『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』庵野秀明監督 1995年から2021年の27年間をかけて描かれた日本的私小説からSFと神話までを包含する世界最高レベルの物語(1)

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評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つーちょっと評価付けらんないくらい最高)

3/14、米国からエヴァのために緊急帰国しました。政府の非常事態宣言が続き、2週間の検疫期間があり、次々に新しく対応しなければならない陰性証明などの過酷な条件をはねのけて。「やるしかない」、それが僕の思いでした(NHKのドキュメンタリー風)。人生には、自分の思いを示さねばならないときがある、と思い決断しました。妻には「あんた、バカァ?」といわれましたが、むしろそれはご褒美です。1995年3月27日のTV版、26話「世界の中心でアイを叫んだけもの(Take care of yourself.)」から、9502日(てきとー)待ちました。27年待ちました。検疫14日間明けの、3月31日に池袋グランドシネマサンシャインの12番IMAXシアターで見ました。これだけの長い時間をかけて、エヴァに関わったすべての人、もちろん待っていたファンである我々も含めて、すべての人にありがとうがいいたいです。日本に住んでいなければ、日本語が分からなければ、この時代に生を受けなければ体験できない思い出です。これこそが記憶の唯一性。「そこに、その時に、生きる意味」だと僕は思う。僕たちの青春が、一つ終わりを迎えます。

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一言でいうと、、、、、映画を見ている間中、この言葉が、頭の中をリフレインしていました。


100点満点だよ!



この物語を庵野監督の私小説として解釈すると、ああ、幸せになったのですね・・・・と感無量な気がしました。物語のエンドを振り返ると、ナディアやトップでやりたかったこととほぼ同一の構造なので、王道の王道なんですよね。そもそも「これ」がやりたい人なんだなぁと感慨深かったです。いいかえれば、血を吐くような思いで27年ここまで行きつけなかっかったのは、時代の要請があったということですから。このように終われて、本当に幸せな物語でした。



ちなみに、ネタバレかつ長いです。本気(バカ)です。とにかく初見の感動を描写しておこうと、舌足らずで、あとでひっくり返るかもしれないですが、今日の感想です。

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■1995年から27年間待ち続けたキャラクターの物語のオチをつけてほしい願い

エヴァが終わる。それは、すなわち、作品全体の評価を、自分がどう理解したかを、最終的に決められる時。27年かかった。

その前に、僕が『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に臨むものは何か?を設定しておきたい。何かを「深く理解する」には、自分なりの仮説がなければいけないと、と常々僕は思っています。「それ(自分の妄想)」と「現実(他者の妄想)」を突き合わせるところに、物事の理解の深みはあるといつも思います。

www.youtube.com

なので、何も知らないまっさらな状態でこのYouTubeに感想を残してあります。様々な分析の積み重ねではありますが、究極、1995年のTVシリーズの終わり、旧劇場版のアスカのつぶやき、それらを体験したペトロニウス少年というか青年は、何が「その先」に見たかったのか?といえば、


「キャラクターたちの時間を取り戻して彼らのドラマトゥルギーを全うさせてあげてほしい」


です。当時、僕は「物語を終わらせてほしい」という言い方をしていたのですが、その時のニュアンスは、人類補完計画などのSFのマクロテーマを終わらせてほしいというようなニュアンスが色濃かったのですが、今回、TVシリーズ、旧劇場版、新劇場版・序・破・Qをすべて見直して、ああ、実は、SFのテーマは、既に語られつくしている、と感じました。これは、別に語ります。なので、終わってていないのは、唯一、キャラクターたちのドラマなんだ、と思いました。


だから、僕が、パリのシーンが終わった後に、第三村のシンジやケンスケたちの「第三新東京市のクラスメイト達との学校空間の14年後の世界」に接続したときに、感動は、なんといってよいかわかりません。Aパート。庵野秀明監督はさすがだと涙が出る思いでした。この村のシーンだけで、見ているだけで「27年前の止まってしまったあの時間がまた動き出した!」と、胸が躍る気持ちでした。そして、初めて知りました。自分の心の中でエヴァの物語は、27年も止まったまんまだったんだ!と。


YouTubeで、いいたかったことは、非常に単純です。アスカは、幸せになれるんでしょうか?、ケンスケやトウジ、ミサト、委員長たちは、その後どうなって、幸せになったんですか?ということ。それにつきます。その単純なお話が、まだ終わっていなかったんです。どんな形になるにせよ、僕はそれが知りたかった。


本来、この「それぞれのキャラクターのその後」というのは、構造的には、すべて物語が終わって、数年後とか数十年後という回想シーンで、語るべきエンディングシーン的なもののはずです。実際に、シン・エヴァの最後においても、「その結果」が描かれています。けれども、これをAパート(NHKのドキュメンタリーを見ると、これが最初に構想として前提だったことがわかります)というこの映画の導入部に持ってきているところに、監督の「この物語を終わらせる」という気合を感じました。このAパートの機能が、全体のシナリオにおける「転換点」となって、シンジの動機(言い換えれば観客の心理転換)の要になっているからです。


それを順次語っていきます。


■理解するには、SF・神話としてのテーマと私小説としての解決を二つに分けてみるといい

この検疫14日間、公開から友人たちがもりあがっている祭りの熱を受けて、僕は、中田敦彦さんの解説動画、その他、岡田斗司夫さんら解説動画を、順次集中して見続けていました。その結果、体感したことがあります。それは「人類補完計画」をメインとする物語の神話・SF構造については、既に論理的に整合性が取れている、と。これは構造で理解するのあたりであとで解説します。が、一言でいえば、SFとしては、既に結論が出ている感じがしたんですね。



「この理解体感」は、不思議な感覚を僕にもたらしました。



一つは、いまいちわからなかったQが、見事にわかるようになったこと。全体の単語や構造が理解できると、驚くほど精緻に論理的に作られています。あの難解で、意味がわからないといわれたQがですよ!。わからないと思う人は、参考動画一覧を全部聞いてからぜひとも見直してみてください。(あとでどっかにあげときます)。


ちなみに、庵野秀明監督は、エヴァにおいて、「物語の省略」を徹底して行っています。なので、前提として、1)繰り返してみている、2)何年も待ち続けている、3)考察を読み解いているのが前提に作られていると思うのです。演出上、だからこそ、徹底してエンターテイメントとして、見ている観客の体感に寄り添うように作るられているように感じました。さすがに、ここまで「幸せな物語」はそれほどありません。観客が、そこまで一心不乱に、物語の世界を「理解して深く没入しよう」と事前に勉強してくれることなんてふつうないですから。なかなか、興味深いのは、「そうした事前勉強」を前提としているからこそ、物語が省略演出で来て、「余計な枝葉を語らない」ということで、逆に物語が分かりやすくシンプルに主観に感情移入できるという、「私小説」的なシンクロをしやすい構造になっているのも、また興味深い。


二つ目は、上のシンクロ(主観没入)しやすいというのと関連するのですが、キャラクターのドラマという抽象的な言い方をしましたが、もっとわかりやすく具体的に集約しましょう。SFのテーマなどが、「事前に深く理解されていて省略されている」からこそ、キャラクターの心情に、その後に寄り添える。


もっと具体的にいうと、たとえば、僕は、シンを見るにあたって、アスカに救われてほしい、とい命題を立てました。


それが、とてもクリアーに体感できたんです。世界の謎なんぞ、どうでもいいわ!という気持ちに、ある程度全体像が分かっているからこそ、思えたのです。僕の命題は、アスカの話でしたが、物語はすべて絡まっているうえに、最終的には、シンジの内面の私小説なので、そこに見事にフォーカスできた。


