『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(Civil War)2024 2024年の11月5日投票日の前に見たい、今見るべき旬の映画

アメリカで内戦が起きたら、どうなるんだろう?という映画で、A24らしいホラー映画。日本は10月に崩壊で、大統領選挙の一月前。アメリカや日本以外は、だいたい4月に公開していましたね。

19の州が離脱して、3期目に突入した大統領が主導する権威主義的な東海岸アメリ連邦政府と、フロリダ同盟やWestern Forces(WF/西武勢力)と内戦をしている中を、ニューヨークから、最前線のシャーロッツビル(Charlottesville, Virginia)、そしてDCの大統領にインタビューをしようとする戦争ジャーナリストの旅を描く映画。

素晴らしくセンスオブワンダーを感じさせてくれた、良作。アレックス・ガーランドは、幽霊の正体見たり枯れ尾花的なハッタリの監督と思っていて、『アナイアレイション -全滅領域-(Annihilation)』(2018)が典型的だったのですが、ただ雰囲気や空気を描いているだけで(それはそれで魅力なんだけど)物語的なオチがないので、うーんとなってしまったのをよく覚えているんですが、今回は「その側面」が良き方向に出た感じ。全編に、『ウォーキング・デッド(The Walking Dead)』(2010-2022)のような終末的な滅びてしまって秩序が崩壊した世界をロードムービーとして体感する感じが出ていて、めちゃくちゃ良かった。この類型でぱっと思いつくのは、日本のマンガやアニメだと、『望郷戦士』(1988)『ドラゴンヘッド』(1994)『がっこうぐらし!』(2015)『天国大魔境』(2018)とかかな。

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政治的なものが全く描かない脚本

ある意味、権威主義的な大統領が出てきて、アメリカが崩壊して、という政治的な背景、物語は言った際描かれていないので、「そういった物語」の最後の10分を見せられているような脚本に感じた。

どういうことかというと、アメリカのような先進国でかつ民主主義や自由を信奉する国家が、内戦を引き起こしたということは、既にアメリカ国家としての敗北を意味しており、記録が様々に残ってしまう現代社会でこれだけの虐殺を市民同士で繰り広げたら、もうまともな国家に戻るのは難しいだろう。理由の正しさとか善悪を説明したところで、内戦になった時点で、アメリカの建国の理想は崩壊して終わりなんですよ。であれば、すでに「物語としては、内戦が発生して時点で敗北として終わっている」ことを意味しており、ここでイギリス人のアレックス・ガーランドが描きたいことは、分裂をエスカレートして暴力を選んで秩序が破壊されたら、「こういう結果になる」という身体感覚をまざまざと見せつけることだったと思う。俳優が怯えるほど、銃の火薬の量を増やして、本物の銃と同じレベルの音が出るようにしたりしているのは、この「体感感覚」を演出したかったからじゃないかと思う。主観的な体験として、見ている人を引き込む作りになっていると思うので、映画を解釈したりするよりは、体験は絵を感じる作品であると思う。


反面、政治的なマクロの背景を一切描かなかったことは、演出意図(原因やどちらかの正義(善悪)を描かない)を見事に一本化させてはっきりと観客に伝わるが、物語を小粒の話にしているので、こぢんまりとしてまとまってしまったと思う。米国で賛否があるのは、そうだろうなと思う。ただ、がっつり、たとえば反トランプみたいな形で物語を描いたら、それこそ内戦のトリガーになりそうなので、今この分断の深刻さを考えると、それは描くのはかなり大変だから、無理だったんだろうなと言う気もする。

戦争末期で民兵同士が無秩序に殺しあっている世界で、旅の途中で、スナイパー同士が戦闘しているところに出くわすエピソードがあるんですが、あそこの会話が、とても象徴的でした。スナイパーどうして撃ち合っている相手に、「おまえは、WF(西部勢力)なのか、それとも連邦政府の方か?」みたいな質問をすると、「お前がバカなのがよくわかった」って返される(うろ覚え)シーンがあるんですが、「今やっているのは、相手撃ってくるから、撃ち返しているんだ」というんですね。この会話は何をいっているかと言うと、一旦殺し合いの戦争が始まったら、現場の人々にとっては、理由とかわかっても仕方がないんだ、戦うしか生き残れないんだって言っているんですよね。このエピソードって、本質をついているなーと感心しました。


