『血と砂』(1965年) 岡本喜八監督 三船敏郎主演 戦争と音楽を扱った典型的な悲劇

血と砂 [DVD]

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)

■見始めたきっかけは『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』との比較〜音楽と戦争と日常と

僕のブログの読者っていったい誰やねん!と、ターゲットがいまいち不明になるのは、こういう紹介をする時なんですが(笑)、、、。先日いちみねーさんに『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』を借りて見ていたんですが、その流れで、この作品を見ることになりました。このブログをリアルタイムで追ってくださっている方は、あー最近ペトロニウスは、戦記モノや戦争映画に凝っているんもんなーマブラヴオルタからの流れで、ってニヤってしてもらえると思いますが、その流れです。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は、テレビ東京×アニプレックスの体制で発足した企画「アニメノチカラ」第一弾となるオリジナルアニメーション(2010年)ですね。


漫研のLDさんが、この話の流れだと岡本喜八監督の『血と砂』思い出すんですよ、と強く主張されるので、ぜひ見てみようと思い立ったのがはじまりまりです。物語フリークのLDさんルイさんら漫研では日夜アニメや漫画についての意見が交わされていますが、この『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の最初の数話を見た段階で、LDさんが、音楽と戦争と少女(岡本監督の作品では学生ですね)という「組み合わせ」であれば、最後のラストシーンは、ばかばか周りの仲間が死んでいく中一人でラッパを吹くというシーンにならなければ、ドラマツゥルギーの盛り上がりとしておかしい!と、喝破したのが始まりでした。その時は明確にイメージできなかったんですが、LDさん曰く、その類型は岡本喜八監督の『血と砂』なんで、ぜひ見てみてください、ということだった。ちなみに、LDさんの読みは、外れました。というのは、小隊の仲間が全滅しなければ、この悲劇の物語類型としては、おかしいという意見ですからね。その部分は、やはりネットとかでもかなり賛否両論があったので、なるほど、これが類型の文脈(=カタルシスの仕組み)を外すことのリアクションか、とうなったのを覚えています。


えっと、何度も僕はブログで主張しておりますが、僕の物語観賞スタイルは「ジャンルやメディアや時代、地域を越境すること」「つながりを持って理解する」という2点です。そしてその越境やつながりの対象は、極端に差があって遠ければ遠いほどいい、というスタイルです。この観賞スタイルからいうと、「戦争というテーマに音楽」をつなげた時の物語類型の考察と、かつどちらかというと日常系の系譜を引くアニメーションと岡本喜八監督の反戦・戦争活劇映画などというかなりつながりにくいものを、同じまな板の上で考え感じる、という作業は非常に良い好例なのです。まぁもともと岡本喜八監督は大好きというのはありますが。


■あらすじ

太平洋戦争末期昭和二十年の北支戦線。最前線の陽家宅の独立大隊の佐久間大尉(仲代達矢)・大隊長のもとに、小杉曹長三船敏郎)と軍楽隊の少年十三人、慰安婦お春がやってくるところから物語は始まります。


小杉曹長は朔県の師団指令部で少年軍楽隊を最前線に送るのを反対して、転属を命じられてきたのですが、到着の最初のシーンで、見習い士官だった自分の弟が銃殺される現場に出くわします。彼の弟は、八路軍との攻防激しいヤキバ砦の守備隊長でしたが、部下が全滅、自分一人が生き残ってきたことの責任を問われ、銃殺されたのです。


このことに疑問を持った小杉曹長三船敏郎)は、佐久間大尉(仲代達矢)に食い下がりますが、上官に反抗したことで営倉入りにされてしまいます。そのことをうやむやにする代わりに、小杉曹長は、音楽学校を出たばかりで戦争の経験のほとんどない素人集団である軍楽隊の少年たちを一般兵にした後、彼ら小隊を率いて、ヤキバ砦を攻略することを命じられます。


小杉曹長は、楽隊のメンバーらと営倉に入れられていた炊事係(佐藤允)、墓堀(伊藤雄之助)、反戦主義者(天本英世)と共に、ヤキバ砦攻略に向かい激戦の末に、奪取に成功します。その時に最前線中の最前線のヤキバ砦に、小杉曹長に惚れている慰安婦のお春さん(団令子)がやってきます。まだ女を知らない小隊の少年たちのために、小杉(三船)はお春に頼み「一人前」にさせてやることになる。

