■見始めたきっかけ
LDさんがラジオで教えてくれたので、見る。公式ホームページの絵があまりに素晴らしく一目ぼれに近い形で一気に見ました。おれ、なんでこれを見落としていたんだろう!って、、、まぁアニメは薦められない限りはなかなか見ないんでねぇ。僕はアニメーションでもなんでも絵柄のテイストが自分で好きかどうかでほとんど最初の判断をしてしまいます。人に薦められるものや自分の幅を広げようとしない限りは、ほとんどその感覚で決めています。まぁ、「好き嫌い」ってそういうものでしょう。そして、それで大体外しません。長く消費者を続けていると、「見た目の感覚」で、自分のテイストにあっていることはほぼわかるものなんですよね。
公式HP:http://fractale-anime.com/
■3話まで見たの感想〜あまりにリアリティのない軍事の描写
ikumiさんが、3話まで見ると、微妙な気持ちになりますよ、といわれた3話まで見た。ネタバレすると、レジスタンス活動をしているテロリストが、この世界の権力の中心にいる巫女集団?僧院?に、攻撃を仕掛けるんですが、まるでピクニックにでも出るような気やすさなんですよね。はっきりって常識的には理解しにくい行動。たしかに、めちゃくちゃ違和感がある。少なくとも、あれだけのレジスタンスのコミュニティがあるのならば、何十年下手すれば、百年単位で軍事行動をしているはずで、ああいう描写はあり得ないでしょう?。僕自身も少しそうは感じました。もちろん、この世界は、環境管理型の権力によって紛争が絶えた家畜の群れの世界であって、そういった軍事行動や軍事学がほとんど伝統として絶えてしまっている、、、というような言い訳というか背景はあるんだとは思います。全地球を統べる宗教集団?の重要な祭祀儀式に、ほとんど防衛力を配置しないという時点で、まぁそういう背景があると言っていいでしょう。けど、、、、それにしてもおそまつだぜ?、、、って思ってしまいます。だって、何十人も人が死んでいるし、自分の仲間のすら射殺されているわけだからねーー。その可能性があれば、もう少しピリピリするだろうし、準備はなされると思うんですよ。そしてそういう「背景」の重さを感じさせる演出があれば、こんなふうに誤解を招くような描写にならないと思うんですよね。というのはリアリティを背景に見ている層の感想からすると、非常に分かります。演出が非常にまずい。まぁ、僕はある理由で、実は全然気にならなかったんですが、それは後で説明します。LDさん、ikuymiさん、gigiさんなど、けっこう通の人が、これはひどい!と言うているものなので、まずは言及して見ました。
■見どころは環境管理型権力のその先へ
「この世界は終わりつつある」という言動とフラクタルシステムによる全地球人の管理社会は、この作品が、管理社会からの解放モノという古典的SFの定番の類型だと示している。最近、素晴らしい小説である貴志佑介さんの『新世界より』という骨太の古典的SFテーマを展開した作品を読んだばかりなので、僕の中では非常に共振がありました。twiitterで渡辺くんが、これって環境管理型の権力ですよね?という視点を提供してくれたので、そこの部分を引用してみたいと思います。
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一話しか見てないんでアレなんですが、一口に「管理社会」といっても、『フラクタル』のそれは(第三者の審級なき)環境管理という点で、たとえばオーウェルの『1984年』とは、パラダイムレベルで緩やかな断絶があるように僕には思えるんですよね。規律訓練型権力/環境管理型権力、という社会を管理する権力のパラダイムの断絶ですね。たとえばビッグ・ブラザーなんかいなくてもテクノロジーを整備すれば管理のネットワークは構築可能、みたいな、古典的な管理社会像の次のパラダイムです。
この前のオフで海燕さんとちらっと話をしたんですが、たとえば『虐殺器官』は「その次の管理社会」を描いた作品の代表ですね。『フラクタル』は現代SFや権力論に造詣の深い東浩紀が原案なので、管理社会の「その次」は確実に志向してるんじゃないかなと。