秩序が失われたMADMAX的北斗の拳の終末ロードムービー(=旅を通して世界のありようを眺める)を見せられているので、ウォーキングデット的と評したが、同時に思い浮かんでいたのは、アフリカのルワンダとか中東のガザとか、秩序が失われて暴力に支配されている土地って、こういう世界だよなって見てて思いました。決して、めずらしいことではなくて、現代の地球でも実はありふれている光景。ただそれが、強固に秩序を形成している先進国の文明圏のアメリカで起きたら?というシュミレーションは、近代国家の秩序を信じている我々日本人やアメリカ人には、感情移入の度合いがやばい。特に、若いカメラマンのジェシー(Jessie Collin)を演じたケイリー・スピーニー(Cailee Spaeny)が、普通の若い女性視点で、彼女が市民同士の殺し合いや虐殺で死体がゴミのように散乱しているのを見て動揺して苦しむ姿に感情移入させられるので、しんどい。ちなみにケイリーは、ミズーリ州出身。


やはりこれは、すでに「結末が既に出てしまって」物語の最後の10分の部分を、ロードムービー的に眺めて体感すると言う作品だと思う。


なぜならば一市民や一ジャーナリスト如きには、マクロの政治(例えばトランプ政権が再登場して内戦が起きるとか・・・)に関わることはほぼ不可能であるから、「起きてしまったこと」を体験するしか、そもそもできようはずもないと言う諦念が溢れている。この諦めと諦念を、熟年の演技で、キルスティン・ダンスト(Kirsten Caroline Dunst)が演じている。ちなみに、キルスティンは、ドイツ系アメリカ人で、母にはスウェーデンの血も入っていますね。出生地は、ニュージャージー州


個人的に強烈だったのは、リーとジョエルの知り合いのアジア系ジャーナリストコンビ、トニーとボハイのシーン。キルスティン・ダンストの旦那さんのジェシー・プレモンス(Jesse Lon Plemon)さんを演じた民兵の兵士が、殺すか殺さないかを決める時に、「誰がアメリカ人的か?」と聞いて回り、香港と答えたアジア系の男性に、「中国か」といってあっさり殺すところ。この映画では、全般的に、白人や黒人が差別されるシーンは、アメリカ映画にはめずしくほとんどない。なぜならば、人種の区別はどうでもよくて殺し合っているからだと思うのですが、アジア系に関してはあっさり、特に差別心もなく「処理するように殺す」ので、明確に移民だとはっきりしてしまう人は、特にアジア系は、初期の段階で見たら殺すみたいな形で処理されていった経緯を感じてしまうので、トランプ政権下で、チャイナウィルスと揶揄され排斥や暴力で身の危険を感じたアメリカに住んでいた時に感覚を思い出しました。アジア系は、アメリカでは、存在すらしていない感じの露出度の少なさなので、真っ先に排斥される移民のターゲットの一つなんだと再確認しました。これって、イギリス人監督だから、こうなるだろうなって自然に描いているんだと思う。こう言うのを見ると、アメリカ社会におけるアジア系の地位の低さを強く感じます。特に、アメリカの色々な物語や映画などを見ていると、白人と黒人しか存在していないかのように見えて、、、、この辺の「視界にすら入らない」と言うのは差別の本質だなといつも思う。そして差別は、弱いものがさらに弱いものを叩くので、黒人が、韓国人ともめたりさらに差別を繰り広げるを見ると、ホモサピエンスのやることはどこまで行っても連鎖するなぁといつもおもます。


主人公のカメラジャーナリスのリー・スミスキルスティン・ダンスト)が、コロラド出身と答えるんだが、白人比率の多い保守的な地域で、金髪に白人の容姿だからか、ああ「アメリカ的だな」(何の根拠にもなっていないと思う・・・)と殺さないのに、アジア系は見た瞬間殺すんですよね。もうあからさまに侮蔑する時期とかすぎて、見たら害虫のように処理(=殺す)。特に理由の説明とかすらないところが、心底怖かった。多分、すでに全米で起きているんだろうな、、、と想像ついて怖かった。自分がアメリカにいたら、ああされるのが、想像つくので。

