こうなるなーと思ったんですが、決定過程が分からない・・・・誰か知っています?

アニメ「ヘタリア」に怒っている韓国ネチズンがいる?
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0901/13/news088.html


いや実は、アニメ化というか本のレベルでも、この手の問題が起きるんではないかなーとずっと思っていました。というのは、この作品って、「自分自身を笑う」という「ユーモアの本質」がわからないと、物凄く辛辣な批判になるので、突っ込みどころ満載になってしまうんですよね。そういう余裕のある国の成熟は、近代化、民主主義化(=議会主義の浸透?)と、大衆の自由が長く続く国でないと、なかなか成り立ちません。ようはストックが長くある国ほど、受け流せる(←身も蓋もない)。


とりわけ、韓国からは来るだろうなーと思っていました。どの国もダメさ加減が強調されて書かれている(というかそれがこの手の皮肉なユーモアの本質)んですが、韓国や中国はメディア距離が近いですし、なによりも国の統一に対して外的(とりわけ日本)をシンボライズしてナショナリズムを高揚させる作法があるので、そういった文脈と、ネット社会の興隆を考えると、こういう問題は起こしやすいんですよね。まして、起源問題とかは、ネットでお互いを叩く記号みたいなものなので、あれを描けば、ふざけんな、と記号化されて返される可能性が高い。ただ、そういうのは、よくある話なので、ほとんどはしょせんネットレベルとかそういう問題で終わるんですが・・・こういうのに、日本のメディアがマッチポンプかける可能性が強いと持っていました。


いつも思うのは、理由は何でもいいのですが、何かの圧力が来た時に、いったいどういう意思決定と理由を経て、「そういう決定」がなされるのかってのが、表現に関わる組織では、日本社会はさっぱりわからない。いや外国を詳しく知っているわけではないのですが、日本社会は、山本七平さんがいうような「空気(=ニューマ)」に支配されやすく、自主規制が悪い方向へ行く組織的伝統(苦笑)のある国なので、よくわからないと心配になるんですよ。まぁ僕は全く事情を知らないのですが、だれが、どういう理由で決めたのかの、公式発表とかがあれば、誰か教えてくれると、うれしかったりしますー。


あと、ああいう国を擬人化したユーモアって、昔からあるんですが、その他の国々同士はどういうふうに、ああいうものの存在を受け入れているのだろう?そういうのも気になります。

僕は1巻の日本君が


アメリカさんの言う通りです」


という発言に突っ込まれて


「またかよ日本!自分の意見を言え!!」


と突っ込まれるシーンあまりにあり得て爆笑してしまったんですが、これってこういう国としての問題点をよく認識してそれを相対化して受け入れていないと、なかなか流せませんよねぇ。マジな公式の場でぼそっといわれたら、物凄い攻撃で陰口でしょうし(苦笑)。いやマジで、これって発言の代表者(外務省とか商売の代表者とか)は、やむにやまれぬ事情でそういう発言をしている場合が多いので、場数踏んでいないと、マジでパニくるんですよ(笑)。けど、そういう場で余裕を持って、自己を貶める笑いがとれると、「大人だなー」という印象を持たれます。


・・・あっ、ふとおもったんですが、文章や漫画のレベルは、まだ許されると思ったんですが、アニメーションになると危険だなってずっと思っていました。メディアとして何が違うんだろう?。なんか気になります。

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『放課後ウインドオーケストラ』 2巻 宇佐悠一郎著 青春とは、少年にとってモラトリアムの情熱の保存を意味し、大人にとっては情熱への回復を意味するのか??

放課後ウインド・オーケストラ』(以下WO)の話なんだけど、なんとなく言葉にしにくかったこの面白さ――少年漫画的アツさ――のワケは、2巻に入ってようやく言葉にできるような気がする。



 一応、セリフでも語られているテーマらしきテーマは「モラトリアムにおける勝たなくてもいい勝負」というもので、これはヒロイン・藤本さんの中学時代や、新キャラ・梓さんの過去話でパラレルに描かれている。

 ではその「勝たなくてもいい勝負」の場で、モラトリアムの子供は何を目的にすればいいのかというと、それは志を「冷まさずに暖めておく」こと、……つまり、大人の世界へ今の気持ちを「損なわずに持っていく」ことが子供の義務なのだ。

 それは『成恵の世界』という漫画が10巻で到達していたメッセージにも通じている。子供の情熱は、その多くが無意味に散っていくかもしれないが、……そんな情熱でも、その「熱」を失ってしまった大人は心を凍らせ、未来を閉ざしてしまうのだと。



