内なるダークサイドフォースとの戦い

物語を「批評」するときの姿勢について
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080502/p7

続きです。


引用ありがとうございます。ちょっと思いついた書き足しをw
「物語を楽しむ」世界においても何がファクトか?というのは非常に重要で……というか「楽しむ」という行為はそのほとんどが「主観」によって占められるが故に、現実とのリンク、他者とのコミュニケーション、それによる自らの(主観の)世界の拡がりを促すための「アンカー」のような役割を果たすものなんですよね。

しかし、ビジネスの世界は、何がファクトか否応なく問われ、現実の結果を突きつけられ、それでもまだ檻の中に自らを置くものは容赦なく切られるワケですが(ナルシズムの檻とは理解が違うかもしれませんが…僕は引用文では迷宮という言い方をしていますね)「物語を楽しむ」という世界はそれとは違って、(主観が主体であるが故に)そういう試されるフィールドから回避する事が容易な世界でもあります。…言い方を変えるとこの世界は「言い張り」が可能な世界なんですね。


批評の最初の心構えとして「カレーとショートケーキ」の喩え話を作りましたが、今回あの項で僕は「作者をも俯瞰する領域」に行く事を付記しました。この領域まで行くとカレーは誰がどうみてもカレーという状況は、人が思うよりもはるかに少なく、故に「だって、俺にはショートケーキに見えるんだもの!」という「言い張り」がかなりの局面でまかり通ります。そしてカレーの世界が見えずに迷宮に入ってしまったりもするワケです。


この時「自分の構築した理論が正しい事」を最優先に考えている人間(ナルシスト)は大抵この迷宮から抜け出せません。


…多分、ペトロニウスさんの言う「ナルシズムの檻」ってこれに近い話だと思うんですけど…(どきどき)この状況で……僕のサイトに「おたくのかかる病気」って項があって、その中に「ダーク・サイド・フォース」と呼んでいる考え方があるのですが……この状況で、ある程度「言葉の使い方(→フォース)」を心得た人が、ダーク・サイド・フォースを使ったら、終わりというか、自らその檻に鍵をかけたようなものなんですね。


しかし、同時に他者の「言い張り」を無批判に受け入れてもさほど世界は拡がらないんですね。他者の「楽しい」は他者の主観に過ぎないので、近似を描けたとしても自分の主観による「楽しい」とはまた別の問題です。(…何て言うかな?「みんな自由!」という考えに達したのは素晴らしいですけど、でもそれだけでは世界は拡がらないよね)


…自分の理屈に固執したら「思考の囚人」の疑惑w他者の理屈を受け入れたら「思考停止の豚」の疑惑wいや〜wどんどん話を無駄にややこしくしているワケですがwww(わくわく)…でも、そこらへん詰めて考えて行くと、やはり最初に述べた話に立返ってくるわけで……「アンカー」であり、真っ当な姿勢「この人(作品)が何を言おうとしているのか?」の理解に努める事に尽きてくると思っています。自分の主観を他者に効率よく伝達するためにも…ですw


まあ、あくまで「物語を楽しむ」世界においての一見解という事で(汗)

僕は、このカレーとショートケーキの話は、僕は「物語を愉しむ」という姿勢においてとても重要な発想がたくさん隠れていると思っていて、こういった基礎理論の部分は僕もちゃんと埋めたいと思っているんですよね。このへんの用語をもう少し深めて、自分的に使いやすいようにカスタマイズというかしていきたいな、と思っています。また正しさも自分で検証し切れているわけでもないしね。概念は、使い込んで、自分の文脈で書いて、しゃべって、理論を構築して、初めて自分の血となり肉となるものなので、、、たぶん今この段階ぐらいでは、僕もよく分かっていないと思いますので。ちょっといくつか僕なりの言葉で分解とかしてみます。


1)カレーをショートケーキとして評価する〜対象へのアプローチの独善性


LDさんのこの概念は、なんというか、わかりやすくて僕は好きなんですよ。これって、誰もが陥る思考の原理的パターンで、物事を見たり判断したりするには、「ある種の基準」というものが必要で、その基準が「どこから来ているのか?」についての無自覚性、と僕は呼んでいます。


-1)僕は好きだから好きなんだもん!〜好きこそもののあわれなりけり

その最たる最悪のパターンの一つは、「自分が好きなこと」という感情の原点から、それを無自覚に一般化・普遍化する行為です。ほとんどの感想を書いている文章やお話がものすごくつまらないのは、本人が「誰もそう思う」と独善的に思い込んでいることが、その人だけの感覚世界の思い込みに過ぎないことを無自覚な時に起きます。ビジネスの世界や社会などでこの傾向が強い人のことを、いわゆるKY(=空気読めない)人とも言いますよね。あれと同義です。こういう人は、申し訳ないが、そもそも頭が悪い(=ロジックというものへの志向性が弱い)人が多くて、「自分が好き」というものがあれば、対偶みたいな感じで「相手はそれが大嫌い」とか「他人にも好きなものがある」ということを、同じ主観レベルで価値が同列と考えられないものなのです。えっと、どういうことかというと、さすがに相手が「自分と同じものを好きとは限らない」ことはわかるのですが、そういう相手を自分の人間関係から締め出して、「好き」だけでネットワーク(=交友関係)を作っていくのですね。ようは、自分が好きなものを好きじゃない人は、友達じゃないと自分の世界から締め出すわけです。好きという善なるものから出発して対象への視線が好きの独裁化を招くことにより、それがいかに稚拙で独善的なアプローチとなっているかについて、無自覚であることは、とっても悲しいことですよね。


