『ボーイフレンド』距離感の取り方の絶妙な繊細さが今の日本の男の子たちの最先端を感じる

友人のおすすめで見てみる。恋愛リアリティショーを見るのは、凄い久しぶり。20年以上前、大学時代や社会人1年目の頃に『あいのり』を見て以来かもしれない、。こういう機会をくれた友人に感謝。人に勧められないと、なかなか新しい世界には足を踏み入れないし、恋愛リアリティーショーは、何よりも学生時代に見ていたくらいの『あいのり』ぐらい以降全然見ていなかったので、僕自身には興味がないんだろう。それにしても、興味を持って検索してみると、『バチェラー・ジャパン』(The Bachelor Japan)、『バチェロレッテ・ジャパン』(The Bachelorette Japan)、『テラスハウス』(TERRACE HOUSE BOYS×GIRLS NEXT DOOR)とかとか、物凄い規模で全世界で展開されているのですね。この辺の文化には縁がなかったなー自分。

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第一話を見る。


正直言って、物凄い新鮮な気がした。


というのは、4-5年前(2018年ですね)までは、『クィア・アイ 外見も内面もステキに改造』(原題:"Queer Eye: More than a Makeover")を見ていたんですが、あの頃はアメリカのカリフォルニアのオレンジカウンティに住んでいたし、なんというか、2017年にトランプ大統領が就任して、彼が代表する保守的な反動が見せつける世界に、自分の視界がどんどん塗り変わっていった時期なんですよね。


自分の人生も、世の中の熾な流れも、保守(リベラルが後退していく)の方に大きな流れが流れている感じがしていました。


逆に言えば、2010年代、、、、2018年ぐらいまでは、リベラルな雰囲気、多様性を拡大していく価値観、グローバリズムみたいなものが一緒くたになって、「当たり前のコモンセンス!」という強い印象があった。この感覚がすごく思い出されるのは、クィアアイズですね。まさにど真ん中の価値観。

でも、自分がアメリカから日本の東京に帰って、ザ・日本!の社畜生活(ホモソーシャル社畜リーマン文化のメインストリームにカムバック)に戻って、かつ、ずっとトランプ現象とは何か?という保守反動がなぜ世界に吹き荒れているのかを追っていたので、この2020年代は、ついぞ、「このリベラルな雰囲気」を全然見ていなかったことに気づかされました。


ただ、僕が50代近辺の団塊のジュニアの男性ということもあって、そういった家父長制的な男性優位パワハラ上等感覚に親和性が高すぎるので再適応してはいるんですが、2020年代の日本社会は、特に大都市圏、大組織の世界は、20年前とは全く違うかなりのポリコレやフェミニズム、多様性許容のハードルを飛び越えている社会で、まるで異世界のように色々なものが変わった感がすごいです。自分が10年近く日本を離れていて、そういったものを見ていなかったことも、この際を強烈に感じるのでしょう。そういう意味では、日本は、とても多様性に寛容なリベラルな社会に変化していると強烈に実感します。


そうした「背景」の中で、この恋愛リアリティショーを紹介されてみて、衝撃を受けました。


そうか、、、、日本社会は、ここまで変化しているのか、と。


日本語で、この関係性を見るのが不思議すぎます。なんとなく、僕が子供の頃の1980−90年代の憧れのアメリカの西海岸の生活みたいな感覚。実際は、アメリカはものすごく保守的なところは、日本の非じゃないぐらい保守的なので、この「憧れ」って、イメージに過ぎなかったんですが、カリフォルニアとかのごく一部でしか実現していなかったようなそうした「先進的なリベラル」なものが、日本社会に、普通に根づいているのが、まざまざとこの作品を見ていると感じられて、いやはや、マジで日本スゲェ、ここまで来ているのか、と感動しました。


