『和僑 農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人』 安田 峰俊 著  リアル異世界ファンタジーを地でいく2ちゃんねらーのヒロアキさんの姿に感心した!

和僑    農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)


和僑〜中国に住む日本人を見て、日本の現在を知る

このルポの構成は、最初に2chで、中国の田舎に暮らしている日本人の若者がいるというネット情報を見て、それが、これはネタではなく本当なんじゃないか?と探しに行こうと著者の安田さんが思い立つ、というところから始まっている。そして、彼がそれを実際にどう感じているのか問いうインタヴューでこの本は終わっている。巷に、こういった中国潜入ルポというのは溢れているけれども、このちょっと冒険ふうな味付けがされているところが、非常に読みやすくなっており、僕は一気に読み切りました。

マカオの夜の話とかも、アジアで営業をやったことがある人なら、その雰囲気はよくわかると思います。まぁそのあたりは、興味本位的な面白さもあるんでしょうが、ただ、そういった売春婦にしてさえも、日本人が中国に出ていくときに、誰も貧困が理由でも国内にいられなくなったのでもなく、主体的に選んで、そこに行っているんだというのが全編のエピソードから感じられて、日本の「いま」をとてもよく表していると思った。もうすでに資本家と労働者や貧富の格差というようなわかりやすい構図では、先進国の人間の動機は測ることができない。それが、人類のフロントランナーであるこの地域の特徴なのだ。動機が不透明で多様化していることこそ、この地域の豊かさだ。アウトローの人間を基本的には追っているんだが、全編を読むと、そのことが非常によくわかって、興味深かった。あとこのルポを、興味深いものにしているのは、こういう潜入ルポはともすれば、エログロ的な興味本位だけで、だから?というもので終わってしまうのですが、アウトローの対局たる、上海の日本人駐在員たちのエピソードに関する著者の取材、視点、意見は、とても奥深いものがあり、それが全体の中の大きなスパイスとなっていて、読み応えが十分でした。


■中国人を見るのか?中国という文明を見るのか?

北東アジアの辺境、「中華」の周辺に住む諸国にとって、中国とは何なのか?ということ、中国と自国との距離の在り方の相対化にどんなバイアスがかかるかは、よく知らなければ危険だ。そして、山本七平も指摘していたことだが、「中国という文明」と「中国と呼ばれる土地に住む人々」というのには、大きな断裂がある。そのどちらを見ているか?反応が大きく異なり、特にこのズレの認識の無い人は、現実を無視した非常に徒労感のある人生になってしまう、その部分が非常によく描かれていて興味深かった。「これ」がないと、ただの見てきました、だけに終わってしまう。僕もこの分析を知っていたので、非常になるほどと思ったものだ。アジアに生まれた人で知的なものに興味がある人は、基本的に中華文明の偉大さにあこがれなり、その素晴らしさに理解は示すと思うのだ。そうでなければ、その人は、勉強不足としか言いようがない。それくらいに中華文明の遺産は、偉大だもの。けれども、中国の文明と、中国という土地に住む人というのは、ほとんど関係がない(笑)ということは、意外にみんなわかっていない。高島俊男さんの『中国の大盗賊』などを読むとわかるのだが、中国社会は、凄まじい多様性に満ちていて本来統合することが非常に困難な社会なのです。そもそも本来的に、言葉も民族も違う。それが、ヨーロッパ大陸と異なりなぜ一つの文明圏にまとまることがありえたかというと、「漢字」という同じ言葉の機能を共有化したことなど、様々な仕掛けによって統合がなされていったため。しかしながら、それでも、中国はあまりに広すぎて、支配というものが貫徹しない。なので、全体の大きな枠組みを形成する貴族層と、ただ単に生活だけをしている民衆とに凄まじい断裂がある。中国の文明を文化を司るのは、その貴族層のみであって、民衆とは全く関係がない。そして貴族層は、ダイナスティコンクエストでも高い官職についた阿倍仲麻呂でもいいが、必ずしも中国人?(漢民族)のみによって運営されているわけではなかった。なぜならば、中国大陸という多様しの溢れた混沌を支配する貴族層は、普遍性を持ったエリートであって、それぞれの立場を超越した貴族として支配者となったからだろう。ここで何が起きるのかというと、生活の様式、生き方、教養の在り方など、民衆と貴族層であまりの差が生まれるのだ。もうほとんど同じとはいいがたいほどの。僕も中国の文学や詩は大好きで、そういうことを考えながら、中国担当で営業に行くと、華僑のえげつなさ、なんともいえない熱い朋友関係(幇)、自分の一族以外は人間とも思わない守銭奴的なしたたかさなどなど、それはそれで、僕はとても好きなのだが、あまりに、日本に入ってくる中国のイメージと違くないか!と思ったものだ。