ピアノ・ファイア/いずみのさんより
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20090106/p1


2巻が登場。よくできているので感心。この作者、丁寧で、才能あるね。物凄い売れる系ではないかもしれないが、とても丁寧で落ち着いている。

1巻は、まぁイイ、、、ぐらいでこの手の作品は、最初の良い雰囲気で終わってしまいがちなんだけど…と思いつつ、2巻でも継続してなかなか良く展開できていて感心。ストレートな少年漫画に仕上がっている。この手の「青春の部活モノ」系の作品は、手垢がつきすぎて、実は丁寧に描くのが難しい作品だと思うんだ。だって、部活の青春なんて、これまでに飽きるほど描かれているし、何よりも、実際に部活で頑張っている人からすると、わざわざ読まなくても体験しているわけですよね。また僕のような30も過ぎた大人には、正直いってこの世界はヌルすぎる。

いやなんというか、フツーの何もない日常に近い距離の主人公・平音くんを設定していることで(特にキャラ的に激しく主張したり特徴付けているものは何もない平凡さ)、この作品は、いきなり「部活で全国優勝を目指そう!」とか、そういう目的志向には、全然ならない。

目的志向にならないということは、物語が駆動しにくいということでもある。だって目指しているものがないわけだから。この空虚な日常と、目的志向(かといって何を目的とすべきかがあまりはっきりしない)で緊張感がある「はず」の部活とのギャップの中を、ゆるくゆったり泳ぐ主人公の「視点」は僕は、とてもうまいと思う。時代にマッチしているというのもあるが、この視点を持つことで、設定が目的志向の弱い日常側にシフトするので、とても小さなエピソードなどを描くのにテクニックが必要となってしまうのに、それを新人でありながらそつなくこなしていることだ。

上記のいずみのさんの分析にもあるが、はっきり言って、個々のエピソードを抽象化して分析することは、非常に容易だ。物凄くわかりにくく、小さな日常の話であるが、著者が、そういったテーマを深くよく考えて解釈して表現しているからこそ起きる現象だと思う。

キーワードはいずみのさんがまさにあげているセリフで、


「モラトリアムにおける勝たなくてもいい勝負」


「少年期の情熱を損なわずに成長すること」


「情熱さえ保存できれば、結果を残せなくてもいい」


「勝てなくてもいい、でも勝負を投げるわけじゃない」


こういった、テーマを、ぬるくて目的志向がない主人公に、うまく立ち会わせて進めている。それは、うまい!とおもわせる。いまいち毒というか激しい主張がないカラーのない作品なんだが、にもかかわらずこういう風に深みが出せるのは、なかなかのもんだ。

なんというか、安心して見れる拾いもののような作品だ。個人的には、僕は相当大人の視点でこの作品を見てしまい、やはり感情移入することは、出来ない。これは、たぶん、同世代に人が見ると、うまく感情移入できると思う。よくできているが故に、丁寧に見ると、音がな子供時代に失った情熱を再体験できるようにはなっているが、、、それはとてもいいノスタルジイだが、より激しい競争の世界を生きる僕からすると、もう一つ激しいのがほしいなぁ。まぁ好みの問題でしょうが。

『三月は深き紅の淵を』 恩田陸著

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)


客観:★★★★星4つ
主観::★★★★星4つ


ある本にまつわる幻想的な4つのショートストーリーから構成される短編集。

先に物語ありき。


語られるべき、語らずにはいられない物語自体がまずあって、作者の存在など感じさせないようなフィクション。


物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。


物語は物語自身のために存在する。

<<


この言葉は、すごく印象に残っている。僕が子供の頃から思っていたこと、そのものズバリだったので。


皆さんもそう思いません??


