『太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−』 平山秀幸/チェリン・グラック監督  クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』への返歌〜「記号」を解体すること


評価:★★★★☆4つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)


■まずこの作品鑑賞するにあたっての基本姿勢〜マクロからではなくミクロから読み解くべき作品

原作は、サイパン島攻略に従軍した元アメリ海兵隊員、ドン・ジョーンズの著した『タッポーチョ 「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日』と『OBA, THE LAST SAMURAI』の2作品で、もともと大場大尉の見事な戦いぶりの印象を当時の敵の海兵隊が記した本が、元になっています。アメリカ人の手で描かれた日本兵の姿という経緯からしてとても興味深い履歴を持った作品です。

Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45
Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45

あらすじ。

1944年6月、サイパンに米軍が上陸。
圧倒的な戦力の前に、島の日本軍は玉砕した。
僅かな残存兵力を集めた大場栄大尉(竹之内豊)は、ゲリラ戦を行うべく、島の中央部にあるタッポーチョ山に向っていた。
途中で二百人もの民間人が潜む野営地に遭遇した大場は、彼らを守りながら米軍に抵抗を続ける事を決めるのだが、それは長い長い苛酷な戦いの始まりだった・・・・・



基本的にこの映画を見に行ったのは、いつものごとくノラネコさんのお薦めが出ていたことなんですが(笑)、見るにあたって視点の軸が二つあります。


1)クリント・イーストウッド監督の見事な邦画である『硫黄島からの手紙』に対する返歌としての位置づけ〜平山秀幸チェリン・グラック2監督による視点の切り分け


2)マクロとは切り離されたところで、ミクロ視点での帝国陸軍の、普通の(=最良の)指揮官の行動とはどういうものだったのか?


この二点が僕は、この作品を鑑賞する上で、見るべきポイントだと思います。


■クリントイーストウッド監督への返歌としての戦争邦画

この二つの視点はつながっているものなので、過去のクリント・イーストウッド作品の視点の文脈から位置づけてみるといいと思います。クリントイーストウッド監督は、戦争映画の描き方に重要なくさびを打ち込んだ人なので、これ以前と以後の視点は変わって語られるべきだと僕は思います。戦争映画については、常に下記の視点をベースに見続けています。

硫黄島からの手紙 [DVD]

インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

硫黄島からの手紙』 アメリカの神話の解体
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021292764.html

硫黄島からの手紙』 日本映画における戦争という題材
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021294517.html

父親たちの星条旗/Flags of Our Fathers』 
http://ameblo.jp/petronius/theme-10000381975.html

■タイトルが意味不明〜何が奇跡なのかさっぱり分からない・この作品の本質は奇跡ではなく普通であること

基本的に素晴らしい作品だと思うのだが、タイトルのセンスが凄く悪い。・・・何が「奇跡」なのか全く分からない。大場大尉の凄さというのは、奇跡でもなく、歴史に名が残ったわけでもなく(=歴史的には何の価値もない戦いです=戦局に影響しないので)、戦術指揮官としての見事なゲリラ戦でもない。大場大尉の凄さというのは、当時の普通の帝国陸軍軍人の、最も普通の指揮官がどういう誇りと気概を持つものなのか?ということの、明瞭に体現して見せたことに僕はあると思う。ここ重要で、大場栄大尉の行動は、終始、「普通の帝国軍人としての行動」であって、特殊なことはほとんどありません。基本的に、帝国陸軍軍人として、何一つ当時の玉砕に繋がる極端なルールを破っていないんです。つまりね、奇跡じゃないんですよ。非常に普通のことなんです。ここ重要です。「にもかかわらず」、アメリカの海兵隊が彼の本を書いちゃうくらいに非常に尊敬されて、当時のアメリカ軍のサイパン駐留部隊にフォックスという異名をつけえられるまでになるんですね。


何をいいたいのかと言えば、この作品の主張したいこと、元海兵隊の大場大尉の本を書いたドン・ジョーンズ大尉が主張したいことは、アメリカ人にとっては「全体主義に狂った自殺志願者の群れ」である帝国軍人、そして現代の日本人にとっては当然アメリカ(占領軍による価値観の洗脳がありましたからね)とほぼ同じ視点で見るので、同じように「全体主義に狂った自殺志願者の群れ」である帝国軍人に見える「記号」を解体することなんだと思うんですよ。この作品が日本側のパートを平山秀幸監督、アメリ海兵隊のパートをチェリン・グラック監督に任せている2視点を撮っていることから、明らかにクリントイーストウッド監督の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』を意識していることが分かります。そのことからも、同じテーマの同工異曲と言っても過言ではないと思います。

父親たちの星条旗 [DVD]

