『マブラブオルタネイティヴ』 その3 自意識の告発~レイヤーごとにすべての次元でヘタレを叩き潰す

マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

評価:★★★★★5つ 傑作マスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ傑作)

その1 アージュ素晴らしいよっ! 人が戦う理由がすべて詰まっている!
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/130051
その2 日常と非日常の対比から生まれてくるキャラクターの本質
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/131345
その3 自意識の告発〜レイヤーごとにすべての次元でヘタレを叩き潰す
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/131924
その4 クーデター編は、日本のエンターテイメント史に残る傑作だ!
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/132238
その5 多選択肢の構造〜なんでも選べるというのは本当は虚偽なんだ!
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/133027
その6 冥夜があれほど気高く見えるわけ/虚偽問題に騙されるな!
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/135114
その7 夕呼博士の全体を俯瞰する視点〜真の支配者の孤独
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/10/141110
その8 あいとゆうきのおとぎなし〜多選択肢から唯一性へ
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/04/13/011540


■もくじ

①日常と非日常の対比構造から生まれてくるキャラクターの本質の輝き

 -1)マブラブのアンリミテッド編まで製作者側の意図の気づかなかった
 -2)これほど大がかりな永遠の楽園からの追放劇はめずらしい
 -3)非日常とは本質が浮き彫りになる劇空間~本質は死を目のあたりにしないと見えない

②自意識の告発~レイヤーごとにすべての次元でヘタレを叩き潰す
 -1)主観を通した演出手法~ノベルゲームという媒体の限界を前提に
 -2)根こそぎ自意識の根拠を削り取る~なにが製作者を突き動かすのか?


②自意識の告発~レイヤーごとにすべての次元でヘタレを叩き潰す

-1)主観を通した演出手法~ノベルゲームという媒体の限界を前提に/コックピットの中の臨場感~主観に閉じ込められた箱の中で戦場で放り出されること


オルタではついにタケル念願の戦術機(モビルスーツのようなもの)に乗ることになる。このあたりから、ああこの演出うまいなーと関心するようになった。あのですね、僕らパソコンのゲームをする受け手は、「パソコンのモニターに座席に座って世界を覗き込む」形になっているわけですよね、物理的に。簡単に言い換えると、席に座ってモニターを見ているわけだ物理的に。そして、タケルも戦術機の中で、モニター(っておいっても網膜転写画面だが)を見て外の世界を眺めている。物理的に視点の在り方が一致しているんですね。BETA(人類に敵対的な地球外起源種のこと)に対する恐怖とか、閉じ込められたコックピットの閉塞感とか、通信が途切れた時の孤独感とか・・・物理的にモニターを見ている受けてと同じなので、演出が冴える冴える。夜中に一人でやっていると、まるで自分が運転しているような気分になれる。同じように、座学で軍事教練を受けるときも、まるで自分が訓練を受けている(実際に基礎知識の訓練なのでまさに講義なのだが(笑))ような気分で、何とも引き込まれていった。何がいいたいかというと、この作品はパソコンのモニター画面を見ながら、主人公の白銀武の独白・内面の言葉だけを読みながらすべての物語が進みます。いいかえれば、主観の「私は…」のみで、第三者的視点による神の視点がゼロで話が進むのです。そしてそれが徹底している。

物語の主題が、タケル(=われわれ受け手)の主観の在り方に揺さぶりをというか破壊することが目的のドラマなので、この形式は非常にはまる。ノベルゲームという制約上、「文字を読むことでそのシーンの意味を理解する」というものがあって、アニメーションのように「そこで動くモノそのものを見れば説明自体はいらない」という神の視点(第三者の視点)が描けるという条件の広さを持たない。しかし逆に、アニメーションでは、たとえばエヴァでもガンダムでも戦闘シーンは、第三者の目で見ていれば、そのフィールドで何が起きているのかは一発でわかる。しかし、ノベルゲームでは、操縦者の主観とモニターしか見えないから、そのバトルフィールドの全体像は分からないのだ。そして、そもそも軍事における一般兵卒の視点とは、常に後者だ。そして、だからこそ戦場ではパニック続出するし、指揮系統が崩壊すると全軍が総崩れになったりするのだ。何が言いたいかというと、このノベルゲームの制約条件を、非常に秀逸に意識して演出しているので、臨場感が凄くあったということ。戦闘シーンは、アニメーションでないが故のちゃちさがある。しかしそれを補ったりあまりある臨場感があると思う。もしお金がふんだんにあって、アニメーションで演出を入れることができたらもっと凄かったかもしれないし、逆に臨場感が失われたかもしれない。そもそもOPの明星作戦でのハイブ突入シーンのアニメーション(by吉成鋼さん)は、凄いクオリティだしね。