■人と対等になり自立するということは、自分が必要ないことを認め、本当に相手の幸せを願えること

2つのシーンが、今も胸にくすぶる。一つは、シンジが、自分を無視してアスカを救うシーン。もう一つは、第三村にアスカの脱出したエントリープラグが乗り捨ててあるシーン。このシーンの後に、アスカが、ケンスケの胸に飛び込んでいったのは、想像に難くありません。


なんか、物凄い納得と癒しが訪れたんです。自分に。


アスカに救われてほしい、というのは、たぶん僕の体感感覚は、シンジの最終的な感覚と同じなはず。「自分(シンジ)がアスカを救う=アスカに自分(シンジ)が救われる」ではなくて、アスカ「に」救われてほしかったんだよ。この助詞の重要な感じが伝わりますでしょうか。


アスカが救われるならば、自分自身については、度外視だと言っているんです。


それとね、アスカ自身の成長についても。14年の年齢を経て、彼女自身も、「自分自身が救われることがない」ことについて折り合いをつけていると思うんです。彼女が、世界を守るために、躊躇なく自分の使途との封印の眼帯を外すこういうが、それを物語っています。


僕的な用語でいえば、シンジもアスカも、覚悟ガンギマリ(笑)なんです。


「自分自身の内面の心の問題」をいったん置いておいて、それでも、必要な責任をなすと決断できることが、大人の条件だと僕は思ってます。それを、覚悟ガンギマリといっています。


そして、実は、自分の内面をいったん外に置いておいて、それでも、世界を、他者を思いやれたときに、、、、言い換えれば「自己愛ではなく他者を愛せたときに」、はじめて、自分自身の内面への救いが訪れるものなんだというこの世の真理を突いていると思うのです。


そう、アスカも、シンジも、最終場面で、「自分自身の自己愛(=自分自身が救われたい)」というエゴを超えて、相手を思いやれているんです。


シンジの視点では、アスカが他人のものになる(=シンジとは結ばれない)というところが、また、見事に素晴らしい。


これは、アスカに、「女の子に自分を救ってほしい」と叫んで、「気持ち悪い」といわれた旧劇場版のラストから、明らかな心理的な変化を感じます。


それでも、自分に関係なく、共依存から自立してしまったとしても、それでも、アスカに幸せになってほしい。なんていじらしく、素敵な男の子になったじゃないですか、シンジ。


僕は、アスカに物凄いれこんでいた、『電波男』の本田透さんや、『RETAKE』のきみまるさんらが、これをど受け止めたのかとても知りたいです。悲惨な目にばかりあってきたアスカ、、、彼女に出会い、癒されて、深く彼女を愛してきた人たちは、たくさんいます。時代を代表するヒロインのひとりですもの。でも、その彼女に「あなたは必要ない(好きだったけど、違う人を好きになった)」といわれても、彼女の幸せを願えるでしょうか?。そこに、時間の流れの試練が隠されているように思います。



■ケンスケとトウジの14年の重み~人として大人になることの魅力

しかしながら、きっと、第三村のAパートが、機能していないければ、こういう風な体感は訪れなかったんじゃないかと僕は思っています。

実は、ケンスケの描写を見ていて、最初から、なんだか、驚きっぱなしでした。出た登場初回から、色っぽいんですよ。艶やかで、大人の魅力にあふれていて、なんだか、ヤバいくらいかっこいいんですよ。実は、アスカと結ばれるとは思っていなかったので、なんでこんなにかっこよいのか???というのがよくわかりませんでした。今考察してて、その理由は、痛いほどわかるようになってきました。


ちょっとその話をする前に、伏線でトウジの話に戻ります。トウジ、かっこいいですよね。彼は、最初からかっこよかったので、男の魅力にあふれる14年たったあとの責任感あふれる成熟した大人の魅力を見せられても、「ああ延長だな」と思っただけでした。ただ、


「家族のために人には言えないこともしてきた」


と、ニアサードインパクトの終末世界を生き抜いてきた彼の言葉に重みがありました。この「当たり前の好きな女の子と結婚して家庭を築いて娘を愛する」というものを成立させるために、彼が払った犠牲と苦しみの14年を考えただけで、頭が下がる気がしました。そして、その深さを感じさせる「強度」を僕は、とても感じました。医者になるような勉強なんかとてもできないだろうし、この小さな村の人の中でリーダー的な存在になるのに、どれだけの内ゲバや内紛があったでしょう。僕らは、終末世界の、共同体再建の物語を、たくさん見てきています。それがどれだけの地獄かは、『ウォーキングデッド』『マッドマックス』『チャイルドプラネット』でもなんでも、すぐ想像がつくと思います。その地獄を生き抜いて、トウジは、あのやさしさを示せるんですよ。家族を守り抜いて。


14年のニアサードインパクト後の世界。


これが、311以後の世界のメタファーであるのは、指摘する必要もないと思います。わからずとも、日本に住み体験した人は、実感するはずです。こののちに解説したいですが、第三村は、日本エンターテイメントの位置づけでは、異世界転生、並行世界、災害ユートピアとしての、「人生をやり直し装置としてのメタファー」になっていると思うのですが、この「311以後の共同体の再生」についての強度とリアリティを獲得するには、生半可なことでは、単なる「機能としてのメタファー装置」という書き割りの舞台(繰り返しから抜け出れない)になってしまいます。そもそもが本質的には、「そういうもの」ですから。NHKのドキュメンタリーで、カットに異様にこだわり、アニメの制作方法をそのものを全く新しい形にこだわって庵野秀明が作った理由を感じます。


この第三村のリアリティのある強度と実存感覚を観客に伝えなければ、その後のシンジの心の変化への説得力がなくなってしまうからです。


さて、その話は、あとで深く語るとして、ケンスケに戻りたいと思います。


映画を見ながら、彼が「かっこよく魅力的に見える」理由が、よくわかりませんでした。いくつか見てて疑問に感じました。


「なんで彼は、村の周辺部の外れに住んでいるのか?」


「なんで結婚していない一人ものなのか?」


ただ、最初のシーンから、アスカって、服着てないじゃないですか。ノーブラで。え、ちょっとまって、しかも「生産する人間じゃないから、村にはいれない」といっているんだけど、でもだからといって「なんでケンスケの家(しかも孤立している)にいて、しかも彼のベットで、そんなにリラックスしててゲームしてて、ノーブラなの?」って、思いませんでしたか?(笑)。


僕は、、、、あ、これは「ヤってるな・・・・」と思いながら見ていました(笑)。だって、シーン全部に、親密さがあふれているんだもの。ケンケンとか、なんでそんなに親しそうなの?って思うでしょ、普通。


でもそうすると、もっと不思議なことをケンスケとアスカの関係性に、感じました。


ケンスケのセリフを見ていると、本気でシンジを思いやっていて、まったく嫉妬やアスカへの独占欲などの感情が、まったく感じないんですよ。だから????ってなりました。


精密に当時の感覚を振り返りましょう。


ケンスケとアスカこれは、ヤってる(笑)これは事実だな。しかも、アスカは、この村に来るときに、ずっとケンスケを二人で暮らしてる。


なのに、ケンスケには、アスカに対する恋情や、独占欲は感じない。


・・・・・・・そこで思い立ったのが、14年もたっていることです。


そうか、、、、このカップルは、もう長いこと付き合って、肉欲の関係も過ぎて、それで別かれているのだな、、、、と。歴史が、重いんですよ、二人の。シンジがまだどこかにいるだろう、、、ニアサードインパクトの過酷な世界を、14年も、生き抜いてきたんです。いろいろあったんだろうな、と。そして、アスカは、自分が使途を封印している身で、エヴァの呪縛で年を取らないことも、普通の生活を選べないことも知っている、いつ死ぬかわからない傭兵として14年生きてきているんです。つきあっても、どうにもならないじゃないですか。


