『青空エール』河原和音著 不器用な人が、才能がない人が、普通の人が前に進んでいくこと

青空エール 19 (マーガレットコミックス)


評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


petronius.hatenablog.com



もうまじめに考えていたのは、2011年ですね。ということは、8年近く前。ずっとと好きでたびたび読み返しては読んでいたのですが、既に2016年で完結していたんですね。気づいていなかった。紙の本で盛っていたのを一度全部整理のために捨ててしまったので、止まっていたようです。ちゃんと貢献すべく、電子書籍で全巻買いなおしました。


昨日全巻を一気に読んだのですが、素晴らしい傑作で、まとまっていて、最初から最後まで「小野つばさという才能もなければ経験もない高校生から吹奏楽を始めた子が、成長していく姿を描く」ことにフォーカスしていて、素晴らしかった。やっぱり大傑作だよなーとしみじみ。また、なんというんだろう、山田君が、素晴らしいですよね。なんというか、とっても二人とも、「じれったい」んですよね。そんなに好きあっているなら、、、というかここまでくるともう愛だよね(笑)、もういいじゃんというのを、「じれったく」ステップを踏む。これ「どんくさい」ともいえるんだろうけれども、こういう風に「丁寧に関係性を深堀」しているからこそ愛に昇華するんだろうなぁ、とみててほんわかしました。ただ、やっぱり、「こんなきれいな恋愛」が正しく進むのは、もちろん、大きくは二人の誠実さなんですが、そこにちょっかい出す邪悪な人が誰もいなかっただけ、という気もするので、僕がもし友人A とかの立場でそばにいたら、もっと前絵に勧めよーーーーと、じれったくいろいろ動きそうだなとかいろいろ思いました。



さて、これ以下は、だいぶマイナスというかネガティヴな話をするんですが、『青空エール』は見事にドラマトゥルギーが本質に届いて完結している作品なので、この作品自体に対して批評ではないんですよ。それに、つばさと山田君たちの人間性や作者の人間理解も、僕は素晴らしいと思うので、、、なんというか、ほんとうは、『青空エール』の話ではないんです。でも、逆に素晴らしすぎて、自分の中の様々なテーマを喚起させたので、メモとして書いている感じです。、、、ちょっといいわけ。




さて、一気に見ると、彼女の行動原理、特に苦しさにぶつかった時のブレイクスルーの方法が、すべて同じ事に気づく。



1)とにかく「才能がなく」ても「あこがれ」を目指して、しつこく執着し続ける


2)嫉妬やいじめには、すべて自分の赤裸々な思いを相手にぶつけることで解決


3)「才能がない」こと、「感情的な問題」には、すべて自分の極限の努力を見せつけることでねじ伏せる


こんな感じ。ええと、先に言っておくと、僕は、つばさの「どんくさいけど、ひたすら目標をぶれずにこだわり抜いて、頑張る」という姿勢は、とても素敵だし、なによりも、報われる最終巻あたりは号泣してつけていました。


しかし、単純に「没入している」だけで、よかった!というだけではなく、もう少し「自分自身の客観性」を入れて見てみたいな、と思ってきました。これは、物語の評価と別の部分で、「僕という個人が見た時にこの類型や翼や山田君をどう思うか?」という日記というかエッセイみたいなもの。なので、評価は、★5で客観的にも、主観的にも最高の傑作です。「そのうえで」あんまり読み返したので、「自分自身」をつけ足したくなって、これを書いています。


僕は、これを見続けているときに、いくつかの作品を強烈に思い出しました。ひとつは、ちばあきおさんの『キャプテン』、『少女ファイト』『アニメタ!』それに、『アオアシ』です。


キャプテン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


少女ファイト(1) (イブニングコミックス)


■俺の背中を見続けろという解決法でいいのか?

『キャプテン』を凄く連想したのは、つばさの部活で起きる、極限の努力できる人間への嫉妬、無能な人間への踏みつけ、、、、部活ものではよくある問題ですが、たぶん人間世界の「最もよく起きるどうにもならない」、人生や仲間や、様々なものをぶち壊すきっかけになるもの。これに「どう対処」するかというと、すべて、


1)自分自身の弱さも強さもさらけ出す全裸作戦


2)1)の思いを正当化できるほどの極限の努力


こういう構造で、相手を納得させたり、感情のカタルシスを得ています。分析的に言うと(笑)。小野つばさというキャラクターが、「そういうキャラクター」として嫌味なく感じられるからこそ、このドラマトゥルギーのエピソードに、胸が熱くなります。


が、しかし、僕は何度も同じ方法を行うつばさに、、一気に1日で全巻読み直したがゆえに、違和感を感じました。


これって、あまりにどんくさくないか?


