『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers) スティーブン・アンブローズ著 スティーブン・スピルバーグ トム・ハンクス制作総指揮

バンド・オブ・ブラザース DVDコレクターズ・ボックス I


評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★☆4つ)


中身の解説については、やはり、まだまだヨーロッパ戦線や戦争の歴史について学び中であることから、あまり書くことができない。なので、印象の断片と、それと、スピルバーグが描く市民主義的価値観、という僕の観察の文脈を説明したいと思う。


まずは、印象から。アメリカ国立歴史博物館で、自由の代償という展示を見たのだが、そこで独立以前からアフガニスタン戦争までの全てもアメリカの戦争を並べて展示しているのですが、ベトナム戦争が、大量のヘリを投入した初の戦争であったことが説明されていて、巨大なヘリの実物大の模型が展示されていたんですが、それを見て、ああ、それぞれの戦争には、それぞれの当時の最新鋭の戦術がシンボルの様にあるんだな、と思ったことでした。もちろん、ノルマンディー大作戦のエアボーン、降下兵がヨーロッパ戦戦の一つのシンボルなんだな、と。Twitterで教えてもらったことによると、このエアボーンという兵種は、なかなか使いどころが難しく、その後の戦争では使われることがあまりなかったようなのですが、、、、。このバンドオブブラザーズを見ていると、この兵種が、非常に特殊な訓練のいる難しい職種で、降下兵と歩兵の2つの徽章をつけていることは、エリートとは違うんでしょうが、ある種の、すげぇやつ!という風にアメリカ軍内では思われていたみたいですね。特に、この物語部隊は、志願兵(ボランティアー)によって構成される部隊で、それだけに徴兵された兵士などとは、レベルが違う、という風に表現されています。

物語を見る上で、歴史的なマクロを語るわけでもなく、個個の戦闘のみくるの断片を描いているので、そもそもそれなりに歴史の流れを知っていて、かつ、この航空降下兵という特殊な職業がどういう機能を軍事的の持っていたのかを知らないと、よく意味がわからないかもしれません。なんといっても、第二話のノルマンディー上陸作戦に先立って、前線を遥か先のドイツ軍部隊のど真ん中に、ガンガン飛び降りておくシーンが、この物語の最大の印象的なシーンでしょう。たぶん、エアボーンが、最も大規模に使用された最初で最後の戦争でしょう。アメリカのこれもかという大物量の航空機が密集する夜間の空で、ドイツ軍の高射砲により周りの飛行機がバンバン撃墜され燃えさかる飛行機からもダイビンングです。このシーンのカッコ良さは、本当に胸のぐっときます。


さて、降下兵の僕が理解している見るべきポイントを説明しましょう。まずは第一に、この兵種は、敵が構築している最前線にいきなり歩兵を落とすという手法から、歩兵や陸を動く兵種にとって一番最悪の状態である、包囲されている、そのど真ん中にしかも統制とれていないバラバラの状態で投げ込まれるのが「前提」となっている、ということがあります。それだけに、歩兵部隊としての練度は、非常に高くないと、話になりません。そもそも、陸上の戦闘で最も最悪に状況である敵中に包囲されているが、前提って、どんな戦術だよ、と思いますが。最初のノルマンディーの降下作戦では、たくさんの兵士が、荷物や武器を全て無くしてしまった状態で、暗闇の中に飛び込んで行きます。しかも、ドイツ軍の高射砲によって、乗っている飛行機が次々に落とされていく中でです。このシーンの残酷さと、そして、凄まじい格好良さは、見てみないとわかりません。本当に凄い奴らです。


また、彼らは軽武装の歩兵部隊であるということも見るべきポイントです。つまりは、戦車の高機動による突破が基本戦術の現代戦で、ライフルといくつかの武器だけの歩兵部隊で、最前線に突入していく部隊なのです!!!。


