評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つplusα)
米HBOと英BBC共同制作はいいものが多い。2001年に共同制作した『バンドオブブラザース』は掛け値なしの傑作だった。この『ROME』もそうだが、ドラマにはその国の文化や世界観というか、生きている生活空間の違いがよく表れるので、よく注意してみていると面白い。『Hunger Game』の記事で、アメリカの巨大オーディション番組のAmerican Idolなどの系譜の日常を知らないと、たぶんあの作品の本質は理解できないだろうという話をした。『バンドオブブラザーズ』は、アメリカの唯一掛け値なしに正しい戦争だった(とアメリカ人が信じる)ことを振り返ることによって、アフガニスタンやイラクでの戦争とそれがどう違うのか、という文脈があったように僕は感じます。また、そこまで現代的な認識でなくとも、第二次世界大戦というものが、アメリカの現在の最長老たち、、、そのあたりの年齢にとっての輝かしい思い出であり、重要な歴史、、いや歴史とまではいかない「思い出」として社会に深く浸透していることです。正しいかどうかとかそういうことではなくて、物事を考えたり感じたりする時のマトリックス(=母型・基盤)として存在しているという意味で。前回、『47RONIN』の作品を見て、アメリカ人には、忠臣蔵という閉鎖的な徳川社会で、かつ日本的人間関係の倫理をベースにしているこの物語の本質は、単純には理解できないだろうに、それにこだわったがために、アメリカ人からは意味不明な作品となってしまった、と書いた。この辺は、だからこそ「そこ」の部分を映画化したかったであろうことは、作り手たちの野心はわかるので、単純に馬鹿にはできないのだが、すごく難しいと思うのだ。他のカルチャーの背景にある母型を知らずして、なかなか理解は容易ではない。
しかしながら、逆を言えば、他の文化の基盤となる物語の母型を深く理解したり体感していると、異なる文脈の多様性を一発で理解しやすくなるということにもなる。たとえば、常識的なこととして、西洋絵画の歴史を見るときには、キリスト教の歴史や出来事、聖書の物語を深く理解していないと、ほとんど意味不明のものになってしまう。モチーフがすべてそれだからだ。それと同じように、『バンドオブブラザーズ』のノルマンディ上陸作戦や『パシフィック』の大日本帝国海軍との戦いなどの大きな歴史的事件、それに伴う、アメリカ側の日常からの意延長線上としての「等身大の視点」が体感できて刻まれてくると、友人と話していても、話が全く違う形に広がってくる。まず、その国を中心とした歴史事象を知っている、ということ話が広がる大きなきっかけになる。その上に、その国の内在的な視点で、どうだったんですか?という質問は、しびれるほど効果的だ。
というのは、いつも思い出すのは、友人のアメリカ人の家に遊びに行ってディナーを食べている時に、そのお祖父さんに『バンドオブブラザーズ』が素晴らしくて、という話をしていたら、、、ああ、おれも、ノルマンディ上陸作戦の時は怖くてねぇ、、イギリスの田舎町に駐屯しててみたいな(笑)話になって、それってボランティーアズ(志願兵)ですか?と聞いたら、よくぞきいてくれた!(笑)みたいになって、話が広がったんですよね。というか、その家では、またお爺ちゃんの自慢話が始まった、とかいう感じだったけど、僕はには初めての話で物凄く新鮮で、うちの身内にも軍属がいたのでそっちの話とかしながら同時期で、こんな感じだったんですねーとかいう話がどんどん広がっていったんです。
その後、朝鮮戦争とかの話にもなり・・・・ああ、自分的には凄い驚きなんですが、日本は1945年を大きな境に、違う国家になっているので、それ以前は異世界みたいなもので、大きな断然がそこに有るんです。けれども、アメリカ人にとっては、凄いシームレスな感覚で、WW2と朝鮮戦争がつながっているんですよね。そりゃそうだ。けど、この感覚が、物凄いセンスオブワンダーで、ああ、そうかアメリカってこういう感覚なんだ!と驚いたのを覚えています。
『バンドオブブラザーズ』主人公だった少佐は、ドイツ解放の後みんなが受かれて退役を考えるときに、「まだ日本が降伏していない!。戦争のない世界を作るには、日本を倒さないと、、、」とつぶやくんです。この後冷戦のスキームに緩やかに変わっていくんですが、このあたりのシームレス感覚(=つぎはぎがない、断絶が弱い)って、驚きます。それに気づいてから、アメリカの歴史博物館などや書物の見方がものすごく変わりました。アメリカ人からすれば、あまりに当たり前で、意識することもないので、それが書かれたり注意が引くように説明されることもないのですが、そういう「前提」みたいなものがわかってくると、物事の見方がものすごく変わるのです。そういうものを、見つけられたらな、と思う今日この頃です。