これって、結果的に物語だから成功しているけど、いつもこんなにうまくいかないんじゃないか?


これって、「頑張る」という極限の努力を正当化して、パワハラの温床にならないか?=部活ものとしては、ガチ勢側過ぎて、これだけを称揚できないんじゃないか?


これって、日本のいじめとパワハラを肯定してしまう側に組してしまわないか?



とかとか思ったのです。えっとね、つばさ自身が、苦しみ抜いて歩んだ道筋で、それはドラマとして成り立っているし、丁寧に読むと、気持ちにシンクロして全く違和感はないので、物語としては、完成されていて、そこは批判の余地はないと思うんですよ。


でもね、、、、僕は、何か違和感があって、、、、山田君とつばさちゃん、、、、、あまりに、「愚直すぎないか?」と思うんですよね。


というのは、僕はもっと政治的に動くし、同じ目標を選ぶにしても、もっと立ち回りを考えるだろうし、なによりも、人間としてかなり腐っている先輩方を愚直に、受け入れて、包摂して、すべてに対して真剣に「向き合っていたら」ら、普通は心が壊れて、死んでしまうし、部活もやめてしまうと思うのです。だから、どこかで、線引きはいると思うんです。でも、つばさちゃんは、そんなことを考えられないくらい、猪突猛進です。



正直言ってね、つばさちゃんの魅力は、「そこ」なんです。



「選択肢」とか「得か損」とか「長中期を見通して」みたいな頭の回転が速い真似はできない。だから、「こつこつ積み上げる」そしてその圧倒的な努力を見せつけて、他を制圧する(笑)。でも、これって、あやうい生きかたじゃないかって、思うんですよ。山田君と、支えあえる関係になったけれども、これだけ不器用なもの同士だと、何がきっかけで「マイナスのスパイラル」に入るかわからないと思うんですよ。



正直ね、、、、僕が嫉妬に狂った人間のくず的な先輩とかだったりしたら、「つばさちゃんの人生をめちゃくちゃにする」という方法論を、簡単にいくつも思い浮かべちゃうんですよね。。。。彼女は、それを乗り越える精神力があるので、物理的にできない方法を、いくつも思いついちゃう、、、。世の中には、それくらい心が壊れて、腐った他者というのは、ゴロゴロいます。


そして、「そこまでやられた」ら、山田君とつばさのような愚直なタイプには、対処のしようがない。


・・・・えっとね、、、、どう思ったかというと、「この空間にもし自分がいたら」と思うんですよ。


もしくは、もしつばさが好きになった相手とか、周りにいる友人が、「もっともっと全体を見通す視野を持っていて」かつ「つばさとの関係が深かったら」、、、、きっと違う物語が始まる可能性が高いって。


もっと、もっと、違うルートがあるような気がしてならないんですよ。



やっぱり、僕が持っている世界巻(現実をどうとらえるか)という視点からすると、あまりに「世界に、やり方に、心に余裕がない」感じがしちゃうんですよ。これは、吹奏楽の古豪で、リソースが少なく、才能もないつばさの物語なので、「世界が端的に過酷に残酷」になってしまうのは仕方がないのですが、「世界はもっと、柔らかくややこしい」だろうという思いがあるのです。



■才能がない地点から始めていると、物語は結局のところ大きなところにはいかない


それと、これもつばさの物語は、才能がないところから、成長していくビルドゥングスロマンなので、批判としては、意味がないと思うのです。なので、これは、僕の思い込みというか、僕の世界のとらえ方。


やっぱり、全体を見ると、「小野つばさ」というこの達成したものは何か、といえば、「やる気」を吹奏楽部にもたらしたことに尽きると思うんです。「才能がない」のに、すべてをかけて、戦ったからこそ、他の人たちに感染させることができた。


でも、、、、やっぱりスタート地点が低すぎたこと、本人が「自信がない(指摘されていますね)」がゆえに、全体の目標値の設定が、視野が、狭い。


えっとどういうことかというと、最後まで見て、つばさの技術は、「しょせん普通になった」だけといえるし、彼女の結果を無視して身を捨てて頑張るという「自己検診的な姿勢」というのは、トランペットチームのみで、完結していて、吹奏楽部全部を巻き込んでいるシーンが弱い。



一言でいうと、彼女がもっと「適切な広い視野をもって」、「最初からもう少し最低限の技術と経験があった」ならば、その極限の努力を使って、「もっともっと遠いところまで行けたんじゃないか」と思うんですよね。



これって、しょせん、凡人が部活をやり切って、人生を燃焼させた、という物語にすぎない、、、、と。それはそれで素晴らしいが、物語として何も特別なことは起きていない。



■同じ「極限の努力」を才能と経験と覚悟がある人がやったらどうなるのだろう?


