『リーングラードの学び舎より』 いえこけい 著 最近盛り上がって読んでいます。

リーングラードの学び舎より
いえこけい 著
http://ncode.syosetu.com/n7826bd/


最近、我々友人界隈で、盛り上がっているなろうの小説です。たぶんどっかで、記事書くと思うので、余裕があると思う人は、ぜひともコツコツ読んでおいてくださいー。

ちなみに、軽くあらすじを説明しておくと、大きな革命があった後の王国での、ある軍人?(なのかなぁ)が先生になるって話なんだよね。僕はこれを見て、グレンラガンのヨマコ先生の回で、凄い興奮した時のことをおとても思い出しました。その時の記事を抜粋しておきます。ぜひとも。


僕は、クリスティーナ・アンデル・ハイルハイツ押しです!。。。。


実は、白の、、、もいいけどねぇ。



海燕さんのいうように古き良きライトノベルの香りがする構成ですね。とっても地味に設定しているし世界の設定が広すぎるので、なかなかとっつきにくいかもしれませんが、、、、これはいいっす。僕はすごいすっきっす。まだ2章だけど、まだまだ続く長さがたまらなく好き。



24話「忘れるものか この一分一秒を」
http://ameblo.jp/petronius/entry-10080091594.html

■マクロの責任を負うだけが、世界へ貢献する道ではない

とはいいつつ、ヨマコ先生の回は、いやー素晴らしい脚本だと感心した。

ある既成の秩序に対するレジスタンスを描こうとすると、実は、重要なポイントがあって、レジスタンス(=革命軍)が、


政権を獲得して権力を握った後に、どんな治世を行うか?


という点だ。

ただ反対するだけならば、サルにでもできる。しかし、権力を運営するとなると、とたんに難しくなる。ただ単に反対すればいいわけではなく、マクロの矛盾を抑え込むために、膨大な組織力や煩雑な官僚手続きやそういったものを管理する能力が求められるからだ。たいていのヴェンチャー企業が、ある規模を超えると急に経営力が追い付かなくなり崩壊したりのっとられてしまうのは、一点集中で攻撃しているレジスタンスや起業家では、そういった巨大な組織をコントロールできない場合が多いからだ。これを、ストーリーの中盤に持ってくるのは、僕は、最高に好きな構成だ。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10069642744.html



この話は、どうも脚本家の中島さんはちゃんと意識しているようですね。革命政権といもの・・・・既成の権力をひっくり返す次には、「時代の権力を担う責任が発生」するということの重みを。また井汲景太さんが嬉しいコメントを入れてくれたので、引用をさせていただきます。



「21話も「おいおい、『二十四の瞳』かよ!」って思われているかもしれませんが(笑)、実はこのエピソードは個人的に肝の話なんです。3部をやる意味があるのは、このエピソードがあるからだ、と言い切れるくらいです」


「僕は、自分で物語を書くときは自立したヒロインが好きで、あまり記号的には描きたくないんですよ。自分の意思を持って人生を歩いていく女性として描きたい。ヨーコもそうで、ある意味ヒロインとしてのカミナとの悲恋で終わっている。でもその先にも彼女の人生はあるわけで、その中で彼女がどう考えてどう生きるかを描かないといけないし、むしろその方が面白いと思う」

「3部の冒頭で彼女が「(政治は)性に合わないから」と去っていくのは、すごく正しいことだと思います。責任を負わなければいけない人もいれば、向かないと思えばさっさとやめて、自分の道を探すべきだと思うんです。野に下る人がいてもいいじゃないか、と。

(中略)

あと、何故ヨーコが教師をやるかというと、7話のカミナの「皆がお日様の下でニコニコできる世界を作りたいじゃないか」という言葉が、ヨーコの心の中に残っているからなんです。しかも教えているのはテッペリン陥落後に生まれた、物心ついた頃から空を見ている子供たちです。つまり、戦ってきた上の世代が、下の世代を教育していく、ということも大事な責任なんだ、ということを、ここで見せたかったんです。なぜなら、世代交代は『グレンラガン』の大きなテーマのひとつですから。シモンたちの政治ドラマと、市井の人となったヨーコが教師となって下の世代とつながっていくドラマ……その両輪なくして、『グレンラガン』は成立しません」





おっと、出典を書き忘れていました。先ほどの中島かずきコメントは、再びアニメージュ2007年10月号付録よりです

この回は、唐突で(そういう意味では癪が足りないから演出が間の説明なしに入るのは個人的にはマイナス)、なぜヨーコが市井の人となって教師をしているか?というのは、結構深読みしていないと、その意味の重さに気づかなかった人は多かったのではないかな?と思う。僕は少なくとも、カミナの過去のセリフは忘れていましたしね。ただ、革命軍の中核メンバーが、


さっさと野に下る(=マクロの権力を潔く放棄する)


ことと


局所的ではあっても、自分が作り出した新しい世界の教育に人生をかける(=自分の理想の純粋さをミクロで守り抜く)


というのは、非常に素晴らしい行動だと思いませんか?。マクロを維持できるほどの政治的な能力がないとしても、革命軍に参加した動機が「皆がお日様の下でニコニコできる世界を作りたいじゃないか」というものであったとしたら、自分の身の回りのごく小さなサークルの中だけでも、その理想を純粋に追及しようとするヨーコの姿勢は、素晴らしいといえないだろうか?。




もちろん、本来はニアと二分するほどのヒロイン的な立場を与えられているヨーコ個人のドラマツゥルギーを、カミナとの悲恋と市井の人間となって理想を貫くという、ともすれば現実的ではあるが華々しくない(=物語的に美味しくない)渋いものにしていることは、たぶん、エンターテイメントの観点からいうと、ちょっと微妙かもしれない、という思いがある。




尺も短いので、一話だけでヨーコの来歴や内面のドラマに感情移入するには、少し無理があるしね。このへんは、感情移入しているが故に、感動する自分と、妙に冷静に脚本を分析してしまう自分が分裂していて(要は没入できなくて)なかなか不思議な感じがした。僕はこの作品、肯定したいのか?否定したいのか?って。