実際に、ドイツ軍の戦車が現れた途端、あれほど強かった部隊が、簡単にやられてしまいます。戦車部隊には、基本的にはが立ちません。エアボーンは、先行部隊なので、戦車が追いついてくるのは、少しあとになります。それまでに、ノルマンディー上陸作戦を成功させるために各所内陸部の砲台を制圧するのが任務なんですが、そこにたどり着くまでに、戦車が現れると、全く相手にならないのですいかに、陸軍歩兵として優秀でないと、務まらないかがわかるでしょうか?。ウィンターズ少佐が、どこかのシーンで、「包囲されるのには慣れている」と呟くシーンとかは、鳥肌ものです。そういう部隊なのです。この部隊の指揮官であるウィンターズは、この部隊を率いて、ノルマンディー上陸を阻む高射砲や陣地を、最初の時点では銃さえ落とした状態で落としていくわけです。いまでの戦術の教科書に乗るくらいの見事な制圧作成だった様です。これらの業績が評価されて、大尉であった彼は、途中から少佐に昇進して行きます。ちなみに、この登場人物が、全て本当にいた人というのも、ぐっとくる話です。



さて、次に、僕がこの作品で見えるべきポイントだと思うのは、もっと鳥瞰した視点になりますが、スピルバーグが描く戦争作品の市民主義的視点です。


別に市民主義的という言葉があるわけではないので、僕の文脈を説明すると、いわゆる、近代、現代国家を成り立たせる価値の一つに、市民、シティズンシップの道徳倫理があると僕は考えているのですが、それは、僕ら現代の先進国の成熟国家の人々の基本的な常識です。例えば、一つは人権。人の命の価値が、個人の自由が、非常に重要なものであること。こういった、人間の歴史を振り返れば、そんなのどう考えても嘘だろう?というような、建前的な、しかしそれなしでは現代の巨大な国家、共同体を構築できない重要な理念です。日本人には、理解しにくいですが、この人権や自由平等などの概念には、常識として、「その防衛のために命をかけることが正しい」というコインの裏表の概念があります。ギリシア都市国家の昔から、オクシデント(西洋文明)の市民とは、共同体防衛のためい戦争にいく人々のことを指します。今回のアメリカの長期の出張で、price of freedomという文字を戦争に関する展示、記念碑で何度見たことかわかりません。アメリカ合衆国には、国を、自由を、仲間の市民を守るために戦争を行うことは、重要な義務であり価値なんです。仮に、その戦争が間違っていても、たぶん、関係ないのでしょう(苦笑)。というのは、国家が倒れてさえしまわなければ、大義のため、共同体の為に「個人が命を投げ出した」ことは、非常に尊ばれることだからです。それは、否定できませんよね。悪いのは、目的を誤った政府なのですから。

