憧れが器(スケール)を変えていくという話。そしてスケールは、努力によって、変化していくんだっていう話。

今週のネギまは、よかった。

というのは、成長するということの、本質が描かれた気がしていたからだ。

しかしながら、実はこの漫画、少年漫画の成長路線として大きな問題点を繰り返していた気がする。それは、「ネギが、天才であった父親の器(スケール)には及ばないんだ」、という現実が何度も何度も後半から繰り返されるようになるんだよね。何をいってるかとというと、『天才じゃない』って繰り返しているんだ。苦悩する主人公である、かつ非常に頭がよくて「論理的」であるネギくんという少年は、いってみれば小利口な主人公なんだよね。そして、往々にしてそういう人物は、器(スケール)が小さい。小利口で、頭がよく、論理的というのは、一言で言うと「なんでも常識のレベルで物事を考えてしまいがち」ということだ。

こういう人間は、常識から考えて「出来うること」としかできないと考えてしまいがちなんだ。SomethingOrangeの海燕さんが、言及していたら「あきらめたらそこで終わり」という話に通じるんで、「あきらめやすいタイプ」なんだよね。苦悩する、というのは、もちろんあきらめたくないのだけれども、「それ以上のビジョンを頭に思い浮かべることができない」・・・いいかえれば、やはり器(スケール)が小さいということ何なんだ。


けど、このネギの器(スケール)が小さい、というエヴァの言及の後の、アルの言葉がこの主人公の成長の動機の構造をすべて解き明かしてくれる。



「彼の父親への思いの大きさだけは本物だと思いましてね」


そうこれなんですよ。僕のブログをずーっとずーっと読んでいてくれる人には、成長やビルドゥングスロマン、はてまては現実の自分を支えるものは、何かへの憧れなんだ!(とくに特定の人間やロールモデルへの過剰なコミットなんだ)という説明が何度も出てきていることが分かってもらえると思います。そう憧れなんですよ、人を本当に成長に導くものは。


実は人間は、過剰な成長を求めるときには、「どこをその到達地点とするか?」というエンドの設定問題があるのですが、そのエンドは、往々にして目標やVISIONと呼ばれます。けれども、そういう「自分で設定した目標」や「言葉で小利口に作ったVISION」は、ダメなんです。

なぜかって?。それは、具体的に等身大の「どう行動すればいいかのヒントや手触りがほとんどないから」です。僕は、憧れには、具体的なロールモデル(=人物)がいるというとも思っていますが、それがないと、ようは本当に壁や現実にぶつかったときに、「そんな不可能なことが本当にできるんだろうか?」とか「一体具体的に何をすればいいのか?」ってことが、分からなくなって、、、やっぱり無理なんだ、、ということになってしまうんです。


けれども、憧れの人が現実にいれば、これはまったく変わります。「あの人ならこうしただろう」とか「あの人にはできたんだ」という風に具体的に思考が柔軟化的に変動するからです。


さて、ここで実は大きな落とし穴があって、これは以前、さすがと唸ったのですが、評論家のいずみのさんが、ネギま、というよりも赤松健さんの過去の作品である「ラブひな」の構造的な欠陥として、憧れの人に「ただ同じようになればいい」という設定をしてしまった点で失敗してしまった、というようなことを言っていたと思います(僕の理解が違っていたらすみません)。このコピーは、同じ劣化しか生まないのと、手段の変動を認めなくなってしまうんです。つまり、違う理路、違う成長路線をとだって、同じ目的に達するという多様性の否定なんです。


これは現実の世界で憧れをベースに頑張っていると、はっきりと起きる苦悩なんですが「自分の憧れるような人と同じようにはできない!」という苦悩が降りかかるんですね。


まぁーそりゃスケールが違う人を目標にするんだから、できっこないんですが、、、ここでどう考えるかというと、「人の本質や強みや手持ちの武器」というものは、生得的に決まっていて、ここにバラバラなものだということが分かってくるんです。つまり、目標は同じであっても、そのプロセスやそこに至るための方法論がまったく別になってしまうということが、頑張っているとわかってきてしまうのです。これなにをいうかというと、異なる言い方でいいかえると、「目標は同じでも」、やり方は「自分の頭で試行錯誤して考え出すしかない」ということです。これは二つの意味をもたらします。それは、「先例」が役に立たないという恐怖感と、いつまでも続く不安感との戦い。そして同時に、すべてが新しいことだと感じる、インプロビェゼーション(=これはいま一度しかない唯一の時だという感覚)の手ごたえの実感。