しかし、補給もも応援部隊も来ない中で、たった10名前後の小隊では砦を守りきるのが不可能で、その後、敵の大軍を少人数の小隊だけで迎え撃つことになり、一人ひとり死んでゆき、全滅することになります。


基本的に、岡本喜八監督の作品は、いつも思うのだが、不思議な混淆というか猥雑さを感じさせる。そもそも戦争映画の代表みたいに思えるほど戦争を映画を、それもかなり細部まで作り込んで描いている人であるにもかかわらず、そもそも左翼的なイデオロギー臭の強い反戦映画なんだよね、これ。そのミスマッチが一つだし。それに、どういう観賞スタイルで見ていいかよくわからない、感じがする。一部には、もうミュージカルだよね、この表現手法、というシーンもある。そしてディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz)の『When The Saints Go Marching In 』で始まって、終わるようなところとか、もういったい何の映画なの?ってくらい表現方法があっちこち飛ぶ猥雑さがある。ああ、古い時代の作品だなーと思うのは、今の政治的な正しさからいったらあり得ないだろう慰安婦(売春婦)の描き方なんかも、そうだ。あからさまなシーンこそないが、お春さん(団令子)が川を渡るシーンとか、スローモーションで、ねっとりとっており(笑)これって、お色気ピンク映画かよって感じの舐めまわすような描写が続いたりします。なんかね、エンターテイメントで、「大衆が好きだろう!」ってもんが、これでもかって詰まっているんだよね。いまの時代だと、政治的に正しすぎて、「大衆」とかが好きな雑多なモノをストレートに表現できないものなんだけど、もうあからさまに表現してて、古い映画だなーと思った。差別用語とか連発なんで、最後に言い訳のように「当時の時代背景に云々」が出てたし。けど、やっぱその猥雑さってのが、岡本喜八監督の魅力だよな、と思ったりもしました。僕のような団塊の世代Jrの30代半ば(2010年現在だと、岡本喜八監督は何と言っても、傑作エンターテイメントの『大誘拐』ですよね。ちなみに、軍事オタクとか、戦争映画関係の好きな人にとっては、『沖縄決戦』とか『日本の一番長い日』とかになるんだろうか?。

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なるべく過去の傑作や監督の作品を見直そうというコンセプトを今年の初めに設定したのだが(笑)、ほとんどできていなかったので、これを見れたのは良かった。岡本喜八さんの作品は、イーストウッド監督に並んで今年見直したい第一候補でしたので。僕はほとんど岡本喜八監督の作品は、最晩年のほうのいくつかしか見たことがないのですが、この作品を見てまず感じたことは、この人がエンターテイメントというモノに凄く重要な基盤を置いていた人なんだなと思ったことです。というのは、最初に音楽学校での学生たちが、楽隊のように行進するシーンから始まるんですが、これって間違いなくあり得ない観念的な話ですよね。この学生たちは、「一般の兵卒として!」最前線の中国北部いわゆる北支戦線に送られているんです。けど鉄砲を持ってこないで、楽器を持ってきた!というんです。それで、いきなり最前線で『聖者の行進』をかきならしながら行進しているシーンから始まるんですよ。そんで敵に襲われる(そりゃそーだ!)のですが、「なぜ前線で音楽とかならした!」と怒る三船に対して、「自分たちは音楽しか知らないで、鉄砲の打ち方は知りません!」見たいな反抗をするんですね。


まぁ常識で考えると、銃殺ですね、即(苦笑)。


左翼的なイデオロギー反戦っぽく伝えるために、こうした「本当は戦争をしたくないんだ!」という若者の本音を赤裸々に代弁させて、いかに戦争がヒドイことをしているかを浮かび上がらせたいんだろうと思うんですが・・・まぁこういう教条的かつ観念的な左翼思想を表現に落とすとこうなります、みたいな「ああーーー(苦笑)」と思うような稚拙ぶりなんですが(岡本監督がというより、どうしても左翼って理屈っぽく概念的になるものなんです。だって基本的に左翼は、あり得ない理想を人工の力によって到達しようとするモノだから)、面白いなーと思うのは、物凄い左翼観念的なキャラクター設定、状況設定、セリフを最初に詰め込んでいる、「にもかかわらず」、それがドンドン違う方向に向かうんですね。なんでかっていうと、