この演出は、そもそも「主人公(=われわれ)の意識・主観のヘタレ度合いを解体・告発する」という最終的な脚本上の目的に対して、この演出はマッチングがいい。どんなに「おれは勝つ!!!」とか意識していても、戦争でパニックになり、自らの手を汚せなかったり、恐怖で動けなくなったりという・・・・言葉ではなく、主観の一致で主人公のう感情の動きを追体験させた上で、、、、





「ほらっ、おまえの「おれは勝つ!」なんて言葉嘘だったろう!!!。言葉でなんか人は変われないんだ!!!」





という、告発が繰り返される。これは、心身を消耗させる鬱展開だ。しかも、このウハウハエロゲーで好きな子とか優しい心を預けた先生とかが、目の前で怪物に食い殺されたりするんだぜっ!自分のへたれ度合いのせいで。マジ鬱な展開です。いや見事です(笑)。



口で叫ぶことなんて、99%がウソにすぎないんだってことを告発する(苦笑)。



-2)根こそぎ自意識の根拠を削り取る~なにが製作者を突き動かすのか?

「episode6:忘蜀の下界」のクーデター編まで来ると、わかったことがある。これは・・・・「自意識の解体」系列の物語り類型なんだ、ということ。タケルって、「前の世界」で職業軍人を経験しているので、オルタの世界ではかなり優秀なんだよね最初から。圧倒的なの。そりゃーそうだよ、仮にも訓練終えて3年間も正規軍人を経験している上に、人類の地球放棄や滅亡まで体験しているので覚悟が違う。けど、、、実は、最前線で戦ったことも、人類の存亡をかけた責任を背負う立場であったわけではなく、そういった優秀さは、どんどんそぎ落とされていくことになる。もう見事に、順序よく、その「自信」の根を、根切りしていく。本当に教科書のように順序が見事。 この最初がその第一段階。



episode1 去りにし日々の光


episode2 兵士よ問うなかれ


episode3 島をゆく


episode4 報いなき栄光


episode5 家路



総合戦闘技術評価演習というUNLIMITED編では、バラバラだったチームが一つになるための山をひとつ越えてタケルが信頼される迄を描いたシーンは、圧倒的にタケルが周りを引っ張っていくことになる。最初の時点で、人類が滅亡したこと、そして自分が大切なもの(その時愛していた人)を守れなかったという巨大な喪失感が、彼を動かす動機となっている。



「目的があれば人は努力できる」



というのは、冥夜に語った言葉だが、これは明確な目的持った人間の強さを描写している。そしてタイムスリップものによくあるように・・・・マンガでいるうと『代紋TAKE2』(SFヤクザ漫画。原作木内一雅、作画渡辺潤。)とか、今泉伸二による「週刊コミックバンチ」で連載していた『リプレイJ』のような作品をイメージしてもらえばいいだろう。ダメ人間が、既に未来を知っている状況で過去に戻って大成功するという話のパターンだ。このことについて、ヒカルの碁をベースに下記のような告発を僕は書いている。

リプレイJ 1 (BUNCH COMICS)


■卑怯な全能感覚を推奨する倫理的な汚さ

代紋エンブレムというヤクザ漫画をご存知であろうか?駄目ヤクザがへたをうって、殺される直前に、数年前の自分にタイムスリップしてしまうという作品です。人生の選択を間違え、失敗者・落伍者・カス(笑)として殺されそうであったのですが、過去に戻った主人公は、自分自身の人生のミスを全て知っています。だから、その逆を行なうことだけで、どんどん成功できるわけです。

代紋<エンブレム>TAKE2(1) (ヤングマガジンコミックス)

この手の話が多いなと、2年ぐらい前に思ったことがあります。これって「人生をやり直したい」という願望が、広範囲に広がっているということなのかな?とか思ってみていました。連載された長さからいっても、相当の人気だったことが伺えます。主人公は、成功の階段を登ってゆき、しかも失敗の反省があるからとても謙虚で冷静です。思わず、成長物語だ!と思ってしまいます。ただ、この手の作品は、ビルドゥングスロマンとして、決定的な倫理的問題点があります。それは、自らの自由意志が失われているのです。(←2007年でいいところついているなーと我ながら思う。この後、なろう系の小説で、異世界転生で人生やり直し系の物語が拡大していくことになります)。主人公たちは、ただ単に失敗(自らの過去の決断)の反対を、予定調和的に反復しているだけで、未来は決まっているという安定した世界観を生きています。つまりね、ナルシシズムなんです。自分の鏡を見て、自分でうっとりするような閉じた満足の世界で、逃げているのです。