上での「背景」で話したように、2020年代は、行き過ぎた?多様性にブレーキがかかっているというようなステージなんですね。コロナでリモートとかが根付いたのに、その反動でとにかく全員出社してこい!みたいな流れが2024年今はあると思うのですが、こうした反動の振り子が行ったり来たりするのは当然で、こうして社会は漸進的に変化していくものなんだろうと思うのですが、自分がどちらかというと保守反動側の世界にどっぷりつけられていたところで、久しぶりに2010年代のリベラルが浸透したその結果を、ガツンと見せられて、うぉぉぉっって気持ちになりました。


第1話は、ダイやシュン、カズトら9人のキャストの、「最初の出会い」。


なに、、、なにこの、距離感を見極めようとする繊細な男の子たちの振る舞い


ゲイやバイを、スムーズに話し合えるリベラル(としか言いようがない)雰囲気。確かに、これは日本人の男の子たち(国籍は色々いるけど)の、今時の距離感がすごく伝わってくる。


言葉で説明するのが難しいのですが、たとえば、ゲイをカミングアウトするというのは、物凄いハードルの高いことだったと思うんですよね。たぶん20−30年前の日本なら、簡単に人生崩壊や自殺とか、そういった自分自身を壊しかねないフェイズに突入してしまうくらい重く苦しいものだったはずです。もちろん今だって、その「重さ」が変わったわけじゃないんだろうと思いますが、なんというか、「ゲイのカミングアウト」の持つインパクトや、それがなされた後の人生の分岐ルートなどが、関係者全員(そして見ている我々も含めて)ちゃんと共有されている感じがするんですよね。えっとうまく伝わっているかわからないんですが、たぶん30年くらい前の日本で、ゲイとかに直接関係があったり、自分がそうでなければ、「そもそもどういうものかよくわからない」ものだったと思うんですよね。単純に知らない。そして、その知らなさが、恐怖と蔑視を生み出していた。もちろんこの構造は今でも変わらないと思います。でも、2024年の今現在は、「ゲイのカミングアウト」を、例えば、家族にしているのか?、会社にしているのか?、友人にしているのか?から、はては、たとえば、じゃあSEXとか欲望とかをどうやって解消しているのか?とか、出会いを探すにはどういう方法があるのか?とか、またもし恋愛をしたら、どういう可能性があるのか?みたいな、「問題意識の分岐ルート」が全て「当然のようにわかった上で」話し合っているんですね。。。。伝わるかなぁ。これは、凄いことなんですよ。コモンセンスが塗り変わっていて、それを「尊重して話す」のが前提なんですよね。凄い、繊細な距離のマネジメントというかコントロール力を全員が持っている。


たとえば、「親には言った?」みたいな会話の後に「親に言うのはしんどいよね」とか「うちの親は全然知っている」とか、、、それぞれの男の子たちが、「人生のどのステージ」にいるのかによって、コミュニケーションの順番や、「言っていいこと悪いこと」は全然違いますよね。たとえば、うーん、異性愛でなくてもいいんですが、童貞とか処女だったら、セクシャルな話を、どういう順番で話せばいいのか?、話してはいけないのか?とか、そういうの普通考えるでしょ?。そういう「物事の分岐ルート」が、ゲイであるようなことや、中には、両親がいなくて施設で育ったとか、裏切られた苦しい恋愛をしたとか、なんというのか、、、、そういう、マイノリティで20-30年前なら、まず「一般的なコモンセンスとなっていなかったこと」が、当然のように情報共有されていて、それを繊細に尊重して、、、、そして凄いのが、ただ尊重して距離を取るのではなくて、「それでもなお」自分らしくキャラクターに合わせて、突っ込んできたり踏み込んだりするんですよ。