これは、『麦の上に沈む果実』『黒と茶の幻想』などと入れ子構造になっている作品なので、どれから入っても良いが、好きな人は、この関係する本はすべて読むと、不思議な気持ちを味わえること、間違いない。

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)麦の海に沈む果実 (講談社文庫)
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ひさびさに、世界と世界がパラレルにつながる不思議な感覚を体験した。これを、このレベルで体験できるのは、本当に久しぶりだ。

1章 待っている人々


2章 出雲夜想曲


3章 虹と雲と鳥と


4章 回転木馬


上記4章が、この『三月は深き紅の淵に』の章立てで、このすべては、完結した短編です。そして、その全てが、謎に包まれた『三月は深き紅の淵に』という本(短編の中で謎に包まれている本)についての、「それ」にまつわる話です。



つまり、この本は、本について書かれた本なのです。



この小説の中では、謎に満ちた私家版の『三月は深き紅の淵に』に関わる謎が語られます。ようは、メタフィクションなのです。そして、その謎に包まれた本は、4部作となっており、その4部作の名前が、下記です。

1章 黒と茶の幻想(風の話)


2章 冬の湖(夜の話)


3章 アイネ・クライネ・ナハトムジーク(血の話)


4章 鳩笛(時の話)

■本のある生活・・・・・・本という魔物に見せられた人々へ


絶賛である。とにかく、読んでいる時は、物凄い引きずり込まれた。ただ、たしかにパンチが弱い。残念ながら、読み返すことはあるまい。いや、、、、どうかな。。。。どうも周りを見ると、評価はけっこう二分しているみたいだ。しかし僕はおもしろかった。とりわけ、ここ『物語三昧』やアメブロの書評に訪れる人は、間違いなく本が好きな、現代では少ない絶滅危惧種の人々であり、そうした本に魅せられる気持ちを持ち、本・読書自体が生活や思考の一部に深く食い込んでいる人には、この




本という魔物にまつわるミステリー




は、たまらない魅力を放つのではないか、と思う。とにかく、1章が一つの独立した短編なのだが、見事だった。とにかく、その世界にひきこむものがすごい。最初の数ページで、がばっとわしづかみにされ、グイグイひっぱりこまれるので、久々に、耽溺という感覚を味わった。これで、後に全然残らないのだから、それもまたすごいといえばすごい(笑)。


■過去と未来と、あなたはどちらが好きですか?


なにかの評論で、人間には、



過去を志向するタイプと未来を志向するタイプ



がいる、というのを読んだことがある。



いつまでも、過去の記憶を追いつづける意識というのは、ノスタルジーにつながっていく。そして過去の記憶や体験や、悠久の時間の長さの重さを目を凝らして見つめる視線は、それが故に、仙人のような行動的でない、内省的で静謐に満ちた、いつもなにかを反芻し、思い出しているような、「動かなさ」を感じさせる。



逆に、未来を追いつづける姿勢は、キラキラと輝ける遠くに光る何かを目指して、駆け上る高揚感や上昇感を紡ぎだす。過去のことや内面(=心の複雑な森)を振り返ることはせず、ひたすら目的を目指すが故の、若さ、傲慢さ、まばゆい輝きと実践的で行動的なイメージを髣髴させる。




そのどちらがいいというのではなく、人間の求めている本質にかかわるものだ。




前に話したことがあるが、後者の「目的志向」とは、目的という点と現在という点が一直線線で結ばれており、価値は目的の達成到達であるので、現在の点(=今の自分自身)と目的までの過程・プロセスは、全て無意味なものとなってしまう。



また目的志向には、



「そもそも目的の設定方法自体が間違っているのではないか?」



という根源的問いが、いつも内包されており、その不安との不断の戦いという、凄まじい内的緊張が伴う時間感覚である。



そして、それが故に、人間の精神を相当傷つけ追い詰める時間観念であり、同時に、それ故に人間の卑小さと偉大さが、強大なレベルで証明されるエネルギーをもつ。



僕は、この過去と未来のどちらを重視するか、という点で、人間を類型化する癖がある。





■記憶の森へダイビングする・・・・人間の内面とは記憶、記憶とは過去



そして、その視点から言うと、恩田陸は、あきらかに



過去(=人間の内面の記憶の森)



を、追っていく作家だ、と思う。



まだ二冊『黒と茶の幻想』『三月は深き紅の淵を』しか読んでいなが、顕著なので間違いないと思う。そして、それほど強烈にがんがん人が死ぬとかそういうのではなくトリックをも描かないのに、ミステリーと分類されるのも、この人間の普段は隠し持っている「内面という鬱蒼とした暗い森」の闇に光を照らす作業がメインの作家だからだと思う。