ちなみにWFの従軍記者アニャ役のメガネをかけた女優さんは、アレックス監督作品に出てくるSonoya Mizuno(日系イギリス人の女優)ですね。

この辺は、マクロの背景の説明なのですが、「こじんまりとした話になった」とは感じるのですが、どうしてどうして、そこの人間ドラマ(ミクロの視点)は、非常に深く説得力があった。

これって、諦めて諦念を持っている戦場ジャーナリストのリーと、若き戦場ジャーナリストの卵のジェシーへの継承の物語になっているんですよね。一市民ごときには、世の中を変えることはできない。職業としてのジャーナリストも、それで世界を変えることはできない。でも、その職業に魂を燃やすことは、向いているかどうかと言うのはあるんですよね。


これが職業の承継の物語としての軸を作っているのは、

サミー(スティーヴン・ヘンダーソン、Stephen Henderson)

リー

ジェシー

がそれぞれ、サミーがリーの師匠で、リーがジェシーに師匠として振る舞う構成になっています。この物語の軸が、リーからジェシーへの継承の物語だと言うのは、とても印象的な点が、3つあったからです。


一つは、民兵が私刑のリンチをしているを見つけて、呆然としてカメラを撮ることもできなかったジェシーが、どんどん、戦場にいることによって覚醒していく変化です。最初と最後ではまるで別人になっているが見ててわかります。幼すぎてこの女の子は大丈夫か?と言うおどおどした感じの登場シーンから、最後のホワイトハウスあたりでの、戦場で高揚して、倫理や道徳はかなぐり捨てて戦場ジャーナリストのプロの顔になっている差はすごい。

特に見事なのは、二つ目ですが、リーが、サミーが死んでしまったことで落ち込んでしまって、ホワイトハウスへの突入の時点では、物陰に銃声に怯えて隠れておどおどしてばかりいるようになっているところですね。彼女が、すでに戦場ジャーナリストとしての意欲失ってしまっていること、戦場のような「今この瞬間に死ぬかも」と言うリスクに高揚することができなくなってしまっていることを表しています。リーとジェシーの振る舞いが、逆になっていくんですね。

最後に、飛び出したジェシーを守るためにリーは打たれて死ぬのですが、この構造は、サミーが、リーたちを助けて死んだ構造と明らかに対比になっていますよね。サミーの死に対して、「本当は数々のもっと悲惨な人生の終わり方の可能性があった」サミーにしては、比較的まともな死に方を選べいると言っているんですね。最後は、自分の弟子を守って死ねているのなら、悪くない主体的な選択だって、いっているんですよ。これ、リーがジェシカを守るときの理由であるのも間違いでしょう。

そして、最後に、ジェシーと同じく、戦場に高揚しまくっているもう一人のジャーナリストであるジョエル (ヴァグネル・モウラ、Wagner Moura)が、最後に一言だけ大統領にインタビューをするじゃないですか?。あれって、この場所(ホワイトハウスで大統領にインタビュー)をしようとしたリーに対する花向けですよね。自分のバディだったジャーナリストが生きたこと、最後の行動の「意味づけ」をすることぐらいしか、彼にはできないんですね。ジョエルもジェシーも、戦場でいつ死ぬかわからないリスクの中を生きることが好きなのであって、それ以外の倫理や道徳がどっかに落っことして生きているので、これくらいしか、やってあげれないんですよね。多分、あまり悲しいとも思っていないと思う。それくらい壊れていないと、こんな仕事はできないから。ジェシーが、リーが自分を守って死にゅ瞬間をシャイsんで撮影し続けるのと同じ。

この最後のオチのエピソードの組み合わせを見ていると、師匠から弟子への継承のミクロの物語としてこの映画を監督が構築しているのがわかる。それは、マクロの政治には何ら関係しないものなので、とても小粒に感じてしまう。ただこれまで語ってきたように、分断の理由を書くことではなくて、分断して内戦状態に陥った世界をミクロの視点で旅するロードムービーを作りたかったと考えると、作品は完成していると思う。

ちなみに、下の「西部勢力」の旗は、星が2つと言うのが、なかなかにくいね。カリフォルニアとテキサスの連合軍だから。この作品が、民主党でも共和党でも、どちら側にも与することができないように、設計されているのがよくわかります。リー・スミスがジャーナリストとして名をあげたのはANTIFAの虐殺の写真を撮ったと言っているので、極左の虐殺を報道したので有名になっているので、必ずしもリベラルや左翼の立場になっていないのもよくねられています。