妙に戦争のシーンや組織がリアル


なんですよね。見ていてね、敬礼の仕方、慰安婦の扱い、組織の日常の感覚とか、いろいろな小さなものが「あーこれは見てきた人が、見てきた人に向かって表現しているんだな」というようなリアル感(ほんとかどうかは別モノ)があるんです。全体としてはものすごい観念的設定の上、ぶっ飛ぶくらい非論理的なエンターテイメントなんですが(昔の日本映画の張りぼてだし)、それではぬぐえない位のリアル感があるんです。これって、ようは古い・・・もっと正確に言うと「戦争に現実に行った人が沢山現役で見ている」という前提で描かれているってことなんだろうと思うんです。だから、物凄い観念的で左翼的な設計を脚本でしていながら、話が進んでいくと、そういう臭みがドンドン抜けていってしまうんですね。もうヤキバ砦攻略の時点では、純粋な戦争映画で、かつ血沸き肉躍る活劇(苦笑)になってしまっている。これって、どうしても「現実」に引っ張られているんだろうなーと思うんです。だって、実際に「現実の戦闘を戦っている」人の話になった時には、重要なことは、マクロの観念や理念ではなくて、好きな女を守るとか、好きな上司(曹長)を助けるとか、仲間を守るとか復讐するとか、そういうプリミティヴな部分で生きざるを得ないんだも人は。「そういうシーン」を切り取っているものが、そもそも左翼的にも右翼的にもなるはずないんだよねー。たぶん、物凄いエンタメなんで、いろいろな背景情報を「物語だから!」ということでショートカットというか省略しているんだと思うんですよ、けど、そういう背景情報が経験値としてない僕らが見ると、論理的に考えてその背景情報を想像すると、「ああ、こういうことか」というのが逆に思い浮かんじゃうんですね。


いや単純な話「人の殺し方なんてわかりません!楽器の吹き方ならばわかるけど!」という軍隊でいったら普通は独房か銃殺モノのセリフをいうってことは、そういう「動機」をキャラクターに付与しているんだけれども、、、、、、自分たちに本気で死んで欲しくなくて訓練を施す小隊長(三船)に触れているうちに、みんなドンドン彼を慕っていく。そして慕っている、自分たちが生き残れるように頑張っている、隊長を見ていると、裏切れなくなってしまうんですよね。そして、ヤキバ砦攻略の初戦で、仲間が死んでいくと、もう「逃げる」とか、「戦わない」とかそういう選択肢がほとんど感情的になくなってしまうんですよね。感情移入する我々もそうだけれども、映画の中のキャラクターたちも同じです。もこの時点では、左翼的なイデオロギー視点や設定は、まったく消えちゃっています(苦笑)。途中から、若者たちが、全然文句を言わなくなるのは、兵士として戦うという物語のってしまっているからなんだと思います。「それ自体をダメだ!」と、後付けの安全なところにいる我々がいうのは簡単だけれども、始まりは、何なんだこれわ!と思うような、左翼設定なんだけど、後半の流れは、どう贔屓目に見ても戦うことが肯定的に、かっこいいことに描かれてしまってゆく。このへんは、凄い見ていて矛盾を感じた。監督は面白い人だな、と。


また童貞だった18-19の兵士たちを一人前にするようにと、曹長の三船は自分に惚れているお春さんに頼んで筆おろしをさせてあげる(倫理的に見るとおいおいって思うんですが、、、、あのもういつ死ぬかわからない(=つーかまず次の日には死ぬ確率が高い)最前線の世界では、うーんなるほどなーと思ってしまうんですよね、、、、)んですが、「こんないいことを知らずに死んだあいつ(=友人)が悲しい!」ってある兵士が号泣するんですが、みんな、「だからお春さんを守るために戦おう!」、「おー!!」ってなってしまうんです(苦笑)、いやーもう倫理的に考えると、????だし、ちょっとまてと言いたくなるんですが、でも、もちろんこれも物語的な美化がかなり入っている幻想(きっともっと悲惨話はたくさんあったに違いない・・・)だとしても、こういう「感覚」ってのは、確かにあったんだろうなーって思うんだよね。お春さんが、ちゃくちゃくと大金を貯めているシーンとかがあったりすると、なるほど商売なんだなーって思います(苦笑)。ちなみに巨大な部隊を大隊長の佐久間大尉(仲代達矢)が、お春さんに「あんた童貞ね!」といわれて(笑)、めちゃうろたえるのは、物凄い気真面目でこわもてな大尉ぶりだっただけに、大笑いしてしまった。というのは、たぶん陸軍大学とか出のエリートなんだろうと思いますよ、彼。そうすると、まだいいところ20代なんでしょうね。マクロの指揮官としては凄く立派だけれども、人間としては、まだまだ青年・・・なんだよね、そういうのがあからさまになるシーンだったからです。