ただし、ここで卑怯と書いているように、タケルその自信その覚悟・・・・その動機は、「既に未来を知っている」というナルシシズムの全能感によって支えられているもので、決して本物ではありません。ただ、これらのエピソードは、とても気分がいい。リーダーとしてもプレイヤーとしても圧倒的な優秀さ(それやーそうだ一度経験しているんだから)でまわりから信頼され称賛されていくこと、、、そして明確な目的を持っていることが現実に与えるプラスのフィードバックの快感。なんてナルシシズムをくすぐるのでしょう。・・・・・タケルの目的は人類を救うこと。だから、「前の世界(=アンリミテッド編)」と同じことをしていてはだめで、次々とおこった出来事を変えていくことで、彼は自分の知らない未来に足を踏み出していきます。この後、実はここで彼が抱いた「人類を救おう」という目的意識や使命感が、いかに根のない甘いものだったのかを、徹底的に切り崩されることになります。理由は簡単です。未来を知っていることで成功していたものが、知らない未来が訪れれば、もう一度、「何が起きるかわからない不安な未来へ」飛びこむ勇気と、その結果が最悪ものでも自分が責任をとって受け入れなければならない(=失敗は許されないのに)という恐怖を前に、精神が追い詰められていくからです。



そう、「人類のため!」とか、御大層なお題目は、人間の動機とはなりえないとバッサリ切りとられるのです。それがさも価値があったのは、状況が有利であっただけ(=未来を知っている)で、過酷な選択肢に追い込まれたりするだけでこの覚悟の虚偽が告発されます。よく戦争が始まるときに、「国家のために!とか大義のために!」とか叫ばれますが、そんなものでは絶対に人間は動機を維持し続けることができないということです。



そこがとても演出が、秀逸。



それは、ナルシシズムの甘さが否定された後でも、マブラブのアンリミテッド編の時のように、目的がなくただ状況に流されているとのと、目的があって努力しているのでは、すさまじいほど世界に当たる影響は違うということが受け手に痛切に意識されるからです。仮に、未来がわからない恐怖の世界でも、目的と意志を貫徹しなければ、状況(=マクロの外部環境)は全く微動だにしないのだ、とわからされてしまうからです。これでもう、アンリミテッド編の主人公の心の在り方は全否定です。だって、アンリミでは、地球は滅亡してしまうのだもの。どんな理由をつけても甘えても、そこに正しさはないです。だから、ここでのいったんの結論は、こう。



人生は、不確定な未来へ踏み出していく勇気が必要で、その勇気を持つためには、「なんのために?」という目的意識が必須である。目的がなければ状況というマクロの奴隷と成り下がるしかない。しかしながら、前へ踏み出した結果、自分の意図ととはほど遠いような悲惨な結果になることは常にありえて、その結果をすべて直視して受けいれる責任と覚悟も同時に要求される。つまり目的意識と、その結果という現実を直視して受け入れる責任と覚悟は、ワンセットで必要なのです。



人間は、何も保証がないところで、自らの目的意識(=意思)を試すしかなく、その結果はすべて引き受けなければならないのです。それが世界の理でありルール。おいしいところだけはもらえないのです。



ちなみに、のちのエピソードで伊隅みちる大尉(タケルのA-01部隊の指揮官)が、アメリカ軍の調査で、人が戦争で「何のために戦うのか?」という実証調査をした時に、国家、家族、恋人のためというのはほとんどなかったという結果が出たことを何度も繰り返します。全世界規模でのその調査は(たぶんこれ実際にあった話じゃなかったかな…たぶん…聞いたことがある)、戦争で戦う一般兵卒のほとんどが、「自分の横にいる戦友に恥ずかしくなく、彼らの死が意味のないものにならないように」・・・・「傍にいる仲間のため」に戦っていることがわかりました。

国家の大義の善悪「にもかかわらず」、戦争という巨大な渦に巻き込まれた個人(兵士)は、必ず国家の駒として裏切られること、、、その中で最後に信じられるのは大義ではなく、仲間であるという「ただのシンプルな事実」を描写しているだけなんです。