だから、お互い思いあっていても、恋情で動く時期は過ぎてしまったのでは、、、と思ったんですよ。
(ちなみにこの分析に数分で行きつきました、見ている最中(笑)←どれだけ本気やねん)


ケンスケにもう一つ不思議なのは、彼にはサバイバルの知識があり、第三村を率いるリーダー的な存在だったのは間違いないです。そうであればこそ、彼がヴィレやその外部機関の組織のメンバーにならなかったのが不思議なんです。だって、ヴィレなどの組織との「つなぎ」をやれるほどの立場にいるわけですから。性格や能力的にも。


そうか、、、、なんで「村に入っていって」生産する立場のリーダーにもならなければ、「村の外に出て」ヴィレなどの組織に入らなかったのかは、アスカの存在を考えるとよくわかるんです。


アスカに会うために、アスカの帰る村を守るために、アスカが戦闘で苦しんで休むひと時の休息のために、彼は、あそこに住んでいるんですよ!。


たとえ、アスカとの未来はなくとも、それでも。。。。。。


覚悟ガンギマリです。


ケンスケ、、、、、そりゃ男の魅力あふれる色っぽさを感じるはずです。彼には「覚悟」がある。いつ滅びるかもわからない第三村を守るため、戦うのではなくて、「その機能を維持するためのインフラをチェックする」という仕事に身をささげているのも、アスカのひと時だけでも帰る場所を守るための覚悟があるんですよ。


既に、ケンスケは、アスカから見返りを期待することすらなく、ただ単に、彼女のために。そして、彼女のためと、第三村のインフラを守るという「社会人としての仕事」を両立させています。これ、責任ある大人の男の振る舞いだと思うのです。外へ出て、みんなを守るために戦う戦士である彼女の帰るところ守る。なんて、素敵な大人になったんだ、と思います。



■物語の主人公でなくても、成熟した人には魅力があり、本当の意味でヒロインを救えるんだよっ!


物語の主人公出ないモブキャラでも、ヒロインを救えるんだ、と叫ばれているような気がしてなりませんでした。


ずっと僕らがアズキアライアカデミアで話していた最前線の物語分析。90-00年代の脱英雄論のテーマですね。世界を救うのは、ヒーローだけではできない。


いまだ、ケンスケは、モブキャラです。だって、ヴィレのメンバーでもないし、人類補完計画をめぐる物語のわき役にすぎません。けど、モブキャラだって、人間です。人間は生きているんです。そして生きているところには、世界が社会がある。14年、、、、物語のメインテーマからすれば、「生き残ったその他の人々でくくられるモブキャラ」たちで、物語ドラマトゥルギー上の意味もありません。


けど、シンジよりも、早く成熟した大人になって、人生を積み重ねています。なぜならば、物語の主人公じゃないから。そして、その成熟は、傷ついたヒロインに「帰るところを用意できる」ほどの器になっているんです。


ケンスケの魅力は、そうした成熟の魅力、限られた手持ちの条件で、それでもなお果敢に時間を積み重ねてきた大人の魅力だと思います。そしてこの大人の魅力の器は、他者を愛し守り愛しめる器になれるんですよ。



■承認欲求の混じった子供の恋を超えて

アスカの視点からすると、なぜケンスケを愛するようになったか。というのを考えると、やはり14年の成熟の重みだなと思います。


アスカの物語を見直そうと、きみまるさんの『RETAKE』を読み直したのですが、そうすると、アスカとシンジって、やっぱり好きあってたんだなと思いました。少なくとも、アスカは、シンジを好きだったんだろうなと思います。同人誌の可能性の世界線も含めたすべてを考えて。


当時(特に破を見ている頃)、僕は、なんでアスカはシンジを好きになるんだろう?って、不思議に思っていました。いや、クローンはすべてサードチルドレンを好きになるように調整されるとか、そういうの抜きにして。なぜ疑問に思うかというと、この関係性を、突き詰めていくと、きみまるさんの『RETAKE』みたいになるんですが・・・・僕の感覚でいうと、あまりに先がない、二人が不幸になる未来しか想定できなかったからです。


いま、考え直すと、この理由はよくわかります。「子供同士の恋」なんですよ。「承認欲求」と「恋情」が絡まっていて、明らかに幸せになれないやつ。


同人誌などの「アスカをめぐる物語」が、すべてこの「彼女の満たされない承認欲求=愛されなかった子供時代」を癒してあげたという思いに貫かれています。似た者同士の恋なんですね。


でも癒すことはできません。


理由は簡単です。「愛する側のシンジ」もまた同じことを目的にしているので、承認欲求がループになってしまうんですよ。子供の恋ですね。僕は、「それが悪い」とは思いません。子供の恋だって、恋です。けれども、絶対に幸せにはなれない。


そして、14年の年月の積み重ねの中で、アスカは、物語の主人公ですらないモブキャラ(=エヴァパイロットではない)が、必死に生きているのを、まじかで見続けることになります。ケンスケとトウジです。


14歳の女の子と、28歳の世界の不条理さと苦しみを抱きしめて責任を背負う覚悟のある女性では、魅力に思う相手が違うのは当然です。


そして、エヴァパイロットとして、サードインパクトに関わる罪を背負い・・・・言い換えれば「自分が行ったことでもない罪」の責任をとらされて生きるとき、物語の本筋に関われずサードインパクトという地獄を受け入れ抱きしめ、それでも、何とか生き延びるために必死で自分を「小さな役割を引き受けて全うしようとする」ケンスケらの姿が魅力的でなかったはずがありません。だって、覚悟ある成熟した人の重みをめちゃくちゃ感じるもの。


そして、大人の恋を手に入れて、承認欲求を覚悟によって封じ込めた=成熟したからこそ、「子供時代の傷つけあうであろう恋」を認められるようになったんだと思います。だから


「あなたのこと好きだった。ごめんね。大人になっちゃった。」(うろおぼえ)


というセリフにつながる。ちゃんと過去を清算して前に進むためにも、「好きだった」というのを伝えるのも、大事な終わりです。これは、14年たって、20代後半になって、過去の幼い恋を思い出すことなのです。


めちゃくちゃ余談ですが、この辺りを、最近見た最高の傑作、岩井俊二監督の『ラストレター』で感じました。



■アスカに救われてほしいという物語は、見事に昇華されていた

最初の命題で、「キャラクターたちの時間を取り戻して彼らのドラマトゥルギーを全うさせてあげてほしい」という仮説を立てました。その具体例で、気になっていたアスカを取り上げました。


僕には、大納得です。


アスカ、そんなみじんも振りを見せていないのですが、最後の脱出したエントリープラグがケンスケの家の隣に落ちてからだったシーン。あの後、駆け出していってケンスケに抱き着きに行ったことが、脳内で補完されました(笑)。


彼女の時がやっとはじまるのです。


アスカはアスカだよ、それだけで十分さ(うろおぼえ)


ありがとうケンスケ。彼女を幸せにしてくれて、ありがとう。よかったね、アスカ。


■Aパート第三村の実存性を上げるための試行錯誤

3/22に放送した、NHKのドキュメンタリー『庵野秀明スペシャル! 「プロフェッショナル 仕事の流儀」』を見ていた感じたのは、監督が、絵コンテがないほうがいいとか、アングルにこだわってプリビズのアングル撮りすぎて鶴巻監督が、わけわからなくなっているのを見ていると、個人的にはなるほどなぁと思った。