僕にも、会社に入りたてなころ、酒を毎日一生かっくらって、業界に神と恐れられた凄い営業部長の目指すべき人がいました。同じ時期に、スーパー営業マンとして名をはせる人がいました(ちなみに今はその人はその会社の社長になっています)。その二人のサルまねのようなことをやり、頑張って同じように、、、と、いろいろしました。でも、僕にはできませんでした。それは、タイプが全然違うからなんですよね(苦笑)。僕は、理に走ったことを説明することばかり得意で、お客に苦笑されることが多かった気がします・・・・「○○くん、、、お客との交渉は理屈じゃないんだから、そんな理屈ばかり言っても、信頼なんかされないよ。」と、その営業マンには、何度も言われました。でも、よく考えてみれば不思議で、そういう小利口で理に走るタイプは、二人とも「蛇蝎のことく嫌う」人で、僕のことをそんなにかわいがってくれる理由は全然なかったはずだと思います。しかもできもしない、ことを努力しようとしてミスばっかり(笑)。


でもね、なかなか鋭いなーと思うのですが、その営業マンのTさんは、


ペトロニウスくんは、いっていることは理屈ばかりだけど、どんな小さなことでも言ったことは守るし不可能なりに努力してくれるし、、、、そういう人は僕ほとんど見たことはなかった。理に走るやつは、たいてい口だけなんだよね。でも、君は行動のほうが多く物事を体現する人だ。・・・つまり君は、行動自体が理屈じゃない人なんだ。そいう人は信頼されるよ。理屈が嫌われるのは、口だけだからなんだ。長く付き合って、君を嫌う人はいないはずだ。

だから、君は口で損をするタイプだろうけれども、行動でそれを挽回する人だと思う。そして、きっとかんばっていれば、その理屈ばかりの口に行動を伴ったときに、僕らより大きなことができる日が必ず来るよ。頭は格段にいいと思うから。まぁあきらめなければだけど(笑)。」


そう、、、僕は営業としては、イマイチかもしれません(とはいっても営業成績は抜群によかったですが←いちおいっておく)、けれども、その後会社では、きっとそこが評価されたのでしょう、事業企画の部門へ異動させられることになりました(今考えてみると、そういう例が20台でってほとんどありません)。当時の僕は、左遷ぐらいに思っていましたが。・・・・やっと顧客に信頼されて、やっと営業が自信を持ってできるようになり、自分たち仲間で開発した新製品が出る時でもあった時でもあり、僕はまぁそんなにあるわけでもない、会社人生で「ただ一度だけ」、ちゃんと人事権のあるトップへ、直訴でやめてくれと頼みにいきました。その人と個人的に仲が良かったこともあったのですが・・・。もちろん、人事が変わること何でありえないし、サラリーマンが直訴なんてやっていいことではあり得ません、、、それほど悔しかったんだろうなぁ、、当時のおれ。タクシーの中で部長の前で泣いたのを覚えています(笑)。いま思うと、青臭くて、笑えて仕方がありません。


でもその部長の言葉はもっとショックでした。



「いやでもまーーーお前企画むいているし。どう考えてもそっちのほうが偉くなれるぞ。」


って、、、いや、それってあの「営業は向いていない」ってことですか?、と当時は不安で寝れなくなりました。あれだけ頑張った何年間も、あれだけきっと深く信頼されていると思う思いも、みんなダメって否定されたような思いで、寝れなくなりました。以後数年か、、そのセリフは、胸にしこりのように僕を苦しめました。


けどね、今はそれがすごく正しかったと、よくわかります。非常に秀逸な「僕の評価」で、僕は事業部門にいって事業を立ち直らせたり評価されると、もう百発百中で企画部門へ異動になります(笑)。もう恒例の儀式みたいなもので、かつ、人事の昇格試験で、人事部長から「企画をメインの仕事としていて、どういう職種が次がいいですか?」と聞かれて、あー会社の僕の評価って、そうなんだなーとしみじみ実感しました…だって、キャリアの半分は営業なのに、しかも、営業成績すごくいいのに(笑)みんな僕のことを「企画の生え抜キャリア」と認識しているということなんですよね。まーうちの会社は、企画職に就いている人間がエリートという骨の髄までの認識があるので、そういう風に揶揄的にいっているんだと思うのですが、僕が企画に行くたびに願い出て事業部門に戻るのは(これもめずらしい)、僕の夢は、あのスーパー営業マンたちと同じような、事業を自分の「自分だけの力で」運営できるような、顧客(僕はそうは呼びません仲間とかパートナーといつも呼ぶます)と自分の仲間たちと、この世界に新しい仕組みや製品を作り出すことで、その夢がぶれたことはありません。


