『逝きし世の面影』 渡辺京二著  「異世界たる古き日本」へ僕らをいざなう最上級のファンタジーにしか思えない

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


渡辺京二さんの『逝きし世の面影』の300Pくらいまで、帰りの電車で読んだ・・・・。素晴らしすぎる。友人が大絶賛していたが、あまりの厚さと字の細かさに、うーんとヘジっていたが、バカみたいだった。物凄いおもしろいよ、これ。帯に『読書人垂涎』と書いてあるが、まさに。かなり本を読む、それも硬派な堅い系統のものが好きな人には、物凄い衝撃がある本だと思う。たぶんこのへんの時代(徳川ー明治)や近代文明に関する原書などを読みこんでいる人であるほど、それまでの知識が統合されていく感動を味わうだろう。当時の欧米人観察者の当時の日本人の「笑顔」に対する論評の意味を明らかにしていくくだりは、それまで矛盾する評価だった、これら観察者たちの書物の描写やコメントが、そういうことか!と見事に止揚されていって、驚きの連続だ。著者が、最初の始まりに、あまりにおうぎょうに大げさに、「古き徳川期の文明は消え去ってしまった」というくだりは、ほんと大げさだなーと、斜に構えて読んでいたんだが、それが、具体的な豊富な引用と最新の学説をわかりやすく統合して、説明されていくと、衝撃が胸を駆け抜けていく。途中で、ル・グィンの『闇の左手』を初めて読んだ時のような、全くの異なる文明、異なる世界へ旅をしているような、異世界体験を感じる。ここまで見事で深い異世界体験は、最高級レベルのファンタジーでもなかなか味わえない体感感覚だ。読むだけで、異なる世界へ引き込まれる。忙しくて、帰りの電車の行き帰りだけが読書時間だが、ほとんど睡眠時間3時間ぐらいが続いているのに、それでも眠くならないで読み進めてしまう。素晴らしい読書体験は、疲れててもむしろそれが活力になるいい症例だ。ここまで素晴らしい読書体験は、久々。


私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の端緒に立っている。物語はまず、一つの文明の滅亡から始まる。
p1(逝きし世の面影 )



異邦人たちの日記や見聞記を丹念に、具体的な引用から抽象的な論へ進むスタイルは、まさにこの「異世界たる古き日本」へ僕らをいざなう。繰り返すが、最上級のファンタジーだ。もちろん、これだけの引用や学説などが広い視野で語られるからには、読者側にもそれ相応の知識が要求されるのかもしれないので、万人が、この感動を、この最上級のファンタジー感覚を味わえるわけではないかもしれない。だかrこそ「読書人垂涎」という帯びなのだろう。いまp348で真ん中に過ぎないが、物凄い厚さでへじっていたのがバカに思えるくらい、終わりが来るのが苦しいよ。日本人の混浴に対するキリスト教的な、言い換えれば近代社会的な「愛」の次元でのモラルに対する糾弾は、この時代の欧米人観察者の強烈な批判ですが、これが現代の文化人類学の成果をベースに、文脈を読みかえられていく様は、まさに知的スリラー。当時の観察者の近代社会からの「東洋的専制」そして「封建制度の抑圧」の中で、日本のとり分け民衆の、心から幸せそうな「笑顔」が、なぜ繰り返し言及されるのか?。ほぼすべての観察者が、近代化を肯定している西洋的傲慢をベースにものを見ているのにもかかわらず、言及されることを追う面白さ。この渡辺京二という人の文体、思考方法、、凄くわかりやすく面白い。おおっ『北一輝』の本を出している!これ読みたいっ!。


それにしてもオールコックチェンバレンなど、ある意味オリエンタリズム的な西洋の傲慢が、、、とか思っていた、自分の頭のレベルの低さに、金槌で殴られた気分。いろいろ問題はあるが、さすがは一線級の観察者、、、当時の西欧文明の水準の高さに、読んでいて逆説的におののく。文化人類学的「視線」が、どういうものの、土台に立っているか、ということをよくよく理解しなければ、文章一つまともに読めないのだ、ということがよくわかる。いままで僕は何と一方的なモノの見方をしていたのだろう。そりゃあ文章が描き出しているものを理解できないはずだ、、、。ああ、、、素晴らしい本に、、、、、自分を打ちのめしてくれる「思考」に出会えるのは人生の幸せだ。