まーこの辺は、後付けの倫理(=僕らの今の時代の価値観)から見ると、全て否定になってしまって「ダメ」というふうに言えるモノなんですが、そういうこといっちゃー素直に見れないですよね。戦争映画とかって、そもそも「マクロに翻弄されて自分ではどうにもならない大きな流れに縛り付けられて「そこ」にいる」という大前提があって、みんな自由であったら人殺しもしたくないし、売春婦だってしたくないんですよね(・・・・ああ、だめだなこの言い方は、確実に「したい人」もこのようにいるはずなので、断言はできない。)。そんなのは、数歩前の前提であって、もうどうにもならないところまで貧困とか国家の命令とかで追い込まれた「後」の話をしているんですよね、こういうのって。だから、その所与の世界で、どう明るく前向きに生きるかって話しか、もうできないんですよね。国家が悪いとか言っても、その時点ではどうにもならない。それがだめだ!、というのは正しい言説だけど、現実世界が、リソースが限られている、というギリギリの世界であることを忘れている傲慢な言いぶりに僕は思います。そのへんの視点が獲得できないと、近いところでの歴史や戦争映画って、冷静には見れないだろうなーと思います。むしろ、このへんの話を見る時は、いかに「動物としての人間」「感情的な存在としての人間」という視点抜きには、見れないのだなと思います。そして規制のコードが少なかった時代だけに、そのへんはあからさまですよね。


■『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』との比較〜音楽と戦争と日常と

さてさて、『血と砂』の話の大まかな流れは理解できたと思います。なので、「音楽」と「戦争」というものの物語類型の話に戻ろうと思います。下記がwikiで拾ってきたこのアニメのあらすじです。

はるか未来、長く続いた戦争によって大地は荒廃し、海からは魚が消え、幾つもの国と言語が消滅した。そして、現代世界が半ばおとぎ話となり、世界の様相も国も人種も、今とは全く異なる状況になった世界。空深カナタは、廃墟でトランペットを手にしていた女性兵士と対面する。喇叭手に興味を抱き、軍に入隊すればトランペットを吹けると勘違いして軍への入隊を決心したカナタは、やがてトロワ州セーズの街の駐留部隊であるヘルベチア共和国陸軍第1121小隊に配属される。カナタが水かけ祭りの日にセーズで騒動に巻き込まれる所から、物語は始まる。

コンセプトとしては、いま第二期を放映中の『けいおん』という日常系のアニメの非日常版のような設定です。これリアルタイムで見ている人には、非常に文脈的に繋がるのですが(あと数年もたてば全然分からなくなると思いますが・・・)アニメの業界では、この『けいおん』は大ヒット作品なのです。簡単にまとめるとものすごぉーくゆるい女子高生たちのバンドライフの日常をただ追っただけの作品です。何を目指すわけでもなく(=別にプロを目指さない)、なにものかになるために修行するでもなく、過去のトラウマを埋めるために血を吐くような戦いをするわけでもないし、ライバルも出てきませんので、まさに「日常系」と僕はよんでいます。こういった何となくわかる用語が、例えば10年後とかに通じるかわかりませんが、少年漫画にあるような成長を重要視するのではなく、「いまこの時」の日常の美しさを語る系統の物語です。

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この系統の背景の説明は、


らき☆すた』に見る永遠の日常〜変わらないものがそこにある

http://ameblo.jp/petronius/entry-10048130571.html


ここでしました。基本的には、この流れは、映画でいうとヨーロッパ病の中で生まれたヨーロッパ映画のモチーフの流れと同じものだと僕は理解しています。イギリス映画の『ブラス』とか『リトルダンサー』なんかがこの流れです。日本映画でいえば、『スウィングガールズ』『フラガール』がそれに当たると僕は考えています。『ウォーターボーイズ』も同じテーマですね。