ミステリーの定義は、いろいろあるだろうが、この



『隠されたものを明らかにする』という部分



は、その主要の一つだと思う。



そして、一番暴かれたくないのは、やはり記憶だろう。




著者である彼女は、



人が忘れなければ生きていけないような後ろぐらい陰惨な記憶





ありえないような狂気をはらんだ恋情や思い込み



そして



それらによって縺れて、絡まり、どうしようもなくこんがらがってしまった人間の心の記憶をゆっくりと、解きほぐし、あらわにしていく。


「その」作業が、彼女の本質のようだ。




■世界を再現する


だからスペースオペラSF的な感覚やビルドゥングスロマン的なもの(=未来志ね)がとても弱く、なによりも、小説・文学の主題となるべき目的が存在していないため、



世界(過去のもつれた記憶)や関係性を再現する



ことに終始してしまう。



これは抜群に再現するのが上手く確固とした小説世界を形作っているため、良い悪いの問題ではない。ともすれば、未来志向は、現実の豊穣さに目をそむけ、盲目的に目的を追ってしまう傾向が強いので、ダメダメな未来志向よりはむしろ上だ。



しかしながらこれを、世界の再現性ではなく、



主題テーマ(=何を目的とするか?)という近代文学の基準



で評価すると、と




賞を取りにくい作家ではないか?、批評家に評価されにくい作家ではないか?




と僕は思う。



なぜならば、評価の基準がそもそも「ない」のだから。



彼女の書く目的は、人間の記憶(=その人の本質)へダイビングして眺めることであり、その『潜る行為』をミステリーとしてテクニックを洗練させる方向で小説のレベルを上げているように感じる。



彼女の作品が、素晴らしく濃密な小説世界と文章の洗練された見事な構成力にもかかわらず、






読後に残るものがほとんどない




という感想の特徴も、この「世界を再現する」ことが目的で、



主題を人の心に叩きつけて人の心を動かすことを目的としている近代文学ではないからだ。



世界を再現するのは、空気のように「その関係性」を手で触れるような手触りと濃密な感覚で再現することが目的でなので、読み終わると、まさに空気のようになかったものになってしまうのだ。




だから文字に質量があり濃密なのに、底が浅い。




彼女は、物語作家、小説家と称するべきで、文学者ではないというのが僕の結論だ。




ちなみに、ストーリテラーと呼ばれる物語作家は、なぜか女性に多く、女性が長大で広大な長編を書き歴史に残る場合が多い気がする。



ルシー・モンゴメリー赤毛のアン源氏物語紫式部、アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティなどもそのカテゴリーに入る気がする。



逆に、文学作品では、トルストイドストエフスキーなど圧倒的に男性が多い。・・・・まぁぼくの思い込みかもしれないけど(笑)。



これは、男性のほうが目的志向で現実を否定する抽象的なロマンチストが多く、女性のほうが環境に親和的で目的よりも世界そのものに興味を見出す具体性の世界を生きている傾向が強い、ということの証左だと思う。もちろんこれは極論であって、全ての人間はその微妙な比率の中に生きているともうが、極論でいるとこういえるのだ、とは思う。



たとえば、実際のところ、あまりに「世界そのものを再現する」だけに終始すると、物語が動かなくなってしまい、箱男や死霊などのような精神世界で内省しつづける閉じた静謐な世界を描きつづけることになり、ダイナミズムが失われてしまう傾向がある。恩田陸は、少しのその嫌いがある、と思う。




■イメージの氾濫



それと、彼女は、イメージで作品を書いている人だと思う。



作品を創造するときに、論理を軸にする人と、イメージを軸にする人がいる、と僕は思う。



彼女は、想像において、まず『イメージありき』なのではないだろうか?



だから、小説を読むと、雰囲気がよく伝わる。



が、何がいいたいかという抽象的な、さらに背後にある主題が全然感じられない。



それは、論理ではなく、イメージを再現しようとして、文字を、小説世界を書いているからではないだろうか?。



だから、キィッチェなイメージの断片が氾濫していて、まるでJAZZを聞いてインプロビゼーションを感じるときや、モダンアートの意味の分からない断片を見せられたような、感覚が、本を読んでいて再現される。



けれども、イメージは、読む側(=受け取る側)に、同じイメージの対象物があり、



かつ



そのイメージを再現する意識をもって読む人



でないと、ほとんど何を言っているのわからない。




同じ評価を受ける人物では、映画監督の岩井俊二も同じだ。



素晴らしくイメージに満ちた匂いのある作品を描くが、




「結局なにが言いたいのか?は、全然わからない」




だから、主題の欠如で、賞が全然とれない。あれほどの人気を誇りつつもメジャーにもなりきれない。そして、惜しいことに、アーカイブにも残らないだろう。



イメージは、同時代性の感性に支えられるものだからだ。

『極上ドロップス』 三国ハヂメ著 天然の女の子に救われる家の事情が複雑な美少女

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小毬ちゃんのあせあせする態度がたまらなくキュートです。三国ハヂメさんの書く女の子は好きだなー。