というのは、この部分のこだわりをどうとるのかは、いろいろ解釈もあるだろうし、映画やアニメ制作の工程や技術に詳しくない僕が考えるのは的外れかもしれないんだけれども、実写映画製作とアニメ制作で最も違うことの差異の一つに、実写映画は、つねに偶発性にさらされているというのがあるんですね。そしてアニメーション制作の特徴的なのは、この偶発性が排除されていて完全に工程が管理されていること。偶発性の良さと悪さっていうのは、例えば実写映画だと、現実を切り取るんで「天気の良さ悪さ」や「役者の体調」とか、監督が作家主義的にコントロールしきれない部分の余剰が常に映り込むんですね。その余剰部分が、世界に奥行きを与える。しかしながら監督のコントロールの意味でいうと、意図しない要素が入り込んでしまうという欠点でもあるわけです。絵コンテで作成するというのは、厳密な工程管理で、集団作業を統合するわけで、この余剰部分・・・・偶発的に入り込む世界の奥行きが失われるわけです。逆を言えば、作品世界を、厳密にコントロールできる。


これを排したい、というのはどういうことかな?と考えると、やはり、シンの世界に対して、偶発性を取り込みたいということだろうと思うんですよね。マリという鶴巻監督的な、いいかえれば庵野秀明的でないキャラクターの投入とかもそうだけれども、庵野秀明私小説の「内的世界」をどのように壊すのか、変化させるのか、、、、重要なのは、そこから「外に出るのか?」という仕掛けに物凄く凝って、苦しんでいる。


もちろん、この実写映画の偶発性の取り込み、制作過程の導入などが、どうかんがえても、『シン・ゴジラ』で培ったものが反映していることが分かります。また内容的考えても、『シン・ゴジラ』の脚本が、夢の世界に妄想で入り込むアニメーションではなくて、集団で、組織で、過酷な現実に立ち向かうという構造が反映していると思う。


えっと、なんでこのことを指摘するかというと、Aパートの実存性を上げないと、この後の、シンジが動機を取り戻すというこの作品のコア中のコアの転換に対しての説得力が与えられないからだと思うんですよ。


■シンジが動機を取り戻すきっかけは何だったのか?

本作のアフレコ前には、初めての経験をしたという緒方。「ある日『シナリオについて相談したい』と連絡をいただいて、スタジオカラーさんに伺ってミーティングをさせていただきました。『:Q』の最後で言葉を発せない状態になってしまったシンジが、どうやったら復活すると思うか、君の意見を聞かせてほしい』と言われたので、『庵野さんが決めた通りにやります』とお話ししたのですが、庵野さんは『いま僕は、シンジよりゲンドウに近い感覚になってしまった。いまのシンジの気持ちを理解しているのは、緒方と(総監督助手の)轟木(一騎)しかいない』と(笑)」。

続けて「今回のシンジは、ただ拗ねて黙っている状態ではありません。自分が覚悟を決めてやり遂げようとしたことが、なにもなし得ていなかった。それどころかたくさんの人たちを巻き込んでしまい、なぜだかわからないけれど、周囲のみんなもまるで知らない人のようになってしまったという状態です。そのなかで唯一、自分と話してくれた友人を目の前で失くしてしまった。さらに『槍を抜いたら元に戻る』と言われたから必死でやったのに、もっとひどいことになってしまった。そういったすべてを背負ったうえで、シンジはしゃべれなくなってしまったんです。シンジの気持ちを私の感じたままお話しして、整理しながら『それらを乗り超えられる状況が整えば、どうにでもなると思います』と意見を交換させていただきました」と述懐。
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エヴァを見るうえで、ペトロニウスが常に、注目してきた点は、シンジの動機です。「エヴァには乗りたくありません」と、世界を救うことを拒否したヒーロー、主人公が、それでもなお、物語に復帰するポイントをどう描くかということだからです。これまでの物語「乗らない・乗れない理由」は、これでもかと描かれていました。


物語を終わらせるには、「乗る理由」を描かなければなりません。


www.youtube.com


ちなみに、「動機を取り戻す」ために必要な、それぞれの問題意識のレイヤーは、この配信の52分ごろ図解しています。


放送終了直後の庵野本人のインタビューなど読みどころ満載の『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)所収の「庵野秀明“欠席裁判”座談会(後編)」で、メインスタッフや同書の編者らはこのように語っている。

竹熊(健太郎):逃げちゃダメだとか、なぜロボットに乗るかという動機づけは、まだ成功しきってないと思うんですね。(略)そこをちょっとアクロバティックにやっちゃったなという感じはありますね。実際には乗るわけないんだから。リアルに考えれば。

貞本(義行):文字づらでは、これは乗らないでしょうと、僕は思いましたけれどもね。

摩砂雪:ダメでしたよね。シナリオ見て、全然ダメだと思って。なんとかなるのかって。

こてんぱんである。これに続いて、富野由悠季の代表作『機動戦士ガンダム』(1979年)の第1話を参照して、主人公のアムロ・レイガンダムに乗るまでの完璧な流れを「絶対超えられない!」と、庵野が悩み苦しんでいたエピソードが紹介される。このとき正しい答えが見つからないまま、大人たちによる恫喝によってシンジを初号機に無理矢理乗せてしまったことへのリベンジがかたちを変えてくり返され、おおむね失敗してきたのが、エヴァの26年の歴史の大半であったとすら言ってもよいだろう。


『シン・エヴァ』評「反復」の果てに得た庵野秀明とシンジの成熟(CINRA.NET) - Yahoo!ニュース

この少年の夢としての「男の子の動機」をめぐる解釈は、物語三昧の基礎のような視点なので、過去の記事なり配信なりをぜひとも見てみてください。一番的まとまっているものの一つは、上記のアージュさんのところでお話させていただいた資料ですね。






■Aパート第三村は、シンジ、レイ、アスカの3人の物語の結論~働くこと、共同体で価値ある位置を示すことが、自分の居場所

あまりに長くなりすぎると、書き終わらないので、とりあえずメインのアスカの具体例は書きました。Aパート第三村は、シンジ、レイ、アスカそれぞれが、これまでのエヴァンゲリオンの「子供だった時代」を乗り越えていく「きっかけとして機能しています」。アスカについては、話しました。レイ、黒綾波(仮)については、明らかに具体的なシーンを積み重ねているので、彼女の体験による心の動きが、彼女を「人として成長し自立していく」プロセスが描かれていると考えて問題ないと思います。


何が描かれたのか?


トウジ、ケンスケもそうなのですが、第三村で描かれているのは、ずばり


働くことの価値


です。ここにいる人は、ニアサードインパクト以後の、廃墟になった世界を再建している人々です。彼らは、生き延びるために、、、、言い換えれば、自分も、村も、生き延びるためには、「自分にとって」と「みんなにとって必要なこと」を、ちゃんと為さなければなりません。働くことというのは、そういうことです。自分にとっても、みんなにとっても意味あることを、ちゃんと行うこと。


僕は、様々な物語分析で、00年代以降が「お仕事モノ」へ回収されていく様を分析してきました。


その意味が、ここでようやく腑に落ちました。自分の自己愛の世界に閉じ込められているときに、どうやったら抜け出ることができるのか?


自分にできること、したいこと

みんなが必要なこと


のバランス点を見極めて、それをこつこつ行うことなんです。魂も何もなかった黒綾波が、毎日の「労働を通して」世界を体感していく様は、働くことが、世界とつながるための重要なカギなのだということ、まざまざと伝えてくれます。上で、第三村の実存性が、重要として執拗に表現を磨いたのは、この「労働をとして額に汗する感覚」の積み重ねともいえるべき感覚が、ちゃんと伝わらないと、この第三村という世界が、ただのイリュージョン、妄想の逃げ込み場になってしまうので、そういう「逃げるだけの幻想としての記号」としての世界が滅びた後の共同体ではないように表現することが重要だったのではないかと思います。


みなさんは、黒綾波の、魂の癒し、自己再生を感じられたでしょうか?。少なくとも、僕は感じました。


『RAIL WARS!』 末田宜史 監督 お仕事系というキーワードで - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『冴えない彼女の育てかた』11-12巻 丸戸史明著 ハーレムメイカーの次の展開としてのお仕事ものの向かう方向性 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために



異世界転生、並行世界、災害ユートピアとしての第三村ー自己再生は、本当の自分なのか?