スウィングガールズ』 矢口史靖監督 なにもないところからの充実
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僕がいう日常系という作品の定義は、大きなマクロの背景をベースに考えています。その定義は「明確な動機が消失してしまった世界で、どうやって充実を見出すか」ということです。動機というモノを考える時に、大きな物語が消失した、とよく言われます。国民国家の幻想とか、いろいろ大きなモノは言えるのですが、僕は非常に単純に「貧困のレベルが後退することによって、わかりやすく共有できる価値観が失われた」ことだと思っています。非常に端的にいうと、GNPが1万ドルを超えた経済になった経済、というイメージです。こうした社会では、貧・病・苦という物質的な水準での「欠乏」が共有されません。コンビニでお菓子を買って、吉牛とかファーストフードとか食べて、レンタルビデオ屋でDVDを借りてゲームをする・・・・これ、物質的にいうと、17-19世紀のヨーロッパの貴族でも中国の貴族でも為し得なかったような、物凄いレベルの生活水準なんです。分業が国際的に成り立ち物凄い余剰生産力がないと成り立たない現象ですから。たとえば、そもそも音楽とかって、近世では宮廷の物凄い限定された空間でしか聞けないものだったんですから。その後のホールで市民が聞けるようになった時代でも、個人が好きな時に好きなように聞けるなんて、そんなことはあり得なかったんですよ。比較でいえば、このころの貴族よりも、いまのパンピーの方が、はるかに生活水準は上だと思います。


こういうレベルに到達してしまった社会は、価値観の多様化が起きます。


そして価値観の多様化が起きると、「みんなが正しい」とか「みんなが当たり前」だと思える感覚が消失します。それこそが「豊かさ」なんですが、ドイツのフランクフルト学派が分析しているように、自由な選択というのは、実は、人を不安に陥れます。「自分の意思で自分の人生を決める」ことができるような「内面」を持った人間というのは、そもそも凄く少ないからです。これはデイヴィッドリースマンの『孤独な群衆』などで考察されていることですが、まー実感的に分かりますよね。マーケティングでは、差別化する商品がものすごく多様化してバロック化して選択肢が増えると、なぜかそのトップだけに選択が集中して独り勝ちが起きるという現象が観測されます。ようは「みんな」という存在は、「自分自身の意思で判断する」ということが難しいのですね。えっと、話がそれてきたんですが、ようはね、GNPが1万ドルを超えたぐらいの社会では、「はっきりとしてみんなが目指すべき目標」というモノが、よくわからないのですね。つまりは「正しさ」がよくわからない社会。こうした社会では、動機調達が困難になるようです。だって、欠乏(いってみればコンプレックス)がないから、それを埋めるための意欲が起きないんですよね。よくマクロの学説の世界では、ある程度の貧富の差や差異はあった方がいいんだ!ということがいわれます。それは、「差」による欠落感が、動機を生み出すからです。動機がない生は、地獄です。また動機がない社会は、ファシズムや戦争を求めるのも、過去の分析でよくわかっているので、社会設計上もヤバイです。とはいえ日本が経済的に絶頂を迎えたのは、1980年代ですが、それ以降の社会において、特にそれ以降の生まれの世代にとっては、そもそも動機LESSは前提なのですね。えっと、動機LESSというのは誤解を生むかな。1980年以降の生まれの若い世代も同じ人間です。動機自体が失われたわけではありません。そうではなく、1960−70年代の政治的に熱い時代と比較すれば、わかりやすいのですが、わかりやすく動機が生まれたり、それが社会で統合的なムーブメントを起こしたりすることがなくなったんですね。そして、世界は安定して、緩慢な限定戦争などの混乱はあってもおおむね、第3次世界大戦も核戦争も起きない世界になっています(起きないというのではなくて、その危機感が共有されにくい世界ですが・・・)。