僕はおっちょこちょいだし、なんというか、非常に不器用で物事がうまくこなせないですが、中長期の戦略策定や市場の分析などマクロの「見通し」を外すことは一度もありません。いってみれば、そここそが「僕の強み」です。そして、その自分が思い描いた「目に見えないこと」を、人に伝えていくこと、そして会社内部や社外の官僚的な仕組みをひっくり返す交渉も大の得意です。そう、ぼくは最初から、やりたかったことは「マクロの事業をよりより形に変えていく」ことであって、もの単品の売り上げを上げることではなかったんです。売れてみんながハッピーになるなら、どんな部門にも顔を出して、それを何とか良くして、みんなでうなく酒が飲めるように変えよう!と思い、突っ走ります。僕のいつも言われるのは「職権乱用とか、仕事の職域を超えすぎる!」ってことです(笑)。単なるいち営業マンであた時は、そういったマクロを語る物言いは、できもしない癖に、「ごちゃごちゃうるせー」といわれました。けどできる立場になり、そういう仲間が増えてきたいまでは、そういうことを言われることが少なくなってきました。


そして、今ははっきり言えます。当時「憧れだった思い」は、今も僕の中で消えません。けれそも、全く違うキャリア、全く違う手法で、僕は同じステージまで登ってきました。


人には、生得的に「得意な」強みがあって、それを変えることはできません。「そこ」を伸ばしていくこと、それが成長に重要なことです。けれども、僕が「理に走る小利口さ(=物事を小さく見るスケールの小ささ)」を克服できたのは、僕が憧れる営業の大先輩たちが、そういう「理だけでは越えられないような何か」を体現する人たちだったからです(時代に合わないのでしょうか、今ほとんど見たことがありません)。これは、自分が学ぶに必要なものが、「正反対のポジションにあるものである」ということを如実に示しています。いま思い返しても、意味不明な行動ばかりする人たちです(笑)。でも僕も馬鹿じゃない、10年たって、「彼らのスケールを理で理解するところまで」もってきました。


そして、「理で理解できる」ということは、再現ができる、ということです。僕の使命の一つは、ああいう「理で理解できないような人材」を育てていくことでもあるはずだ、と思ってもいます。きっとそうすれば、僕らの仲間はもっと強くなる。そして、そういった努力やうねりは、もっとまだ見たこともない世界に連れて行ってくれる・・・・・そう思って日々生きています。


おっと、また自分語りに入ってしまった(笑)。といっても、こういう「自分探し」や「自己分析」は趣味なので、お許しを。先日コメントで、そんなに苦しいのに何で書くんですか?という素晴らしく鋭いコメントをもらいましたが(苦笑)、それは、僕が理屈よりも行動が先に出てしまう人だからです。もう少し細かく言うと、行動のボリュームがものすごく大きくなって動きすぎるのだけれども、もともとが「頭で理解できないことは怖くてしたくない臆病さ」が同居しているので、そのことを理解してまとめて評価したくて、日々苦しくなっていくのです。だから、「自分のことを自己記述」して、それを読み返して、何度も何度も自己分析を繰り返していく作業をするという癖が染み付いています。だって、このブログ以外にも、日記に近いようなメモがあるくらいですから(笑)。まぁそれで、クオバディストリノートのような大きな手帳がいるのですが。そうして、繰り返しブラッシュアップしたもので、自分の行動の理屈を見つけ、それでいいものは再現できるよう努力し、悪いもの排除する、、、というのが僕の人生の連続です。これが、僕が書く理由。自分分析という趣味です。



閑話休題



えっと、もう一つ先の話なんですが、これはね、器(スケール)の小さい人間でも、「正しい努力」をしていけば、「器が大きくなる可能性がある」ってことを示していることでもあるんですよ。だからビルドゥングスロマン(=成長物語)には憧れが必要なんです。


