『雄気堂々』 上巻 城山三郎〜尊皇攘夷と開国の狭間で

雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)


評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★★星5つ)


最近城山三郎にはまっている。


空白の日本の近現代史を、エンターテイメントを通してイメージを掴みたい、なんて目標を立てておきながら、城山三郎を読んだこともなかったなんて、僕もぬけているな、とただいま読破中。


司馬史観的なモノにだまされちゃーいけないよ(笑)


この人の話しにある通り、


広田弘毅小論−城山三郎『落日燃ゆ』のラストシーンの嘘
(トラッシュボックス)

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落日燃ゆ (新潮文庫)落日燃ゆ (新潮文庫)
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城山三郎の小説は、ともすれば素晴らしく過去の資料を調べつくして描かれているがゆえに、真実のように思われてしまうが、やはり小さな部分の積み重ねで、著者のイメージにあう選択がなされていると思う。もちろん、「そのこと」が、城山三郎作品の素晴らしさや、小説としての完成度やメッセージを損なうものだとは思わない。現実をなんらかの物語や記事にしようとするときには、捨象するのは当然のことで、必要なのは著者がそのことに自覚的であること『ではなく』、読む側が、そういった選択的メッセージに対して自覚的であることだと思うからだ。ようは、読む側に、ちゃんと『鵜呑みにせずに』自分自身の意見と選択眼を持つことができれば、いいのだ。

男子の本懐 (新潮文庫)男子の本懐 (新潮文庫)
城山 三郎

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■上巻に描かれる動機 〜 尊皇攘夷と開国という二元論の狭間で


上巻と下巻に別れているが、まったく別々の構成になっていると考えてみると、文庫としてはとてもいいスタイルだと思う。


というのは、渋沢栄一という日本実業界の神様の伝記なのだが、


1)若かりし渋沢栄一が、どうしてそういう動機をもつにいったたか?(上巻)



2)その動機を持った青年渋沢栄一の活躍(下巻)



という構成になっているからだ。「人間」をある行動に駆り立てて、失敗させたり、巨大な業績を残させたりする『差』は何によって生まれるのか?という問いを、文学の中に探し出そうという読書におけるテーマと仮説がある僕にとって、このスタイルと内容が、非常にインパクトがあったのは、このブログを過去から読んで頂いている人には、言うまでもないでしょう。

■失われ行く武士の散り際の美しさというテーマ


読んでいて思ったのだが、僕の幕末のイメージは、「武士の散り際の美しさ」なんですよね。そういったイメージが頭にこびりついているのは、日本テレビの年末時代劇スペシャルドラマ

忠臣蔵

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を、小学生から中学の時代に、熱狂的に繰り返し見ていたことと、マンガのテーマに新撰組が多いからなんですよね。たぶん、エンターテイメントの領域では、「武士という滅びゆくものへの哀愁」といったテーマが多いような気がする。これが事実かどうかさておき、僕の中の近代日本と江戸時代(徳川幕府政権)をつなぐ幕末のキーワードは、『散り際の美しさ』なんですよね。

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なんでなのか?と考えると、


仮説なんですが、司馬遼太郎が『あの素晴らしかった明治の気高き日本人が、昭和でなんで狂ってしまったか?』というテーマを元に巨大な司馬史観を構築したように、明治後半から昭和20年までの近代史を、「悪である」という評価の元に、無視しているからなんだと思います。



つまりね、時系列が『非連続説』を主張しているんです。



1945年の以前と以後にまったくつながりがない、、、明治元年の以前と以後にまったくつながりがないというイデオロギーですね。1945年も、明治元年も、旧体制の否定の上に成り立つある種の革命なので、旧体制や歴史に対する否定によって成り立っています。そういった歴史の書き換えは非常に強く行なわれており、本来は連続的で、基盤的な部分はほぼ変化がないにもかかわらず、無理にこじつけようとしています。つまり、


江戸 → 幕末 →  近代日本(1945年以前)

という時系列で、幕末から近代日本(とりわけ太平洋・日中・大東亜戦争の時期)描くときに、近代日本を悪であるという非連続説を採用すると、必然的に幕末の維新新政府官僚や志士たちの評価が、悪くなってしまうんですね。だって、それは昭和初期の「日本を侵略戦争に走らせた」人々のスタート地点になるわけですから。だから、そうなると維新の志士よりも、過去に拘泥した武士の散り際に、ある種の哀愁と憧憬を感じてしまうのは、非常によくわかります。論理的には破綻しているのですが、日本が侵略や悪いことをしたり堕落したのは、武士道の精神(=ノブレスオブレージ)が失われたからだ!なんていう意見も、良く耳にしますよね。ただ、石原莞爾GHQが逮捕しに来たときに、彼が『日本が侵略(=植民地政策)することは日本人が望んだことではなく、そもそも鎖国体制にあった平和国家日本を、むりやり開国したのが始まりだろう!。開国を脅迫したのは、欧米列国(パワーズ)だろう!。」といったように、この幕末の鎖国か?開国か?の論議は、実は日本近現代をずっと支配しつづける問題なんですね。つまり、この時点での、鎖国、開国や尊皇攘夷の議論のダイナミズムは、近代日本のドラマツゥルギーの謎を解き明かす上での重要なポイントであるんだと思います。

