『エースをねらえ!』 山本鈴美香著 昭和初期の日本人のもっていたエートスがあますところなく表現されている

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)

友人がとても好きで何度も読み返していて、よほど心に深く刺さったんだろうと感心していて、実はそういう人が何人かいる。ちなみに、その人は僕よりも10も20も若い。だから、そもそもこんな古い少女マンガを読むこと自体がとても不思議な上に、繰り返し見るというのは、なんらかの強い吸引力があるんだろうと思っていて、いつかは読もうと思っていた。先週中国に1週間ほど出張行った時の時間を利用して全巻(単行本はマーガレットコミックス(集英社)から全18巻)通して読んでみた。最初の数巻は、やはり古臭いし、イマイチでちょっと失敗したかな購入して、、、ぐらいにおもっていたのだが、後半に入ってボルテージが上がって引き込まれて、宗像コーチや藤堂貴之らがなんで、あんなちょっと頭がおかしいような振る舞いをしたのかが、がちっとわかって解像度が上がってゆき、この作品の全体像がわかってきたときに、ああ、そりゃこれは日本のエンタメ史に残る傑作だと感心した。様々な角度で、とんでもなく深い。

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よくペトロニウスは、「昭和の臭みがある」というような言い方で、昭和中後期、平成の30年、そして令和の比較をします。1960-1980、1990-2020、2020年台以降ぐらいのタームですかね。この世代論というか期間の分け方は、令和の2020年代と、1990年代くらいまでの日本の高度成長期までの思考様式との違い、落差を差していうんです。しかしながら、久しぶりに驚いたのは、この『エースをねらえ!』は、その昭和の臭みすらも超えて、たぶん大正から昭和初期の人間の発想で、そうか、、、僕らのルーツは、あ「ここ」からきいるのか、という衝撃を受けました。いやはやすごい作品でした。ちなみに、そこまでいうか!と驚くような男女差別の意識は、もうぶっ飛ぶほどです。(笑)。でも、この男女差別の認識が、なぜあれほどまでに宗像コーチや藤堂くんが、岡ひろみのために人生と、命と、あらゆるものを捧げ尽くすかの理由になっており、なんというか最良の選ばれた家父長主義者の権化であって、いやはや驚きます。なんというか、あまりのこの漫画が面白すぎて、その後、Kindleの『ベイビーステップ』や『しゃにむにGO』などのテニスマンガを全て読み直していたのですが、「この違い」が、言い換えれば日本の僕らが生きてきた歴史そのものの「変化」なので、この落差を見ると衝撃を受けます。

摩利と新吾 完全版 1

佐藤紅緑による小説『あゝ玉杯に花うけて』(1928)や宮崎吾朗監督の『コクリコ坂から』(2011)、木原敏江の『摩利と新吾』(1977-1984)などが参照にはいいと思います。要は旧制中学のエートスなんですよね。この時代の大学進学率ってのは、社会の0.数%という選ばれた選良。今の大衆化した大学では考えられないスーパーのエリートなんですよね。彼らの持つ倫理、道徳、そして使命感は、我々では想像もつかないものです。この「違い」がわかっていないと、彼らの熱量が理解できないと思います。この時代は、テーマが、われわれの1990年代から2000年代の日本の「個人主義的な視点」とはまるで違います。この時代は、どこまでも「個」が重要で、最も典型的なのは庵野秀明エヴァンゲリオンのシンジくん。仮に世界や日本が滅びても、アスカやレイやミサトさんら家族や大事な人が死んでも、「僕はエヴァに乗りません!」と喝破します。これって、大正から昭和初期の選良たちでは、絶対に言わないセリフです。彼らは、自分が失敗したら、日本が滅びるという実感と自意識を誇りに生きているからです。宗像コーチや藤堂くんらが、なぜテニスの業界全てに対してや、後輩の育成に、自分を自己犠牲を全く厭わずに「踏み台」になろうなろうとするのかは、彼らが失敗したら、日本にテニスというスポーツは無くなってしまうからです。創業期、テニスの黎明期に、その最前線に先導者として生きる彼らは、自分がテニスの共同体にコミットできなければ、この業界がなくなってしまうことがわかっているのです。その激しい自意識が、

"この一球、絶対無二の一球なり”


庭球1920年代の名選手福田雅之助(1897年 - 1974年)

という言葉と結びついているのです。このエートス、倫理の意識がわからないと、なんであんなに無駄に熱くて自己犠牲が激しいのかがわからなくなってしまいます。宗方仁という人は、ひどい毒親の父親に、早くに死んでしまった母親の無念など、もうちょっと今では一人で生きていくの無理じゃないというほどの激しいトラウマを抱えて生きています。しかも、やっと見つけた自分の好きなこと、、、テニスで世界の頂点に向かいつつあるときに、再起不能になってしまいます。その上、余命3年を申告されるとんでもない地獄を味わっても、孤独を踏み越えて岡ひろみのために、人生を使い果たします。この自己犠牲は、本当に凄まじく鮮烈です。そして、ある種、美しい。この自己犠牲の美しさは、痩せ我慢の美しさってやつだろうと思うんですね。リソースというか環境が整っていない、そもそも多様性や次の世代への継続を保障できるほど「社会資本層に厚みがない」状態で戦うとなると、精神論とか感情に頼らざる得ないし、それではもちろん回らないから、バタバタ死んでいくような「気高い」自己犠牲が要求される。ああ、戦前の日本軍だ、ってしみじみしちゃいましたよ。しかし、それが、この近代ライジング時期の日本の美しさの物語でもあるのは事実で、そういう意味で古典だなーと感じました。いやはや流石のでドラマ。

petronius.hatenablog.com


そろそろ力尽きたのですが、同じスポーツを題材にしていても、『ベイビーステップ』や『絢爛たるグランドセーヌ』を見ると、もう日本が全然違うステージに入っているのことが、見事に伝わってくると思うんですよね。この「落差」は感じると、すごく面白い。だからこそ大谷くんとか、そういうスポーツのスター選手が次々に現れて、しかも、決して「日本を背負う」ような自己犠牲精神で生きているわけではなくて、個人としての幸せもちゃんと感じれるような人ばかり。『ベイビーステップ』を見ていると、見事に科学的にトレーニングが展開されているし、『絢爛たるグランドセーヌ』のような東洋から西洋の芸術をするにあたってさえも、狭き門とはいえ奨学金を取得ルートが複数あって、英国の『ロイヤル・バレエ学校(The Royal Ballet School)』のスクールキャンパス編がいま展開してますが、このグローバルに才能を選抜していく多様性を問う尊ぶ仕組みが全世界に広がっている。そしてそのシステムの中に日本が位置を占めているのが、よくよく伝わってきます。もう戦前の日本のような世界では、全然ないんだな、と。だからこそ「人材の層が厚く、育成選抜がシステムになっている(社会資本になっている)」からこそ、少数のエリートが全ての責任を背負い込む使命感スタイルではなく、「個人の意志が尊重され」ている。これって、『アオアシ』とか見てても全く同じ印象を受けます。あれも高校サッカーという日本的泥臭いシステムとプロのユースによるエリート選抜システムが、「両方並存している」という日本の状況を描いていて、そりゃ世界に通用するような選手が次々に出てもおかしくないよなって思いますよ。いやは、この辺の違いを見ながら古典と比較すると、ものすごい面白いですよ。

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