こうみると、日本を意図的に戦争に引きずり込んだ悪役がいたわけではない。日米戦争に勝てないことは誰もが知りながら、中間管理職がそれぞれ出世主義で威勢のいい主戦論をとなえ、事なかれ主義の上層部がボトムアップで醸成された「空気」にひきずられ、ずるずると戦争に巻き込まれたのだ。
このように内閣の指導力が弱く官僚機構の「下剋上」が強いため、思い切った方針転換ができない構造は、今も日本の政治に受け継がれている。この歴史から学ぶべき教訓は「戦争をしないために集団的自衛権をなくそう」という空想的平和主義ではなく、こうした「決められない構造」を改革することだ。
中間管理職が日米戦争を決めた 『昭和陸軍全史3』
池田 信夫
http://agora-web.jp/archives/1645506.html
非常に同感。
川田稔さんの本を最近こつこつ読んでいるのだが、詳細を理解してわかってくるにつけ、当時のここのエリート達、たとえば悪逆非道といわれる陸軍の戦略プランを見ていると、まず第一に驚かされるのは、日本には戦略なしといわれるが、それなりにロジカルというか理屈はよくわかる戦略方針があったということ。総力戦対応のために、自立した経済圏を(特に原材料)確保するという構想は、かなり野心的ではあるが、構想力としては、調べれば調べるほどに、まぁ、当時の状況を考えればそうなるよなと思う。ちなみに、どっちかというと、究極的には、海軍の戦略構想のほうがよほど、狂っている気がする。制度的な暴走を許さない壁としては、重臣リベラリズムと並んで海軍は重要だったので、さもいいものっぽく見えるが、いやアメリカとの戦争とかは、海軍が相当だめだったからじゃね?って最近は思う。
それぞれの部局のエリートたちは、個別に調べていくと、意外や意外、決して狂ったことはいっていないんだと思うんですよ(←これは、ぼくには驚きでした)。もっと、狂信的で、戦略眼なしなのかと思っていたんですが。特に陸軍の構想は、ぼくは非常に合理的に見えます。さすが、日本の最高級エリートがさらに戦略的な教育を受けただけあるって感じ。では、なにがだめだったか?というと、すべての局面局面で、現場が暴走してそれを押さえられなくなるんですよね。たとえば、満州国なんて、ほとんど全世界的に認められつつあったわけで、あそこで、内閣が統制をきかせて戦線不拡大方針をとって、かつ外交戦に訴えたら、十分何とかできた感じなんですよね。政党内閣も、アメリカに十分配慮した、というかアメリカには長期的にはまったく勝つことはできないことは、十分すぎるほど理解していたようですし。そこで、なんで中国本土まで侵略するかな?アホちゃうか?って思うんだよね。満州の権益には、ご都合主義とはいえどもそれなりの大義があるが(日本が日露戦争で中国の領土を防衛しているので、中国側も外交交渉でかなりそのあたりは認めている)、いやはっきりいって南京まで入ったりしたら、もう言い訳できない侵略だよね。あれで侵略じゃないっていったら、そら、おどろいちゃうよ。また満州の権益を守ろうとしても、でももちろん、アメリカを市場から締め出すのは、国力から言って不可能なので、満州を含めた経済圏を確保するには、アメリカへどこまで譲歩できるかがたぶん、バランスになったんだと思うんですよ。どれほど屈辱でも、アメリカに敵対する力は、ほぼゼロなんだから。でも、現場が暴走するから、そういった全体を見たうえで、どっちを引っ込めて、どっちを伸ばすかという、統合的な判断ができない。すべての部局、事業部というか、ムラごとにやりたいことをやっているだけになって、外から見るととんでもない狂った行動にしか見えなくなるんですよね。
日本の戦略方針は、それぞれの部署が持っている構想自体は、それなりに妥当性があるものでした。それが、あそこまで壊滅的な戦争に引き釣こまれて、結局は国を滅ぼして、すべての100年の積み重ねを失ってしまうのは、1)国としての統合原理が制度的に非常に弱い=2)現場レベルの人間の暴走を抑えるための仕組みが無い、ことになんですよね。
このことをベースに歴史を見ると、いくつか似たような病を戦後も継続させていて、憲法等の国の期間となる部分が現実に合わなくなっても、現実を直視した上で、それを改正するということができない。それゆえに現状維持で、現実を見ないままに、暴走が起きる。なので、日本の国をよくする時に、たとえば、誰か悪いラスボスがいる!とかいう言説は、もっとも頭が悪い国を亡ぼす虚偽問題って感じになるんですよね。安倍首相が独裁者だ!とか、戦前の全体主義に似ている!とかいう言説は、すべてとても無駄なメッセージであるどころか、たぶんより日本をだめにするだけの話なんだろうと思います。そもそも安倍首相のバラマキ型の政策を見ていれば、超調整型の自民党保守本流にしか見えないのに、全く違う形容詞でおとしめるのは非常にアジテーゼというか洗脳的で大衆が無知で馬鹿だと馬鹿にしているメッセージに聞こえます。なんで現実を押さえて、価値あるプラグマティツクな批判やディスカッションが日本ではできないんだろう。。。