中国―隣りの大国とのつきあいかた (神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド)
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ちなみに、日本の靖国問題と比較すると、日本が近現代国家としては、非常にねじ曲がっている歴史を持つことがわかります。ドイツも同じでしょうが、自己の国家の「正しさ」が保証されていない状況で、歴史を描くこと、教育をすることは、難しい。それも、隣国の中国や韓国との歴史教科書問題という、サンフランシスコ平和条約にまで遡るある種の外交的手打ちがある中では、なかなか健全なナショナリズムを形成することが難しい構造的な問題があります。日本は、A戦犯という「悪者」を作り出すという「物語」を作成して、そこに責任を押し付ける事で、天皇と日本国民そのものが悪であったという物語を回避しました。ドイツのナチズムと同じですね。それによって、悪かったのは戦争犯罪人であり、日本国民そのものや天皇ではなかったという、外交上のストーリーを前提に、平和条約を結びました。だから、日本国家が、日本人が、A級戦犯を悪くない!と主張することは、先の戦争において、原因を追求すべき悪がいなくなってしまうので、イコール、日本の戦争は正しかった、と外交的に主張する事と同義になります。それならば、平和条約など結ばない!と諸外国が、怒り狂うのは、外交上の前提なので、当然の事だと思います。日本は、負けたのですから、その理由はいるわけです。もし、A級戦犯の物語がなければ、日本人を奴隷にし尽くすか、国家解体をしなければ、ならないでしょう?。だって、日本人そのもの、日本の文化や存在そのものが、悪なんだとすれば。もちろん、そのシンボルである天皇の処刑からはじまって、日本文化の解体をしなければならなかったはずです。だって、戦勝国にすれば、それは、当然の権利です。コードギアス反逆のルルーシュのエリア11ですね、まさに。二級国民として奴隷化した上での、植民地としての併合。村上龍の「五分後の世界」でもいい。その選択肢、国民総奴隷化と、A級戦犯にすべてをおっかぶせて軍閥東郷らによる一部の人間による暴走という物語で、それを回避したんです。なぜ、極東軍事裁判で、日本の国体や天皇を守るという使命感に燃えて、たくさんの人が、この物語を捏造したかといえば、日本という共同体の消失を恐れたからなんですね。最近、僕は、この時代になんで、こんなに陛下を守る!とかいって、クレバーな人々が、わけのわからない努力をしていたのかがよくわからなかったのですが、この文脈であれば、非常に理解しやすい。そうすると、山崎豊子さんの「二つの祖国」のこともよくわかるようになりました。この文脈があれば、いろいろなことが読み解きやすくなります。イエデオロギー的には、この時にこそ、天皇を処刑して、日本国民の「古き古層」を破壊しつくして、新しい日本を作り出そう!とか、アメリカの州になるべき!という考え方だってあったはずです。

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ちなみに、近代国家としては、自国の歴史の連続性の正当化がしにくいという意味で、非常にダブルバインドな苦しい状況です。しかしながら、ドイツが、ネオナチや極右の台頭を抑えながら、EU、ヨーロピアンユニオンという国家を超えた地域共同体の設立、そしてなによりも、その維持の基盤として貢献しているのは、単純に危機や社会問題で国が追い詰められた時に、ナショナリズムに回帰できない、という縛りがあるゆえに、より高次の価値観へコミットすることができるからです。ギリシャ財政問題破綻へのドイツの態度を見ていると、このことがよくわかります。ギリシャは、いま陰謀論が非常に根強く、しかも、ギリシャのコミュニティを破壊されるわけにはいけない、ドイツなどの金持ちが金を出すのは当たり前だ、というシンプルなナショナリズムが浸透中ですが、これだけ、こんな小国にこけにされたことを言われても、ドイツは、右翼的な暴発をせずたんたんと、ヨーロピアンユニオンへの価値へコミットしています。もちろん、現代社会の移民による同質性のコミュニティーの崩壊危機は常に、右翼の台頭、テロリズムの誘発、全体主義ナショナリズムへの傾倒を志向しますので、それを政府が、またメディアが、そして国民が、我慢しなければなりません。おかしな話ですよ。自国の福祉政策や失業問題などを差し置いて、他の国を支える為に財政出動をするなんて、国民が許すはずがないですから。これは、深刻なナショナリティーへの危機意識、自分たちがナチを産んでしまつたという歴史意識抜きには、僕はあり得ないと思います。なので、次世代の現代国家としては、意外に、旧来のナショナリズム一辺倒の国よりも、いい選択ができるのではないか、と思う時もあります。