さて、こんなことを思ったのは、「日本の部活もの」って、みんなこれだよな、と批判的に感じたからなんです。


「経験も能力もない主人公」が、「極限の努力できるという能力」で自分と周りを変えていき、命を燃やし尽くして、全国(=日本一)に挑む


スラムダンクでも、キャプテン翼でも、最近のすべての作品でさえも、構造が基本的には、このドラマトゥルギーの再生産。もちろんじわじわ、変っているし、さまざまな類型の答えが成果としてはあるので、単純ではないですが、でも、王道的に、ここにポイントがある。


これ、昭和的な価値観だよな、と思うのです。僕的な言葉でいうと、日本的、もしくは、高度成長期的。何もない凡人が頑張ることに至上の価値を見出す物語。


ここで思い出したのが、『アオアシ』です。


アオアシ(16) (ビッグコミックス)



この作品、いろんな意味で、とんでもない作品だと思っているのですが、ここで指摘したい論点は1つです。



アオアシ』が、「部活もの」と「ジュニアーユース」の構造ちゃんと描いていること。主人公が、ジュニアユースの「選ばれたものたち」の世界で戦うという、ほぼ初めてのスポーツものの設定。



えっと、これサッカーの現実だろうと思うんですよ。「高校の部活でやる」というのと「ユースでプロを目指して選抜された人間のみでやる」というのは、まったく「目指しているものが異なる」ということを。


かくて、『シャカリキ』で曽田将人さんが、自転車競技を描いたとき。それ以降の『昴』なども、すべては天才を描くという物語でした。けれど、「天才を描くと」、感情移入できなくなって読者がついてこれなくなるという問題点から、常に王道は、部活に回帰して、「才能がない主人公」が成長していくという類型になりました。

[まとめ買い] シャカリキ!〔ワイド〕(ビッグコミックスワイド)


この辺りの最前線を見事に矛盾なく描いたという意味で、「部活ものの王道である」にもかかわらず「能力のない主人公が周りを巻き込んで成長する」という作品は、BE BLUEですね。これ、ユースで日本代表に簡単に行けるルートに乗っていた天才少年がたどる道筋が、、、凄いです。僕、読みなおしても毎回号泣します。


BE BLUES!?青になれ?(1) (少年サンデーコミックス)



えっと、『アオアシ』に戻ると、高校サッカーの現実は、「部活」と「ユース」の総当たり戦が公式の構造になっていて、「この違い」というのを、物語でさらっとですが、描かれているんですよね。サッカーをやる「目的が」全然違うの。なので、目指すものが全く違う。人生も、あり方も、人間関係も、すべて違う。


「そのあまりの違いを抱えた多様性」の中で、総当たり戦をするんです。



ぞくぞくします。



でも、世界って、現実って、こういう多様性、、、、「何でもありでわけわからん過ぎる」もんなんだろと思うんですよね。



さっきのつばさの視野の狭さという話は、「白翔という古豪の吹奏楽部が全国優勝する」というのと「才能がない自分が成長する」という古典的な成長物語の日本的なパターンから、スコープが全く抜けていないなぁ、と感じたことなんです。



いや、それは、つばさの『青空エール』のテーマと関係ないから、と言ってしまえば、そのとおりなんで、これは、『青空エール』に対する感想というよりは、僕の「マンガ読み」としての全体からのふと思いついた戯言です。


河合さんの『帯ぎゅ』もそうですが、『シャカリキ』もそう、サッカーもそうですが、「日本の部活の世界」「能力がない地点から始めるだけの戦い」以外の、異なるバトルをしている人が、ルールが、たくさんあるよ、というのを、常に見ていない、、、そういうのが「わかっていてほしい」と常に思うのです。子供たちには。僕は、僕のできる限り自分の子供と部下とか後輩とか、後続の世代の人々に、「僕と同じ低いスタート地点」から頑張ってほしくない。そう思うのでです、、、、もちろん、物事には「才能のあるなし」があるので、情報があっても、才能がなければ、たいていはどうにもならないんですが、、、、、、せめて「視野の広さ」だけは、、、、。と思うのです。なぜならば、「才能があるなし」なんて、最初はほとんどわからいでしょう。それに、「才能があるから」、物事を始めたり継続したりするわけじゃないと思うんですよ。