さてさて、LDさんと護憲の話や憲法9条の話をしているときに、憲法第9条の擁護を叫ぶ人は卑怯だという話が出ましたよね。二人とも一致したのは、日本人の戦後の平和を願って、戦争するくらいなら、他人が責めてきても降伏して皆殺しでもどれになるでも、その道を選ぶ!という極端な原理主義的な思考は、戦後民主主義のコアの部分であって、僕はいろんな物語を見ていると、とっても「美しさ」を感じるし、日本人がちょっと現実を見ていない頭が弱い子だけれども、「それ」に殉じちゃうような教育を受けて感性を持っているというのは、なかなかにぐっとくる話です。戦後民主主義のコアはこれだと思うのです。理想としては、実際に日本の戦争体験にルーツがあって、僕は悪くない話だと思うんです。「美しい」のは事実なので。狂信的で、原理的で、非現実的ではありますが、コアの実感は非常によくわかる。WW1のあとの欧州がこの感じに近かったと思います。ちなみに、チェンバレンではないですが、その平和主義が、ナチスドイツの台頭とWW2を呼び込むことになるんだから、歴史は凄い皮肉です。
でもねーー、これって、凄い狂信的な原理宗教みたいなもので、現実的に「他人が攻めてきたら無抵抗で殺されましょう!」というのは、極端すぎて選べないよね。
しかし、原理主義的護憲派の人は、憲法第9条を主張するならば、まず「無抵抗で殺されよう!」といわなければ、卑怯なんだ、というのは、そのとおりだと思う。だって、実際そういう内容だからね。もしくは、そのために、アメリカやイギリスを越える諜報機関をつくるとか、そういう現実的な対処もしているわけではない。結局は、現実派の人々の憲法解釈を認めることで、自衛隊を事実上認めてしまっている。それって、凄い卑怯じゃない?というのは、本当にそう思う。ただ乗りのフリーライダーだ。軍隊と交戦権を否定するならば、まずもって侵略されたら、無抵抗で殺されよう!という覚悟を国民に突きつけるのが、正しいことだと思う。そして、それは思想としては、価値があるし、根拠もあるものだと思う(常識的に現実主義者は選ばないだろうけど)。
憲法の役割というのは、政権交代が起こりうるような民主的体制、フェアな政治的競争のルールと、いくら民主政があっても自分を自分で守れないような被差別者の人権保障、これらを守らせるためのルールを定めることだと私は考えます。
一方、何が正しい政策か、というのは、民主的な討議の場で争われるべき問題です。自分の考える正しい政策を、憲法にまぎれこませて、民主的討議で容易に変更されないようにするのは、アンフェアだ。安全保障の問題も、通常の民主的討議の場で争われるべきです。(p.53、同上)
全面的に賛成である。私もニューズウィークに「憲法第9条第2項を削除する改正案を出せ」と書いたが、意味は同じだ。憲法という制度的な防護壁で滅びゆく「リベラル」を守るのはもうやめ、安全保障はどうあるべきかという本質的な問題を国会で議論すべきだ。
憲法第9条を削除せよ
池田 信夫
http://agora-web.jp/archives/1645385.html
ここで書いてあるのが、まさにこの前はなしていた話で、はーなるほどーと思ったよ。
えっとね、戦前の日本の道を誤らせたのは、「空気」による現場の暴走=統合的な権力の運用ができなかったからなんだけど、この「空気」をつくった大マスコミ(特に朝日新聞)、右翼(テロ)のコンボって、どういう主張をしたかというと、明治憲法を変えるな!!!という路線だったんだよね。ようは制度的に欠陥があるものを、現実にあわせて変えようということをすべて拒否して、思考を硬直化、かつ柔軟性の欠けるものにしたようにぼくには見える。
半藤一利さんが、昭和史の戦前編で、日本ののだめなところをまとめていて、抽象論をもてあそんで現実を直視できない、ってのがあった。
これって、まさにそれにあたると思うんですよね。
民主主義だから、何を主張するのも自由だし、一番大事なのは、とにかく広く国民の議論を喚起して物事を決めることだと思う(五箇条のご誓文!)。その結果決まったことは、国民の意思だし、そうであるからこそそれを支える義務も生まれる。普通の国になって日本を守るというなら戦争の覚悟はいるし、軍隊や戦争を放棄するなら責められたら無抵抗で殺される覚悟がいる。単純にいえば、このどっちを選ぶか?でしょう?。現実は、その間なんか無いんだから。もちろん、政策的には、その間をうまく生きるために、国家を運営すべきなのは、当然だけどさぁ、、、。
まっ、まったくみんな現実が見えていないんだなー。なんで日本はこういう風になるのかなー。ミクロでは、とても現実的な人々だと思うのだけれども。