『正欲』2023 岸善幸監督 多様性という名の「正しさ」への告発

評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★☆星4つ半)  

不思議な映画だった。朝井りょうさんの原作は、未読です。マイノリティを描くLGBTQテーマなのかもなと思ったが、全然違った。マイノリティとマジョリティという対立の軸で言えば、


検事である寺井啓喜を演じる普通の人代表の稲垣吾郎(マジョリティ) VS  地方在住で生きるのが苦しい桐生夏月を演じる新垣結衣(マイノリティ)


という軸で、この映画は語られていく。しかし、そのどちらも息苦しく不快で、しんどいのは、かわらない。マイノリティが自由に生きられる社会というのは、たぶん、誰もが理解不可能性の中で怯えて生きる社会になるのだろうなぁというのがこの映画を見ていて思ったことだ。特にこの映画で扱われている「水」に対してしか性欲を覚えないという感覚は、正直、想像するのが非常に難しく、フェチの対象としても「物理性」が少ないので、どう対応していいのかが、最後までよくわからなかった。


この「よくわからなさ」と、ずっと付き合え、というのは、自明性の中で穏やかにいきたいという人間に対して、常に重苦しく生きろと強要するようなもので、なかなか難しいだろうなと思いました。また、この「物言い」もかなり厳しいよなとも思います。「自明性の中で穏やか位に生きる」というのは、基本的にマジョリティの特権で、マジョリティが平穏に過ごすためにマイノリティは表に出るなと言っているようなものですからね。かといって、万人が、常に自明性を崩されながら生きる社会ってのがどんなものか、僕には想像が今の所できません。もちろんパラダイムというのは、常に移ろいゆくもので、コモンセンスは、変化していくのでしょうね。


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🔳多様性という名の「正しさ」への告発

私たちが“多様性”という言葉を使う時、もしくは耳にする時、それは人種や宗教、年齢、肉体的・精神的な障害のあるなし、あるいは性的指向など、様々な意味を持つ。
だがしかし、現在語られている多様性は本当に多様なのだろうか?
見えやすい、もしくは自分の想像できる範囲内の多様性になってしまってはいないか。
多様性という言葉とは裏腹に、そこにはある種のマイノリティのステロタイプが出来上がっていて、そこに当てはまらない人たちがが抜け落ちてしまっているのでは?という危うさがある。

ノラネコの呑んで観るシネマ 正欲・・・・・評価額1750円

ノラネコさんがこう書いているが、僕も同感。多様性の話をするときのなんとなくいやらしさが、その多様性称揚というカテゴライズも、「自分の想像力の及ぶ範囲内」というエゴイステイックな独断と偏見で線引きを決めている「線引き基準を勝手に支配する」傲慢さが透けてみるからだろう。


この線引き基準を、さらに曖昧にして、感情移入を拒むことで、観客が、勝手な線引きをしてLGBTQとかに自分は理解があるんだと思い込めるような安易な逃げ道を許しませんよ、という怖さを感じる。


さすがに、水に欲情するというようなマイノリティだと、それに対して「どう判断すれば正しい態度かという先入観」が持ちようがない。観客はニュートラルに引き戻されて、あなたは、これに対して、どのような評価を与えますか?という「考え続けることの強要」を迫られることになる。



🔳映画は人を告発する権利があるのだろうか?〜かなり人を選ぶ映画だと思う


嫌いな人は嫌いだろうなと言う映画。なぜならば、これは、僕の分類で言えば人を挑発して、告発するものだからです。

本作も予告編を観た時は「LGBTQモチーフか」と思ったが、全くアプローチが違った。
この作品が秀逸なのは、情報も多く、先入観を持つ人も少なくないメジャーなマイノリティ(と言うのも変な話だが)ではなく、ほとんどの人が判断基準すら持たない、マイノリティの中のマイノリティを俎上に上げることで、観客の意識を完全にニュートラルにしてしまったことだ。

ノラネコの呑んで観るシネマ 正欲・・・・・評価額1750円


ある意味、この映画は、告発の映画だと思う。観客に対して、激しく攻撃的だ。


稲垣吾郎が演じる寺井啓喜は、いわゆるマイノリティや自分が歩む社会の正道、本道、王道に対して、それを遮ったり、汚してくると思うものに対して、嫌悪や忌避感をいだく。こういう感性は典型的でよくあるマジョリティ的な思考だと思うのです。これだけわかりやすいと、これを告発して攻撃する姿勢は、わからなくもない。自分の息子が不登校になり、学校に行きもしないくせに、Youtubeのような訳のわからないもので、いいねをもらい楽しんでいる。そんなのは、人生の無駄遣いにしか思えないのだろう。まぁ検事という職業につくために、ずっと受験勉強で、成功した道を歩んできたのだろうから、そう言った「新しい変化」についていけないのは、よくあることかもしれない。


ただ、僕は最近、「このマジョリティを告発解体する姿勢」だけでは、なんだか、「時代的に少し遅れている」というか、それだけじゃダメなんじゃないかって感じがします。『正欲』は2021年ですので、この辺りのパラダイム変換の際のような気がします。というのは、私はアラフィフですが、あまりに世界や社会やテクノロジーが早いサイクルで変化し続ける上に、さらには、「長寿」という長く生きてしまうというファクターが加わる現代では、「変化しないで自明性の中に微睡む」というのが、もうほぼ不可能な時代になっていると思うんですよね。だから、きっともうあとひとサイクル、10-20年くらいで、こういう変化や差異に対する恐怖や忌避、嫌悪ってなくなる気がするんですよね。。。ここは重要なポイントで、昨今のアメリカのトランプさん現象とかを見ていると、なくならずにもっと激しくなるのかもしれません。とはいえ、「マジョリティを告発解体する姿勢」によって、社会が良くなるかというと、逆になっていく気がするんですよね。これまでは、マジョリティは、「そんなことは見なくないと目を塞いでいた」ので、それを告発して、解体して、直視しなければいけないのは、大事なことでした。でも、そもそもそういうのが前提の社会になった時に、攻撃だけしていては、「揺り戻し」が大きくなるだけなんじゃないの?という気はします。この辺、最近考えていることです。


🔳参考

『桐島、部活辞めるってよ』の監督さんでもあるんですね。まだこの傑作を見ていないんですよね、早く見なければ。

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