そうですね。なので、僕はずっとペトロニウスさんが伊藤計劃をいかに読むのか、という点に興味深々なわけですw 彼は古典的管理社会像の「その次」=いま・ここの世界の延長線上にある社会像を物語として描くことにこだわりつづけた作家なので。
感情移入先を見出だせないことそのものが当たり前の世界において語られる「終わりなき終末」的な物語=ドラマ、という体が、だいたいの場合とられますね。なんか自分で書いててよくわかりませんがw、感覚的にはそんな感じです。あんまりゴリ押しするつもりじゃないんですがw、管理社会といえば外せない作家だろうなと個人的には。
『虐殺器官』はまだ読んでいないので、何とも言えないですが、管理社会ものとして、この作品を見るとなかなか興味深いというのは事実でしょう。東さんというこのへんおまさによく理解している哲学者が原案にいるのも、またそのへんの考察を考えたい気分にさせられます。ちなみに、簡単に説明すると、現代の政治哲学はそれと気づかせない形で人の行動を管理してしまう技術の発達から「環境管理型の権力」という概念が生まれてきています。80−90年代にはやった「このシステムから抜け出ることができない」という哲学の絶望とリンクしている概念で、「我思う故に我あり」の思惟の部分――自分が考えることそのものさえも、あるパターンやシステムの影響から導き出されているという、自分が自分であることの意味が、個であることの意味が失われた90年代の感覚です。このへんは、このあたりにものを考えた人や本が好きだった人には、「ああーーあれか!」とか、思うでしょう。90年代ならば東さんの著作もそうですし、少し昔の80年代ならばニューアカデミズムや中沢新一やオウム真理教ですね。このあたりのカルロカスタネダの作品とか『チベットのモーツァルト』とか、システムに取り込まれた永遠に続く絶望の中で、いかに、あるかないかわからない「この世界の外部」が夢想されたかは、この時代を生きた哲学少年は、非常に良くわかる感覚でしょう。いまだと背景の感覚が消失している分だけ、こういった作品はどどう読めるのだろうか?。
まぁ、このあたりのマクロの問題点や構造も結構解明されてきていますし、このあたりでこういうものを描いた、興味深い物語が出てくるのは、確かに楽しみではあると思います。古典的な管理社会は、マザーコンピューターやシステムそのもの、もっと昔ならば独裁者を倒してしまえば、この全体主義の管理社会から脱出することができました。けれど、環境管理型の権力は、中心点がなく、かつ人々が自ら家畜になりたがっているという事実をベースに出発していることや、そもそも人間の闘争心を去勢するなりコントロールしないと世界中に殺し合いの悲劇が訪れるという「過去の事実」や「歴史」をベースに理想主義として出発した考え方なので、このシステムを壊すことは、すなわち歴史のダイナミズム、、、人間が欲望を解放して殺し合う世界が再度訪れるということでもあり、「それ」を克服するという方法を示さない限り、なかなか「本当に壊していいのか?」「本当に脱出することが正しいのか?」という疑問が最後まで残ってしまいます。
もちろん、漫画版『風の谷のナウシカ』などのように、それでも!と、そういった世界を理想主義のもとで管理するシステムをぶっこわすという決断をする、、、というのが、これまでの物語の、とりあえずの結論でした。いいかえれば、「壊した後」の世界のデザインがないってことです。というような文脈眺めると、この作品はとても興味深い。一つは、環境管理型の権力というものが、「具体的にどういう世界を見せてくれるか?」ということや、そこに住む主人公たちが、何を思ってこの世界を生きて、そして、それを変えようと思考するのか?という点に、非常に興味深く見れると思います。
■4話まで見たの感想〜深夜番組でやる世界名作劇場のテイスト・残念なことに宗教性の概念が弱い
