『1Q84』 村上春樹著 内面に閉じていくことで、現実との境界があいまいになり、世界の存在が並列化していくという手法について(1)

1Q84 BOOK 2

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★☆星4つ半)

■大枠の初読の感想(僕の文章は常にネタバレですからそれが嫌な人は読まないでください)

読了。ほぼ数日で、2冊読み切ってしまった。その間一度も本を読むのを止められなかったのは、物語としての「引き込まれ感」が強かったためで、これまでの作風と比較しても際立って物語性は強くなっていると思う。にもかかわらず、最後の最後で、物語が閉じてしまった・・・いや精確にいうと、「えっ??なんで、もちろん3巻があるんでしょう?」(笑)と思う感じだ。僕は他の人の書評を一切読んでいないので、よくわからないんだが、皆さんどう思ったんでしょう。大雑把な感想を言えばその二点がやはり、重要な鑑賞ポイントではないかと思う。もう一つあげるとすれば、大の村上春樹ファンの妻もそうだが、どうも友人には、この本を読んで村上春樹の過去の作品を読み返す人がとても多いように思う。実際に、僕もとても、過去の作品を読み返したいという思いに強くかられる。なぜかはまだ言葉にならないが。まとめてみよう。


1)物語性がとても強いので、グイグイ引き込まれて一気に読めてしまう


2)村上春樹らしくメタ的な構造(並行世界)を持ち、やはり最終的にはその境界があいまいになり、物語ることが途絶してしまっている


3)過去の作品を読みたい読みたいという動機を喚起する


1)物語性がとても強いので、グイグイ引き込まれて一気に読めてしまう

いま読書後に心に残っているのは、これらの感想だ。もう読み終わって、数週間たっているのだが、僕は日常で相当漫画や小説を消費するし仕事も家庭も忙しいので、1週間を超えて胸に物語が残るのは、相当いいものである証拠で、さすがは村上春樹といえよう。・・・まぁ大ファンだしねぇ(ぼそっ)。でも、『海辺のカフカ』もいい文学だったが、象徴性が高すぎていろいろ頭の中で考察しないと深く残らないが、この作品は、小説としてエンターテイメントとして引っ張る力が凄かったので、そういう努力はほとんど必要なかった。そういう意味では、読みやすく、さすがは文章のプロ!と思えるものだった。クオリティが圧倒的に違う。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
海辺のカフカ (上) (新潮文庫)


ちなみにこの本を読み始める朝に、始まったばかりの『CANAAN』のアニメを見てそのまま出勤の電車の中で読んでいたのだが・・・なのね、ネタバレだけど、主人公の一人である青豆さんって、殺人を請け負っている人なんですよね。そんで、スレンダーで胸が小さくて(笑)、、、って、このアニメの主人公と造詣がぴたってハマってしまって、もうずぅぅぅぅぅぅーーーーと、この話は、主人公のカナンのビジュアルが、青豆と重なったままだった。こういうのって偶然なんだけど、偶然である種のイメージが定着するというのは、あるよねー。




2)村上春樹らしくメタ的な構造(並行世界)を持ち、やはり最終的にはその境界があいまいになり、物語ることが途絶してしまっている


どんな物語であるかは事前情報全くなしで読めた。それもよかったのかもしれない。ある程度、「この人!」と決めた作家さんは、何年たっても無条件で本を手にとる癖がある。村上さんのような、大作をある期間を置きながら発表する形式の人は、事前情報による前提をなくして読める幸せがあるなーと思う。LDさんの情報圧縮論を思い出すと、僕ら漫画やアニメ好きの人は継続的にずっと同じ業界の情報のシャワーを浴び続けているので、「飽き」が早くやってきて感受性を摩滅してしまいやすい。僕は、海外出張に出たり、仕事や家庭がいがしくなると、ほとんど物語のこととかを脳内から絞り出して外に置いてしまうので、そうしてちょっと時間を開けて、陳腐な王道ものとか読んだりすると、こうそれだけで感動して落涙しちゃったりする。僕はこれを「感受性のコントロールと一回性(インプロビェーション)の手法」と呼んでいるんですが、これをうまくできる人は、人生が幸せだと思う。僕らが生きる現代の後期資本制の社会は再帰性が重要な社会なので、自覚的に選択・非選択をコントロールしていないと、人生がやせ細ってしまうと思うんだ・・・。もうちょっと僕的な言葉でいうと、つまり「ミクロへの没入(コミットメント)」と「距離を置いてマクロで見る」ことの並列化は難しいってことだ。いってみれば、宗教を物凄く深く本気で信仰しながら、全くその宗教を信仰せずに馬鹿にして外から眺めることを、視点を入れ替えながらコントロールするというようなことだから、とても難しい。一番なにが難しいかといえば、人格の統合の問題だ。つまり、「信じるというコミットメント」は、相対化を拒むものだけれども、絶対性を自分の内面に宿しながら、それをさらに相対化するという矛盾したことをするわけなので、人格が分裂してしまうんだよね。知的キャパシティが相当高くないと、できないことだ。