ところが、


1945年以前の近代を悪とする価値観




滅び行くものに加点主義になる日本人の大衆の判官びいき

のため、このあたりのイメージを、少なくともエンターテイメントの領域レベルでは、描ききれていないのですね。つまり、近代日本の近代国家の育成時期を肯定しないと、幕末の志士や実は旧幕臣の有能なものの多くは、明治新政府の高官に実力主義で取り立てられていることを肯定できないんですよね。でも、日本の過去の戦争は『悪かったです』という善悪二元論で、思考停止をしてしまうと、そこから導き出される結論は、そういった国家を作った人々もまた悪である、ということになってしまいます。なに長々説明したかというと、仮に、「失われ行く武士の散り際の美しさというテーマ」というものが、大衆的に、人口に膾炙しているとするならば、その美しきテーマによって、隠蔽されているものがあるのだ、ということをいいたかったんです。少なくとも、僕自身は、この幕末の武士や人々・・・・「江戸末期の日本人」と「明治近代の日本人」に断絶を感じていて、これほどの凄まじい価値観の転換にどうやって適応したのか?、何があったのかが、全然抜け落ちていた気がします。それは、今の歴史評価や情報のイメージの平均値が、非連続説をベースとしているからなんだと思います。

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■いまの埼玉県深谷市出身の百姓が、如何にして日本近代資本主義の父になったか?


上巻の大きなテーマは、近代日本資本主義の父である渋沢栄一の青年時代から始まります。ただの百姓であった彼が、どうして、、、どのような動機を抱いて、成長していったかが描かれます。

埼玉県の血洗島・・・・栄一は、そこの百姓に生まれます。ちなみに百姓というのは、なにも農業だけをしていたわけではないことが、非常に良くわかります。とりわけそれなりの豪農や独立自営農民レベルの百姓は、養蚕や卸問屋や地元の決済・・・金融業などをしている総合企業あった場合が多く、それなりに裕福な渋沢家は、百姓というものの、まさに商人・・・・それも今でいうならば商品を作る機能が主のメーカーであったと考えられます。百姓という存在が、単純に僕らのあたり前のイメージ「農民・・・農作物を作る人」でなかった!ことは、以下の山本七平さんの本を読むとわかります。

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だから、発想が、商人なんですよね。渋沢一族は、農民であり、同時に蚕や生糸の取扱いをする商売人でもあったんです。だから、商売人としての倫理や教養を子供の頃から叩き込まれているんですね。当時に百姓という存在が、きわめて商業(製造、流通、金融)や経営マインドにすぐれた層であったことが、彼をして近代日本資本主義の父とさせ、近代日本が、あっという間に世界列強に追いつくレベルの工業・興業能力を持てた理由でもあるんでしょうねぇ。その部分は、城山三郎さんはあまり強調していませんが、彼が幕末の殺し合いやテロリズムの嵐の中で、『どのように身を立て、どのようにこの矛盾を解決しようか?』と悩んだときの結論が、商売であったことは、言葉で説明しなくとも、そのへんをにじみ出してしまいます。


これは、江戸期300年の蓄積で日本列島全体に、経営者マインドが満ち溢れたいたことがなければありえないことだからです。二宮尊徳の倫理も同じです。その他のアジア諸国が、停滞して固い身分制度のために自由度やダイナミズムを失ったことと比較すると、非常に重要な日本史の検証ポイントだと思います。なぜならば、資本主義のエートスが、民衆レベルまで浸透していなければ、資本主義のテイクオフと近代化はなされないからです。これは、非連続説では、説明がつかない。故ケネディ大統領が尊敬していたという米沢藩主上杉鷹山など優秀な経営者マインドあふれる人材が江戸時代にあれほど広く後半に出現していなければ、いきなり明治元年から殖産興業がスタートしないからです。

小説 上杉鷹山〈上〉 (人物文庫)小説 上杉鷹山〈上〉 (人物文庫)
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鎖国か開国か、尊皇攘夷とは?〜日本的善悪二元論からの脱出