-1)-a:好きの感情はとてもピュアで強く必ずしも一般化よりもレベルが低いとはいえない〜ネット宇宙における好きとの島宇宙


ちなみに、僕は「好きこそもののあわれなりけり」という感情の出発点・・・いいかえれば、「人が何かを好きとなる感情」自体は素晴らしいもので、それを否定する気はありません。何かを好きになる、愛でる、思いこむということは人間の素朴で素直で力強いエネルギーの原点なので、これは素晴らしいものだと思います。


けれども、それを一般化する行為は、ある種のトレーニングというか、ひとひねりがないと、物凄い醜い・・・というか稚拙な行為に見えるんですね。いや、好きなのを好き!というのはわかった。でも、それを他者に伝えるには、「好きを好き!」ということには稚拙さ・・・行き過ぎれば醜さしか感じないんですよね。世界ってのは残酷なもので、「お前が好きなんていう感情に何の価値もねーんだ!」となってしまいます。好きという感情言い換えれば、主観性の中の価値序列は、それが内在しているとき、人権や個人の権利という意味で絶対権利化されますが外部に出した時に、それはその人の内在の気持ちとは別の意味で客観的な評価にさらされますよね。そこで、ちゃんと「相手に伝わる」・・・・もっというと、この世界には、自分と同じ「好きと独善的に思い込む」他者がうじゃうじゃいて、その人たちにある程度広汎に伝わりうる理路を通って説明をしていますか?ってことが問われるんですよね。


たとえばファンサイトについて


凄く卑近な例で、べつにこのことを批判しているわけではないので、誤解しないでほしいですが・・・・たとえばね、僕なんか、ある一つのファンサイトに特化している人を見ると、う・・・・ん?って思ってしまうんですよ。だって、世界はこんなにも広いじゃないですか。しかも、マンガとしてネギまというのは、ある種の同時代性のある局所的なものにすぎなくて、王道のど真ん中の普遍的題材というわけではないじゃないですか。LDさんやGiGiさんのように、その時期のほぼすべてというのならばともかく、、、いや、それでも批判的に言ってしまえば、同時代の小説、映画、政治、思想などとリンクしていない時点で、やはり狭いとさえいえるだろう。ましてやマンガ言論は、広範な人に伝えるという意味では基礎ツールもそろっていないし、社会へのインパクトが弱い・・・・。いや、ぼくもゆえの気持ちを一生懸命分解して、とかしますが、えっと、それに何の意味が?(笑)とか思うし、これを文学的に分解して何の意味が?とも思います(笑)。いや、ネギまの中にドストエフスキーとかいろいろな情報が込まれているが、それを広げて読んだり、世界をさらに広く見ている人がどれだけいるのだろう?って前に書きましたが・・・・僕は個人の好みとして、「一つのモノは一つ」として見るのが嫌いで、世界はこんなにも豊饒なんだから、もっともっと広く世界を知ろうぜって!おもってしまうのです。


とここまでなんか、突っ走りましたが、これって実は重要な前提が抜け落ちていて(笑)、人間には、「好きという感情をベースにコミュニティを作って感情的な癒しやカタルシスを得る権利がある」という部分の正統性を無視した議論なんですね。


僕は上記のような、「他者に伝えて普遍性を獲得しなければならない!」という思い込みを、「近代自己実現的自我による成長という害悪の病」(いまつくった)によるある種の病気だとは思っています。


そう、「これ」も、やっぱりある種の好みによる独善的アプローチの一つなんですね!と相対化できる。2000年代では、もうこのあらゆる価値の相対化処理は終わっているので、だからこそ、「好きこそ至上主義」という感情という、意思の交えない情動に対するある種の復権があるのでしょう・・・。そう、いやーどのアプローチもダメなんだよ!、だからスキだけでいーじゃん!というのが現代(笑)。だから、とりわけネットコミュニティには、この「好き」ということを至上とする・・・論理性や科学性による批判を許さない「戯れ」に終始する島宇宙(=コミュニティー)がたくさん形成されるんですよね。これって、ネットの使い方で、SNSの閉鎖系のモノがいいか、もっとオープンなモノがいいか?といった大きな二代方向性ととても重なる議論ですねー。日本は、共同体的な戯れをするために人が集う傾向が強く、アメリカなどでは議論の場としてオープンネスや社会性が認められる…なんてことも言われますね。ほんとかどうか知らんけど。でもまー実際のところ、こんなえらそーなことをいいながらも、僕もネットには一時の癒しと安らぎと、自分の思い込みや好きの表出を求めているので・・・・いや、表出というのは人の感情的カタルシスに凄くリンクするので、論理性以上に重要なものだったりするんですね。このへんの議論は難しい。