もう少し分解すると、最近ビジョン(=目標地点)がないにもかかわらず、正しい成長をし続けるという意味で、『ベイビーーステップ』を取り上げました。


ベイビーステップ』 10巻 勝木光著 Baby steps to Giant strides〜自己信頼と自己放棄の関係性について2009-11-21http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091121/p1


ベイビーステップ 1 (少年マガジンコミックス)
ベイビーステップ 1 (少年マガジンコミックス)

この要点は、ビジョン(=目標の突立つ地点)がないにもかかわらず頑張れるという点でした。このエーちゃんという主人公の根源のモチヴェーションは「小さな努力を積み重ねていくこと。小さな達成を飽くことなく繰り返すことに喜びを見出す」という生得的な才能からくるものです。これって、人事なのどの領域で言われるコンピテンシー(なんというのかな具体的な行動の集大成?みたいなもの)のことですよね。

僕がここで話していたことは、どー考えても、このえーちゃんは、才能があるようにも、天才にも描かれていません。イコール、「器(スケール)が小さい」ということなんです。だから話が地味になる。前に言ったのですが、少年漫画の主人公は、スケール勝ちしないとだめだ、と言っていた議論と併せて考えてみてください。つまりは矛盾するんですね、スケールがそもそも生得的に大きくないと、成長する余地はないと言っているに等しい議論なんですが、それを、えーちゃんは越えているという議論をしているんです。

これまでの少年漫画、、、って、僕は70−80年代を特筆として、ほとんどすべての漫画(といってもジャンプ・サンデー・マガジン)に共通すると思っているのですが、成長するには=勝つためには、理由があるんですね。その理由は、「才能」いわゆる遺伝的なものも含めて「生得的に(=いいかえれば後から努力ではどうにもならない圧倒的な)」備わっているものというものが、非常に強い納得性を帯びるんです。これは、日本の文学傾向に、貴種流離譚の類型があるから来るものなんだと思います。また、はっきりいうと、遺伝的才能、家庭環境などの、努力ではどうにもならないものの差が、「圧倒的な差異を」社会に出てから生み出すという「現実」にも比例している議論でもあります。

少年漫画の王道とは?〜スケール勝ちとは時間軸の因果が逆転することをまわりに感染させること
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091113/p1

けどさ?ほんとにそうか?。そう思うんですよ、僕は。だって、「後付けで理由をつければ」、その人が「そう」である理由はいくらでも整合のとれたストーリーにすることはできます。けれども、それでは、その人の魂が、「その結果」を得るために払った努力や、苦しみや、砂を噛む無用は反復や、いいしれないような周囲からの期待やプレッシャーは、どこへいってしまうのでしょうか?。そして、まったくなんのバックグラウンドなくいきなり躍り出てくる成功者はイノベーターだって、全然少なくありません。つーか、実際は、そっちのほうが多いはずです。だから社会は発展してきたんだもの。階級社会は、成長が止まることは歴史が証明しています。


何が普通の人と、そうでない人の差を生むのか?。


僕は、「そのステージにおけるやりきり感」と「次のステージの飛躍を促す憧れ」だと思っています。


最近僕が「人生にはステージがある」、そのステージで、正しい形で正しいや努力をやりきったものだけに、「論理的にはあり得ない次のステージへの招待状が現れる」ってことが、理論的によくわかってきました。僕は、何度も書いているし、言っているんですが、次のステージへの飛躍は『やってくるものだ』と呼んでいます。えっと、こういう書き方ではなく、ナルシシズムの地獄から抜け出るときには、自分であがいて登るのではなくて、何かが「やってきて」「訪れてきて」、すべての心象風景がかわってしまうん、というわけのわからない宗教チックなことを僕は何度も書いてきたはずです。


これは、コンピテンシー(=目の前の小さなものを反復的に解決・達成していくことの繰り返し)が、次の次元へのある種の「蓄積」になるからだと僕は考えるようになってきました。そして、その蓄積は、「そのステージ」にいる人ができるレベルのものではければなりません。ここが、口ばかりになるビジョニストや成功本の落とし穴なんです。たとえば、「おれは社長になる!」といっても、まずやることは「目の前のことに過ぎません」。まずは、係長にぺこぺこ謝り続けるのが最初の仕事かもしれないんです。ベンチャーならが新卒の銀子マンに融資をぺこぺこ土下座することから始まるかもしれません。目標と、行動すべきことのに絶対的な差異があって、絶望してしまう人が多いのです。マー子供なんですね、そういうのは。だって、ちょっと頭で考えれば、わかりそうなものじゃないですか(笑)。成功本は、願えば叶う!とか嘘をつくのは、これは、信じられない過酷な絶望的な差異の中でボロボロのサンドバックになりながらも、それでも長時間い、長期間にわたって「願い続ければ」という前提が抜けています。