はしっこアンサンブル(1) (アフタヌーンコミックス)


これなんかの視点は、僕は凄い良かった。工業高校が舞台にされている合唱部の話ですが、「親がそもそも片親」であったり、親がいなかったり、、、普通にサラリーマンをやれてる親なんかほとんどないのが、作中でほぼ全員の前提で話されているんですよね。いいかえれば、「普通?の中産階級のスタート地点にすら立てていない」。もっといいかえれば、ハンデがあるような低いところから、物事を始めなければな他ない設定を組み込んでいるんです。こういう設定にすると、トラウマとかの話になりやすいんだけど、そこは『げんしけん』の作者。その辺をうまく描きつつも、さらっと、世界の「てきとーさ」を、いい感じに描けている。


物語をリードする男の子は、どうしてまだ分かりませんが、合唱は、物凄い知見があるんです。こういうの見ると、「知識は力」だなと思うんです。彼には、もし本気の情熱を使ったら、「どこまで行けるか」の技術的な、世界観の広さが既に、、、、これほど恵まれていない、底辺のスタート地点でも、既にあるんです。彼らが極限の努力をする時には、「最初から合唱の世界のテクニカルな、技術などの最前線を知っ営る」うえで戦略を立てると思うんですよ。「知識がある」というのはそういうこと。


そして、知識を使って考え抜くポイントは常に、「すでに生まれてしまっている絶望的な格差」を、いかに「ひっくりかえすか」です。


さっきのね、、、、『青空エール』の世界にもし自分がいたら、、、と思うのは、つばさのそばに、もっともっと、全体像を教える人が、、、、もっと端的に言ってしまえば、普通の恵まれたサラリーマン家庭なので、もっと協力的であれば、もっと視野が広ければ、、、、もっともっと前に行けたんじゃないか、と思ってしまうんですよね。そうなると、違う物語になってしまうだろうけれども。つばさちゃんぐらいの意欲があれば、モチヴェーションと根性があれば、物凄いところまで行けるんじゃないのか?っておもちゃうんですよ。才能を、ひっくり返す、「からめて」やチート技は、このテキトーで多様な世界には、色々あると思うのです。命をかけるるような根性があれば、「知識を武器の最初から戦略を立てる」ことによって、スタート地点が低くてもゲームに勝てること「考える種」があってもいいのじゃないか。そうんなことを思いました。


また、合唱の世界で、例えば「世界」って何だろう?


glee/グリー シーズン1 <SEASONSコンパクト・ボックス> [DVD]


Gleeみたいなものかな?。これは、アメリカの中で完結している、アメリカの部活ものか、、、、。ほかの国は?歴史は?とかとか、、、、せっかくだから、もっと広く深く、色々や視野が欲しい、と思うのです。



ですです。

『7つの魔剣が支配する』 宇野朴人 えすのサカエ やっぱりサムライ系ヒロインの描写としては、これ以上ないですよねぇ。

七つの魔剣が支配する (電撃文庫)


新刊とコミカライズが出た、うれしい!。


Wikiに、

平坂読は本作のヒロイン、ナナオをサムライ系ヒロインのひとつの到達点と評した


とあるんですが、これうんうんとうなずいてしまいますね。何がって1巻の主人公のオリバーと剣で対峙するシーン。これ、サムライ系ヒロイン(笑)って何なんだよ、と突っ込みたくなりますが、こういう類型厳然とありますよね。その類型が一番輝く時って、「このシーン」ですよね。


「このシーン」とは、『とある飛空士への誓約』で、イリア・クライシュミットと坂上清顕のエピソードをを凄く思い出すんだよね。




何か到達すべき目標に対して「すでに命をささげてしまった」覚悟が定まっている人との関係って、「命を懸けて殺しあう」ってのが、「恋が最も成就する瞬間」になってしまうんだよね(苦笑)。男女関係なしですが、相手が、女の子でヒロインになると、このドラマトゥルギーが動き出してしまう。