小室直樹の中国原論おどろきの中国 (講談社現代新書)

山本七平が、中国の文明のレベル他の高さなどに幻想と憧れを抱いている人が、中国に住んで実際に人との関係を結ぶと、その落差に強烈な違和感と拒否感が生まれ、中国のことを大嫌いになるケースが多いと書いている。これは、本当になるほど、と思う。中国に関わる人は、この落差、というものを常に認識しておいた方がいいと思う。解く日本や朝鮮などの周辺諸国は、へんに中国にあこがれがあって、かわいさ余って憎さ百倍のケースが多い。


そういう文脈で、第六章の『「さらば日中友好」と、友好に身を捧げた老女は訴えた--北京』は、日中友好に人生を捧げた長島洋子さんのエピソードは、そのあまりに無駄で徒労な人生にため息が出た。まぁ他人の人生をそういう風にマイナスに行ってしまうのは失礼かもしれないが、日本のマスコミが煽った左翼イデオロギーに翻弄され、中国イデオロギーを信奉し、その果てに、中国が大嫌いになってネット右翼の意見に賛同する転向を晩年にするって、なんて翻弄された人生なのだろう。

日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)
日本人と中国人―なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (Non select)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)中国に夢を紡いだ日々―さらば「日中友好」

この長島さんのエピソードから著者が、引きだしてくる結論は、非常に鋭いと思った。いくつものエピソードの結論が、非常に広い普遍的なメッセージにつながるので、この著者は、とても知的な人だな、と思いました。やっぱり、ただのルポだと、いまいちなので、そこからもう一歩、普遍性につなげる意見に抽象度を上げてもらいたいというのが、ルポタージュを読むときにいつも思う。

中華人民共和国」と「中国」の違いについて、改めて整理しておきたい。
単なる一国家の名称にすぎない「中華人民共和国」とは違って、「中国」(以下、紛らわしさを避けるために「支那」と書く場合がある)はおそろしく広大で、さまざまな矛盾や無秩序をすべて内包した概念である。


中略


また、中華人民共和国の首都は北京だが、例えば香港や台湾や、南方の広東省の住人たちは、北京を「北韃子(ペイダアヅ・北方の野蛮人)どもが住む単なる田舎街だとみなす価値感が根強い。香港人や広東人に言わせれば、北京は決して中国の中心ではないのだ。現在の北京を支配する共産党政権についても、過去のモンゴル人の元朝満州人の清朝や、袁世凱の北洋軍閥華北戦線の日本陸軍と同じように、所詮は夷狄か寇盗のなかまである「共匪(ゴンフェイ・共産匪賊)」どもが、遠く貧しい北方の町で勝手に威張っているに過ぎないと考える冷めた視点が存在している。
 現在の中国共産党は、「ひとつの中国」や「統一戦線工作」といった政治用語が大好きだ。
2008年の北京オリンピックで採用された「同一世界、同一個夢想(One World,One Dream)というスローガンモ、こうした言葉と共通する意図を持つ。だが、為政者たちによってこの手の言葉が盛んに使われるのは、現実の中国が本当はちっとも統一しておらず、中央政権のコントロールできる空間がごく限られたものでせかないことの裏返しにほかならない。
 北京で天下をとったつもりでいる中国共産党が作った国家「中華人民共和国」とは、無限に近い広がりと多様性を持つ「支那」の内部で、ごくわずかな一部分を占めるささやかな存在にすぎない。


P268 支那の正体は混沌そのものだ


■リアル異世界ファンタジーを地でいく

とにかく2chねらーのヒロアキさんの姿が、まじでうけた。というのは、これって「小説家になろう」の異世界ファンタジーものそのままじゃん!(笑)って。


このひろゆきさんは、ふらっと中国に出かけて、そこで一目惚れした少数民族の女の子と結婚して、そこに溶け込んで、子供もできて、暮らしている人なんですが(って、説明してて信じがたい、、、、(苦笑))、この人のエピソードや生き方、動機にあり方、反応や、異民族の土地での暮らしへの浸透の仕方など、、、、もう、なろうの小説の、なろうがわからなければ、ライトノベルの主人公が異世界に行ってしまう系統のお話そのまんまなんですよ、、、、ああ、若い世代ってこういう感性なんだ、、、そして、それは十分リアルにやってしまえるんだ(笑)、、、と感心しました。


この部分は、いまの日本人という視点で、非常に興味深かった。中国という混沌の大地に対して、さまざまな日本社会の非常に濃い上澄みの部分が、和僑にあらわれている。それは、きっと、近くて遠い空間にいるが故に、日本を映す鏡となるからなのかもしれない。非常に面白い本でした。