逆にいえば、日本の近代史の総括としての重要な問題点は、明確な戦略目的なきまま軍部、マスコミ、大衆の暴走を許し、泥沼の戦争拡大、侵略を継続してしまったという徹底的な反省がないままなので、健全な右翼的意識の台頭ができない点にあります。というのは、本来常識的な国家としてバランスオブパワー(多国間地域安全保障の枠組みは現代の常識)のために、最低限の自己防衛軍事力の維持、さらには、地域の安全保障のためにバランスとしての軍事力維持(たとえば中国が軍拡したら、それに対抗できる軍事力は常に維持しなきゃなりません。それがリアルな軍事か技術か経済か外交かはいろいろ選択肢はあるにせよ。バランスが崩れるほうが、戦争拡大の可能性を生みますので)なんかが必要なんですが、こうした常識的な軍事力の維持やナショナリズムの維持を支持する層が、現代の日本社会においては、先の戦争においての反省がないお気楽な古い意味でのナショナリストばかりなので、この選択肢が選べないのです。これは苦しい。戦前の日本がヨーロッパ列強からの自衛戦争的被害妄想が強いものであったにせよ、それを世界のバランスや平和のために制御しきれなかった国としてのレベルの低さ、流されてしまったことへの痛烈な反省なしには、戦後世界の枠組みへの復帰はあり得ません。当時としては全否定はしにくいにせよ、現代的視点(民族自決の概念がある)からは、確実に否定される歴史認識ですから。本来は、正しい意味での日本の右翼意識やパトリオッチズムは、先の戦争の失敗に対する強い反省の上に立脚した政治勢力によってしか肯定され得ません。日本国内だけではなく、諸外国もそうでなければ、とてもじゃなければ安心できないし、特に東アジア諸国にしてみると、誇りの問題からも(彼らは戦勝国ですから!)そんな甘えた日本の戦前肯定は許せないでしょう。日本の現代政治が非常にねじくれているのは、先の戦争や日本の1945年以前の国体を否定している層が、本来若干右翼的でかつ常識的な軍事力、防衛力、バランスオブパワーの要求をするべきなんですが、そういった層がいないという点でしょうね。考えてみれば簡単に分かりますよね。戦前を肯定して、自衛戦争史観を肯定するということは、他民族への侵略を、現代の今!2010年代になっても肯定している!ということになるんですから。そんなの、現代で許されるわけがありません。いってみれば、旧社会党とか共産党とか(これは極端か、、、)そういう日本の戦前を全否定している政党・政治勢力「こそ」が、日本の軍備拡大(基本的にアメリカに肩代わりしてもらっているのは異常な状態で不健全です)や対中国包囲のバランスオブパワーと日米同盟の強化をうたうべきなんですよ。。。と僕は思う。政治勢力的にも、そういった政党が権力を握れば、中国や韓国軟化も安心して付き合えると思うんですよね。手ごわいだろうけど。・・・日本人の当時の意識としての、被害妄想(自衛戦争史観)は非常に理解できるし、リソースがない貧乏国の苦しみを感じて、非常に日本人としては理解できます。歴史認識としては、祖父たちの世代の苦労は、よくわかる。けれども、同時に、じゃあ、その周りの影響を受けた人々の認識をどう包括するの?って視点が欠けた、独りよがりの歴史認識でもあります。祖父の世代って、旧植民地の人間だって当然入るんですよ。以外に、これが抜けている、と思う。彼らも当時は日本人なんですから(併合しているんだから当然!)。旧宗主国の責任論は、外交の世界では常識的な認識です。ましてや旧宗主国としての責任もあります。東アジアの地政学的バランスにどのようなんていをもたらすかのビジョンや、旧植民地の人間の自尊心をどう維持するのか?といったことに対する認識のなさは、統治する側として許されることのない怠慢というかレベルの低さだと思います。そういった過去の日本の非常にお粗末であった、しかも負けてしまった国体を、あれは正しかったんだ!というのは、政治的には幼稚なロジックで、まぁ、とても弱い立場の日本で卑屈になるのはわかるけど、その被害妄想・自衛史観意識が、とどまることのない侵略戦争の拡大につながったんじゃなかったけ?って意識なしに主張されると、なんだかなーと思います。ちなみに、一つか加えておくと、日本の政治思想の現実認識のなさは、じゃあ戦前の日本や自衛戦争史観というある種の事実である出来事に対して、全否定する勢力は、それはそれでだめだなーと思います。だって、そういう政治勢力は、そこからイコール軍備放棄や憲法九条など、ファンタジー空想的平和論に話が接続するんですよ。そじゃー話にならない。


