■一人で生きていく孤独を
エリンの選択を見ていて、この子は「一人で生きていく孤独というもの」強く胸に持っているんだなぁと思いました。というのは、将来に幻想を全然持たない。ジョウンの息子の侮蔑的な目で態度で、自分がこのままジョウンについていくことがどういうことになるかをすぐ洞察してしまっている。こういうのってつらいよな・・・自分の「居場所」がこの世界には、基本的「ない」と思っているんだもの。そして、、、、逆に言うと、霧の民もそうだろうけれども、この世界に「居場所がない」と思っている人は、頑なで、周りのルールに溶け込もうとしないが故に、余計強く迫害を受けるものだからね。アニメーションは、あまり内面を描かないので、推察するしかないのですが、ここでこういう決断を見るに、「この家に置いてください」というセリフなどを思い返すと、この子は、人が誇り高く独立して生きていくこと、それに伴って、組織に服従しないことによる迫害をよく理解しているんだ・・・身体と体験と、母の背中で。それにしても、15歳ぐらい?4年たったとすると、14歳か・・・凛々しくなったなぁ、基本的に理知的な印象を受ける女の子は、大好きなので、非常にうれしい成長です。
■タムユアン学舎の教導師長・・・高級官僚の養成学校での政治
まるで、ハリーポッターのよう、というのが初見の印象。というのは、王獣を扱う学校にこれからエリンが入学することがわかったからです。でも、、、ハリーポッターの「賢者の石」の最初の巻のあのワクワクする感覚はありませんでした。いや、微妙にあるんですが・・・なんというか、「そこであっても彼女に場所ではない」という、孤独感が強く感じるんですよね、、、エリンの雰囲気や物語の構造上に。
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さて、それは置いておき、ふと思い出したのが、ハリーポッターのホグワーツ校のひげのアルバス・ダンブルドアと、そしておがきちかさんの『ランドリオール』のビックハンドです。二人とも、次期国家の指導者層やその世界を指導する指導者たち子弟の高級スクール…イギリスでいえばパブリックスクールのような機関のトップでした。立場でいえば、このエリンの住む世界の高級官僚を輩出する機関のトップであった、トーサナ・ジョウンという男も同じ立場になったといえる。
ふと思うんだが・・・このエリート養成機関である教育機関でのトップには、非常に重い枷というか、テーマが課せられている。それは、教育・・・指導者としての理想と、国家のエリート養成機関であることからの政治性との対立だ。だから、良き指導者(=学校の先生)であるためには、まず優秀な政治家でなければならない!という、矛盾した要求がこの職業には課せられるようなのだ。実際、ハリーポッターのダンブルドアは、最後の最後まで徹底した政治家だった。さらに、血による差別、階級社会の現実と組織とかをより明確に、描いている『ランドリオール』のビックハンドは、大がかりな学園を巻き込む事件に出会った時には、学園に行くことも現場で事件の収拾の指揮をとるのでもなく、その事件を利用して議会で政治的駆け引きをおこなっていた!のです。この違いが、射程距離の違いを凄くあらわしている。
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さて、ジョウンが、タムユアンという高級指定の教育機関のトップを追放されるきっかけになったのは、高級官僚の子弟が、跡を継ぐために裏でカンニング行為を(親が積極的に関与)していることを、不正は許さないとつぶしたこと、、、そして、その子が、それを苦に自殺してしまったことによる。理想に忠実で、清廉で頑固な、ジョウンの人柄を感じるし、そういった「正しきこと」が通じない世の中は間違っている、とは思う・・・動物的反射では。
でも、それほどの高等教育機関の頂点に君臨する男が、政治的駆け引きの才能や能力がなかったこと、そのための準備を怠っていたこと、「見切り」・・・・この高級官僚よりも、自分の属する学者を支配する貴族の方が政治的に上手だと楽観していたことなど、、、「政治家」としては、失格だったと思うのだ。それは、致命的な、誤りだし、許されない「甘さ」と思う。彼の理想や哲学に心酔してついてきた派閥や学派だってあったはずだ・・・彼が引き揚げてやろうとして貧乏でより上級の道へ進めなくて、ジョウンが示した奨学金を目的に首席になった男の子の、その後の前途も暗くなった可能性が高い。・・・・ほんとは、木訥な知への要求、人としての真面目さや倫理感の高さは素晴らしいもので、それが単純に通じない、世の中の方こそ腐っているといえるのかもしれないが・・・。
けど、、、もし政治家としての意識があれば、いろいろな解決方法があったはずだと思う。また清廉で真面目なこともだけをひいきしていたのでは?と僕は思ってしまう。というのは、「知の追求な真面目なものだけを好ましく思う」ようでは、政治家としての学園のトップは、勤まらないと思うんですよ。
貴族の子弟の鼻持ちならないゴミどもをどうやって、害のないようにするか?とか、この国を将来支配してゆく指導層にどんな価値観を植え付けるか、どんな枷を与えるか?というVISIOがなければならなかった、と思うんだ。それがあれば、そもそも何度も不正をして首席を取得している子供を、何年もほっておいて、自殺に追い込むほど増長させてしまうことはなかっただろう。こういう親の権力を自分の権力と思いこむバカな子供を、より高度な政治的なパワーバランスを利用して、レベルの低い謀略では世界は動かないということを「教え込む」とかもほんとは、高級官僚の教育者としては必要だったのではないか?と思うんだ。
また、身分が低かったり貴族として家柄が低い人間を台頭させたいのならば、それにふさわしい政治理念も必要だったはずだし、派閥づくりも、権力基盤の抑え込みも必要だったはずだ・・・・。そういったもの、、、「政治性」を磨かないではだめなんだ。・・・・ひたすら真面目に生きていたことが、悪い・・・とはいえないが、それでは狡猾な世界の構造にからめとられるんだ・・・。人を率いる、、、、組織の頂点に立つものは、「1)組織の設立の理念である目的」を達成するために、「2)組織を維持するための政治」を同時になさなければならないと思うのだ。そして、この1)と2)は、往々にして、単純に見ると相反しているとしか思えない要請を投げかけてくる。
ちなみに、なんでこの話を、エリン、ハリポタ、ランドリオールと並べて思い出したかというと、この子供が新しいことに出会うために「何かの学校に行く」という物語は、低年齢層をひきつけるためのとても重要な物語のテンプレートのようなんですが、ここで、当然に友達や自分の敵と出会うものなんですが、その人間関係・・・・世間というのは、そのままその世界の「権力構造」や「組織のマクロの対立」と重なっていることが多いんです。ただし、それを素直に描くと、子供には全然受けないようなんですね。また人気もなくなるようです。けれど同時に、「そこまで描かないと」素晴らしい作品にはならないし、より広い大人の読者を獲得できないようなんですね。この場に設定されている物語の「構造」みたいなものに、俯瞰的に意識的でないと、実はよりより潔い作品が描けないのではないか?と思うんですよ。つまりね、思いっきり潔く、マクロは描かない!と決めるのもいいし、いや描く!という場合には、そのための準備とか意識が必要になると思うんですよ。そんなことを思いました。
うーむ、、、、この悩み大き理知的な感じ、、、凄いかわいいなぁ(笑)。人間は悩んだ分だけ人としての価値が深くなる・・・と思うんですよ、僕は。素晴らしい物語だなぁ。