はっきりいって、凡人には、それは無理です。立志伝中の人物が、どう考えても、頭が少しおかしい人であった感じがするのは、こういう過酷な絶望に慣れている人だからなんですね。もしくは、そういうのが喜びになってしまうマゾな人。


けれども、そんな僕のごとき凡人でも、最初から、高いステージに能力を持って現れる天才に、勝つ方法が一つあります。いやもう一つあるのですが・・・それは置いておいて。それは、自分が今いるステージで、「出来ること」を淡々とやり続けることこれ「のみ」です。人生には、その「時」にふさわしい努力があります。そして、その努力の方向や処方は、自分で大体分かるはずなんです。あなたがいま高校3年生だとしましょう。受験を受けるのに何の物理的に疑問も持たないのであれば(お金がないとかという意味ね)、それならば、やることは、ただ一つ。少しでもいい大学に入ることです。その年齢で、目標もなく、お金がないわけでもないならば、自分のステージで最高のことをするしかないんです。ちなみに、高校生で、「人生でやりたいこと」なんか考えるだけ無駄です。そういうのは、「自分のやりたいことが早くに訪れてしまった不幸な天才が背負うものであって」、僕は幸せな普通人には、あり得ない贅沢な(しかし過酷な)悩みだからです。そんなのは、就職試験の時か大学の4年間か、6年の間に考えましょう。そして「その時の選択肢が広く」あるために、只今のステージでできる最高のことをすればいいのです。


けれども、「逆のことを考えることが成長には必要」という先程の例を思い返してみてください。とはいえ、「目の前のことだけ」をやっている人には、ある種の無気力が訪れます。「それはどんなに頑張ってもそのステージより先がイメージできない」という、このまま永遠に「今が続いていく無気力感」です。


ちなみに少し具体例を書いてみましょうか。僕は、一人で文章を書いて自分で自己分析するのが趣味でした。映画とか漫画の評価とかね。それで、ある時発表の場を見つけて、アマゾンのレヴューを書いていました。最高は確か10位くらいまでいったかなー。もう5年くらい前かな?。けど、あれ字数制限があって、書くのがつまらなくなったころに、アメブロを、ブログという存在を知りました。そこで本や映画の仲間をたくさん見つけました。けど、ただ文章やコメントだけだとつまらなくなるのですね。それをやりきって飽きたころに、、、、すると、ネギまという漫画に出会って、リアルタイムで感想を書いていたら、いつのまにか、いずみのサンが声をかけてくれ、会うようになって、オフ会なるものに連れ出てくれるようになりました。けど、忙しいし、恋愛の女の子を口説くのと同じで、数をこなすと、そのパターンは飽きてきて、その中のコアな友人である海燕さんや、LDさん、いずみのさんと、次のステップということでラジオをやるようになりました。。。。。


などなど。なにも最初からブログをやるつもりは何もなかったです。ラジオなんて、なおさら。でも、この無味乾燥なくだらない人生で素晴らしく遊べていますし、それを通して、生涯級である友人にも数人出会いました。


えっとね、つまりね、、、、とにかく、「目の前のことをやり続けていくと」、やりきった感が出て、「飽きてくるんですよ」。でもそうすると停滞して、やめてしまうんですね。でも僕には、いずみのさんや、LDさんや、海燕さんなどの、このメディアを使って人生をいろんな形でエンターテイメントする先達たちがいました。いや簡単ですよ、ああいう風になりたいなーと思っていると、いろんなチャンスが訪れるんです。