ちなみに、『バンドオブブラザーズ』が重要なのは、アメリカの歴史を考えるときに、戦争をどうとらえるか?という部分で、彼らは正しい戦争と、正しくない戦争という分け方をすごくしていて、ナチスドイツと大日本帝国という悪の枢軸を倒して世界を解放したという「神話」は、彼らにとって重要な物語の母型なのです。すなわち、世界の公式スタンダードな「正しい歴史」です。国際連合、、、連合国による悪の枢軸たるアクシズ連合(大日本帝国・ナチスドイツ・ムッソリーニイタリアを中心とする枢軸国)の打倒制圧と、地球の統一(苦笑)という神話的物語の母型。同時に、彼らにとっての過ち、贖罪、罪、、、というか大きなスレッシュホールドは、ベトナム戦争です。もう一つは、911ですが、自国の罪を自覚させられて、無邪気なアメリカでいられないと実感したのは、ベトナム戦争です。日本における1945年の敗戦と同様の効果や断絶を持っています。などなどを知るためには、まぁアメリカの歴史を知りたい、等身大のアメリカ時の視点が知りたいとかだけではなく、戦争映画の系譜を理解したいという時にも、これは重要なポイントです。
日本の近代史を理解する上では、順序が必要という話をしたことがあります。物語的に言えば、司馬遼太郎の近代の日本は偉大だ!素晴らしかった!から導入部に入って、それを解体していくという順序がとてもいいとい話です。イデオロギー的に言えば、右翼からは言って左翼に至る感じとでもいいましょうか。僕は特定のイデオロギーに騙されて生きたくないので、できる限りバランスを持って世界を眺めたいといつも考えています。いわゆるマルクスが言ったブルジョワシーというか、まぁパンピーの名もなき市民ポジションなので、大げさに国家とは!とか世界平和とは!とか語っても、為政者じゃないので、もう少し生活者視点でものを考えたいからです。そこが実感ですしね。とはいえ、組織の長、経営者の視点は、どうしても入りますので、パンピーとはいえないかもしれないですけれどもねぇ。佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』で描写された話からとると、被害者としての日本と、加害者としての日本の両方をちゃんと直視しようとするものです。歴史はバランスだと思うのです。僕の言い方で言うと、被害者としての日本の歴史感覚は、『風雲児たち』や司馬史観がベースで、安全保障の物語です。ヨーロッパ文明、白人に無理やり開国させられて国を侵略されようとしたことへ対しての独立と解放、反抗のの物語。基本的に素朴な右翼はここに立脚している人が多いですね。これも一つの真実。しかし同時に、加害者としての日本は、ニーアルファガーソンがいう西洋化の普遍的な仕組みを取り入れて、近隣諸国への侵略をし帝国を形成したわけですよ。それだって、もうひとつの真実であって、真実の裏表です。
さて、身体感覚の母型となるような大きな歴史的事象や物語を体感するという目的以外にも、もう一つ、他者の物語の母型を知る時に重要なポイントがあると思っています。それは「人間関係の距離感」です。僕のブログのテーマである「関係性」というものはどういうものか?その距離感とは?深めるためにはどうすればいいのか?といった系統の問いです。
アメリカ人とヨーロッパ人をひとまとめにするのは危険ですが、こと、西洋文化・・・ウェスタンシヴィリゼイションの関係性というもので、いつもああ、これは東洋文化圏そして日本文化と極めて違うな、、、と思うわせるところが、恋愛関係です。とりわけ、キスやSEXに至る距離感が、本当に我々の住む日本社会とは異なる。これは最近気づいたのですが、映画やドラマを字幕なしで見るか、もしくは、リアルに人間関係をずっと英語(とかヨーロッパの言語ならいいのでしょうが)でやりとりしていて、、、この距離感の感じは何だ???って、思うようになってきて、なんだか、うーんまだうまく言語化できていないのですが、言葉と距離感と息づかいみたいなものの「総体感覚」がわかってくると、ああ、、、この距離の感じは、こんなに日本の人間関係と違うのか、という感慨があるのです。なんというか、一番強烈なのは、たぶんSEXやキスなどの異性(とは限らないかもしれませんが今だと)に普通の状態からなだれ込むときの「なだれ込み感(笑)」とでもいうのかなぁ、物凄く直接的プリミティヴな感じで、しかも凄い重要な位置づけにあるのです。