そういう日常に僕らは生きている。


また1990年代は、日本という特殊事情に限って言えば、「日本が斜陽にはいった」ことが明確に意識された時代でもあります。日本はまだまだ経済的には、やれることはあるとは思いますが、基本的に「緩慢な滅び」というか内需が衰退していくマイナス成長の時代に向かっているんだ、ということを、たくさんの人が感じています。国家のモデルとしては、日本は、イタリア化もしくはフランス(南かな?)化へむかっています。仮に少しぐらいいろいろなことができても、中国の成長と比較すれば桁が違います。繰り返しますが、僕らが生きる日常とは、そういう世界です。このそもそも、強い動機が生まれにくく、沢山の人と共有感を感じられる国民国家幻想みたいなナショナリズムが成立しにくく(=常に孤独を実感する)、社会や経済が未来に広がって大きくなるような実感も嫁もない、、、、、そういった社会で、僕らはどう生きていくのか?何が楽しくて生きているのか?ってのが、この日常系のテーマの最大訴求ポイントです。上記にあげた作品は、それに対して、はっきりと答えや生き方ののモデルを提供していいます。そして、これが、200年近い斜陽(=マイナス成長)のヨーロッパ病を体験した、ヨーロッパ映画のモチーフと凄く重なることは間違いありません。まぁ、これって、悪くいうと斜陽なんですが、よくいえば、とっても成熟しているってことなんですよね。下り坂のイギリス帝国が、世界に冠たる文化やスポーツなどを次々に生み出したように、個人的には、これからの日本こそが面白いぜ!って僕なんかは思っているんですが・・・・。・・・ちなみに、『フラガール』は、素晴らしい傑作です。


話がずれた。いい加減、僕の話ってずれまくりですねー。


えっとね、物語の類型の話に戻ります。戦争と音楽という設定をした時に、ドラマツゥルギーとして何が対比されているかというと、戦争(=非日常)と音楽(=日常)というものなんですね。『血と砂』でも『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』でも同じなんですが、そもそも「音楽が好き」という感情的な部分を成り立たせるためには、時代背景上、軍隊に入るしかなかったとか、そういう限定があるわけです。ここでは、不可能なノスタルジーとしての平和の象徴として音楽があるわけです。ということは、ドラマツゥルギーが最も有効に働くためには、登場人物たちが「いかに音楽が好きか!」ということをこれでもかと表現した後に、その音楽ができない、厳しい現実を対比してやることが最もドラマを引き立たせます。もう設定そのものが、悲劇の構造でしかあり得ないんですね。最も劇的な効果を狙うのならば。


LDさんが、この類型の完成形は、『血と砂』だといったのは、この悲劇を完璧に全うしているからです。音楽学校を出た若者たちは、8/15の終戦を知ることもないまま、日本軍の部隊に見捨てられ(本隊は武装解除して徹撤退中)、ヤキバ砦を攻略する中国軍に全滅させられます。凄まじい砲弾が飛び交う中、一人一人と死んでゆき、ハーモニーだったバンドの一つ一つの楽器が、消えてゆき、、、、最後の最後のトランペットは、拭きながら絶命します。(カナターーーーー!!!!ちがうって(笑))そして、そのトランペットが終わった時に、砲弾の嵐も止みます。全滅したってわかるからなんです。それまで、音楽が好きで、銃なんか撃てない!といっていた若者たちが、どんどん戦争に巻き込まれていき、心から面倒を見てくれる情感や仲間たちと戦っていくうちに、「そこから逃げるという選択」、「その物語から退場する」という選択肢をなくしていく中で、音楽を愛したまま、それを掻き鳴らしながら全滅していく、、、、まさに悲劇の完成です。


ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』で、最後の最後でなんで全員を皆殺しにしなかったのか!という意見は、よくわかります。この類型だと、それが正しい終わり方だからです。そうでないと、わざわざ「戦争」という非日常を設定した意味が失われます。これは日常系の極致である『けいおん』のオルタナティヴ(=もう一つのありえたかもしれない現実)として描かれていて(←いいきった!おれ(笑))、そうであるならば、戦争という非日常を設定したからには、全員死んで悲劇にするか!、マヴラブオルタではないが、この世界の閉塞感をすべてぶち破る大団円(たぶん2期までかかるよそれ(笑))かどっちかを望んでしまうのは、見ている側からいって当然です。だって『けいおん』は、誰も死なないので、悲劇にならないのだから、見ている方は対比でみるのは当然じゃないですか。とはいえ、悲劇に対する「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」で解決されることを望んだ古代ギリシア人のように、悲劇のドラマツゥルギーに慣れ切っている観客にとっては、逆にその「ハズシ」で全員残るというカタルシスを見たい、というのもわかります。だってカナタ死んじゃやだもん、確かに。