このテーマは、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗/Flags of Our Fathers』の批評で書きました。テーマや語りたいことはまったく同じです。

父親たちの星条旗(字幕版)

そして、人類の滅亡の回避!という武の目的意識は、お題目としては正しかったのですが、それが自分自身の直接的な行動や過酷な現実を受け入れるためには何の役にも立たない遠い言葉にすぎなかったことが告発されます。



さて、次にくるのは?。



では、何の役にも立たない高次の公の理念(=人類を救う)とかではなくて、もっと直接的で、タケル自身の動機を維持させるものをさがなさければなりません。レイヤーごとにヘタレを叩き潰すということは、タケルが信じていたりするものを、一つ一つ明確に執拗に、誰にでもわかるように(ああ受け手をバカにしている!(苦笑))うざいぐらい執拗に描写を丁寧(というか偏執的)にするのです。いやーちょっと冗長ではあるが、感情のダイナミズムのボタン(=動物的快楽のボタン)がうまい演出力でやられるとひきこまれるのだよね。結果として、万人が心を解体されていく(笑)。ちなみに、タケルが苦しさで逃げ出した後の否定は、正直すさまじいものです。いやーそれはやりすぎですよねぇ・・・・・つか、酷過ぎ(笑)。シンジくんがかわいく見えます。この辺から常に、タケルのようなヘタレが、いったいどんな信じるモノを失っていくのかということを、注視するとなかなか興味深い。しかも、それにもかかわらず、タケルは前へ向かいます。(いや決定的なところで逃げることは逃げるんだけれどもね・・・でも逃げるのが許されない・・・)。前へ向かうのは、どんな理由かも明確なので、そこらへんがうまいなーと思う。



そして、大義やお題目ではなくて、戦う個人的理由が欠如しているタケルには、ギリギリのところで、信念に根がない。だからクーデター編のepisode6 忘蜀の下界で、自分が手をよこす直接的な状況になった場合、彼は動けなくなってしまいます。



・・・そこで、タケルは、自分の根がない信念に・・・言い換えれば覚悟のなさに打ちひしがれます。主観ベースの演出で主人公と一体化している我々はここで、同様に打ちひしがれます。かっこよく人類のために!とか言っていたことがすべて嘘として否定されるからです。今後もそうですが、ひたすら、、、行動する理由(=動機)を見つけ出して何とかやれそうだ!と思った瞬間にそれが、間違っていたことを徹底的に暴露されます。しかもそれによって親しい人が死んだり。)いやーーー(笑)。厳しいですねー。



ちょっと先走りますが、マブラブのUNLIMITED編とALTERNATIVE編のepisode1~4くらいで彼は戦う理由を見出します。もちろん、それは、EXTRA編での甘えきった日常の否定によってもたらされます。しかし、その戦う理由(人類の滅亡を救う)は、理由としては弱いものでした。戦争などの極限状態で自分の意思を発揮するには、薄すぎるのです。自分手が汚れるという直接的な状況で彼は手が下せませんでした。この時の対比は、煌武院悠陽と御剣冥夜の指導者としての覚悟の対比で語られます。そしてこのクーデター編がタケルへの覚悟のなさの告発であるのですが、その理由はナショナリティーで語られます。「この世界」を生まれ育ったホームだと感じられない彼には、この世界に対しての執着がないのです。そこで生まれ育った強い過去や習慣との結びつきがない人間には、その土地・ホームを守る執着が弱いのです。これは、異世界にファンタジー・シュチュエーションそのものに対する告発ですね(笑)。



あとで、このクーデター編はもうちょっと分解したのですが、ここでの主人公の自意識への告発は、いやー見事。見事に足元から切り崩していて、感動した。



このあたりは別途書くとして、なんで、ここまで根こそぎ自意識の根拠を削り取るのでしょうか?。なにが製作者を突き動かすのか?これは不思議に思います。この作品の本質は、自意識の告発です。いや正確には本質ではなくて、本質のメッセージを示すためには全編にこのことを徹底しないと意味を失う構造になっているのです。ちなみに、この辺りは、サトウナンキさんときづきあきらさんの物語群が、うまいなーと個人的には思っています。