プリミティヴというのは、なんというか、日本的なというか東洋の感じからすると、なんか野獣っぽいんです(苦笑)。肉食獣的な(笑)。でも、べつに、日本の基準でいっているのでそう見えるだけなので、彼らにとってはそれは自然なんだと思います。恋人や愛する人とのSEXに至るまでの関係性の行為は、親密圏のもっとも深い部分なので、そこの表現・行為は、いろいろな関係性の基準・メトリクスとなります。なんというか、うーん、赤裸々というか、動物的というか、素朴でシンプルというか、谷崎潤一郎的にいうと陰影が全くない感じ(苦笑)。plus的に言うと、とてもポジティヴでシンプルで素朴で、ストレートなのです。なんというか、無邪気といってもいいかもしれない。特にたぶん、西ヨーロッパよりも、アメリカのほうが、そのストレートさや素朴さは、強烈な感じがします。
さて、なんでこんな話をしたかというと、この『ROME』という作品において、何を描いているかというと、そういった人間のプリミティヴさを、これでもかって赤裸々にストレートに描いているんですよね、強烈に強調して。なんとなれば、ローマ帝国、ローマンエンパイヤという世界は、多神教でかつ、欲望に赤裸々で忠実な時代という解釈というかパラダイムがあるんだろうと思うのですが、それを強調しようとしているのがすごくわかるんですね。その強調は、けっして何もないところから出てくるのではなく、西洋文明のベースとなる関係性をさらに極端にしてカリカチャライズしているんだろうと思うのです。なので、日本人からすると、凄く違和感がある。もちろん、ここは異世界、異なる時代だという物語の前提なので、そう思わない人もいるかもしれませんが、僕は、おおって感じました。なんというか、『デスパレートな妻たち』とか『SEX and City』アメリカの関係性が入り組んで、いろいろな家族や恋人の関係性をドロドロ描くドラマを見ている時の感覚をすごく思い出したのです。なんというか、みんな赤裸々に個人としての幸せを貪欲に追い求めていく・・・いわゆる個を追求する!なんて難しい言葉でよく言われますが、そんな感じで、、けど、いや、それじゃー野獣だろう(笑)と思うのですが、日本社会や東洋社会の集団的、階層的な世界からすると、やっぱりとてもストレートななんですよね。
ちなみに、別に結果というか、起きる出来事は実は、日本でもアジアでも、アメリカでも西ヨーロッパでもあんまり変わりません。一つは、人間の住む世界の社会の複雑さはどこもそんなに変わらないものだからだし、。なによりも、成熟した近代社会は、すべての国家がウェスタンシビリゼイションのコモンセンスをベースにした仕組みで出来上がっているので、そうそう変わらないのです。けど、関係性の原初の出方は、かなり感じが違うなーって思うのです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/rome/
ということが前置きで、やっと個別の感想に入ります。いやなにがよかったかというと、僕は、オクタヴィアヌス(=初代の皇帝)の母親であるアティアが、最高にすばらしいキャラクターだった、と思うのです。このおばさん、なんというか、最後の最後まで現役の「女」なんですが、いやーいわゆる典型的な「女」の気持ち悪くて、最悪な部分が、これでもかと凝縮されている本当にいやな女なんですが、これが極まりつくすと、、、、あれ、なんかかわいくない???、あれなんか、凄く健気で、よくない???って、不思議な感慨を感じたんですよね。どれも、典型的な女のだめな部分が最初に出てきます。自分の娘の恋人が結婚するにふさわしくないとこっそり暗殺しちゃってばれたり、息子を可愛がるあまりに明らかに過保護にして拘束しつくして反抗されて嫌われたり、自分が現役の女と権力を得るために回りを駒のようにしか見ていなかったり、、、、典型的な日本で言う教育ママ、子離れできない親、家の格式に拘るあまり家族を不幸のどん底に落とすダメな母親、、、何ですが、、、、、ユリウス家というカエサルの出身の名門の家なんですが、いやまぁーなんというか、最後までみると、これがけっこうかわいいんですよねっ。最後まで現役の女を張っていて、アントニウスにラブラブなところとか、見ていて本当にかわいい。それでいて、セレウィリアとの確執と女の戦いとか、想像を絶するドロドロ感(笑)。この赤裸々感の貫き具合は、見てて、なるほどなーって思いました。特に、いわゆる女の嫌な部分といわれるところをこれでもかと描いて、ああそういうものね、でふつうは終わってしまうんでしょうが、それが、21話?くらいの長い人生でずっと描写されていくと、なるほど、彼女は彼女なりに一貫しているし、人間ってそういうもんだよね、というおかしみというか、なんというか、そういう腐った部分も含めて、やっぱり人間的なるものなんだ!という肯定的な温かみの視線がすごく出ていて、僕はとてもよかった。僕は、そういった人間のどうしようもないダメな部分も含めて肯定的に見れない視点は、嘘だと思う人なので。
