる等身大の関係」のほうが、いいよね、という方向に揺れています。
ところが、これが重要なんですが、まず最初に主人公が恋焦がれてしまうのは、自分にとって幻想をいだかせてくれるような、そういう魅力的なちょっとエゴイスティツクなやつなんです(笑)。これは、もっと抽象化すると、ほんとうはとても類型化できることで、、、、「自分の意志を持って自分の本質を解決している人」というのは、エゴイスティツクではあるけれども、危険なくらい魅力的な人なんですね。等身大の自己というのは、ようは、自分と同レベルで憧れや向上を含みにくいということでもあります。つまりですね、対等目線の人は、ロングパンでは魅力がなくなっていく可能性が大なんですよ。幻想という意味ではね。草食系でも何でもいいのですが、ようは現実に安住してしまいやすい人間だからこそ、等身大にものを見る人なんですね。
もちろん逆のベクトルもあって、自己の欲望に忠実なエゴイストは魅力あすごくあふれるけれども、そもそも対等で等身大のコミュニケーションをしない人が多いので、そういう人は、一緒に暮らしていて何かをシェアしてくれるということが全然ない秘密主義の人となってしまいます。自己解決を志向するからなんですが、それは、一緒に苦楽をシェアするという共に人生を歩む意味が失われてしまいやすい。
さぁこの超類型的な男子のどっちがいい?、と作者は問うわけです。この人は物語がちゃんと感情移入できるプロセスで描かれているんで、その結果は、実は漫画の物語とは別のところにあるとは思うんだけれども、いつもいつも反復してこのことを問う、、、というか、彼女が「最も描きたい妄想」は、「この問題」を常に呼び寄せてしまうようなんですね。プロセスがうまい人なので、この抽象的な問いに対して必ずしもうまい結論や、目からうろこが落ちるような結果を出さなくても、それなりの「風呂敷の納め方」をできる人なので、ちゃくちゃくと作品を量産していきます。この問題に対する「答え」と、漫画の終息の仕方や面白さとは、別のところにあるからです。
これって、女性にとっての、恋愛の幸せな結論の難しさを示しているように思えてならないんです。
この「幻想がいだけるエゴイスティツクな魅力ある男」を選んだ時点で、結婚したら(もしくは釣られてしまったら)、女の子はただの従属物のモノつまり家政婦になり下がってしまう。この物語で好きな男(南谷Q太くんのことね)とHしちゃったあとに、やっぱりその男は彼女よりも、最優先事項は仕事であることがはっきり示されてしまいます。男はまだ恋にのぼせているので、仕事のためにNYに一緒に来て、といいますが、これって意味わかっているんでしょうかねぇ?。「仕事を辞めて(=お前の大事な物を捨てて)俺に従属しろ」と言っているに等しいのですよ。彼女から仕事を奪えば、彼女の「彼女の最もトラウマになっている部分である母親との関係や自己への信頼のなさ」を回復する契機も、彼女が自分の意志と自己信頼を世界に示す手段が失われてしまいます。もともと何もない人であるならともかく、すでに彼女は仕事を持ち、自分の本質に迫るための戦いを始めているにも関わららず、それへの言及がゼロ。これはすなわち、このQ太という男が、本質的には自分自身しか見ておらず、彼女自身のライフテーマや存在の意義に対して注意を全く払っていないことを示しているんです。少なくともこの関係性の中にいれば、僕はこういうふうに分析し、感じるでしょう。だからあっさり、すべてを捨てて自分についてきて、といえてしまうわけです。その重みに無自覚で。いまはいいでしょう恋におぼれているから。けれども5年もたてば、このQ太くんは確実に浮気しますよ。また、彼女自身が自身の心の空洞化を埋めれれなくなって離婚するでしょう。・・・けど、その時には、彼女は自分で生きていく手段もリソースも奪われているわけです・・・・。悲劇ですねぇ。
逆に、自分を見てくれるであろう存在は、二つの形で今回は分裂して描かれています。主人公は女優業をしていて、彼女自身のアイデンティティ(=自己証明)確立のサポートをしてくれる事務所の社長さん。もうひとりは、『SO BAD』の二男と似たポジションである「対等な存在としてみてくれる等身大の関係」を持ちそうなハルカくん。