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自分自身に自信が無い人間は、他者の自意識の脆弱性を告発することによってカタルシスを得るんです。そして、それはまた世界の真実でもあり、読者のほうも、そういったイタイ存在である自分を告発されて、安堵するという側面もあると思います。自意識の告発は、自意識の解体への志向というのは、80~00年代までの基調低音です。それは、これまで「大きな物語」というマクロに隠されていた個人が自己主張できる「歴史の終わり(byフランシスフクヤマ」以後の世界、まぁかっこよくいえば晩期資本主義の世界での多様性(ダイヴァーシティ)の表れなんだと思います。役割や肩書や大きな物語というものでごまかされて隠蔽されていた「個人の内面」というものへのクローズアップ。そしてそれがカタルシスを持つものであり、「いままで見たことのなかったもの」であったということは事実です。文字の世界でという意味ではなく、それが大衆の広い層に共有されるという意味で。個人の内面の話題・・・・自我の確立や主観の屹立などの西欧近代資本主義の基本エートスは、アジア社会では徹底的に一部のハイエリートたちのものでした。日本でいう帝国大学なんて、大正時代や明治でなんて、0.うん%レベルしか人口比でいない最高エリートなんだから。それが現代のように、その世代のほとんどの人が見る…しかも見る基準が好き嫌いで済むとうローコスト状況では、敷居が死ぬほど低くなるのは当たり前です。




けど・・・・・たとえば、その時代の雰囲気の極まったアニメーションや劇場版の『新世紀エヴァンゲリオン』とそれに続くフォロワー作品を見ていると、、、当時の新規さが当たり前か…自明化するにつれて、こう思います。いつまでウジウジ悩んでんじゃねーよっ!って。動機が消失して、何が正しいか何が悪か二元的にわからないのなんて、そんなの人類有史以来の真実なんですよ。別にいまさらの話だ。そんなことのいちいちアダルトチルドレンみたいなことやっているんじゃねーってさすがに10年近くたつと、思います。(←2007年で、このヘタレ自己の告発系統からの脱出願望が広がっていくことは、いい予測だったんだなーと思う)


petronius.hatenablog.com


ちなみに、この時はペトロニウスは、岩井俊二監督の『式日』の大竹しのぶさんの演技についてコメントしていた。岩井俊二監督のだけれども、主演がなんと庵野秀明さん。どんだけ、庵野さん凄いんだよって感じ。ただ脚本としては、エヴァンゲリオンアダルトチルドレンなどの言葉が氾濫した時代を過ぎてみると、心の傷を、幼少期の思い出や「母」に還元するのは、もう飽きたよ・・・という気がしてしまう。大竹しのぶさんは、演技うまかったけどね。

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これは普遍性のある「オチ」ではあると思うけど。。。



90年代の日本の作品ってそればっかりだったじゃないですか。みんな親が悪い、とか子供時代の虐待や寂しさのせいで心に傷を・・・で物語を回収するのではなく、その次を庵野監督ぐらいの人には、考えてほしいなぁ、と思います。 ・・・・まだ描けていないけどね。(←2020年の今から思い返すと、この時点で、苦悩して庵野秀明さんが、このテーマに、鮮やかな回答を見出しているのを見ると、さすが、とため息が出ます。)


シン・ゴジラ


petronius.hatenablog.com

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本当は、、、、、そういった「何が正しいのかわからない」中で、どう世界に意思するのか?。その時の根拠は何か?ということに答えを出さないと(=決断主義)いけないのだ。



しかしながら、安易な決断主義や強度(=テンション)に逃げるのもダメだ。それは不毛な袋小路だからだ。なぜならば、「何が正しいかわからない」というのは、マクロの要請であって、マクロの外部環境というのは内面とは「まったく無関係」に存在しているからだ。そのことの厳しさを描かずに、安易にセカイと内面が接続してしまっては、、、、物語という尺が決まった表現媒体の制約上その手法自体は仕方がないのだが、「そんなに現実はあまかねーよ!」って思っていまう。



さて、オルタはこの命題をどう読み解いたのか?



この作品のタイトル『マブラブ』…なんか変な名前だが・・・・言いたいことは、マブ(=真実)のラブ(=愛)ってなんですか?って問いだ(笑)。



これは重いよ。



だって、これはウハウハ楽園でどんな女の子も選べるエロゲー世界の極まりのアージュワールドでこの問いを発するわけだから。しかも、オルタ編では、世界のマクロから限りなく自意識を告発解体させられて生きる意志を奪い取られそうになる。



その中で、、、、逃げないで、「そこ(=真実の愛)」にたどり着かなければならない理由は何なのか?ってことを、言葉ではなく体感で示さなければならないのだから!!!。


その4に続きます。