男の子が、本当の本当にその女の子を愛していればいるほど、「命を懸けて殺しあう」というライバル関係の最終地点、言い換えれば、どちらかが死ぬ時までいかないと、「その女の子を本当の意味で愛したことにはならない」という、複雑怪奇な構造。


言葉にすると意味不明だけど、ナナオとオリバーが、剣で対峙した時に、このドラマトゥルギーが、一瞬ですべて凝縮されている。


とある飛空士への誓約』は素晴らしく泣ける作品で、このドラマトゥルギーが、イリアと清顕で、ライトノベル7巻分にわたって展開されるんだけど、それが、ほぼ初対面のワンシーンで凝縮されている。


到達点と評されるのは、非常にわかる。まだ1巻の最初なのに(笑)


良い作品です。

とある飛空士への誓約1 ガガガ文庫 とある飛空士への誓約

『アニメタ!』花村ヤソ著 魂を削りながらも憧れに近づいていくことの美しさと残酷さ

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★★5つ)


8月に京都アニメーションの件でなんだか、打ちのめされてしまって、、、、まぁ実際には僕に何の関係もないことなんですが、才能がある人たちの未来が不条理に閉じられたのが、あまりに衝撃だったんだろうと思うのです。不条理は常に、あるので気にしてたら人生生きていけないのでしょうが、あれは、たぶん僕自身がアニメーションが大好きだから、深く心をえぐったんですよね。今やっと、何となく、そのことを考えずにすむようになりましたが、1か月くらいは、なんかいつも頭の片隅にあって、考えるだけで泣けてしんどかったです。あんまり感情が高ぶると、それについて話したりできなくなりますよねぇ。。。

それで、なんとなく思い出して、水島努監督の『SHIROBAKO』を見直したんです。当時、何も考えたくなくて、何か受け身でアニメを見ようと新作をいくつも見たんですが、1話目で「なかなか入れなくかった」んです。いま思うと、やはり感情的にフックがかかりにくくても、受け身でなくて色々「愉しもう」という姿勢を見せなくても、「一気に引き込まれる」というのは、物凄い演出レベルなんだよなぁ、としみじみ思いました。ようは、『SHIROBAKO』は、傑作です、というのが言いたいんです。テーマ性や時代性、自分の感情のフックとか、そういうのに左右されにくい水準を超えていい物語って、要は「残っていく作品」だと思うんですよね。

SHIROBAKO Blu-ray プレミアムBOX vol.1(初回仕様版)

で、『SHIROBAKO』を見直している時に、ふと違和感というか、差異感ですかねぇ。そういうのを感じたんです。あれ、アニメーション制作の具体的プロセスをだいぶわかっている前提で物語が見れるな、と。『アニメタ!』もそうですし、僕は見れてなくて悔しいのですが最近だとNHK連続ドラマの『なつぞら』とか、8月に日本に行ったときに高畑勲展を友人と見に行ったりして、なんというか、業界自体に仕事としては特に興味があるわけでもないし、知らないのに、「なんとなく全体のプロセス」がわかぅている感じがあって、これって、こういう物語がたくさん世に出て、「だいたいこんな感じ」というのが共有されているからなんだろうと思うんですね。なので、このテーマは、どんどんいろいろ深堀したり、様々なテーマに展開できて、いやー題材としていいものなんだなーとしみじみしています。


で、花村ヤソさん。僕この『アニメタ!』凄い好きで、何度も何度も読み返しているんですが、なんだろう、『3月のライオン』『青空エール』を思い出したんですね、って、その時の記事を検索したら、下記のこと書いている。なんというかテーマをしつこく追っているんだなー自分、と感心する(笑)。

petronius.hatenablog.com

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ちなみに、あとがきで花村ヤソさんと羽海野チカさんが知り合いというのを見て、ああ、そうだろうな、これだけテイスト(世界観)と似ていると、好ましいだろうなとしみじみ思いました。えっとね、偶然見た『王立少女パンナコッタ』というアニメに憧れて真田幸という主人公の女の子がアニメーターになって行くという話なんですよ。これがね、もう素晴らしくて。周りが見えない夢中、夢の中にいるような「好きなものになりたい!」という盲目的な成長へのあこがれが、とても真摯に胸を打つんですよ。そして、そういう「成長を目指す生き方」「才能によって選別される」過酷さが、これでもか、これでもかと殴りつけられるように描かれる。