まぁ正直どっちでもいいちゃーいいんですが(笑)、LDさんがこの設定を見た瞬間に、『血と砂』だ!と連想するのは、物語に慣れている人からいうと、当然だということを延々と言いたかっただけです(笑)。そして、ここに現代の物語類型の、ある種の構造が隠れているなーと僕は思ったのです。というのは、ラジオで『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』には、『けいおんオルタナティヴ』を期待するんだよ!って僕は叫んでたんですが(笑)、日常系と非日常系って、物事の裏返しなんですよね。


上記でいうような動機LESSな社会で生きている我々には、この動機がない社会で「動機を調達するような強い欠乏や目標がなくても楽しく生きていく」という作法を知りたがっていました。90−00年代の日常系の女の子たちの空間というのは、その極致なんだと思います。『けいおん』とかあずまきよひこさんの『よつばと!』(これは大傑作!)なんかは、それに対する答えなんですよね。過去の作品では、新沢基栄さんの『ハイスクール奇面組み』やゆうきまさみさんの『究極超人あーる』なんかありましたが、これらはまだ男の子が主人公でした。


でも、目標や夢がない社会には、たぶん少年はいらないんですよね(苦笑)。世界を変える必要がないから。


しかしながら、上記で言ったように、アージュの『マヴラブ』と『マヴラブオルタネイティヴ』がまったく同じキャラクターに日常と非日常を設定したように、見る側の欲望としては、やはりそうはいっても両方の嗜好があるんだと思います。理由は簡単で、『けいおんオルタナティヴ』があると想定したほうが、より『けいおん』が美しく輝くからです。先程の、悲劇の構造と同じです。・・・・そう考えると、今後の物語の領域ではやるのは、悲劇なのかな・・・・。むー。いやそう簡単じゃねーな。。。。このへんは考察に値する。いまの時代性は、どうもねー女の子たちの日常(=動機LESSの世界でも世界の輝きを体感して生きる)に拠っているようなんだよね。というのは、宮崎駿ではないけど、やっぱり少年が、おれは勝つ!!とかいうのは、なんかはやらねーもん(とかいっているけど、おれ『ワンピース』読んでねーんだよな)。いやでもまてよ、『ベイビーステップ』みたいなのもあるか・・・。うーむ。でも、そうか、、、百合モノを何となく沢山見るのは、作り手側がそういうことを考えているのかもしれないなー。女の子たちだけで戯れる日常系のはやり。。。・・・・いまハーレムメイカーよりも百合の方がいいように見えるもの・・・・。でも、どうだろうなー百合はなんか違うなーと思うんだよなー。上手く言えないけど。ここちょっと個人的な付箋。だって、それならば『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』なんかつくられるはずないもん。そもそも。。。。


閑話休題


まぁ、わかんなくなったので(いつもぐだぐだですんません・・・・)、軽くまとめると、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』ってのは、やっぱり位置づけとして『けいおんオルタナティヴ』になってたと思うんだよね。だって、あの時期の新やアニメ枠を見る人って、まず『けいおん』みてるもんね。ましてや作り手が意識していないとは、絶対言えない。とはいえ、主と従でいうのならば、やっぱりメインは、『けいおん』なわけだ。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』が、骨太の悲劇として「全員死ぬ」という悲劇に終わらせなかった時点で、物語の展開としては、日常系が勝っている。しかしながら、『けいおん』だけしかないってわけでもないところが今の現状なのだろうなー。


血と砂』は、やはり時代背景的に骨太の物語ですね。・・・・なんというか、非常に観客のカタルシスを中心に組み上げた脚本で、キャラクターよりやはり物語上悲劇の構造に忠実に全員皆殺しにしたところは、素直な脚本だなーと思う。非常に裏切らない。LDさんが、あれが、戦争と音楽の理想形というのは、非常に分かる。この時代は、たぶん、悲劇を描写することの方によりリアリティーを感じる時代であったのだろう。過去の記憶があるので、オルタナティヴを描く必要がそもそもない。また、激しい競争社会(=未来が輝いている成長の時代)なんで、裏返しの現実の厳しさや悲劇を描く方が、より意味があったのではないだろうか。


とかとか、無駄な考察でした。


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