■ボレヌス、アティアの生き方と執政官になってからのオクタヴィアヌスとの対比
これを見ていて、『インビクタス』のマンデラ大統領を思い出した。この映画は、黒人と白人の融和を考え100年以上のマクロの新しい仕組みを作るために人種融和の環境を作りだそうと腐心するマンデラ大統領の奮闘が主なテーマにあるのだが、彼が、大いなる心で白人と黒人の人種対立に「許し」を与えようと奮闘すればするほど、家族から憎まれて生き、家族が崩壊する様が描かれているんですよね。なぜならば、マンデラの家族は、白人に差別を受け人生を苦しめられてきているわけで、そうした自分たちを迫害した人々を許すマンデラ(=父親)は、家族を愛していないのだ、と感じてしまうようなのです。そして、これは凄くよくわかる感情的反射だとおもう。だって、彼の娘?だったと思うが、なぜ?なぜ私たちを迫害した白人を許さなければならないのです?、お父様は私たちが嫌いなのですか?、とマンデラに迫るシーンは胸に焼き付いています。
『インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5
僕がこのシーンから何を受け取ったかというと、マクロの出来事というのは、個人には実感することが難しく、ほぼ不可能なことだ、ということです。もちろんそれゆえに、マクロを理解し、それを変えようとするマンデラ大統領は偉大なのですが、それは、周りの彼との個人的な紐帯を結ぶ親密圏とは、まった異なる人生を生きることになり、孤立してしまうということを意味するのだ、ということです。
ことほど左様に、マクロの次元を見て感じて行動する人と、ミクロの次元を見て感じて行動する人とでは、生きる生き様が異なってしまうし、感じているものが全く異なってしまう。全然違う立場の人だったらともかく、それが家族だったりすると、本当に悲しいすれ違いになる。それでも、ミクロの次元にとどまっていては、世界は変わることなく人間の動物的な反射の世界で、何も変わらなくなってしまう。
ちょっと、ROMEの話とずれるように見えるけど、最近のブログの記事を振り返って。
やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1
祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1
僕は前回、失われた20年やこのあたりで取り残された(当時の)若者が、社会に不満をぶつけていろいろ主張したとしても、それはほとんど無視されて社会が切り捨てるだろうと書きました。それは、低成長、成熟の斜陽の時代に日本が入ったからで、若年層の極端な失業率低下、緩慢な滅びを感じる希望のない社会になるのは、西ヨーロッパ200年のヨーロッパ病の実例を見ていれば、ほぼ間違いないと僕はマクロ的に思うわけです。なので、がたがたしゃべって愚痴る暇があったら、ちゃんと生き残るように戦うしかないよ?、社会は絶対に助けてくれないよ、ということを思うんですよ。
佐々木俊尚さんのツイートか何かで、「人をこき下ろして馬鹿にするのは人生を豊かにする!」とかいうコメントを見て、これおかしくないか?というような記事を見て、、、そうだよなー。そういう批判屋さんって、どこでもたくさんいるようなーネットの世界は、としみじみ思ったんですよねぇ。でも、こういう人って、人生損しているだけなんじゃないの?って僕はいつも思うんですよ。別にネットに限らず。トータルで。因果応報が正しいとは言わないけれども、仏教的因果律は、僕はミクロの人間世界では、かなりの確率で正しく機能すると思う。マイナスの感情を抱えて生きてそれに従って生きていると、感情的反射ではストレスが和らいでも、トータルで悪いものがたくさん人生に帰ってくると思うんですよ。40年ぐらい生きた経験則からも、まぁ妥当と思える「正しさ」を抱えてまっとうに(ときにはしんどいですが…)生きている方が、トータルでは得をすることが多い。なのに、なぜ、自分で損するような人生を生きるんだろう?って。そもそも、直接に自分の人生が改善することにエネルギーを傾けないことの無意味さが、僕には理解できない。嫌いなら、そこから離れればいいのに粘着するなんて、なんてゆがんだ人生だろうって。。。