おっとまた盛大に話がずれました。


近代国家の基本的な価値として、自由や平等、人権などの理念的な価値があって、その為に、命をかけて防衛することは尊いことである、という意識がある、という話でした。その建前的な価値を、非常にクリアーでシンプルに表現するのが、スティーブン・スピルバーグの戦争映画だと僕は思っています。「シンドラーのリスト」「プライベートライアン」「バンドオブブラザーズ」。もともと、親族にナチス強制収容所がいるなどユダヤ人のアイデンティティーが強いアメリカ人にとっては、こうした理念的な価値への帰依、称揚は、当然理解できることです。こうした理念的価値がなければ、弱いものが殺されて迫害されるのは、当然の帰結になってしまいますから。

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また、チェンバレンの弱腰が、ナチスの台頭を招いたとする西洋の歴史意識は、やる時には武力で介入するのを躊躇してはいけないという反省があります。そう、理念を守るのは、言葉ではなく、武力であるべき、それも素早い、という意識があります。このへんの意識は、イスラエルの建国や彼らの防衛意識を見ると、形振り構わずでも強くなければ殺される、という凄まじい恐怖心がわかります。このへんのルーツからネオリベ的な精神が出てくるので、ブッシュJr政権時のアメリカの高圧的な軍事行動は、成る程な、とおもいます。なかなか両義的ですが、アメリカは、理念を背景にした戦争の方が、凶暴になりやすいです。


さてさて、では、長々と書いてきましたが、スピルバーグが描く市民主義的価値観が、なぜ見所のポイントか?というと。これは、昨今の成熟した先進国の物語では、そもそも、この近代国家の原理である市民主義的価値が信じられない、その自明性を疑うような物語が、多く生まれるようになっているからです。僕らのような、2000年代の日本に生きる世代にとっては、そもそも、クラシカルな意味での古典的市民主義的な価値なんて、すでに相当実感が薄いはずです。例えば、最近、見た「ウィンターズボーン」という映画は、ヒルビリーという市民的な法律の価値の外に生きておる共同体の絆の世界が描かれています。ここで、重要なのは、共同体の絆と法律的な市民社会の、並存ができないキワを描いている部分です。僕は、この成熟してリベラリズムが、個の価値が極まった現代で、もう一度共同体の絆が重要という実感を持っているのですが、物語お最前線では、それが、現代市民主義価値との対立という部分が強調されているような機がしてならないのです。また、「ファイトクラブ」でも「風の谷のナウシカ」「マトリックス」でも「アキラ」でもなんでもいいのですが、基本的には、現代近代国家を支えるシステムへの疑義、批判が、基本的には、近代国家のキングスベンをぶち壊して、世界が終わったあとの生き残りの廃墟の中での、古き共同体の絆の復活というような、文明の後退が描かれやすい。新しい価値が見出せないので、どうしても、破壊と過去への回帰が描かれてしまいやすいのです。

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こうした中で、もう一度原点に戻って、市民主義的な価値の再確認をしようという作業自体は、僕は、なるほど、と思うのです。また、なんで第二次世界大戦なのか、といえば、アメリカでさえも、自己の正統性になんの疑いも持たなくて済む戦争は、この辺りが限界なのです(笑)。そういう意味では舞台をここに持ってくるのは、現代を視野に入れると、卑怯だとは思うのですが(笑)、でも原点という意味では、もう一度、市民主義的な価値とはなんで、そこへどういう疑義が生まれているか?、どんな次の可能性があるか、ということ考えるためのは、いい教材だと思うのです。しかも、実話ですしね。本人も出てくるので、アメリカ社会の原点とが何かを見るには、いいドラマだと思うのです。

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