けれどもね、、、、社長はまだ舞台に上がっていないからいったん置いておくとしても、今回のハルカ君のポジションは、非常に僕は小さい感じがする。これって、幻想に焦がれて長男(もしくは南谷Q太)にフラフラのぼせたんだけれども、ギリギリのところで「彼は自分しか見ていない人だ」ということに気づいて逃げるための「退避ポイント」として設定されていると、僕は思います。抽象的にいいえばね(苦笑)。現に、『SO BAD』の最終結論は、そういうドラマトゥルギーだった。どんなに魅力的であっても、「自分自身を見てくれる等身大の人がいい」って話。まぁ常識的に考えて、それはそうだと思うんだよ(笑)。
ただ、あれはねー次男が、とっても魅力的な人格であったとか、二人共の持っているトラウマがとても似た形であったとか、いろいろ条件が重なったからよかったのであって、、、現に、同じポジションにいて、同じ心理を再現しているハルカという今回の物語の男は、僕には、とても陳腐に見える。というか、ほんとうに彼女自身を愛することとは?という部分に、全然迫っていないんで、ただの、魅力なない凡人にしか見えない(いまのところ、僕にはね)。たぶん彼女の、生きる上でのライフテーマに、最初に気付くのは、この事務所の社長なんだと思うんだよね。なぜならば、彼女の問題点である家庭環境を一番全体的に俯瞰的に見れる立場にあって、つまるところ「彼女が幸せに生きることは?」と考えた時に、彼女の家族関係のトラウマを解決しないといけないことが、一番最初に感じられるはずだからです。そう考えると、『SO BAD』には、この者長的なポジションとハルカ的なポジションが次男に集約されていたので、とてもいい塩梅になったが、今回は、ハルカはとても分が悪そう。
このレベルの低い「対等存在の目線」のハルカを考えると、もし彼女が彼を選ぶと、、、、物語的には、そうなるとは限らないんですが(ハルカもいい男の設定だしね)・・・・彼女は、たぶん「つまらなく」なってしまう可能性が高いと僕は思います。まぁー少したつと離婚だわな。経験的にね、女性はみんな言うんですよ(笑)「野望を持っていない男はつまらない」って(苦笑)。これって、胸がキュンとしたり、自分を高みに引き上げてくれる「叱ってくれる」というポジションのメンター的なものが、人間にとってとても危険な魅力を放つものだからだと思うんですよ。つまりは「尊敬できる存在かどうか」というポイントです。異性に対して、そんなに「何でもかんでも要求すなよ」とは思いますが、基本、人間は欲望に忠実なので、いろんな要素を求めてしまいます。とりわけ、社会にける自己実現の手段がとても限られている女性は、男性を「選択すること」で自己実現を果たすという社会的に濃厚な伝統(というか構造)が残ってしまっているので、どうしてもそう考えてしまいやすいんだろうと思います。いいことではないし、個人的に僕は嫌いな感性ですが、厳然として社会の大きな部分を握っている感性だと思います。
・・・・さて話を戻すと、「対等な存在」というのは、逆に言うと「ヘタレ度合いや悩み度合いも対等」ということなので、この悩み自身をリスペクトできないと軽蔑の対象になってしまいやすいんですよね。だから対等な夫婦、カップルになりたいと思えば、ほとんどの場合は社会的ステージで対等でないと、成り立ちにくいと思います。非常に端的にいえば、年収で同じでないとだめ、ということで考えればいい。そうでないと、どっちかがどっちかに寄生する構造から基本的に抜けきれないからです。それならば、男性、女性どちらでもいいが、一家の大黒柱(=稼ぐもの)と従属する家政夫・婦に分裂したほうがはるかに安定する。安定する構造って、かなり難しいと思うんですよ。もちろん家族形態やカップルにはいろいろな多様性があるので、一概に言えないですが、まぁある程度の人が共感する構造、というのは大体決まってくると思います。
でも形上の主従があった方が安定するけれども、それは「平等の概念」から外れるという、事実と理想が非常にひねくれた状態になっているのが現代。なかなか難しい社会です。・・・とはいえ、マクロの経済状況が沈む日本なんかでは、そもそも共働きが基本の社会施策が打たれている社会じゃないと、おかしいんだよ。物質的なモノが対等だと、対等な生活スタイルや関係性のあり方も、すぐ一般化すると思うんだよね。それによって社会も組織の在り方も、就業スタイルも、すぐ変わるはず。それがないと、ワークライフバランスなんて、わらいばなしだよ・・・。