また、低成長で成熟した社会では、これまでの高度成長期と異なる価値観が重要になってゆき、、、僕はデジタル中世という形での、中世にも似た内面を重視し、面識圏との紐帯をベースとする親密圏の構築・・・言い換えれば友達との絆、永遠の日常を、退屈を散らしながら「今を生きる」感性が重要になっていくと考えています。
そういう大きなマクロトレンドの流れに乗り遅れると、究極的には人生の目標である「幸せを感じる」という目的から逸脱して不満とルサンチマンに閉じ込められたナルシシズムの人生を死ぬまで継続することになってしまうよ?と書きました。これが正しいかどうかは、しょせん僕のなんちゃって予想ですが、仮にこの予想が正しければ、要はネットで愚痴っていたり、他人を貶めるのが楽しいぞ!とかいっている人々は、まったくこのマクロトレンドが読めていない、ということになります。まぁ、「正しさ」って曖昧なものですが、そういうのは強いんですよ。人倫的に考えて、人の悪口を言い続けている人が、幸せになれるとはとても思えない。
それに、僕は、この議論自体がすごく不毛なことで、こんな議論をしている暇があれば、自分で幸せになる方法を探すべきだ、それはいくらでもあるはずだ、という風に思うのですが、、、。いやほんと、僕がいつもすごい不思議に思うのは、人を攻撃する余裕があれば、いやなものを見ないで無視して、自分の好きなことに専心すればいいじゃないか!と思うのです。それが、全然理解できない。人を攻撃しても、自分自身の境遇は何一つ改善されないんだもん。なぜ、そうしないかが、子供のころから不思議でした。もちろん、議論自体が楽しいとか、趣味でマクロトレンドを追ったり祭りを体験するのは面白いよ?というのはわかりますが、、、、、
僕自身は、このマクロトレンドを読んだうえで、何が自分にとっての幸せになるか?ということを徹底追及したほうがいいと思うんだよなー。ブログを長期間読んでくだだっている人は、僕がブログを通して友達を形成してゆき、非常に豊かな趣味ライフと、深い友人関係を構築していっている過程を見ていると思います。7年ぐらい前の最初期からの見ている人は、僕がこういった趣味関係の友人がほぼゼロであった企業戦士(笑)だったころから見ているはずで、LDさんら海燕さんら大親友たちは、僕が構築している友人関係の凄さが、どれだけ凄いかってわかると思います。いやほんと、凄い知り合い増えました、、、って、知り合いではないですね、はっきりと友達ですね、僕は知り合いはあまり増やさないので(あまり意味ないので)。知り合いレベルなら、付き合わない。めんどくさいもん。人生それほど余裕はない。
まぁ、僕は、自分で言うのもなんですが、優秀なマーケッターでしたし、現在はグローバルな事業を運営をするくらいの手腕があるわけですから、そこを「自分の幸せのために」全力投球すれば、かなりのことができるわけです(意外に、優秀なビジネスマンが、自分の幸せのために頑張っていないケースは多い。仕事に追われ過ぎて。日本的成長追求のビジネスマンのダメな癖です。)。片手間でも10年近くかけているわけですから。LINEやブログの友人たち、オフ会で逢ったことある人らは、僕が仲間を構築してメンテナンスするのにどれほどの熱意と努力を何年もの長期間にわたって意識しているかは、わかると思います。まぁ10年かかるもんだからね、こういうのは。なので、僕は自分が議論すること自体は、このブログを趣味のキーステーションとして利用できる、背後のリアルの人間関係が整えてあるので、何の問題もありません。ちゃんとした大人で成熟した人間のつもりなので、ブログを通しての人間関係やネットだけのヴァーチャルな関係なんて、そんな幻想は信じません。海燕さんやLDさんらは、リアルでしっかりした関係を築き、様々なイベントや出来事を通して、ちゃんとリアルの真の友人として関係を深めています。今は堂々と、生涯の親友だ、といえます。大切な友人がなくなって涙して、ずっと落ち込んだ日もありました。ほんとうに、そういうたくさんのを共有できる大事な友人が、自分の大好きな趣味を通してあるのは幸せなことです。