これ長月達平さんの『Re:ゼロから始める異世界生活』を最初に見た時に、「こんなものは見ていてつらすぎるんで売れない!面白くない!」という意見ばかり聞いたんですよ、周りに。えっとね、これは少し背景の説明が要る議論なんですが、、、小説家になろうのサイトで、リゼロが連載はじまったのは、2012年です。2013年ぐらいに、僕はこれを絶賛していますが、それはですね、なろうのフォーマットというか、2010年代の大前提が「苦しい自己の告発・成長しなければならい、戦わなければいけない」という鬱展開は全く見たくない、でした。これは、異世界転生というテーマが、「自分が変わらなくても」「異世界(=マクロの環境)が変われば幸せになれる、成長を努力できる」という背景があって、いいかえれば、現実の世界では「自分ではなくて世界の方が変わらなければ」努力しても自分でどうにかできない!という自己責任論に対する痛烈なアンチテーゼでした。なので、べたな形でのビルドゥングスロマン・成長物語は、当たらない、売れないというという言説がメインにありました。これは、アニメやライトノベルを見る層が、自分自身を鍛えるという視点を持てないくらい弱くなっているという議論の裏表でもあったと思います。


2010年代の時代的な文脈が、「努力してもどうにもならない」という先行世代や価値観に対しての痛烈な批判として機能していたこと自体は、おおむね妥当だと思っていました。けど、僕は一貫して、だからと言って王道の成長物語の物語る系が消えたわけでもないし、またその背景としての「成長したいという意欲」自体が中長期的に消えたわけではないと思っていました。という言いまくっていました(笑)。ようはね、文脈的な同時代性って、5-10年ぐらいでどんどん変わって、しかも1周して元に戻る(=同じではない)の繰り返しをえがくので、「努力してもどうにもならない」という文脈は、団塊の世代からそのジュニア(僕の世代ですね)が死に絶えるか、社会での比率が変われば、消えるなと思っていました。若い世代が古い世代に復讐を果たす前に、寿命が来て死んじゃうので(笑)。また、「異世界転生して」いいかえれば「マクロの環境を無理やり変えて」までも、実は、人間というのは、成長したいもの、動機を持ちたいものなんだ、と思うんですよね。それが「社会環境的に捻じ曲げられている」時代の構造に対しての告発であって、1)時代の現実自体が実際に変わってしまえば、2)物語の中での可能性が追及されつくすと、ちゃんと前に進むというか、らせんの円を描いて、「似たようなところへ回帰する(ずれているので同じものではない)」というのを、これだけ長く生きていると何度も見てきたんですよね。


だから、「ほんとうの傑作」であれば、、、、いやこの言い方は違いますね、その物語が「ちゃんとその物語のもつドラマトゥルギーの本質に到達していれば」、同時代性の文脈なんか関係なくて、素晴らしいものになるんですよ。特に、同時代性の文脈は、「同時代性の文脈に依存しすぎる」ので、時代を過ぎ去ると、いまいち、何が言いたいのかわからなくなっていくんですよね。ちなみに「それが悪い」なんて、僕はつゆほども思いません。1)ひとつには、僕らの癒しに、楽しみに、幸せに資することこそが物語じゃないか!と思うので、同時代のテーマを結晶化して描くのは、むしろそれこそ正しい道!だと思います。2)もう一つには、同時代性のテーマを、こまごまと追及していくと、「その物語類型の持つポテンシャル(潜在性)」が様々に展開されて、ある種のパターンや、そのテーマの持つ具体的な展開力が、具体的に示されます。そうすると、「もう一度一周して」「古典的なテーマに戻っても」その展開力が、具体性がけた違いにレベルが上がるのです。ドラクエの的な世界観が、なろうの「異世界転生」や『まおゆう』の「技術による世界のブレイクスルー」など、さまざまなフォーマット連鎖的に生み出して、物語の「原初的な問い」への「答えの可能性を物凄い広さに拡張してきた」ようにです。



話がずれすぎてる(笑)。花村ヤソさんの『アニメタ!』なんですが、2015年連載開始だったはずなので、これ人気なかっただろうな(笑)、と思うんですよ。2017年にツイートで反響なければ打ち切られていた、というのは、そうだろうなーとしみじみ思います。けれども、僕、この「魂を削りながらも憧れに近づいていく」感じって、『三月のライオン』的ななんというか、このテーマの根源に到達している「何か」を感じるんですよね。あ、もうこれ、答えだな、、、「魂を削りながらも憧れに近づいていく」ってことは、物凄く残酷で苦しいし、途中で死屍累々の屍をさらすけど、でも美しいよね、というお話。