ふと思ったんだが、百合系の話って、こういう「天然の女の子に救われる家の事情が複雑な美少女」というパターンが多いよねぇ。ライトノベルの名作『マリア様がみてる』の福沢祐巳ちゃんと小笠原祥子カップルもこの系統だったよね。心を開かない、家の事情が複雑な女の子が、天然の女の子と一緒にいることで、閉ざされた心を開いていく・・・という。基本といえば基本の関係性なんだよね。

ふとおもった。

マリア様がみてる (コバルト文庫)

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なぜ中国に戦争を仕掛けたのだろうか?

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■独立不羈の民を支配することの難しさ

ふとこの本や、浅田次郎さんの『珍妃の井戸』『中原の虹』を読み始めて、、、疑問に思ったことがある。


日本は、大日本帝国は、なぜ中国との全面戦争に踏み切ったのだろうか?


ということだ。いや、教科書的な公式回答が知りたいのではない。同時代的なメカニズムを知っても、それは歴史を知ったことにはならないと思うのだ。また調べれば、ある意見はたくさん出てくると思うけど、そんな時間もないし、僕は情報を知りたいのではなく、「心から納得して血と肉になるようなわかったがほしい」ので、テーマとなるべき命題を探しているので、ついに「ここ」に疑問が集約されてきている。

というのは、佐々木譲さんの『エトロフ発緊急電』『ベルリン飛行指令』の読んでいて、このころの日本と世界の情勢が、リンクし始めてきたのだが、僕の考え方の基本としてこの時代の倫理や戦略感覚からいって、侵略や植民地ち支配を“悪”とは考えない」という思考で物事を考えると、実際に、必ずしも、植民地や侵略が、即国の滅亡や戦略的悪手いわけではないのが分かってくる。とすると、どういう構造があれば、そういった運営がうまくいったのか?って事だ。

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ちなみに、大東亜戦争遂行中でも、たとえばインドなどは、大英帝国に支配されており、かつ日本から遠いという事情(=日本に攻められにくい)もありかなりの国民の根に至るまでの日本への支持が広汎になったように思える。だから1941年のマレー攻略の直前のシンガポールでは、華僑系のスパイが英軍側に、インド系のスパイは日本側にかなり依って活動している。これは、当時のインドの英雄だった、チャンドラ・ボースが日本を利用しようとかなり、日本に協力的な国際情勢の構図が出来上がっていた。また同時に、列強として中国に戦争を仕掛けている日本に対して、中華系の人間は、深く日本を憎んでいるという状況が出来上がっている。

このアジア全域での有形無形の中華系、いいかえれば華僑の日本への抵抗が、植民地を支配するヨーロッパ、アメリカ列強に、有利に働いたのは間違いない。逆にいえば、中国人の支持(=日本への憎しみと抵抗の裏返し)なくして、アジア圏での対日戦争遂行は、とても難しいものになったんではないか?って思うんだ。

こうして見ていると、そもそも、宗主国を持つ植民地というのは、その宗主国が変わっても、実は運営する方法はいくらでもあるんだよね。もともと国民がほとんど「独立による権益」を持っていない地域なわけだから。ところが、中国は違う。タイと並んで、一度も植民地になり下がったことはないし、そもそも国力的に、どこかの国を宗主国として仰がなければ近代化できないほどまずう国家でもダメな民族でもない。・・・そういう独立不羈の意識を持つ国家に、植民地的野望を持って・・・・それも全面戦争に至るような悪手を踏みきるというのは、なぜだったんだろう?って思うんですよ。いい悪いはともかく、琉球、台湾や朝鮮への侵略は、まだわからないでもない。というのは、少なくとも独力で国家を運営できていない状況にあるし、必ずしも日本が手をひいても、独力で近代化が進まなかったはずなので、踏み込み方としては戦略的な選択肢としてはわかるんです。朝鮮なんかは、かなりジレンマがあるところで、列強諸国による干渉が全くなければどうにかなったかもしれないが、地政学的にそんなことはありえないところだからねぇ。だから、一時耐えしのんで、後で独立をと合理的に考える人もたくさんいたわけで、、、しかし、中国・・・うーん、まだ歴史を細かくわかっていないかもしれないのだが、、、、ここに全面戦争に至ってしまう意味はなぁ・・・。中華民族との戦いは、かなり無理があるんだよねぇ。感覚だけど。