・・・・・・けど、たぶんネットで議論を吹っ掛けたり、悪口を言うようなレベルの人々って、、、、まぁそうでなくとも、ネットでルサンチマンをぶつけている人々たちは、僕も最初の頃はときどきそういう人とあったりしてたのでわかりますが、本当にダメな人生を送っています。どう見ても孤独そうだし、それに気づいていないという二重苦だし。や、もう、、、、そりゃ、、、だめだよってくらいだめでした・・・・。ある程度のサンプリングしてみるとプレイヤーの行動予測は透明になります。僕のブログが正しいとかそういうことでは全然なくて、たとえば、ネチネチ関わったりしても、何にもその人の人生はよくならないじゃないですか?。一番いいのは、無視して、自分が正しいと信じることに邁進すればいいじゃないか、と僕は思うんですよ。なに無駄なことに時間を使っているのか?って、、、全く理解不能なことに時間を費やすんですね。なんというか、無駄だなぁーって思うんですよ。このブログが僕の唯一の実存で、逃げ道であったら、僕が嫌いでつぶそうとそこを攻撃するのなら、まぁありな選択肢かな?とか、無駄とは思ういますが、まぁそれもありでしょう。けど、僕の趣味のネットワークはすでに実体を持っているので、ブログでどうのこうのなんてのが影響することはもうほぼないところまで構築してあるんですよね(苦笑)、、、それに、僕の真の重要な部分は、自分の関わっているビジネスや家族とかであって、ここって趣味の枝葉に過ぎないわけです、、、僕に無視されたらそれで終わるわけですよ、、、、。なんと無駄なことに、努力を費やすのだろう、、、と。好きなようになんで生きないのかな?とねー。
これ全然違う話のように見えて、ROMAをずっと見てきたときに思ったことと重なるんですが、、、人間は、幸せになりたいだけなのに、なんと間違ったことばかりを努力してしまうのだろう?って思うのですよ。
海燕さんならば、ここで、僕がグインサーガのヴィール・アン・バルドゥール子爵に対してグインが言った言葉を思い出すことでしょう。僕はこのシーンがとても、印象的で、、、このタルーアンの地をひく私生児の子爵は、その出自から人々に馬鹿にされ差別され、性格が捻じ曲がってしまって、帝位簒奪を狙うのですが、どんどんダメな方向に向かうのですね。一応皇帝の血はひいているわけだからやりようはいろいろあるのですが、この場合は本当にこの人物は心根も卑しいので、オクタヴィアをレイプして自分のものにしようとしたり、やることがレベルが低いというか、短絡的というか、、、最後は、グインに、真っ二つにされて殺されてしまいます。その最後の時に、、、、正確なセリフは覚えていませんが…
このようになったのは、おれのせいなのか?、このようであることはおれが悪いというのか?
というセリフを、グインに投げつけるのは印象的です。もちろん、すべては「自分が悪い」というのが答えなのですが、とはいえ、この気持ちはよくよくわかるのです。グインは、すべての「正しさ」を体現するような人です。あまりに「正しく高潔」なので、ケイロニアの皇帝が、ぜひに自分の後を継いでくれとか言い出すぐらいに、凄い男なのです。けど、その「正しさ」は、強くなければできないことなのです。たぶんバルドゥール子爵も強く有れれば、こんなに捻じ曲がらなかったはずだ!といいたいのだろうと思います。けど、彼の出自と育ちと環境は、そうではなかった。。。。ものすごく強く高潔に生きているグインには、この子爵の言うことが、、、これは言葉ではわかっているのですが、実際には行動に表れていないので、わかっていないとしかいいようがありません。僕は栗本薫の作品には、この両方がよく出てくるのですが・・・・両方というのは、グインのようにまさに英雄として、人間存在として、マクロを深く理解して行動する為政者の強さと才能と自負と倫理を持ったような、、、まさしく英雄ですね、そういった存在。けれども同時に、とるに足らなく、卑しく、ゴミくずのような存在も出てきて、そのとるに足らぬものが、強さを輝かす英雄を告発する構図がよく見るのです。そして・・・・
『豹頭王の苦悩』 〈グイン・サーガ122〉 栗本薫著 いまになって、われわれは、その罰を受けているのだと思います。無関心と、そして無理解との罰を
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080808/p5
この記事で、僕は、シルヴィアの話を書きました。ケイロニアの男の中の男たちに囲まれ、みんなから愛されるケイロニア王グイン。しかし、その高貴なるマクロを知る存在は、一人の少女の魂を人生を救うことは全くなく、それどころか徹底的に壊すことになるのです。それは、ただ単純に、その少女が、とるに足らないマクロを知ることもない弱い存在だったから・・・・。そして悲しいかな、強者は、弱者の心が、感覚が全く理解できないがゆえに。。。。