成長するには「死ぬ気で頑張る」という条件が常に必要、、、とすると、「実際に死んでしまう!(それは悪いことだ!)」という告発をよく受けるんですよね。僕も、成長しようと思うと、命削らないとできないなぁ、、、確かに「死ぬ気で」というのは、人を殺してしまう可能性があるから、ポリティカルコレクトネス的にもいってはいけないなぁ、、と思っていたんですが、この話をするたびにLDさんより「なんで死んじゃいけないんですか?」と不思議な顔されて聞かれるんですよね。この意味は「死なないように成長する」なんて言う条件をつける必要はないでしょ、という意味。えっと、つまり「成長」と「命を削る」というのは、セットなんだ、という前提がある。そして「命を削る」のが嫌ならば、「成長しなければいい」という話です。命を削らないで、成長しようというような都合のいいことは、成り立たないという認識なんですね。いやなら、成長しないだけ。という身もふたもない話。。。まぁ極論でいるいろな前提条件が付きますが、最近、これ「なるほど」と腑に説いてきたんですよ。身もふたもなく言うと、成長したいなら死ぬ気で踏ん張るしかない。もし死にたくなかったらがんばらないでください。成長はできないけど。という公式。ちなみに、目標に向かって、極限の努力をしていけば、途中で夢破れて死んでしまう確率は、物凄いパーセンテージなので、、、、というか、9割は死んじゃう(笑)ぐらいのイメージですねぇ。だからこそ、尊く、残酷なほど美しい。成長したい人、憧れに到達したい人は、、、、視野狭窄があるんですね。「周りが見えていない」盲目感がある。これは、いつ死んじゃうかわからない、才能がなかったら、そこで「すべてが消え去る」というゼロサムゲームの中に生きている人で、物凄い残酷で怖い世界なんですね。でも、そのかわり世界はキラキラしている。なぜキラキラしているかは、分かってきました。「その他の余計なものを見ていない」から、目的に収斂していてシャープなんですね、空気が。逆に言うと、目標がなかったり、成長していないと、「周りの余計なもの、、、、ここでいうのは可能性」がたくさん見えすぎて、世界が濁るんですよ。身体的にはこっちの方が楽で余裕があるんだけど、心はキラキラ感がない。でも、これって、比例しているんですよね。都合よい、公式はない。美しいけど、残酷というのはそういう意味なんですよ。


これ、成長についての今まで考えてきたこととと、ロジカルに整合すると思うんですよ。日本社会の成長否定の問題点は、ランキングトーナメント方式の「相手に勝つ」「勝ち抜いて、敗者をつぶす」という思考がだめだったいっていたんですよね。それと、終わりが見えないので「強さのインフレ」が起きるので、際限のない自動機械みたいになる。これらの問題に対して、「好きなことをしよう」という答えを出してきたわけです。ようは、「勝つこと」という見返りを求めると、際限がなくなってしまうので、「終わりがなくとも」「報われる確率が低くても」継続できることを、探そうという道筋になったんですね。


でも、、、

スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の
王道ともいえるエピソードの連発なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、


中略


だから落差がある事にぎりぎりまで追求することで発生する「視野狭窄的な修羅場感覚」というのは、物事を成そうとする万人に訪れる苦しみのプロセスなので、すごく共感しやすいものであるということも言えます。



さて、この「落差があることにチャレンジし続ける」というのは、絶え間なくこの「苦しみのプロセス」を一身に浴び続けるという地獄の道を歩むことになります。『青空エール』のつばさが歩んでいる道は、これです。ビルドゥングスルロマン・・・言い換えれば自己実現や自己成長なんて、苦しいだけなんですよ(笑)。だって、自己否定の連続と、現実の厳しさの洗礼を浴び続けることなんだもの。


petronius.hatenablog.com


青空エール 19 (マーガレットコミックス)


経験と才能の圧倒的な差をひっくり返す方法がるのか?、それがスタート地点の遅い素人集団に可能かどうか?