大きな第一歩は、オフ会なんて言う怖いものを人生でいいっかいもいったことなかった僕に、いきなり会いましょうとメールをくれたいずみのさんでした。


いや、偶然暇だったんですよ、そんで、余裕もあった時だったんだと思います、、、、「あの第一歩」を踏み出していなかったら、この膨大にかけている時間の濃密なものは、僕には訪れづに、ただ通勤電車で一人さびしく漫画を読む日々だったでしょう。僕には、この界隈を除いてヲタクや漫画、アニメの友人は皆無です。いまであっても。ましてや、いまの僕の社会的なポジションや年齢を考えて、こういった系統の友が、もうできることは常識的には考えられない。社会人が趣味で、自分の仕事やポジションに関係なく、友人と出会えるなんて、なんて僕はむぐまれているのでしょう。ネットの素晴らしさです。


そして、その友人がやっていたラジオを、、、普段は、ラジオは時間がないので聞けませんが、偶然(聞いたのはその一回のそれも1時間くらいのみ)その時に、チャットで、海燕さんとラジオやろうね、と会話したのが、ラジオの始まりでした。いま思い返しても、ステージが変わるような出来事のきっかけは、「偶然」としてとしか思えません。けど、それは「必然」のように自己認識としても思えます。それは、自分のステージでやりきることをやりきって、アンテナを伸ばして、海燕さんとか自分より先にいる人たちの状況を何となく考えて、「ああいう風に楽しそうだと羨ましいなーというあこがれの気持ちがあった」あったらなんです。


僕は、手帳をクオバディスに変えたのは、僕の格好いいと思っている買収したグローバル企業の副社長に抜擢された先輩が使っていた、ただそれだけです(笑)。スマートフォンに変えたのも、今つきあっているアメリカの企業の経営陣が、ブラックベリーばかりで、社長だけがi-phoneをつかっているのですが、ただそれだけの、真似っこです(笑)。


まず形から入れ!(=憧れの思いは消すな!)

憧れは、ばかばかしくても小さな模倣から入れ!


そう僕はいつも思っています。


でもですよ?もし、僕が頑張って、海外の企業の経営陣となったら(ちなみに、その後、アメリカで気企業の経営者になりました(笑))、これって「いい話」になると思いませんか?(笑)。そして、その先輩たちに、「先輩たちにあこがれてこういうのやったらなれました!」と言いに行ったら(言いに行きました(笑))、はっきりいって、かわいいやつ!だと思われると思れるとおもいませんか?(←考えることがいちいちセコイ)。


えっと、ジョーク的なものは少し置くと、つまりはね、「そのステージ」で必要な苦悩と行動を「蓄積」した人には、ある種のinvitaition letterが訪れるんだと思うんですよ。招待状ですね。けれどね、アンテナや憧れという「次のステージへの模索」がない人には、これが、「招待状」だということが分からなくなって停滞してしまうんです。この招待状に気づくためにVISIONがあるんですよ。願いがあれば叶うのではなくて、目の前の必要な、自分のレベルに合った努力を極限までやりつくした人だけに、次の招待状が届き、、、その届いたときにそれが「チャンスなんだ!」「これが勝利の女神の前髪なんだ!」と気付く機会を与えてもらえるんです。VISIONの必要性とはそういうものなんです。


また、自分のステージをどっちの方向で上げていきたいか?って言う方向性にもつながります。自分の「目指すべき目標」とまったく関連性のない努力を、(往々にして関連性はまったく見えないものだが…)やりすぎても、またダメなんですよね。そうですねー大体3年単位では軌道修正しないと、さすがに遠ざかってしまいます。逆にいうと、3年努力できない場合は、あまり人生は変わりません。次へのステージが上がらないから。


さて、わかってきたでしょうか?・・・このステージを上げるということこそが、少年漫画で言う「器(スケール)を上げる」という行為に他ならないことを。そう、、、人は、器を自分の努力で大きくすることができるものなのです。ベイビーステップ』のおもしろさは、この「スケールの低い段階から、ビジョンを示すこと「ではなく」、目の前の課題を小さくこなすことで上げていく」という面白さを描いているからなんですよ。そして、ネギまのこのアルのセリフに僕が感動したのも、そもそも少年漫画の主事項としては最大の欠陥をもつネギくん、、、、、その欠陥とは、「自分自身を信じることができない」という闇的なダークサイドフォース(=根源の動機は復讐)を持つ主人公が、「それでもなお闇へ落ち込まない」…そう、スターウォーズの打ち勝った光の銀河帝国皇帝とダースベーダー(アナキン)の物語であるからなのです!!!。



そんなことを考えました。