しかしながら、、、、やはり、まだ一回しか見ていないので、正しいかわからないが、シンジが明示的に動機を取り戻した理由がよくわかりません。ただ、第三村で、黒綾波と会っているうちに、彼は気力を取り戻したように思えます。それは、上記の「働くことの価値」を通してでした。それ自体は、なぜそう庵野監督が思いついたのかは、別に説明します。


が、しかし、シンジは?。彼は、特に働いていません。シンジが、この後のB、C、Dパートで、ゲンドウとの対面を果たす、、、のは先に行きすぎなので、最初に説明した、アスカを対等な存在として「彼女自身の幸せのために」と考えるには自立しなければならず、この自立が、なぜ起きたのかに体感がなければ、このシナリオは成立しません。

この前に指摘していますが、第三村が、現在のはやりの、というか2000-2010年代に特徴的な日本のアニメや漫画、ライトノベル異世界転生、並行世界のシナリオと同じ機能を持っているのは、明らかでしょう。

しかし、この「転生して違う共同体で自己再生する」という物語には、強い批判が存在していました。

それは、一つには、現実から「逃げていいのか?」という問いです。これについては、現実でもう一度生きる勇気を獲得するためには、幻想の世界で一休みするのは、とても有効な方法だということが分かりました。この系列の物語類型は、たくさん話してきましたね。魂の癒し、依存からの自己回復には、「時間がかかる」のは大前提なので、猶予時間を獲得するというのは、重要な戦術であることが分かりました。


しかし、もう一つあります。これのほうが本質的なのですが、災害ユートピアではないのか?という問いです。レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』を見るとわかるのですが、311など特別な災害が起きると、選択肢が限られるため、人々は疑似共同体をつくりあげ、そこで満たされます。

災害ユートピア(さいがいユートピア、英語: disaster utopia)は、大規模災害の後に一時的な現象として発生する理想郷的コミュニティを指す呼称[1][2]。アメリカ合衆国著作家レベッカ・ソルニットが提唱した概念で、多数の犠牲者を出し、一部地域に集中した悲劇を目の当たりにした社会では、人々の善意が呼び覚まされて一種の精神的高揚となって理想郷が出現する、とする[1][2]。

ソルニットによると、大規模な災害が発生すると、被災者や関係者の連帯感、気分の高揚、社会貢献に対する意識などが高まり、一時的に高いモラルを有する理想的といえるコミュニティが生まれるが、それは災害発生直後の短期間だけ持続し、徐々に復興の度合いの個人差や共通意識の薄れによって解体されていく[2]。


災害ユートピア - Wikipedia


これって、「本当の自分なのか?」という問いです。過去に、薬害エイズ問題を扱った小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論 』(1996)も思い出します。ようは、災害が起きて、疑似共同体が立ち上がっているところに、ボランティアなどで駆けつけて、「そこで必要とされている」と感じて充足を得ることは、明らかに欺瞞じゃないか?、自立していないただの依存の甘えじゃないか?という問いです。


これはシンジに強く響く問いです。つまりは、世界の終わりや使途との戦いといった「非常事態に巻き込まれて」、自分の本質と直面もせず、ただエヴァパイロットとして「巻き込まれていれば」、それで充足を感じられる・・・・というのは、欺瞞だよね?ということですから。


僕は、シンジ君が、立ち上がろうとしないのは、非常によくわかりました。自分が世界を壊してしまった罪の意識もあるでしょうが、同時に、ここで簡単に働き始めて、居場所を得て、癒されてしまっていいのかというかたくなな気持ちが生まれたのは、とても共感できます。


アスカには、14年の歳月がありました。


綾波には、魂と記憶がないので、背負うべき罪や責任がありませんでした。


彼女たちには、そうしたアドバンテージがあったんです。


それを、シンジ君は、どう乗り越えたのか?



シンゴジラが描いた組織を通して世界とつながること~組織でつながるのは働くことなんだ

シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160823

シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(2)
https://petronius.hatenablog.com/entry/20160909/p1


次の2で語ろうと思っているのですが、この物語が、庵野秀明監督の私小説であり内面世界からの脱出で作られているのは、言うまでもないこととして皆さんには周知されているでしょう。このラインから、シンジ君の内面の成長、というか転換を考えてみたいと思います。いきなり物語の外に話が飛躍するのは、私小説ということもあるのですが、それ以上に、エヴァンゲリオンが作成されたオリジナルの設定から抱えている構造的な欠陥ともいえるべき問題点があるからです。


それは、僕が、マヴラブの分析をしたときに、「男の子が動機を取り戻すにはどうすればいいのか?」という問題意識を持つと、各レイヤーごとにちゃんとした自分なりの結論を出して、それを統合して「手を汚す覚悟」というのを持たなければ、善悪が判らない世界で、それでもなお戦うという、立ち上がるという動機にはつながらないと書きました。この分析は、僕は今でも正しかったと思っています。


しかし、シンゴジラの分析をした時に、またマヴラブのクーデター編を分析した時に、「日本という視点」がすっぽり抜け落ちているので、ここを埋めないと、前に進むことができないはずだと書きました。日本のエンターテイメントは構造的にこの部分の欠陥を持っているので、正義の味方としての「組織」を描くと、ネルフのような人類のための組織になってしまい、目的があやふやになってしまいやすい。自分、家族、友人と人類とをつなげていくためには、その中間に組織、国家の意識がないと、何かあいまいなものに命をささげるような、いわくよくわからない感じがしてしまい、コミット感が薄れるのだと思います。

だから、庵野秀明は、この物語、日本を描いた『シン・ゴジラ』を作らなければならなかった。


でなければ、エヴァQの先を描けるはずがないんです。


2016年9月9日

当時、シンゴジラを、吉宗鋼紀さんと一緒に見に行って、興奮してこのことを話したの今でもはっきり覚えています。


■鈴原サクラの意味~物事には両面があって、それはよいことでも悪いことでもあるー善悪二元論を超えて意志を持つこと


シンのヒロイン誰?と聞いたら、たぶんほとんどの人が、鈴原サクラってこたえるんじゃないかなってくらいの、チョイ役なのに一番シンジを思いやっている子です。僕は、絶対、マリとのエンドの先に、サクラちゃん出てくると思っていますよ!(笑)。えてして、自立した後に必要な相手は、全然違う人なんですよ。


彼女矛盾したことを言っていますね。態度も、凄い振れ幅です。


これが何が言いたいのか?