ヴィール・アン・バルドゥール子爵は、そうはいっても、優秀な剣士でした。自分の生き方を選べるくらいの力量もありました。その彼が、どんなに捻じ曲がろうとも、人生をかけて帝位を狙って、悪逆の限りを尽くし、最後のは、同じようなに暴力によってグインに殺されたのは、それは一歩引けば仕方がないことでしょう。バルドゥールには、悪である限りには覚悟がもう少し必要であったとは思うのですが、まぁ、しょせん小物、そこまでは要求できなかったでしょう。けれども、それは道理。黄金律みたいなもの。この世界のグランドルールです。暴力によって他者を害するものは、自分もまたより大きな暴力で害されることを是としなければならない。少なくともその覚悟は必要。
しかし、、、、では、シルヴィアは?。彼女は、何も選んでさえもいない。ただ、弱すぎたがゆえに、マクロを理解することを拒否したがために、、、、それだけのために、あんな目に合わなければいけなかったのでしょうか?。彼女が唯一できたのは、自分を責めたててて、壊して自傷することだけでした。・・・この辺は、リストカットや拒食症のことをずっと良く追っていた中島梓ならではの構図だな、とうなったのを覚えています。最も弱気存在を、強気存在が無視することによって、全体が崩壊に追い込まれる危機を招くことになる、、、ということ。これは社会学でいう、社会からの拒絶と包摂の問題と似ていますね。ちなみに、ほら強者が弱者を助けなければいけないんだ!とか思わないでくださいね、、、これがために、弱者は地獄に落ちてぼろぼろに消滅するわけですから、、、、。全体にとって、すべてのプレイヤーにとって何もいいことがない。弱者ポジションの人も、昏いルサンチマンの情熱で、世界を滅ぼそうとする必要性があるとは僕は思えないのです。ああ、、、『大導寺一族の滅亡』シリーズで登場した社会主義者を思い出します。社会を改良する希望なんかまったくなく、ただ単に世界を滅ぼしたいがために生きている男でした・・・・。時々、社会から排除された人間以降いう、破滅願望の昏いルサンチマンを抱く凄まじい人間が生まれるんですよね、、、
.....そして、、、、そのか弱い少女が、その弱さゆえ許されず、追いつめられることで、ケイロニアは、震撼するような国家の危機に陥ることになるわけです。ああ、栗本薫というのは、世界をよくわかっているなーと思いました。また、とても悲しい。それは、グインがシルヴィアをとても愛していて、シルヴィアもグインを憎からず思っていた、、、そんな淡い幼い恋のような関係がありながら、、、ここまで悲惨な破局にいたり、ケイロニア国家を滅亡の淵に叩き込むのです。しかし、、、グインがいかにシルヴィアを憎からず思っていても、マクロのことを深く体感しているグインには、ミクロの世界しか見えない存在のことがさっぱり理解できないのです。。。。この話は、強いものが弱いものをたたくと、世界がほろぶという話だけではありません。弱いものが世界のことわりを理解できないと、それもまた世界をを滅ぼすということです、、、、が、、、人は、強いものであれ弱いものであれ、そんなに賢くは生きられないってことです。
長々と書いてきたんですが、こういうのを、ROMEを見ている間中感じていました。
というのは、ボレヌスは、愛して愛して、本当に深く生真面目に妻を愛するがゆえに、妻を自殺に追い込むことになりました。プッロは、深く奴隷を愛したがゆえに、思い余って奴隷の恋人を殺してしまいます。そして、、、因果は廻っていますよね。見ればわかると思います。いろいろなことがそうなのですが、みんな、とても衝動的すぎるとはいうものの、とてもピュアで赤裸々な個人としての欲望を解放して、欲望に忠実に生きているだけなのです。いってみれば、ミクロの次元だけで、ほとんど先を見ずに赤裸々に生きているだけなのです。けど、それが、人間の人生なのじゃないかな、という気も確かにするのです。考えて萎縮して、よりも、、、まず行動して、破滅するほうが、人間らしく、あくまで人間らしいような気がする。このあたりの赤裸々な欲望の開放によって、人間関係が織りなされていくのは、とてもアメリカのドラマに多い気がします。
ちなみに、書くと長いのでコメントだけですが、、、この赤裸々に生きているアティアら人々の対比として、全くそういった情動の部分が理解できない、オクタヴィアヌス(=アウグスティヌス)との対比が鮮やかで、アウグストゥスは、家族や近しい人に冷血漢として蛇蝎のごとく嫌われだしますが、その代わりに、偉大な政治制度を軌道に乗せていくのです。これって、マクロとミクロをどちらを大事にするか?ということの、いろいろな示唆を含んでいるなーと思いました。
■カエサルのまくるが描かれていないのが少し残念〜なぜ共和制を守らなければいけないのか?