な、なんて、、、コミュニケーションが繊細で上手いんだろうって。


これがね、、、、異性愛で、男女関係だったら、なんとうか、30年前でも、それなりに、そういう繊細さはあったと思うんですが、それでも当時の感覚だと、まだまだ家父長主義的な男がリードしなきゃいけないとか、そういう多様でリベラルなものを潜り抜ける前の保守的な価値観が「隠れた大前提」としてあった気がします。でも、男の子たち同士のゲイの関係のような数的にはマイノリティになる「関係性」がこれだけ繊細になっているということは、当然のことながら、男女の異性の関係だって、そうなっているってことですよね。。。。日本どんだけ、リベラルになっているんだって、感心します。誤解してほしくないのは、差別がなくなったとか、そう言うこと言っているわけでは全然なくて、生きづらさは違う形でたくさんあると思うのですが、「人にはいろいろな多様な属性の背後がある」ことへの解像度の高さがあって、それを尊重した上で、話す「構え」があるんですよね。昔は、「男同士なんて気持ち悪い」とかなんというかそう言う、そう言ってしまったら身もふたもない否定から話が入って、相手の「背景を受け入れて」それを前提にじゃあどうしようか?と考えることは全くなくて、、、、たとえば異性愛とかが正しいとか、子供を産むのが正しい!みたいなマジョリティの価値観を暴力的に押しつけて、そうでないものを否定するのが基本だったはずなんですよね。でも、この男の子たちの、「自然さ」をみていると、もちろんリアリティショーに出たりするわけで、かなりのイケメン揃いなので、それなりの最前線の選ばれた人たちであったとしても、この感覚や「構え」が現代の若者のコモンセンスであり、理想であり、普通なんだってのが、伝わってきます。この辺の時代の雰囲気が濃厚に伝わるのが、リアリティショーですよね。

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アズキアライアカデミアのマンスリー配信やこのブログなどで、新世界系文脈以後の2020年代の物語群は、絆が再構築されていることを解説してきていますが、その中で、家族や友達、共同体のあり方がとても、保守的なものからアップデートされていて、「なんとも言葉では形容しにくいんだけれども」何かが全く新しくなってしまっているというのをずっと話していたのですが、まさに「この話」なんですね。コミュニケーションの距離感の取り方が、古い保守的な時代とは比較にならないほど繊細で多様性を前提としている。こういう前提の中では、単純に飛躍しているわけではなくて、『女装してオフ会に参加してみた。』とかが典型的なんですが、昔の「女装したら可愛すぎる男子」というコメディはたくさんあったと思うのですが、シームレスに悩みなく(笑)、男同士で自然にカップルになっていく様の「受け入れられ度合い」をみていると、すでに若い層においてコモンセンス(常識)が変化していることがよくわかります。だって、この系統の人気のエンタメがたくさんあるでしょ。僕自身も見ていて特殊なこととは思わなくなっているのが、実感としてわかる。


もちろん個々の物語の解析をしていると、リベラルで多様性を受け入れているからといって、それが「優しくて安楽な楽園」であるわけでもないのがわかってきました。なぜならば、属性による「言い訳」ができないところでは、個人の魅力というのは「その人自身の人格」という、身もふたものないものに還元されるので、逆に個々人の競争が、凄まじい格差になって現れるということ、、、、はっきりいってしまうと、チビだからとか、デブだからとか、男だから、女だからとか、、、、による言い訳ができた時代は、まだ自分が「逃げるための物語」が用意できたんです。しかし、それすらもなくなると、単に「お前の人格がダメだから友達も恋人もいないんだ」というふうに、もう逃げ道がなくなるんですね。実は、これはこれで、個人間の競争が凄まじく厳しくなっている現代で、みな実感し始めているのが今日この頃だと思います。


ここでテーマになることは、どうも、「好きなこと」とか「才能」となっているみたいなんですよね。『その着せ替え人形は恋をする』が現在の展開がまさに「そこ」に足を踏み入れつつあると僕は思っています。この青春もののマンガの展開で、僕はずっと注目してきたのは、2010年代のテーマであった日本的学園空間のクラスのカーストの境がなくなっていることです。ここにずっと注目してきました。渡航さんの大傑作『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、学校空間に置けるクラスとのカーストの分断(=リア充と非リア充の対立)をどのように修復するか、もしくは、それを同じ仲間として認識して差別を解消していくかが展開された結果、2020年代の今では、このテーマ自体が意味を失いないつつあります。

