自己評価は客観評価とのクロスで生まれる




ふと思ったんだが、樹なつみさんの『パッションパレード』(これ僕は凄いすきで何度も読み返す)で、レジー・キングという黒人が出てくる。この人格が僕はとっても興味深くて、ずっと意識の中に残っていた。

彼は、高校生にして、全米に注目されるほどのアメフト(のみならずほぼすべてのスポーツ)のスタープレイヤーで、後に最終巻では、彼が伝説のアメフトプレイヤーに成り上がった直後、24歳にして大実業家であり、政界に打って出ようとしているところで物語は終わっている。

この物語の舞台のメインはアメリカの高校生活なんで、このレジーもまだ高校生。主人公のリンの恋人の義理の兄という設定。

んで、上記の設定を見ればわかるとおり、もう神のごとき「すべてに恵まれた男」なわけなんですね。しかも、もともとシカゴにいたもんだから、マフィアの親分なんかにも大ファンがいて、もう手がつけられないほどの大物っぷりなんです。

ところが、樹なつみさんは、わかっているなーと思うのだけれども、この彼を描写する時に、実は「彼にはだれも対等な人間がいない分だけ、壮絶な孤独の中にいるのではないか?」という演出が随所に(凄く気づきにくいけれども)あるんですよね。

ところが、このレジーキングは、自分ですらあまりに恵まれすぎていて、自分が孤独な世界にいることに気づいていないんです。彼にとって、他人はただの駒であり、道具にしか見えない。だって、だれ一人対等ではないし、対等に振舞おうとさえしないんだもの。

けれども、唯一リンだけが、彼を対等の視線で見ているんだよね。また、バスケットボールの試合で、一度だけ彼に勝ったことがある。リンにとっては、人生一度の最高到達地点で、キングにとっては、数知れない試合のうちの一つに過ぎないものではあったけれども。

そして、キングは、ずっとリンに対して、対等な人間としての視線を向けている。

その他の描写が、神のごときオーラをまとっている分だけ、それはよく見ると目立つ。

たぶん、キングは、リンのことがとても好きなんだろうと思うんですよね(変な意味じゃなくね)。

それは、彼が表面的には神に愛されているような成果を叩き出すのだけれども、その表面の背後にある人間を等身大で評価しているからなんですよね。

作中でだれもがキングのことを


「神に愛された特別な人間」


として扱うけれども、リンだけがそう見ていない。


「案外、お人好しなんじゃないかなぁ・・・・」


ここに、他人の客観評価と自己評価のずれはないんですね。そこに、リンは、ズレを投入している。


人間というのは、自分自身ですらも、自分自身の自己評価を、自分で決めるのは難しい。


自分という自己イメージは、他者の視線というものを根拠・担保にして自己イメージのフィードバックを行うものだから。


この自己イメージと客観イメージの相互マッチポンプの仕組みが、客観(疑似的な神の視点)というもので、これにズレが生じるとある種のコメディのような状況が発生する。


えっと、そこは本論ではなくて、何が言いたいかというと、神のような存在と見られていたレジーキングは、自分自身の能力にふさわしくそういうふうにふるまっています。

けれど、リンというそれとは異なる評価を投げかける視線が発生することによって、彼自身も知らなかった自己のイメージや関係性の在り方に気づいてしまうのです。

これって、実はナルシシズムの地獄から脱出する非常に典型的なパターンの一つで、、、この原理が面白いので、ちょっともう少し詳しくってみたいです。ちなみに、今日は時間がないので、ここまで。


ではー。


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