2010年10月10日
文芸春秋10月号、江川昭子さんがまとめた村木厚子さんの手記を読んだ。
事件の経緯だけでなく、村木さんが生きてきた道が丁寧に描かれていた。
村木さんは検察で嘘の調書を強要され、抵抗し続けてきた拘留期間に、こう考えたという。
「検事の土俵にいる限り、私が勝つことなんてありえない。だとすると、やらなきゃいけないのは負けてしまわないこと」
そのために村木さんがしたのは「目標を低く設定すること」だったという。しかも驚いたことにその目標はたった二つ、こういうものだった。
「体調を崩さないこと」
「落ち込まないこと」
とてもよい話だと思う。過酷な状態を生き抜くの基本なんだろう。検察に拘束されているという特殊な状況だけれども、それは凝縮しているだけで、社会の役割に「拘束」されている僕らの人生や日常も同じだと思う。超がつく優秀で真面目な先輩や上司が、長い期間で鬱になって壊れてしまうのは、結構見たが、こういう人たちはそもそも人生における「目標が高すぎる」…というか、地に足がついていない目標は人の心を狂わせるのだと僕は思う。もちろん孫正義の『高い志を持て』というのは、成長のためには必要なことではあるとは思う。けど、これ決して対立するものではないと僕は思うよ。
人生はバランス。適度に手を抜いてあいまいに考えて、目の前のコントロールできることだけに注目する、というのは、生きていくで必要なモノだと僕は思う。そして、長い成長の道をあきらめないで、壊れないで(←これ重要)生きていける人は、そもそも、「目の前のコントロールできるレベルでの目標設定」に慣れているんだと思う。そうでないと、高すぎる目標につぶされてしまう。(A)「志(=自分ではコントロールしようもない遠い目標設定)」の次元と、目の前の生きていくための、一歩、、、もしくは(B)半歩「前へ進む(=これが実は凄い難しいことだ!)」ことは、両立するものの、全く別次元のものだ。健康に生きるには、この(B)がちゃんと積み重なって、帰ってくる「手ごたえ」を感じていきている人だと思う。
「手ごたえ」って?
簡単だよ、空気がおいしいかい?。歩くのが楽しいかい?ご飯がおいしいかい?睡眠時間が気持ちいいかい?・・・・案外そんなことを、ちゃんと「大事なモノ」として一歩一歩確実にこなすことを人ってしていない気がします。そういう手ごたえがない人は、「志」なんか叫んでも、きっと言行不一致で、鬱になるだけだと僕は思う。世界を楽しめない人は、動物として不健全なんだもの、そもそも。
ふと、『夜と霧』を思い出しました。