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そうした学園ものの最前線として、『その着せ替え人形は恋をする』と位置付けたのは、人形師になりたくて、コミュニケーションが下手で、男が人形とか作るのが気持ち悪いと子供の頃に友達に言われたことで「引っ込み思案になっている」主人公の五条くんが、自分が「勝手にそう思い込んでいる」だけで、実は、そんな差別や区別をして暴力的に否定してくる人がマジョリティじゃないんだって言うのが、学校の仲間たちを通して感じ取っていく物語になっているからです。彼だけではなくて、ほかの登場人物のエピソードも、このパターンを踏襲していることから、これが主題であるがわかります。

が、しかし、最新刊の展開では、じゃあ、自分が「好きなことを追求すること」で、それを「周りの友達や家族に受け入れられた」時に何が起きるかって言うと、実は、


才能のあるなし


だって話なんですよね。ただ好きと言って、それなりに才能あるうちは、ただ仲良くやっていればいいんだけど「才能や職業自体に選ばれる」ことが起きると、選択肢の重みが出てくる・・・なんだけど、この辺りは現在最前線で展開中なので、この話また今度。

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さらにいうと、上の物語三昧の配信でライブでマンスリーでアドホックの話を話そうと思って、今(2024年)って共同体の再構築(家族や友達の絆の再構築)が最前線のトレンドだよねって話をしている中で、古い家父長主義的な保守的な家族に「戻るのではなく」、新しい家族って、友達って、何が前提なんだろう?って考えている時に、まぎぃさんと、いま、僕らの中で熱い三宅香帆さんの評論『娘が母を殺すには?』が大事なんじゃないか?と言う話になってんですよね。

というのは、僕の物語三昧のこの20年近くの大きな文脈テーマの一つは、「なぜシンジくんはエヴァンゲリオンに乗らなかったのか?」なんですよね。これは、一言で言えば、庵野秀明さんの私小説で、明らかに「父との関係の物語」であって、もっと言えば明らかに「父殺し」の話なんですよね。この話をたくさんしてLDさんと話してたのに、なぜ同じように「母殺し」を見落としているんだろう。われわれは?って話になったんです。もちろん、さまざまは作品で、母と娘関係のものは、ほぼ同じ視点で見て入れかなり同じところまで分析できているのに、「母殺し」と言うキーワードを出して、文脈化して、時代のテーマとして取りあげていなかったのはなぜか???って、答えは簡単で、自分が男性だから、切実さが足りないんですよね。それでこの本を読んだら、まさにまさに!!!の連続で、色々疑問に思っていたこと、僕は特に、氷室冴子さんの『なんて素敵にジャパネスク』の瑠璃姫の結婚観に関する話、それと吉本ばななさんの食事のシーンに関する分析でした。

娘が母を殺すには?

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女の子の謎を解く

ここに至って、繋がるんですね。。。。次世代の物語のために、家族や友達の「絆の再構築」が必要だとすれば、、、、どういう条件が、保守的なものではなく、新しい形の条件なのか?


ちゃんと父殺しをして、母殺しをした、自律した人間が、新しい家族や関係を構築できるんだってことが、わかってきたってことなんじゃないの!!!ということです。


うわこれって、僕がずっと考えてきたナルシシズムの檻をどう脱出することができるのか?って話とも、全てリンクします。三宅香帆さんの評論は、ジャンル横断的だし、このテーマをきちっと、広いジャンルにわたって追っているし、本当に素晴らしい。最近読み返しては、メモとりながら読んでいます。2024年は、これらがかなりエンタメの世界にも浸透してきているが見てとれて、NHK連続テレビ小説『虎に翼』や大河ドラマ『光る君へ』なんかを見ると、これがメジャーとして 認識されているテーマなのがわかります。


ちなみに、この流れで、ラブコメに結婚もののジャンルが広く深く生まれているよね、という最近ずっと考えていることとリンクしていきます。


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まぁ、こんなことを考えている今日この頃。