僕は、、、、これを内面に狂気が宿っているあるべき近代人の姿だと思っている。ちなみに、ああこれが現代を生きるために必要な態度なんだな・・・と思ったのは、『ノルウェイの森』に出てくる主人公の先輩かなんかで(うろ覚え)・・・・たしか永沢さんだっけ、彼についての描写で主人公のワタナベトオルが「永沢さんは内面に悪を抱えて、そうして生きていくんだ・・・」みたいな述懐があったんだが、それが凄く印象的で、、、つまり、主人公の「僕」のように立ちすくんで、どこにもない場所で「どうしていいか分からない!(シンジくん!!)」とわめき続けるのではなく、この先輩は、東京大学を卒業し外務省に入省し、、、そうやって社会人としての責務とコミットをきちっとこなしながら、しかし「それ」に対して何も価値を置かず本当はワタナベ君と同じ内面の虚空・孤独を抱えている。つまり、前向きにちゃんと生きながら、「前向きに生きることの価値を信じていない」んです。これ、大人だなぁ、、と唸った覚えがあるんです。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

日本の難点 (幻冬舎新書)
日本の難点 (幻冬舎新書)

再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1)
限りなく透明に近いブルー (講談社文庫 む 3-1)


えっと、なにを話しているかというと、再帰性・・・行って再び帰ってくる(笑)ってことは、信仰(絶対性・主観)と懐疑(相対性・客観)をいったりきたり人格の力でコントロールせよ、ということなんだと僕は思うんですが、この感覚って、ようは世界を相対的にとらえながらその中で絶対性を振る舞うことで何かが見つけられないかとあがくことなんですよね。これが、既に出ているこの時代のおける「成熟」の方法であると思うんだ。


物凄く抽象的な話をしているので、全く伝わっていない可能性が高いですが、、、、進めます(笑)。でね、この「感覚」ってなんだろう?って思っていたんですが、最近エヴァンゲリオンの新劇場版の並行成果に関する考察を進めていくうちに分かってきたんだ。これって並行世界を行ったり来たりるする主人公の感覚なんだよね。90年代以降の物語には、この「並行世界」やタイムパラドクスがはらむ、多選択可能性の束を見せつけて足をすくませるという文学的モチーフが異様に多く出ると思うんです。

たとえば、いま新劇場版の宣伝でテレビシリーズを放映していますが、エヴァンゲリオンは、この文学的モチーフをエンターテイメントの訴求力で一気にブレイクさせた作品だと思うんですよ。村上春樹の『ノルウェイの森』や村上龍の『限りなく透明に近いブルー』のような文学の領域で、100万部を超える(当時は)大ベストセラーが生まれたことは、こういったこれまでならば文学の非常にせいまい層にしか理解されなかった、生きていく実存に関する会議が、広く一般に広がったことを表してた、と当時の評論家中島梓さんは、『ベストセラーの構造』と『文学の輪郭』で述べました。そして、今となっては確実と言えますが、sれと同じ出来事がアニメーションの世界で起きたのが、新世紀エヴァンゲリオンのテレビシリーズだったんでしょう。現象として、「それまでの文学を読んでいた層」をはみ出て、もともと本を読まなかった層に広がってベストセラー化したということが話題になりましたが、エヴァのアニメーションもそうでした。全く同じ構造が隠れていたのだと僕は思います。

NEON GENESIS EVANGELION vol.01 [DVD]
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15話?だっけかな『死に至る病』でシンジ君は、ディラックの海に閉じ込められながら、こういう風に語ります。内面の世界にどうも入ったみたいで、そこで「もう一人の自分」と対話するんですよね。


「人は自分の中にもう一人の自分を持っている」


と、これは何を言うかといえば、非常に簡単な話で人間の主体感覚には、


「いまこれをして没入(=コミットメント)している自分」


と、それを


「冷ややかかに外から眺める自分がいる」


ということで、今の時代となっては、もう当たり前のような自己認識感覚ですね。僕はこれに、さっきいっていた、絶対化と相対化を交互に繰り返さなければ生きていけない構造になっているのが、近現代の実存のあり方なんだ!と語った上の記述と非常にシンクロを感じます。つまり、再帰性ということです。この15話の『死に至る病』の演出は、非常に時代性をとらえていて、なるほどなーと唸りました。というのは、主人公のシンジ君が、ハーモニクス試験で明日香を抜いて一番になって自信を深めているところからじまります。けれども、そんな実際に結果が出ているのに、周りは非常に不安な感じが演出されるんです。結果が出て、「よし」とつぶやいたのを見て、バスに乗っ絵ちた子供が馬鹿にしたように笑い出したり、、、。これは何を表しているかっていると、その自身が本物かどうかまだ回g敷いている段階で、「そんな自信はほんものじゃねぇんだよ!」という風に演出しているわけです。この不安感は、みなさん覚えがあるでしょう?。それなりに手ごたえはあるんだけど、もしかしたらまだまだ足りないんじゃないか?って不安に思う時に起きる感じです。これを演出として抽象化して考えると