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というのは、日本がもう逃げ道がなかったとして、対米戦争(=事実上の国家と民族の破滅)に踏み切らざるを得ないところまで言ったとすれば、もう権益がどうのこーのではなくて、やっぱりどこで講和するというか外交上の手打ちをするか?って事と、アジア圏での欧米の活動を制限するってのが、重要な戦略目的になるんだよね。あと、国際的な道義上の宣伝戦術からいっても、中国や満州は、とても危ないカードなんだよねぇ。正直いま見ている感じでは、満州はまだ分かるんだ・・・というかアジア東北部からシベリアにかけての権益は、そもそも治安上の空白地帯なんで、なんとなくわかる。が・・・中華民族自体とことを構えて、、、、というのが、戦略上どうしても、わからないんだよなぁ。アメリカと戦うのはわかるよ。うん。アメリカは、見事に日本をいじめ抜いて、自分の世界戦略のために、いけにえにしきったよ。あれに対抗するのは、物凄く難しかったと思う。

ついに浅田次郎さんの本をも読み始めたし、江戸・明治期→大正・昭和初期→昭和後記→現代みたいなながれの大正・昭和の穴が埋まりつつあるんで、この辺をじっくりと追い続けますかって感じです。日本が、なぜ膨張政策にいたったかとか、そういう一時代の出来事のメカニズムではなく、数百年単位でその地域の持つ「本質」みたいなものが知りたいんです。

ちなみに、なぜ中国と日本が全面戦争に至ったか?ということを本質的に読み説くには、そもそも清朝中期から清朝末期の時代、西光緒帝の時代から西太后から、その近代化、明治維新と同じような王政復古体制の崩壊したことから張作霖や張学良などの軍閥の登場、そして共産党毛沢東への大きなが流れが解明されて納得できなければ、しょせんは、その時の同時代的な政治力学の話になってしまうだけで、そんな、誰にでもわかるような話が知りたいわけではない。

中華の大地、あの大陸に生きる易姓革命と天子(ティエンズ)の思想が、あの空間にどう展開して、どのような理想と現実のはざまの果てに、毛沢東共産国家として成立していったかの本質的な流れを考えないと、、、、ボロボロの国であるにもかかわらず、西洋列強や大日本帝国の野望をはねのけ、本家のソ連でさえ失敗した共産帝国主義国家(笑)などという理論をベースに、独力で時代の地球最大市場、アメリカ市場に変わる時代の市場までもっていったその「こと」の本質は分からないと思うんです。そういうものを感じたいんですよねー。

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問題は正社員の過保護なのか?

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/553a23aaf202e8d674ba9509364246ba
反貧困―「すべり台社会」からの脱出

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/172da05b1f0a30faa2e4233ec4abf0c9
失業先進国フランス

賃金格差の拡大が必要だ
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b697e23a80b6602167c2f5e43ebad041

問題は格差ではなく生産性だ
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/5e9dd31e52079ca896b1dcce4f56cc9f

賃金を下げれば失業率は下がる
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/762afce0f2b08c10bd909dde481a2b73

格差の正体
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f2c53a4bbd1833f781c7a61741a47fb0

『昭南島に蘭ありや』 佐々木譲著 設定の持つ可能性を生かしきれなかった〜大日本帝国臣民としての台湾人青年が、幼馴染の日本人の少女に恋をした物語

昭南島に蘭ありや〈上〉 (中公文庫)


評価:★★☆星2つ半
(僕的主観:★★★☆星3つ半)


■物語としては、いまいちではあるが・・・・

「物語」として、エンターテイメントとして考えると、イマイチのものだった。題材がとても美味しいものな上に、文章の出来はクオリティが高いので、惜しいと思う。

この作品の肝は二つに分解できる。

1)一つの祖国を信じられない人々

まず一つ目は、大日本帝国臣民にして台湾生まれの客家、梁光前という青年の、中国人にもなりきれないかといって日本人にもなりきれないという立場の曖昧さ、二重さがドラマツゥルギーの根幹にあります。山崎豊子さんの『二つの祖国』で、アメリカのロスアンゼルスに生まれた日系二世の天羽賢治が、アメリカ軍人である自分と民族としては祖国である日本(日本に留学中の弟は、大日本帝国の軍人となる)の間で引き裂かれていったテーマと同じものです。「単純に自己と国家を信じることがそもそもできない」という現代の近代人の苦悩を扱う時、このテーマは重要なモチーフであり、かつ「何が正しいかの自明性が失われている現代社会」で非常に生きてくるドラマツゥルギーでもあります。これは現代においても、全く失われていない「いま現実にあるドラマツゥルギー」なんだけれども、やはり戦争というはげしくナショナリティーが相争うマクロの背景があると、このことは凄く深刻に問いかけられるので、物語としては盛り上がるよね。


2)勝ち進む大日本帝国と、だれがその土地のために命をささげたのか?