さて、埼玉県の豪農で百姓の栄一青年は、当時の尊皇攘夷か開国かの嵐の中で、村の血気盛んな青年のリーダー格の1人でした。途中は読んでいただきたいのですが、彼の子供時代からの主張は一貫して「尊皇攘夷」です。一言でいえば、毛唐の外国人を皆殺しにして、日本からたたき出せ!という主張です。開国を主張する人間は売国奴で、異人に日本を売り渡す悪魔の所業だ、と考えていました。

日本社会には、歴史的に、島国であるから故にでしょうが、異国に対する妄想的恐怖感というのは強いですよね。実際は、朝鮮半島やヨーロッパやペルシャなどのように、大陸にあるわけではないので遊牧騎馬民族などにガンガン侵略された経験が皆無なんですが(笑)。この異国への妄想的恐怖は、日本のパワーの原動力の一つです。たぶん、圧倒的な先進文明の中華文明の周辺の野蛮国である時代があまりにも長かったせいだと思います。青年栄一のVISIONも、それです。しかも、開国した異人の多い横浜焼き討ちを目指してテロリズムをマジで計画立案します。その後も、なんども彼は、殺し合いの世界に飛び込みそうになるギリギリのところに足を踏み入れています。ただ、結構激しやすいいつもテロに走るかわからないような危うい事をしつづける彼は、「にもかかわらず」プロジェクトを計画する現実場面になると実に現実主義的な手順を踏みます。養蚕の商売の後継者として育った彼は、現実にインパクトがあって実際に実績を上げあられることでないと、どうも無駄なことのように覚えてしまうリアリストだからなんです。つまり、目的は死ぬことではなく、主義を全うすることなんで、そもそも攘夷(=幕府を倒して現政権を変える)ができなければ、死ぬことは無駄に思えてしまうんです。


このへんのリアリズムは、後藤新平にとても似ているな、と思いました。後藤新平のことは、下記の記事で書きました。

後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10003885748.html

後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト②
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004001497.html

後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト③
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004002821.html

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後藤新平―外交とヴィジョン (中公新書)後藤新平―外交とヴィジョン (中公新書)
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そんな彼が横浜焼き討ちのテロリズム(未遂)の首謀者の1人として、幕府につかまらないように京都へ逃げます。そこで、いろいろなものを吸収するにしたがって、


開国と尊皇攘夷の、どっちが正しいのか、よくわからなかっなっていってしまうんです!


たとえば、使者で西郷隆盛に会いに行くと、攘夷(=外国人を倒す!)急先鋒で代表のはずの彼が、うまいうまいと豚鍋(当時の日本人は豚はまず食べない・・・異人の料理)を食べ、薦めたりします。倒幕の急先鋒と呼ばれてた水戸の一橋慶喜は、途中でなんと将軍になってしまいます。彼は、混乱して、何が正しいのか間違っているのかがわからなくなります。以前に書きましたが、これって善悪二元論で、悪をはっきりさせてそれを滅ぼす!というシンプルで理想主義的な視点から、実は、どっちにも言い分があって・・・・と、価値判断ができなくなって悩みだす状態を指すんです。物語としては、面白くないのですが、素晴らしい作品は、すべてこうした常識的な善悪二元論(そして現実の政治はこのように動きやすい)からの解脱と悩みを志向します。いってみれば、とても大人な論理なんです。いまのネギまの連載のネギ君の悩みと同じですね(笑)。

■物語の二元論〜物語の読み方
http://ameblo.jp/petronius/entry-10006776740.html


■二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10007083166.html


しかし、彼は感じます。農民に過ぎない彼を一橋家の家臣として武士に取り立ててくれた一橋家の用人平岡円四郎など、彼が素晴らしいと思う人物たちは、実は、開国や尊王とか攘夷とかではなくて、その先にある何かもっと重要なものを見ているような気がする。言葉やイデオロギーなどは、空念仏に過ぎず。そもそもその背後にある本質を見誤ってはいけない・・・と感じるようになります。殺し合いやテロリズムも、なんら実効性がなく、彼にはむなしいだけに思えました。従兄弟の喜八などは、百姓から武士になれた誇りで、その誇りのために武士への憧憬が捨てきれず、幻影にとらわれたように死に場所を求めます。一時期は、慶喜(彼の主君)のために死ぬために、彰義隊の頭取にまでなり、最後は五稜郭まで参戦します。・・・が、そんな肩書きのプライドのない栄一は、そんな軽挙妄動は、無駄なだけにしか思えません。これです。これ!!!