さてこうして見ると、僕には最初に思った残念な点が一つある。それは宗教について、、、「この世界が僕らがいいる世界とは全く違う現実なんだ」ってことを描写する「怖さ」や「凄味」が弱いことです。というのは、この社会は、フラクタルシステムが形成されてから1000年の時が経過しているという設定ですね。かつ、教団?が「この世界は終わりつつある」ということを伏線でいっていることから、フラクタルシステム「自体」のメンテナンスや開発改良は、どうも現代の人類の手に余るようになんですね。ということは、この教団って、このシステムをベースに生まれたある種の管理のための宗教なわけです。中心のシステムに手を入れられないとすれば、科学ではなく「宗教」になっていくはずなんです。意味は失われて儀式にいろいろなものが変更されているはず。そうであれば、これほど世俗的な感覚が残っているよりは、主人公たちに、僧院への強烈な畏怖や恐怖などの感情があるはずなんですよね。でもそういうのが全然ない。また、そういった宗教性を演出しようとすると、明らかに僕らには理解できないなんらかの感覚が描けないと、、、
貴志佑介さんの『新世界より』は、ずっと日本の普通の村の日常をかなりの枚数、、、上巻の半分まで描くんですが、普通の動植物に交じって、どうしても???となる、名前の動植物や民話が時々顔を出すんです。パーセンテージにして、現代の僕らが分かる部分のほんの数割の部分だけ。また物語は主人公の渡辺さきの一人称で進むんですが、彼女が当たり前だと思っていることは、さらっと描写されて、それが実は現代の日本社会とは根本的に異なるのだ、ということは、後から別の視点で説明されて、そうかぁ!!と思う部分が続出するんですね。この「そうかぁ!!」と思わせるような、差異を具体的に描けないと、1000年後という極端に違う文明の中に生きている、、、なんというのかなぁ、おどろおどろ感みたいなものが演出できなくて、ファンタジー(=外に出ていくこと)としての原理がうまく働かなくなってしまうんですね。映像や設定は、かなりそれを努力しているで素晴らしいものになっているだけに、微妙に、このへんの感覚の違いの説明が、下手で、、、僕は残念に思いました。
というのは、ここが管理社会からの脱出という古典SFテーマの肝なんですよ。主人公のクレインが、この世界の欺瞞や問題点に、気づいていくことが、この物語の肝なんですが、そのために主人公が現在の物事の感じ方や常識などに強烈な違和感と不遇感を感じていないとおかしいんですね。それにしてはこのクレインは、この世界から脱出する意思がほとんどない。だから話がナアナアになってしまう。もちろん、そういう仕掛けはたくさんあるんですが、、、なんというか演出がちぐはぐに感じて仕方がない。たとえば、彼が感情移入すべきテロリスト集団であるロストミレニアムで、ご飯がおいしいなどおしい描写が沢山あるんだけれども、、、、、けど、結局そのシンボルに近いグラニッツのリーダースンダの頭の悪さ、、、、それはさっき言った、これから僧院という権力の中秋部にテロ攻撃を行う時に段取りのあまりの悪さや、その後の仲間が死んだときの、対応のあっけらかんさ、、、もしこういう権力から外れた集団であれば、強烈な宗教性が宿っていておかしくなく、「死」に対してもっと扱うべき対応があるはずなのにそれも特にない。そうすると、ロストミレニアムの生活に何ら憧れが生まれないんですよね。それでは、クレインが、いやー普通の生活がいいですよ、と現状肯定に戻ってしまう。そうすると、自分を違う世界に連れていくかもしれない「外部の象徴」である、女の子フリュネに彼がこだわる理由が消えてしまうんですよね。少なくとも現状への違和感を演出しなければ、クレインがフリュネに惹かれる理由がまったくなくなってしまうので、物語の根幹が進まなくなってしまう。もしかしたら製作者サイドとしては、ロストミレニアムの生き方もフラクタルシステムの生き方もどっちも、実は家畜に過ぎない、というバランスを(環境管理型の権力の結論はそうなるはず)描きたかったのかもしれないが、それでは、見ている消費者サイドはついてこれない。だってどこに感情移入していいかわからなくなるもの。感情移入しなければ、フリュネへの愛情やある種の執着が、納得性が失われるので、そもそも物語が動かなくなる・・・。