またもう一つは、1941年の英領シンガポールが、日本の領土である昭南島となり、そしてまたシンガポールとなっていく歴史の激動期の部分。個人的に、そもそも大東亜戦争の初期のダイナミックに大日本帝国が勝ち進んでいく部分を小説で読めたのは、そもそもダメな部分(=日本がぼろぼろになって負けていく部分)ばかりクローズアップしがちなので、なかなかの興味深かった。何事も物事を見る場合は、全体像を感じ取らないと、判断を誤るモノで、そうでなくとも日本の侵略行為やダメさを刷り込まれているので、物事を公平に見るには、こういう物語を体験できるとことは、僕は重要だと思っている。

そして、同時に、この日本軍が勝ち進むのを、攻略されるシンガポールの英国軍人、抗日華僑義勇軍(ダル=フォースとも呼ばれる)という中国系住民の義勇軍の視点で語られるところが、侵略される立場からの視点で、刻一刻と迫る緊張感を与えて興味深かった。

本来この時点で、7〜8万ぐらい残っていた英国軍やオーストラリア軍でも、攻めてくる日本軍でもなく、たった1000人にも満たなかった抗日華僑義勇軍をメインの視点に据えるのは、この後日本軍による華僑の虐殺とこの義勇軍による強い独立意識を見ると、この数十年後この土地が華人による開発独裁国家としてマレーから独立することは、非常に自然に思えてくる。いや、マレー系が多いこの地域で、なぜシンガポールが、華僑の土地になったかわかったよ。

まぁ、帝国主義同士、日本もイギリスも、結局、人的リソースが足りなくて、植民地の人間を利用するわけだけれども、それがアジアのナショナリズムを啓発する(=植民地独立を促す)という皮肉な歴史のお話ですな。アジア独立のステレオタイプ歴史観なので、イデオロギーの可能性プンプンなので、単純に信じていいかは不明だけれども。

ただ、ただ単に抽象的な歴史のお話で聞いてもピンとこなかったが、こうやって物語で読むと素直に、このシンガポールという土地を守ろうとする中華系の気持ちに感情移入できるので、すっとこの時代の感覚やその後のシンガポールの行く末が、簡単に理解できました。インド人やマレー人との気持ちの格差や、同じ中華系でありながら台湾人がほとんど日本人と同じように、いや同胞のくせに日本人に協力する奴らとして深く憎まれているなど、考えてみれば当たり前ですが、なるほどなーと感心しました。こういうのって、物語として再現すると一発なんですが、文章で読むと、感覚がよくわからないんで、非常に勉強になりました。

ちなみに、このシンガポールという土地に対して血で購う意識で「防衛する」というか今日の意識と、大日本帝国臣民である台湾人(といってももちろん中華民族だ)の意識を比較対立させるのは、1)のドラマツゥルギーを際立たせる上でも、非常によく考えた構造だと思う。

ただし、この作品がいまいちと言える点は、この梁光前という台湾人青年のナショナリティーの分裂による苦悩を、奥深くまで進めることができなかったと思うんだよね。小説としては、シンガポール陥落から東条英機暗殺計画までのマクロの話を進めることで、小さくまとまってしまって、このテーマの持つ奥深さまで届かなかったと思うんだよね。もう少し生い立ちや家族ぐるみの付き合いをしている桜井家との葛藤の郷みたいなものを、深く、えぐく、ド汚く(苦笑)設定すると、もっといい話になったと思うんだがなぁ。そういう意味では、作者がこのマクロの背景をうまく勉強するための秀作という感じがする。


ちなみに彼は、日本人貿易商の桜井家と家族ぐるみの付き合いをし、桜井摩耶という少女に恋をしている。この恋自体の重さが、非常に理性的なものであることや、梁光前という台湾人が、「台湾人」や、「大日本帝国臣民」だあることや、「華僑の義勇軍に参加した義勇兵」であること「であることよりも」、そもそも軍事や政治的なものを拒否する「一般市民」として描かれているんだよね。