あれ・・・・長くなりすぎて何が言いたいかわからなくなってきた(笑)



えっと、ようはね、整理するのがめんどくさくなったんで、いきなり終わるけど、「何か物事を評価する」ということ一つ議論するのに、僕が上記でいっていることぐらいは前提にしないと、なんつーか、僕的にはつまらないなーと思うんですよね。これのへんを整理して、もう少し考え抜きたいなーと。



2)ダークサイドフォース〜他人の説教をしたり道徳を求めた時点で、自分の成長は終わっている


ああ・・・こっちがメインだったんだけど、エネルギーきれそうなんで、簡単に書きます。



僕は、世の中への道徳的批判、という行為が虫唾が走るほど嫌いです。それも、確信をもっていう態度がさらに嫌い。



たとえば、子供がぎゃーぎゃ騒ぐのを見て、親の教育がなっとらん!とうような意見を聞くと正直、相当いい気持ちがしない。いや、それはは僕も思うよ。けれども、「それ」をいって、世の中が変わるのか?。その人の直接言って、自分が教育を引き受けて、、、、とか、責任を取る立場でないのならば、そんな一般化の説教はウザいので、やめてほしい、と思うのだ。


倫理や道徳は、人に言うものではなくて、自分で守るもの


というセリフを何かの物語で読んだが、これすごく同感。子供がうるさいのをムカつくならば、自分が子供つくって教育するか、先生になって直接教育する立場になってか「やってくれ!」と僕は思ってしまうのです。いや、人間なんでもちろん、そう単純ストレートにひかないのはわかっておりますが、でも、それでも、僕には「実践」を伴わない言葉に強い感情的反発があるようなんですね。まぁこれは所詮僕の美意識ですがねぇ。実践に責任をもたないのならば、軽々しい感情的カタルシスのための道徳告発はやめてくれと、と思う。その言葉が、深い射程をとらえている、物事を動かすほどの分析を含んでいるのならば、無責任な言葉でもそれは価値がある。でもそうじゃなくて、個人のカタルシスになるのならば不愉快なんでやめてくれ、と思うわけです。


えっと、そこでLDさんのダークサイドフォースという言葉に戻るんですが、僕は「自己正当化の盾」と呼んでいるものが、これに当たって、ダークサイドフォースの方が言葉としてかっこいいので、これを自分の言葉にしようと(たぶんアメリカ人にも通じるもの)思っています。えっとね、これって会社でよくあるのですが・・・・上司や偉い人が


「利益が出ていないのだから、人員削減や経費カットは当たり前だ!」


ということが良くあります。ところが、分析をしていったところ、営業能力が落ちているので・・・利益が落ちている現象があったとしましょう。営業能力とは、人員とマーケティング費用の原資がなく交渉が競争相手より弱くなっ絵散るが故に起きているとしましょう。もしくは、人員を削減したために新製品に充てる研究がいなくなって、新しいものがでないが故にラインナップが減って、競争に負けている、、、と。


ところが、こういうことは、全速力で走っている実務の現場では、いちいち検証してレポートを出せるほど余裕がない場合が多いのですね。へたをすれば、システム上そのデータの抽出ができにくいものであることも多い。とすると、実は上記の上司の意見は、物凄く的外れだとしましょう。ところがね、自分がそういう難しい分析はしたくないし、さらに偉い人がコストカット至上主義で、コストを増やすなんていった瞬間に凄い責任が(その分利益が増えるんだろうな!)ということが面倒くさくて、逃げている場合があって、、、そういう背景があって、やればやるほど害悪で現場の人間がボロボロになるのをわかっていながらも、自分のめんどくささと出世のためのゴマスリのために、自己正当化するのです。


上記の言葉はありがちなお馬鹿なセリフですが、これを見事な経営戦略やシステムや組織力学上の問題点を見抜いて自己正当化の材料ができる優秀な(むだに)人材というのは、たくさんいます。・・・・こういうのは、許せないですねぇ。ものすごくたくさんいます。


正しいことをいっているふりをして、それが「現実を変える」「物事を本当の意味でよくする」というところまで射程が届いていないにもかかわらず、安易な解決策や道徳意的倫理的言葉に逃げて思考停止する人間を僕は許せないんですよ。いや、いきなりすぐ世界を変えることは確かにできない。だから、考え続けよう!という態度であるならば、絶対に、謙虚なはずなんです。それが、こういう奴等は大体自己正当化の塊で・・・・。こういう人間だけにはなるまい、と思います。ただ人間は、自分の理論によって立ってい生きるので、ほっておけば、「そう(=自己正当化)」していく生き物なんですがね・・・・。難しいっす。人間だもの。