長くなりすぎた上に、脱線ばかりですが、まあこれもいつもの物語三昧クオリティ。もう一つ思ったのは、このROMEは、赤裸々な個々人の欲望のレベルがとてもよく描けており、それがさざ波のように世界を歴史を動かしていく様を描いていけてミクロがとてもよく描けていると思いました。実質の主人公は、ボレヌスとプッロみたいなものじゃないですか。カエサルのことも、ユリウス家の一員としてその家族の愛憎の中で描かれている。アティアがすごくポイントですね。
けれども、ではなくマクロは?
と思ってしまいました。僕もまだまだ勉強が足りないので、カエサルの業績がどういうものは、うまく説明できないのですが、なぜ共和制の存続が問題になるにもかかわらず、実質の独裁に近い皇帝の仕組みがこの後のローマ帝国の政治形態の要になるかといえば、帝国の版図がでかくなりすぎて、既に元老院の遅い意思決定では物事が回らなくなってきたからですね。カエサルの存在は、この大きな歴史の端境期に、何をしたか?ということです。一つは、ガリアの制圧です。単純にガリアを武力制圧しただけならば、ここまで名前が残らなかったでしょう。このドラマにも元老院の議席を増やして、野蛮人だといわれるガリア人をガンガン元老院議員にしたり、ガリアの族長を取り込んでローマ人に次々に同化させていくのですね。このことが、ガリア南部を実質ローマに同化させることで、様々な効果がありました。一つは、これが事実上、ヨーロッパという地域を作り出した、ということ。それまでばらばらに殺しあっていた部族の殺し合いに、文明を持ち込んで統一を持ち込んだことですね。もう一つは、このことにより、巨大化したローマの防衛線ありかたを変えてしまった、ということです。ガリアを取り込んで、そこに防衛線を構築して、ガイらにガリアを対峙させる。また、取り込んだ内部のガリアは、ローマに同化させることで、実質ローマ人として、ローマそのものにしてしまう。ということは、無限増殖でローマの版図が広がるか安定していく仕組みを構築したのです。また、共和制で、多様性がない元老院議員によって国の運営が鈍化してダメになりつつあって権力機構に、新しい血をどんどん登用して、元老院が、政治体制が、皇帝(リーダー)が、多様性を持つ仕組みを構築したわけです。このデザインによって、ローマが、凄まじい長い歴史を維持することになるのです。そのほぼすべては、カエサルが土台を作って、その後、アウグスティヌスとティヴェリウスらによって、軌道に乗せ安定させられます。
・・・・・というようなことが、全然わからないんですよ。少なくともつたわってこない。
なので、ブルータスたちが、なぜあれほど共和制にこだわって、独裁者を嫌うか?の理由がわかりません。なので、こだわりがこっけいに見えてしまう。最後に喜んで死ぬくらいに気合が入っているのだから、それなりの、滅びゆく者の譲れないこだわるりを見せてほしかった。それのマクロ的な理由がわからない。カエサルにしても、カエサルの偉大さって、人間としてすっげぇ魅力のあるチョイ悪親父的なはげたおっさんだったにもかかわらず、信じられないマクロを透徹してみる洞察力と、それを実行力で変えてしまう行動力が備わっていたわけですよ。ヨーロッパを創り出し、ローマ帝国1000年の安定構造を想像しているわけですよ、、、凄いとしか言いようがない、、、けれど、その凄みってのが、いまいち感じられない。そこが残念だった。
ということで、ボレヌスとプッロの物語でした。