サクラの言っていることは、シンジが行った罪=は、ニアサードインパクトを起こして、世界を滅ぼし彼女たちの家族を殺したと同時に、なんとかサイードインパクトを防ぐためのぎりぎりの手段でもあった。しかも、本質的に、彼女たちの日常を家族を殺したのは、ゼーレであり、ネルフであり、ゲンドウであって「憎むべき相手はシンジじゃない」のはわかっているんだろうと思います。何かお行えば、世界には、様々な影響があって、それはポジティヴなものとネガティヴなものが同時に起きる。NHKのドキュメンタリーで庵野監督が、作品を作ると、いい影響ばかりじゃない、とすぐ反応を返しているのは、この世界の両義的な側面が、めちゃくちゃ重くのしかかっているんだろうと思います。エヴァのおかげで僕は、最高の物語体験をさせてもらって幸せですが、同時に、旧劇場版とかを見て人生悪い方向に崩れた人も多くいたんではないかと思います。でも、それ責任取れと言われても困りますよね。作りては、やむにやまれない衝動でものを生み出しただけで、責任を考えて作っているわけじゃないでしょうから。


90年代の大きなテーマで、善と悪の対立を煽って、悪を倒し続けてきた時に、「悪の側にも悪の理由があって」という風に深堀していって、何が正しいかわからなくなったというのが、善悪二元論的なヒーローもののおおきな構造的問題点でした。このことは、クリントイースウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』で一度語ったことがあると思います。単純な善と悪の二元対立の視点は、シンプルで人の感情移入を誘いますが、それでは到達できない領域があって、そこに到達できなければ、絶滅するまで憎しみあって殺しあうしかなくなるんです。この構造を何とか抜け出したいというテーマを、一次元具体的に落としたのガンダムサーガの「この地球上から戦争をなくせないか?」でした。このへんは、長くなりすぎるので、僕らの書いた「物語の物語」その系譜を追ってください。


けど、「何が正しいことかわからないと」、何もできない、というのは子供です。


答えは、「自分の手を汚す覚悟を持て!」なんです。これマヴラブの解説で散々しましたね。男の子の動機が失われた世界は、何が正しいかわからない世界。その中で何かをなすってことは、「悪を為す」覚悟を持つこと。物語マインドマップでは、悪を為す系として、反逆のルルーシュを上げていますが、大義を超えて、個人的なレベル(僕の用語でいうとミクロの次元)で手を汚す覚悟を持つことは重要です。


シンエヴァは、このシンジが動機を取り戻すのに必要な「自分がやって来たことに対して自覚とを持つ」という告発のパートが、基本的にQだったんだろうと思います。


ということで、態度と言葉で、この両面にストレートに言及しているサクラは、これはダークホースだ!と思ったのですした(笑)。あとから出てきた後輩ちゃんキャラですね。親友のLDさん、ヤンデレ好きが、めちゃくちゃ推しておりました。



■災害ユートピア共同体(ガイナックス)としての第三村から、アソシエーションとしてのスタジオカラー(大きなかぶ)へ

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ちょっと戻ってみたいと思います。シンジ君の依存からの脱却の理由は、組織を通して働いている姿を見ることでした。僕は、ここが感情的には、すっきりするのに、今思い出してみると、はっきりとした具体的エピソードを思い出せません。


ここは重要なポイントだと僕は思っています。それは、きっとこのエヴァシリーズのオチを、第三村という田園的共同体の回帰や、父親との葛藤を直視して、大人になることだという陳腐な物語に回収することで、「つまらない終わり方をした」という批評家がたくさん出るのではないかと思いました。構造だけ取り出すと、必ずそういう風にしったかぶりに解釈をつける非常化がたくさん出るだろうなと思いました。新海誠監督の『天気の子』についても、そうした社会還元論私小説の側面を自己啓発セミナー的にとらえて、イデオロギーで陳腐な終わり方をしていて最低だとかいう、つまらない解釈をする人はたくさんいました。


『天気の子(Weathering With You)』(2019日本)新海誠監督 セカイ系の最終回としての天気の子~世界よりも好きな人を選ぼう!
https://petronius.hatenablog.com/entry/2019/08/31/054906

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そういう人たちは、物語を、キャラクターたちの人格を、ちゃんと追っていないんだなと、いつも思います。自分のイデオロギーを語りたいがために、作品を利用しているだけに思えてしまう。



とはいえ、だからこそ「誰もが見た瞬間に容易に思いつく」この批判について考えなければいけないんだろうな、と思うのです。ようは、庵野秀明監督の私小説的側面で、「壊れた自我、動機」を取り戻すというのが、自己啓発セミナーの「家族との関係を相対化して大人になりなさい」とか、共産主義の良く向かう到達地点での「田園共同体への回帰」すれば癒されるって、、、、そういうのじゃない!ってのを、いいたいんですよ。いや、なんというか、とても王道で、陳腐な収束地点なんですよ、確かに抽象化すると、ことばでいうと、このとおりなのですが、、、。


でも、僕はそうは感じないんですよ、、、まだうまく言葉になっていないんですが、まずこれに対して、庵野監督の「私小説的側面」なんですが、ここまで心を切り開いて、血をどくどく流すように生々しく追及し続けて・・・・27年ですよ。これが維持されて、それについての答えが出ているものを、陳腐なものとしてとらえるのはおかしいって。まだ自分がどこに行くか、わからずに書いてますが、まず見ているずっと頭をよぎっていたのは、安野モヨコさんの『大きなかぶ』の映像です。


これって、庵野監督が、テレビ版のガイナックス以後にカラーを立ち上げて作品に結実している過程を描いていますよね。庵野秀明さんのエヴァンゲリオンシリーズは、彼の内的世界を描くという私小説的に理解するのが間違いないと思います。その場合、庵野秀明の個人史の中で、この破壊と癒しと再生…いいかえれば、依存と自立というのは、どういう風にとらえればいいのかと言ったら、僕は、タイトル的に感じました。


先ほど言ったのですが、個人の私小説的なレベルはいくらその悩みを考えても、ひたすら孤独に落ち込んでいくだけで、人間存在が、人間の実存が、他者と分かり合えない「孤独」なのだという構造的なものに行きつくだけです。それを超えるのに、僕は、組織が描かれなければならないと思っていました。


けど、組織を描くって、どういうことだ???


それが、具体的にはわかりませんでした。シンゴジラ喝采を上げたのは、「一人では為し遂げられないこと」を、「たくさんの人の思いを重ねて達成する」という構造をポジティヴに描いたことでした。


そこで凄く感じたのは、つい最近のカラーとガイナックスとの関係です。


素人に寄せ集めで何が何だかわからないままアニメを作っていた、自然発生的で覚悟ない、才能だけの共同体ガイナックス
(共同体は無自覚にできるものだから)


それが崩壊していく過程。


そして、そこで得た知見を活かして、ちゃんとした株式会社・・・・自覚ある個人の集合体であるアソシーエーション(目的を持った組織)になっていく株式会社カラー。(アソシエーションは、目的合組織)


これが成長していく過程。


これって、ネルフとヴィレを連想してもおかしくないですよね(笑)。このありさまは、安野モヨコさんの『大きなかぶ』に余すところ描かれています。この人、やっぱり天才すぎます。カラーって、ヴィレだったのか!って(笑)。


まぁそんな無理を比喩として重ねなくてもいいのですが、何を言いたいかというと、一人で生きてきた、才能だけで生きてきた、庵野秀明という個人が、ここで初めて「組織というものと直接に相まみえ、その格闘をし・・・・・そして、組織を成り立たせるものは何かをしっかり直視してきたん」だろうということは、僕らには現実世界を見ればわかります。


組織・・・・・人が集まるところでは、個人の思いだけでは、どうにもなりません。人も分かり合えません。一つ間違えば、ガイナックスのように、めちゃくちゃになります。あれだけ素晴らしいソフト持っていながら、ガイナックスは、崩壊するだけでしたよね。僕もよく知っているわけではないので、勝手な言い草かもしれないですが、この時代を代表する傑作を生みだしたガイナックスのその後の末路はひどすぎますよね。ナディアの映画とか、本当にひどかった。経営が、以下に全くコントロールされていなくて、目的や指揮官がないものが、いかにめちゃくちゃになるのかは、結果を見ると、感じると思います。あのまま庵野監督が、組織をどういう風にゼロから作り出すか、反面教師として、考え、行動に移さなければ、そもそも僕らは、エヴァンゲリオンの続きも、この結末も見ることができなかったんです。


では、彼は、いったい具体的に何をしたのでしょうか?。


■会社(アソシエーション)の経営者として、指揮官としてジブリを超えろ~セカイがどうなっているのかを見通せなければ世界には到達しない

庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年(上・下)
https://diamond.jp/articles/-/107910
https://diamond.jp/articles/-/108195