■個人の内面のドラマツゥルギーが、現実世界のリアルと接続される時


この話は凄い感動した。むしろ華々しい実業家としての活躍の前段階の、明日をも知れない不安定な悩み深い時期なのですが、この悩みと葛藤こそ、素晴らしい。僕が、物語で最高のものと感じるのは、この個人の内面のドラマツゥルギーと、外面の環境のドラマツゥルギー(=力学みたいなもの?、外部環境のこと)が、平行してリンクしているものです。だって、それは、個人の内面を扱いながらも世界を扱い、その内面の意志と動機によって世界が変わってゆき、逆に世界の動きよって個人のナルシシズムが打ち破られるダイナミズムが発生するからです。


それこそが、人生。それこそが生きる価値、だと思うのです。


人間は、世界という物語のキャラクターであり、同時に自分という物語の主人公でもあります。神の視点からするとただの駒に過ぎず、同時に自分という世界の中心(=唯我論)でもあるのです。そういう二重構造によって世界に規定されるというのは、他者が存在する現実社会に生きる人間の所与であり、その構造は、物語世界であっても近代的人間を描く限りは同様だと思うのです。この話はね、栄一の個人的悩みと、世界の問題がリンクしているんです。僕は日本の私小説の文学的テーマやたとえば90年代ではこのテーマを極めたアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』や直近では、『ゲド戦記』『ブレイブストーリー』などの系列は、自意識=自分の閉じられたナルシシズムを解放・解脱するための物語だと思っています。けれどいつも思うのは、「ツライと思う自分」を回復するのはいいのだが、大抵の物語のドラマツゥルギーは、回復した時点で終わってしまいます。



えっ????



それじゃーなに、自分が苦しいことで救済されることだけが、目的だったわけ?。と思ってしまいます。もちろん自分自身の自我の崩壊やナルシシズムの地獄や孤独から解放・解脱が大切なことです。自己肯定できない人に他者は愛せないし守れないからです。けれども、たとえば、アニメエヴァのシンジがどんなに「おめでとう!」と自己肯定しても、使途によって滅びに瀕している人類は残ります。事実自体は、マクロの状況は、変わらないのです。



自己とはまったく無関係に世界は存在するのですから。



最近のクリエイターの作品は、どうしてこう「自己」と「世界」の境界が曖昧なのだろうか?。世界は、自己とは別物なんだよ!。『ブレイブストーリー』にしても、子供が泣いても吼えても、親が離婚するという「現実」は消えません。「ゲド戦記」だって、あそこで蜘蛛を殺したって、世界の矛盾は一向に解決されないんです。そんな脚本や結論は、いかに質が高くても、究極的にはダメだ、と思います。

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だって、僕らが、どんなに自己救済できて、「おめでとう!」と心の中で肯定しても、アフリカの飢餓や経済収奪、核戦争の恐怖、貧困による死は、悲惨な戦争・内戦は、いっこうになくならないのです。昔、「文学は、飢えた子供にとって意味があるのか?」という問いがありましたが、今ではそうした問いも忘れ去られてしまった気がします。つまりね、近代的な独立した人間にとって、ナルシシズムによる閉じた孤独感を克服し自己肯定することは、重要なテーマですが、それはしょせん克服は、スタート地点に過ぎないんです。心の問題を解決し、独立した一個の人間となってはじめて、世界というゲームにエントリーするんです。


成熟した大人として、「あまりにも悩む価値もないほどあたりまえ」のことであって、そんなことは、学生時代のガキの頃に、すべて処理しておけ!というような程度の問題なんです。どれほど大きなテーマであっても。就職活動の時のも僕は同じ事を書いたのですが、そういう意味では、ナルシシズムの心の病に犯されている日本のアニメーションや、アメリカの都市を描いた文学作品とか、現代社会は、子供だな、と思います。なに甘いこといってんだ!と怒り狂いたくなる時もしばしばです(笑)。心の不遇感なぞは、自分で闘って、回復せよ。人を頼るな!。いつまでもうじうじするな!。世界ってのは、そーいう矛盾を抱えたもので、悩んでいる暇はない。自分の悩みと一生付き合わなければならないならば、その葛藤を原動力として、「自分」ではなく、「世界」を変えろ!!!!!と僕は思うのです。そういう意味では、戦隊モノや昔の勧善懲悪のヒーロー者は、世界観は単純ですが、今の時代よりも倫理的であった、と思います。自分の内面ばかり悩んでいないで、少しお馬鹿ですが、幼稚園を占拠した悪の帝国(笑)を曲がりなりにも倒そうと行動!!していいましたもんね。まぁアメリカのような、幼稚で素朴に善を信じる二元論的な倫理も、ちょっとこの複雑な世界には、困ったちゃんではありますが。しかし、矛盾を抱えつつも、前に進む大きな気構えには、僕は惚れます。