肩透かしの演出


なんだと思います。つまり、「この世の中で信じることはできないんだよ」、君の「やっていること(=絶対性やコミットのこと)」なんて、相対化の視点から見れば、どうでもいいし役に立たないものなんだよ、というあきらめの徒労感の演出なんです。これって、95年近辺では、もう非常によく分かる感覚だった気がします。これは、日本社会が後期資本制の社会に突入し、一般のだれもが、この世界の再帰性・・・相対化の視点からすべてが「信じることのできない」価値のないものであるということに気づかされた・・・ニーチェのいうニヒリズムに陥った状態になったことを認識してしまったんです。それを、見事にエンターテイメントとしてとらえたために、あのエヴァンゲリオンのブームがあったんだと思います。もちろん、水面下ではそういったものたくさん進行していて、その前の時代のW村上の話や村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の芥川賞受賞のブームや様々な現象は、これを指していたんだと思います。

えっと、もう一度『死に至る病』の演出に戻ると、これがこの文学モチーフの導入に非常によく出てくるパターンで、、、つまり、この世界を信用できなくなると、自分の「やっていること」と「それを外から見る視点」の二つが生まれてしまい、それをマクロのレベル「正統性があって正しいことだ!」と感じることができなくなってしまうんですよね。これが現代社会割れる正統性の危機というやつで、簡単にいいかえれば、「何が良いことかよく分からない社会」なんだと思うんです。この流れのエンターテイメントの歴史では、LDさんが描いてくれたのがとてもいいのですが、とにかく現代ってのは、何が正しいのかはっきり言えなくなった社会なんですね。

悪の化身編

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

善悪逆転編

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

悪の終焉編

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67




今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)


何が正しいかが大枠のマクロで全く分からない構造なので、「自分のやっていることの価値」について疑問符が常に付きまとってしまうんですよね。これ本当に正しいことなのか?って。人間って、けっこう小さい生き物で、「何が善きことか」という実感とか確信がないと、なかなか行動できなくなるんですね。もう少し前の時代、、、資本制が導入されて一般市民や中間層が生まれる前までは、こういう疑問自体がなかったか貴族の独占物だったので、人々は、素朴に自分の生きることを信じられました。理由は簡単で、「選択し自体がない」ので、土地や空間に縛りつけられるので、自分の行動について疑問持つ必要性自体がなかったんですね。行動は、所与のものであって、自分がどうこう考える必要がない。それでも不安ならば、えらい人の宗教でも信じておけばいい。それですんだのです。けど、いまはそうではない。


そうすると、内面に「自分」と「もう一人の自分」が生まれて、物事を距離感をもって見つめる視点を獲得するんです。


そしてこの「視点のずれ」というのが、並行世界やタイムパラドックスなどの可能世界の物語類型と結びついていくことは、もう自然な成り行きだったのだと思います。つまり「もう一人の自分」というのは、いいかえれば、「もう一人のありえたかもしれない自分」なわけですから。絶対性を失っているということは、すなわち、「思考の現実」であるはずの現実自体の価値を相対化していることになります。これは、言葉遊びではなく、人の、、、それも大多数の中の人の中に起きた実存喪失のアノミー感覚なので、それゆえに現実が手ごたえを失ってしまったという感覚が広汎に広がり、、、そして、村上春樹の探究に繋がるのです。このテーマが、物質的繁栄後に出てきたジャズエイジやフラッパーなどに代表されるアメリカの文学の主流の一つであるフィツツジェラルドの『グレードギャツビー』などの作品群の後継者的な扱いを受け世界で受け入れられるのはよく分かる話で、この時代の日本人は、まさに1920年代のアメリカのように物質的基盤が本当の意味である極まで達成され、広範な人々にそれがいきわたった時代の「後」に出てきた人で、それは後期資本性が行きわたるとともに自分たちの素朴に生きていた確信の世界が粉々に破壊されて「自尊心が崩壊している」状況をあらわした物語だからなのだと思います。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)


話が『1Q84』からずれているように思えるんだけれども、この作品の物語る力の高さと、同時に最後の最後で「物語ることを止めてしまう」ことの意味はこの流れの文脈を抑えていないと、評価できないと僕は思うんですよ。いやまーもしかしたえら続編あるかもしれないし、いま評価するのは微妙なんだけど、これはどっちであっても、ちゃんと現代のエンターテイメントとというか文学としては、どっちでも評価できてしまうレベルにあることや、多層の構造を持つところに、この作品の凄さがあって、、、「それ」を分かって読まないと、たぶんこの本をただのメタな話とか、物語が楽しいとかそういうレベルで回収してしまいそうだと思うんだ・・・。ああ・・・エヴァの記事と同じで、本論に行きつかない(苦笑)。でも、この「並行世界」の物語類型は、ほとんど構造を明らかにできつつあるので、、、この思考だけは緩めないで、だらだら書きます。余裕がある人は一緒に考えてもらえると嬉しいです。


さて、(2)に続きます。たぶん。