だから、ナショナリティの葛藤よりも、「戦争に巻き込まれた無力な普通の市民」である感覚が常に離れず、そもそも物語の主人公にならない。物語が発動しない。だって、自分のナショナリティや、「何のために生きているのか?」という自覚も、「そういう仕えるべきものをはっきり持つことへの憧れ」がないんだもの。主人公に。

ようは、ノンポリの普通の無力な市民なんだよね。こと戦争に死ぬほど巻き込まれても、あまりのそのあたりの意識が消えないので、葛藤が生まれない。かといって、グローバルかつコスモポリタン的な市場主義者でもないので、商人としても非常に甘い。これでは、物語が発動しにくいよ。そもそも、台湾人である彼の動機の設定が弱すぎるんだな。これは物語の構造的欠陥で、ただ短くシンプルにそつなく物語をまとめて終わらせるためには、動機を深めて風呂敷を広げるよりは、小さい秀作を作るのに向いている設定だとは思いますが。


3)植民地統治の不得手さ

ただ、昭南島はそれなりの期間、日本として統治されたため、日本の植民地統治や軍政の下手さが、垣間見えて非常に興味深かった。山本七平さんが、日本の軍隊が、南米などで一般的な警察力不可分なと「治安軍」として色が濃く、自ら機動して野戦を行う能力を有する「野戦軍」としての扱われてこなかったことが、こういった外征で効果的なガバナンスができなかった理由であろうというのは、わかるような気がする。


また逆にいうと、侵略される側の視点で描いているので、ラジオや新聞などの工作活動が、いや意外や意外、けっこう頑張って行われていて、軍事的敗北さえなければ、それほど遜色ないレベルにはあったんだ、と感心した。『二つの祖国』で描かれていた、東京ローズなどのプロパガンダ放送は、かなりの連合国には聞かれていたようだしね。ナチスドイツのプロパガンダ放送だった枢軸サリーやイギリスの大逆罪で死刑になった最後の人間であるホーホー卿などと比べても、決して遜色ない。そういう意味では、割とちゃんとやっていたんだとは思う。ただ、ものすごく大きな歴史や地政学的な「構造」上、単純に武力だけで進めれば、アメリカ合衆国には勝つ方法がありえないんだよね。そういう意味では、本当に残酷な戦争だよ。

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★星4つ)

『アジアでしか読めない本がある』のコピーで、絶版になったアジア関連の書籍を厳選して復刊し、アジア紀伊國屋書店各店で限定販売しているアジア絶版文庫シリーズの一冊。
本書は当時のシンガポール植物園副園長に就任していた英国人科学者による回想録。
http://www.asiax.biz/column/books/096.php


ちなみに、主人公の物語自体は、ちいさくまとまってしまったので、高く評価することはできないが、1941年のこの時期の南方の日本軍の大枠で理解できたことや、それも日本軍側の視点ではなくて、英軍とシンガポールの華僑義勇軍や貿易商を営んでいる商人たちや、司政官として派遣されてくる内務官僚の人生観など、ただ単に日本の軍人の視点を中心のする英雄物語でも戦争悲惨だよね物語でもない、モノが見れて良かった。

特に、戦争状態ではない、軍政状態の日本の植民地統治の稚拙さが、非常に際立って見えて、そのへんはほんとうに、長期に植民地を経営するという視点がないんだな、ということと、支配者として傲慢な差別観を持ちながらも(支配者はみんなそうだ)それでも、階層間や階級差を考えながら世界とうまく付き合うということが、全くできていないさまにもなかなか興味がわいた。というのは、日本って、そういう意味では新の意味でのノブレスオブレージを理解する「貴族」…人の上に立ち支配し差別するもの、という階級がなかったんだな、、、とかを思った。イギリスの植民地経営には、そういったものが多く出てくるので、その差をすごく感じた。

ちなみに、この昭南島というのは、つまりシンガポールが日本の領土だった数年間、この地に、博物館を作り熱心に研究を進めた人がいて、その中心人物が徳川侯爵という人で、、その人との思い出を描いた、上記の本は、非常におもしろかった。いろいろな人がいるものだ、と感心したのだ。この博物館の館長となった徳川侯爵は、この作品にも少し登場するので、背景を知っているとなかなか興味深く感じます。