話がそれましたが、とはいえさすがに渋沢栄一さんは、150年近く前の人なんで、近代的な内面と役割(職業など)の分離が徹底的に起きているわけではなく、自分の心の悩みと役割の悩みが一致する、幸福な時代に生まれた人である、という面もあると思いますが。まぁ、渋沢栄一さんがそういう人だったかどうかはわからず、この小説の中にいる人間・主人公は、という意味ですが。

ちょっと、話がそれまくりました(笑)。


渋沢栄一の視点は二重の意味での部外者


この作品は、僕のイメージの転換を迫りました。


というのは、

1)滅ぼされた旧徳川幕府家臣側の開明派からの視点


であることと同時に、

2)幕臣であり新政府の高官でありながら本質が、百姓であり商家出身の一般平民

の視点で、この時代のエリートである維新の志士である薩長藩の出身でなく負けた側の幕臣であり、、、しかも武士ですらない一般人という二重の意味で部外者の視点だからなんです。主流から外れまくっているんですが、実は、近代日本では、「この層」こそが主人公なんですよね。その層を動かしうる、近代日本人の真のエートスと目標は、ここにあります。つまり、国に住むすべての人々が自由に経営者マインドを発揮して、競争しあい、全世界に価値のあるものをつくって国を、地域を、村を、自分自身の人生を豊かにしよう、という気概。そのために新しい国と制度をつくり出さなければならない、という意志。

それこそが究極の目標であって、攘夷も開国も、その『手段』に過ぎなかったんですね。


渋沢栄一が、若かりし頃、攘夷と開国という善悪二元的対立の殺し合いの中で、実は、「その争い自体」には、意味がないんじゃないか?。殺し合うことが目的で、主義を主張しているわけではないんだ、という内面の葛藤に対する答えがなければ、彼をして近代資本主義の父にはなさしめなかったでしょう。というのは、「俺が利殖に走れば、三井や鴻池(旧三和)なんかには負けない大財閥築いた!」と豪語していますが、これは彼の事業履歴を見ると事実です。日本の大規模な産業のほとんどは渋沢栄一の手によってスタートしています。


しかし、彼は、商売を・・・・ビジネスを、過去の疑問への答えとしてコミットしています。


つまり、殺し合いをしている暇があれば、正しい形で働き正しい形で利益を得ていれば、世界がよくなるのだ!という確信です。これは、非常に公共的なパブリックな意識で、まさにアダムスミスが道徳感情論で資本主義の究極的結論として出した答えと重なります。だから、利益を独占するような財閥を自分で作る気は彼には毛頭ありません。それは、利益が目的ではなく、ビジネスという手段を通して、殺しあわずにすむような世界を目指すことが目的だからなんです。


だからこそ、近代資本主義の、父なんです。同じ時期に巨大な財閥を築いた、三井や岩崎(三菱)、住友、安田をそうは呼ばないのです。



■開国と攘夷とは?〜パブリックに仕えること


仲が良かった知り合いがいて、その人は、僕より結構年上だったのだが、政治家になりたいとずっと勉強会を開いていて、暇でただ酒が飲めたので僕も時々遊びに行っていた。まだ高校生や大学生だったので、ほとんど意味がわからなかったが、日本は幕末の攘夷・開国論議で、実は政治体制を「このようにする」と結論付けているんだ、というよう話をしていて、、、、意味は全然わからなかったが、ふーんという思いを抱いたのを覚えている。幕末の議論を追えば、近代日本の問題点の全ての原点がある、といっているんですね。けど、この時代の資料があまりなく、原典に当たるパワーもなかったので、忘れていたが・・・・こういうことなのかもしれない、と今は思う。ちなみに、その人は、その後脱サラして、今は議員になっている。テレビで見ると、議員ってすごく小物に見えるけれども、いろいろな矛盾がありながら、凄まじく勉強している人が多い。議員自体は、けっこうリスキーな職業で、真面目にやると非常に儲からない(笑)。その人も議員になるまで、ほんと無給でよく暮らせるな、という生活をしていた。そのくせ、寄生虫みたいなもんだから、マスコミに狙われると、言い訳できないものが多々出てくる。理由があっても、そういったことはお構いなしに闇に葬られる。そういう意味では、大変な職業だな、と思う。僕は絶対やりたくないもん(笑)。ただ少なくとも、パブリックマインドなくして、簡単にはできる職業ではないなぁ、と思う。


いやー凄いも面白いを読んだ。記事の量がそれを表わしている(笑)。