この記事が素晴らしかった。僕も一時期ヴェンチャー企業の経営に携わっていたのですが、この「創造のものづくり(=個人のエゴを貫く)」と「組織としての集団作業と利益」のバランスのとり方が、あまりに素晴らしかったので、腰が抜けました。いきなりキャッシュフローかよっ!って、関心を通り超えて度肝を抜かれました。


これは、経営者、庵野秀明の苦闘の歴史です。シンエヴァを見る前に、ガイナックスとの関係、その末路、そして彼がスタジオカラーと会社を、組織をどうしだててきたのかは、ぜひともこの記事ぐらいで十分なので、知っておきたいところです。


僕は、ここでどうしても、スタジオジブリとアニメーターの構造的給与の安さなどを思い出さずにはいられませんでした。ああ、もう一つおもったのは、『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博さんです。誰もが分かるともいますが、歴史に残るような傑作を、時間をかけて、本気で作るには「立場の構築力」も含めて必要で、才能だけでどうにでもなるわけではありません。


庵野秀明社長?(なのかな?)の経営する株式会社カラーを見ると、これがちゃんと貫かれていることに感心します。もちろんいろんなことがあったんだろうと思うし、内情を知らないので、良い面だけを言うわけにはいかないですが、細かいことはどうでもいいんです。エヴァンゲリオンが、最終回まで迎えられたこと。経営が破綻しなかったこと。それだけで、これは大成功なんですよ。


スタジオジブリの設立契機には、それまでの宮崎駿高畑勲らの労働組合や、制作の経営にまつわる話を抜きには語れないように、この部分を抜きに、彼が明らかに経営者として、エヴァを制作してきたことは、私小説上の庵野秀明の成長や葛藤とシンクロするのは当然です。


自然発生的に人が集まって行くときに、「そこに指揮官」がいなければ、そして「目的がなければ」、ガイナックスのように迷走して、おかしなところに行ってしまうものなんです。自然発生のままの共同体でいれば、無限に母なるものにくるまれたいと思うわがままどもを癒しつづけるか、無限に父なるものとして厳しき指導して支配するようになっていくしかないじゃないですか。



■傑作『未来少年コナン』のハイハーバーの共同体としての欠点を超えろ!(もののけ姫のたたら場でもいい)

いろいろ思うところはあるのですが、知ったかぶりもよくないので、とにかく「組織を経営する」という側面を、ただ一アニメーターやクリエイターを超えて庵野監督が戦ってきたことが、彼の組織間に大きな影響を与えていると感じるのです。


そこで、ああ、、、、とずっとおもっ感心したことがあります。


委員長に子供がいることです。トウジの父親も生きていますよね。身体壊しているのか、たぶん、あまり働けない感じがします。第三村には、労働の側面だけには収まらないさまざまな共同体があります。宮崎駿の原始共産主義的な側面、才能あるものが集う結社(アソシエーション)に常に抜けていることで批判されてきたのが、子供が、家庭の描かれ方が甘いことだと思うのです。特に『もののけ姫』のたたら場には、子供がいません。つまり再生産がないんですよね。なぜならば、才能だけで目的に結集している場合は、そういうものがあると足かせで邪魔になるからです。子供がいると、共同体になってしまうので。あ、このあたりの共同体VS結社の定義は、調べればすぐ出てくるので、前提で話を進めます。


僕は、この第三村の実存感覚の描かれ方に、物凄いエネルギーを叩き込んでいるさまをとても感じました。たぶん、ヴィレやその下部組織を通して、様々に孤立して生き残っているコロニーがあって、交易ができるようになっているとも思うんですよ。これ、ハイハーバーの構造と同じでしたね。ハイハーバーも牧畜部分と農業の交易が成り立っていました。他の共同体との交易ができなければ、未来がないからです。


この第三村は、311の巨大災害のメタファーであって、仮設住宅生きる人々が強く連想されてしまいます。では、そこに生きることはどういうことか?、ということが、様々なレイヤーで描かれています。


この世界を守る最前線で戦うヴィレや、この世界の再生を担う研究、実行、支援部隊のそれぞれの役割が、余すところなく書かれています。この世界は、人類の生き残りの最前線なんですよ。そういう全体の位置づけ、組織間の構造などがうっすらでも感じれれば、ケンスケがその「狭間の仲介者」として意味ある仕事をしていることや加地リョージがL結界密度の浄化…これはストレートに世界を汚してしまった放射能の除染を、『風の谷のナウシカ』を思い出させます。


こういう共同体と結社の「様々なレイヤーのつながり」を実感できると、人類にとってこの未曽有の大災害、危機にさして、人類が生き残りのための総力を挙げて仕組みを作っていることが感じられます。そこに、単純にユートピアとしての田園社会が生き残っているわけではないんです。アスカの「私は守る人」という言葉にも、自分の役割が、様々なグラデーションになって、この世界を支え守っているとだ、という意識が強く垣間見えます。


僕は、胸が熱くなりました。


そして、単純な災害ユートピア=一時的に安楽に逃げて帰るところではないのだ!!!という強い実存感覚の立ち上がりを僕は感じました。だからこそ、「そのさまざまなレイヤーの責任と役割の連なり」の中で、確固たる存在を占めているケンスケ、トウジ、委員長、リョウジたちのほんの一瞬の小さなセリフ態度の重さが輝くのです。


この世界の複雑さは、経営者として、「すべてはつながっていて」「すべての人に役割と責任がある」ということを見通す力がなければ、描けなかったんだと思うんです。この感覚がなければ、ケンスケたちが、深く価値ある個人として「大人になった」という感覚を受けなかったと思うのです。これは、経営者や上に立つものでないとわからない視点です。一クリエイターとして従業員であったら、わからないと思うんですよ。少なくとも、この第三村に関わる登場人物たちの何気ない言葉が、この共同体を成立させているのが、『至難の業に近いぎりぎりのものである』ということが、僕には迫ってきました。まだ世界は滅びつつあり、その日常をギリギリで守るためには、命を懸けるくらいの努力がいる。当たり前のような日常は、紙一重の非日常と隣り合わせに、人々の極限の努力と責任意識によって運営されているものなんだ!と。


僕は、最初に、この第三村、Aパートは、シンジの動機の転換点になるのですが、それは陳腐とは言わないですが、もうすでに王道としてパターンとして出尽くしている「異世界転生・並行世界」に回収できない実存感覚をどう作り出すか?ということについて、この部分を僕は強く感じました。


僕は、311での被災では、東京にいましたから一晩、子供たちに会えなくなった程度ですが、、、あの非日常に切り替わる一瞬は今もまざまざと覚えています。大きな災害を経験すると、胸に突き刺さるものがある、と僕は思っています。


それは、日常と非日常は、簡単にひっくり返る。


もう一つ、しかし、日常と非日常は、隣り合わせで、ちょっと距離的に遠いところに行っただけで、いきなり非日常が隠れてたり、日常があったりします。紙一重なんですよ。僕は、先日、南カリフォルニアの山火事に直面して、緊急避難区域に巻き込まれたのですが、、、あんなことがいきなり起きるなんて!と、今思い出しても信じられません。会社で会議をしてたら警察官が踏み込んで、避難してください!って。アメリカは地震が少ないので、自然災害少なくて安全とか思っていた自分がいかに甘かったか痛感した時でした。


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だから、「ぬるい態度」「官僚的な態度」「世界がこうであることに対して疑問を持たない単純な視点」に対して、たとえようもない嫌悪感を持つようになりました。


だって、世界はいつ何時、どんな風に壊れるかわからない。また、壊れたとしても、すぐ隣では、豊かな繁栄の日常が続いてたりするんです。


この世界が、さまざまな滅亡の可能性のあるギリギリのセカイと隣り合わせで、いつ何時そのバランスが壊れるかわからない。そのぎりぎりで、みんな生きているんだ、ということ。