帯をギュッとね!(1) (少年サンデーコミックス)



とかとか、ビルドゥングスロマン(成長物語)については、いろいろ考えてきたんですが、『アニメタ!』ってまだ話が進んでいないので、「類型に対する答え」が何かあるというわけじゃないんです。終わってみたとこれはわからないでしょうが、、、、



でもね、、ここまで長々ダラダラ書いてきて何なんですが、、、、、そんな「外からの視点」とかどうでもいいくらい、好きなんですよ、この作品(笑)。


真田幸という主人公の女の子が、大好きなの。


ここに出てくるアニメという仕事に情熱をかけている人々が、とても素敵なの。



なぜならば、一生懸命生きているから。



「才能によって選別される」残酷さ、仕事の現実によって打ちのめされる様、たぶんアニメーターの現場って、アニメにかかわる仕事って、、、、どんな仕事でもそうかもしれないけれども、たぶんやりがいだけでは支えられないくらい過酷で残酷で悲惨なんだろうと思うんですよ。ああこれ、新世界系なのかも、、、、いや、そうじゃないな、、、成長を軸とした王道の物語を「普通に際立たせる」には、「現実の厳しさ、過酷さ、残酷さ」を丁寧に描けばいい。普通の現実の世界で生きるというのは、とても大変なことなんだろうと思うのです。ましてやその世界で、何らかの目的や憧れを持ってしまえば、さらに才能による選別など、、、、そもそも生きて到達できる確率なんかほとんどない道を歩まなければなりません。


でも、じゃあ、動機なんて持たなくてもいい、死ぬのは怖いから成長しなくていいといっても、それはあまり意味を持たないと思うのです。だって、人間は、あこがれを持つ生き物だから。人間、と一般化してもいいと思いますが、目的や成長なくして現実の無味乾燥さに耐えられない生き物だと思うのですよ。もちろん、濃淡はあるでしょう。強い目的意識なくても生きられる人もいれば、周りがほとんど見えなくなるような「あこがれだけに駆動されて」生きる人もいるでしょう。


でも、自分が主人公じゃないかどうか、なんてわかりません。えっと、物語の主人公であることが「わかっていれ」ば、それはすなわち、最終的に「成功できる」保証があるようなものです。たいていは。でも、「未来がわからない」「保証がない」というのが現実の本質です。自分がモブのわき役なのか主人公なのか、わかりません。ましてや、いまは物語性を切断する、、、、突然死で、物語の主人公だと思っていたのに、何も報われずにみんな死んでしまうなんて言う物語だって多いです。


そういう、規模しい現実の中で、「それでもなお」「そんなことは関係なし」に、「あこがれに出会ってしまった」ら、幸せなことだろうと思うのです。確率的には、ほとんど討ち死に(笑)して野垂れ死ぬのが普通だとしても。


なんで成長物語が、物語の王道になるかといえば、、、、やっぱり、ほぼ報われずに死ぬのが現実であっても、やっぱり、できれば「あこがれと目的をもって」生きていく方が、人として幸せだろうし、それ以外にどのみち無味簡素な現実を生きる理由って、そんなにないよね。だったら、やっぱり成長を目指していきたいじゃないか、、、というのが、多くの人に支持されるからだろうと思うのです。


富士結衣子という動画マンの話が、僕は胸にくるんですが、、、、世は自分が望む部分で才能がなかったんですよね。でも、それでもあきらめきれない、、、けれども、確実に才能も動機もない、、、自分が望まないところでは生き延びられるし、必要とされもする、、、、というような、なんというか、微妙にシンプルではない状況で、どうやって生きるのが正しいのかよくわからない中で、ギリギリ生きている。でも、、、人生ってそんなもんだよね。


真田幸にしても、なんというか、能力なかったら死んでもかまわない、という感じで試され続けているじゃないでか。あれって、普通に考えたら、ウルトラブラック企業ですよね。あといじめとかんがえてもいい。


でも、そういう残酷な環境で、それでもぎりぎり踏みとどまっている現実を描くわけじゃないですか。


それって、、、そういう人々がおり重なって、世界は編みあがっている。というか、そんな俯瞰した言い方ではなく、なんというか、、、、うーんうまい、シンプルな言葉でまだ言えない。。。でも、野心的な人もいれば、憧れに行動される人も、ひねくれる人も、死んでしまう人も、おかしくなる人も、さまざまなものが折り重なっていて、世界は、物語は進むもので、、、そういうのなんだか、空気をキラキラ光って見せてくれる気がするんですよね。


少なくとも、僕は、『アニメタ!』を読んでいて、そういう気持ちになる。『3月のライオン』も『青空エール』も同じように感じる。


うーん、まだ言葉にならない、、、でも、なんか同じものを感じるんですよ。


まぁ、とにかく、好きってことです。さあ、みんな読もう!(笑)



アニメタ!(3) (モーニングコミックス)