けど、LDさんが、この作品のキャラクターのバランスの演出を、世界名作劇場的、と称していたが、実は僕も全く同じように思った。バランスが凄く良くて、、、、具体的な意味をいえば、深夜番組のキャラクターというのは、基本的にマーケティングではっきり層が想定されている造形をしているものだ。LDさんは、キレがいいと評していました。たとえば、30代オタクで、属性が、、見たいな、見た瞬間にアピールがある造形をするものです。それは購買をうを明確にするんで当然なんですが、『フラクタル』はかなりそれが甘い。これは意図しているな、と僕は思うのです。ある種、けっこう幅広くの人が見れる感じで、、、つまりファミリー層ね、、、それってああ、世界名作劇場のテイストだな、と思いました。これは物語に自信があるので、層をブロードにとったというのがあるんだと思います。そしてそこをカバーするために、岡田さんの脚本を持ってくるあたりは、なかなか鋭い。このフリュネ、ネッサ、クレインの三角関係は、『truetears』を思い起こさせますもん。理知的な女の子と感覚的な女の子の間で揺れる、何も決めない男の子(笑)。
けどね、、、、難しいんですよ。「世界名作劇場のブロードなテイスト」と、こういう「異なる世界を描くファンタジーのニッチ感」というものの融合は。これができる唯一に近い天才と言えば、宮崎駿ですが、そこまでなかなか難しい。終末を描く作品としてLDさんが『未来少年コナン』という神レベルの傑作作品と比較していましたが、このレベルとの比較だと、僕はちょっと待ったと思ってしまう。
宮崎駿さんという人の凄味は、ファンタジーの重要なポイントである「この世界から脱出してしまいたい」というアウトサイダーのニッチ感を、ファミリー層的に仕上げることのできることです。それは、子供向けのアニメーションの技術や演出力を重厚に凄まじく積み上げているからこそできる、ある種の狂気のポイントであって、普通はあり得ないんです。つまりね、こういう「いまあり社会の仕組み(=管理社会)からの脱出」というのは、いまある仕組み、、、もっといいかえれば、いまある家族関係や友人関係の否定から始まるものなんです。行きつく果てとコアは、フィリップ・K・ディツクの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』です。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?―Do androids dream of electric sheep? (講談社ワールドブックス (7))
だからアウトサイダー。それをファミリー層的なブロードで描こうなんて言うのは、そもそも方針が間違っているんです。宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』の漫画版の凄まじいエリート主義やアウトサイダーぶりを見れば、あの人がどれだけ狂気を抱えている人はよくわかります。なのに、アニメーションにすると、『風の谷のナウシカ』のような、ああいう「誰にでも受ける」陳腐なものにできてしまうわけです。そして、にもかかわらず、そのニッチ感を失わない。このへんの、この組み合わせの演出は、主人公を動かすにあたって、、、いいかえれば少年の動機を駆動させるにあたって、どれほど難しいものか!という自覚なく演出してしまうと、凄い中途半端なものができてします。典型的な失敗例は、『銀色の髪のアギト』みたいなものです。僕は悲しほど退屈&つまらなかったです。映像レベルも最高、演出も丁寧、でもぜんぜんコアの狂気がないので、気の抜けたサイダーみたいな作品。
もちろん、そうなるかはわかりません。またアイディア自体は、既にかなり非凡なスタート地点なので、どうなるのかな?と思ってはいます。けど、最初の1−4話見る限り、このへんのSFと世界名作劇場のテイストはマッチしにくいことの自覚が凄く弱いので、まぁ残念ながら、『未来少年コナン』級と比較するのは既に無理だと思っています。という感じの状態です。・・・・けっこうマイナスのようだけど、凄い好きなんですよ。