僕は、今回のシンエヴァにさして、テレビ版からすべての作品を見直しましたが、この「人類補完計画(人類の進化・旧人類の切り捨て)」というマクロ的SFの視点の大災害に襲われる「僕らが住む世界」がいつ何時、ぶち壊される変わらないんだ、ということをまざまざと感じました。そして、にもかかわらず、人間は、その中で組織を作り、生き残りに、自分たちの大事なものを守るために、必死で動く、と。


第三村に、それを支える組織、ヴィレに下部組織KREDITの連携、そしてそこで自分の人生をかけているケンスケやトウジたちの14年の生きざまを見せられて、僕には、ああ、そうか、、、、この人は、「人が孤独を抱えながらも、人のつながりの中で生きていき、そして人はちゃんと組織を作って、生き残りのために目的を持ち責任を作り出して果たしていく」という大きな「私たちの住む社会」というものを、感じているんだな、と思いました。


「そこ」で、シンジが、動機を取り戻すのは、僕はおかしなことではない、と。そして、これは災害ユートピアの一時的なお祭りによるごまかしでもない、と、そう僕は思いました。


■働け、大人になれ、まっとうな人間になれ????といっているわけでは全然ないと思う~答えは「それしか生きる方法がない」んですよ、それでいいじゃないですか!


この作品は、庵野秀明さんの私小説になっているので、個人史を追うと、物凄くつながるんですよね。NHKのドキュメンタリーは素晴らしかった。


プロフェッショナルという言葉が嫌い、というのは、とてもわかる。これまさに、答えだなと思いました。というのは、このシンエヴァの終わりを受けて、「働け、大人になれ、まっとうな人間になれ!」という陳腐なありきたりなメッセージとしてとらえて、つまらないところに着地したなと感じる人は多いんだと思うんですよ。あ、いや、なんというか、批評家的な読み方をすると、そういうことを言う人は多いんじゃないかなって。でも、絶対見た人には、伝わっていると思うんですが、僕は「そうじゃない」と思っています。もちろん、構造的に、シンジが動機を取り戻すのに、第三村の機能があって、

・ケンスケやトウジの14年の成熟を通して働くことの価値を感じる
・黒綾波の労働を通して自己の価値を知る
・アスカを通して、相手を大事だと思うことは対等なものとして、自分と切り離して相手を思いやることが必要
・第三村の成り立ちを感じることによって、「社会の中の自己の位置づけ」を知っていく


という風になっているのは事実だと思うんですよね。それで何を悟ったかというと、


・自分が意図してやったことでなくても、その行為の結果の責任は取らなければならない
 (ケンスケもトウジも、自分が起こしたことでなくとも、その事実を受け入れて、戦っていますよね)


このことが、アスカ自身が大事なものを守るために躊躇なく命を投げ出すし、シンジが、アスカを助けるときに、自分ではない人を愛しているアスカの未来を願えていることなど、他者との距離の置き方・・・・「自分と相手は違う人間なんだ」ということを、体感しているから起きることなんですよね。


でも、どうでしょうか?この作品を見てて、「働け、大人になれ、まっとうな人間になれ!」と言っていると思います?。


僕は、そうは思いません。ただ単に、働いて(みんなに貢献し)、大人になって(自分がなした罪でなくとも責任を引き受けて)、まっとうな人間になる(=他者を対等な存在として見て受け入れること=相手にとって自分が必要でなくてもそれを認めることができること)が、正しいからやりなさいと言っているようには聞こえませんでした。


僕には、「それしか生きる方法がない」のなら、それを受け入れる以外にはないじゃないか、ということに感じました。


もう少し敷衍していえば、ただ単に「生きていく」ためにすら、これほどの凄まじい困苦と重荷を背負わないと、人はまっとうに生きていくことすら難しいんだ、ということを告発しているように見えました。お手軽なワンクールのアニメではないんですよ。27年の重みがあるんですよ、僕ら受け手にとってすら。それが、正しい道徳や倫理を行えば、幸せになれるなんて言う自己啓発セミナー的な、単純な「気持ちの入れ替え」「見方の変化」だけで世界は変わるなんて言う、ありきたりの甘いものであるはずがないじゃないですか。


シンジの血を吐くようにして空を飛ぶ鳥のような思いをして、人は生きていく。


これは、「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」というナウシカの言葉を思い出しました。


この狂った人間存在、壊れたラジオの受信機な人間存在を、まともに電波をチューニングできるようにするには、「働き、大人になり、まっとうな人間になる」しかないのだけれども、それは、シンジ君が踏破してきた道のりをすべて乗り越えるような、苦しく、つらく、重く、不可能にも思える坂道なんだ、ということ。そもそも、普通のことのように思えるそれらが、どれくらい不可能に近い難しいことなのかを、僕らは全然わかっていないのかもしれない。


そして、だからこそ、「その苦難」を乗り越えた、その先にある成長は、美しく素晴らしい。往々にして、届くことはないし、届いたと思っては、元に戻る繰り返しではあるけれども。ビルドゥングスロマン(成長物語)の不可能性を描けば描くほど、その道の美しさに、凄みを与える、素晴らしい作品だと僕は思いました。




その2に続く。半分くらいしかいってねぇ。。。つーかこれだけ書いても、話しているのはAパートの第三村の話だけ。。。疲労困憊(苦笑)。後でリライトなり清書なりするかもだけど、とりあえず初見、その1です。今、その2書いてる。その2のメモ。書けるかなぁ、、、。リアルタイムの勢いがないと、表に出せないので、未完成の雑感メモですが、下に挙げておきます。頑張れたら書く。けど、(1)のこの3万字ちかくを、この2時間ぐらいで書いたの凄くない?(笑)。



シンゴジラ・マブラブオルタネイティヴで問われていたすべての答えが、ここに

エヴァンゲリオンシリーズ全体を通しての全体像を理解するための三層構造での理解

■面白いものはすべてこめた~トップをねらえふしぎの海のナディア

■戦後日本的エンターテイメントの究極構造~私小説の世界とSF神話の結合というセカイ系の極大点~その欠落を補うためのシンゴジラ

■100点満点の答えとしてのシンエヴァンゲリオン

■ゲンドウ(父)とシンジ(息子)の対比構造から、父もまた「別の他者」であることに気づき

■シナリオは、TVシリーズと同じ構造~面白いものをすべてぶち込んだ、しかしただ一つ足りなかったもの「外部」

安野モヨコという特異点~なぜマリだったのか?~新海誠の到達したセカイ系の結論との比較
 自分の「外部=他者」と出会い家族を作ることによって

式日で母を問い、シンエヴァンゲリオンで父を問う~誰が悪かったのかという不毛な問い~彼氏彼女の事情を連想する

■日本的な「私小説」の物語としての宇部新川駅の現実風景

■日本映画の正統なる後継者として~家族の崩壊から再生を通して自己の自立を描いていく日本的物語の到達点

■システムの奴隷である「セカイに閉じ込められた自己」からの解放~セカイ系の終着地点のその先に
 どこまでも逃げていくにしても、どこへ逃げればいいのかという問い

■人類の進化による旧人類の切り捨てという50年代SF大家たちの星を継ぐ者への後継者として~どこまでも日本的でありながら、世界へつながる壮大なマクロとミクロの物語

■答えは、現実に戻れ?だったのか? また大人になれということだったのか?~虚構と現実の対立の「その先」という外部へ
 この「外部」が、感じられたかどうかが、この物語の最後の評価ポイント。


■参考資料

petronius.hatenablog.com


『RETAKE』『ねぎまる』ドラゴンクエストの同人誌など  きみまる著  この腐った世界で、汚れても戦い抜け。楽園に安住することは人として間違っている。
https://petronius.hatenablog.com/entry/20100309/p1

風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1



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