では、記号の解体とは、どういうことを具体的にさすのか。それは、ミクロのレベルで、一軍人として大場栄大尉が、所属する部隊がほぼ全滅、上級指揮官がほぼ死に絶えている状況で、且つ民間人を率いている、、、そういった状況で、どうふるまうのか?が、日本の軍人の基本的なモラルの在り方を問うことです。だって命令する人が誰もいないんですから。大場大尉には、ある種の大日本帝国陸軍軍人の振る舞いの理念型を見れるサンプルなんですよ。彼の振る舞いというのは、普通の帝国陸軍軍人が、倫理も含めてかなりフリーの状況になった時に、どういうふうに振る舞うのか?ということが見て取れるわけです。・・・・そして、こういう映画や本が生まれるということはすなわち、天皇教に支配された宗教的全体主義国家の黄色いサルマシーンにしか見えない日本軍人が、きちっと記号というフィルターを排除してみると、実はアメリカ人の軍人から見ても気高く素晴らしいプロフェッショナルな軍人であったと、アメリカの側が感じたということでもあります。日本が自らの空虚なプライドのために「おれたちは偉かった!」とかいう右翼的妄想ではなく、ある種の敵から見える客観的な事実として。


さて繰り返しになりますが、敷衍してみていきましょう。既にアメリカ軍にマクロ的に完全に占領されている1944年のサイパン島において、戦局にほとんど影響を与えることのないゲリラ戦を展開することは、ヨーロッパ公法(=ヨーロッパ人だけを人間とみなす、、、と考えるのは厳しすぎる見方か今となっては・・・)の世界で戦うアメリカの普通の軍人にしてみれば、狂っている(=判断ミスをしている)としか思えません。しかもアメリカの大部隊が駐屯している島に47名ばかりのゲリラがいても意味がありません。普通降伏します。「生きて虜囚の辱めを受けず」とか「民間人も含めてアメリカ人は日本人を皆殺しにして奴隷にする※1)」と信じている日本の軍人、民間人は、ヨーロッパの国際法のもとにいる市民感覚としては、到底理解できません。狂った「熱狂的な宗教国家である帝国」の「全体主義国家」でもなければ、そんな狂った考えは、ヨーロッパの歴史に連なる市民なから考えるはずがないからです。しかし、大場栄大尉は、この「生きて虜囚の辱めを受けず」とか「民間人も含めてアメリカ人は日本人を皆殺しにして奴隷にする」という当時の日本人が普通に教育され信じていたことを、逸脱することなく、指揮官として、また人間として、そしてプロの軍人として裁量の判断を示し続けるのです。そしてその姿は、こうしたアメリカ市民にとっては、ファナティツクな背景の前提があっても尚、気高く高貴に見えたということなのです。


※日本のポツダム宣言受託は無条件降伏ではなく、はっきりと条約の公文書に日本の国民の皆殺しにせず、奴隷化もしないもしないこと、という条件が付いています。

ちなみに以下が、原作の序文に書かれたドンジョーンズ海兵隊大尉の言葉です。

序文

「本書を、自らの国のために全力を尽くし、報われることのなかった、現代の日本人の父親たちに、祖父たちに、伯父たちに捧げる。」

あとがき
 私は今日の日本で、1945年(昭和20年)以降に生れた人たちの間では、日本にあった戦争についてあまりにも知られていないことが残念で、この本を書きました。
 これを書く前に、・・・調べてみました。・・・多くの人たちの間に、戦争のことを言うのに恥じる感覚があるということでした。そして、その恥の感覚は、事実に基づいたものではなく、知識の欠如に基づいたものでした。


 この人たちは、自分たちの父や祖父や叔父たちが、自分たちの国を守るために戦った精神について、何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人がしたことになんの尊敬の念も払っていないことです。
 私は、このことをとても残念に思います。日本の兵隊は、よく戦ったのです。彼らは、世界の戦士たちの中でも、最も優れた戦士たちでした。彼らは、自分たちの国のために生命を捨てることを恐れませんでした。私は、そのことを、こういう兵士たちと三年戦いましたから、よく知っています。


 しかしこの本は戦争の物語ではありません。日本とアメリカとの双方で、多くの人たちは自分が作ったわけでもない恐ろしい状況に、どのように反応したか、と言うことを書いた物語です。双方の人たちは、それぞれ信じていたことをしたのです。


 ・・・事実(この本に記した真実を日本人が知れば)によって、現在の知識の真空状態は埋められることになるでしょう。また、先述の恥じる感覚は誇りに変わるでしょう。
 ・・・そして、それらのページは、今日の若い日本の人たちにとってだけでなく、その人たちの子供や孫にとっても、誇りの源泉になるでしょう。それが、私がもっとも強く持っている願いです。


1982年11月 ドン・ジョーンズ

■人間として軍人として、その場でできる最善をやりぬいたものに訪れる清々しさ

最も心に残ったシーンは、最後の降伏のシーン。ボロボロの状態でジャングルのなかで遊撃線を繰り返してへたりきっている状況から、全員が軍装をきれいに整え(洗濯したのだろう!)日章旗を掲げ、見事に揃った規律正しい行進で、「歩兵の本領」を歌いながら米軍へ投降する。アメリカ軍の指揮官を前に、全員が回れ右をするシーンの颯爽たること、見ていて惚れぼれした。降伏の慣習として軍刀を手渡すシーンの凛々しさといったらなかった。規律ある、誇りある軍隊の持つ、形式的な部分だけではないカッコよさ美しさがにじみ出ているシーンだった。降伏であるにもかかわらず、この見事なまでの誇りに満ちたシーンはしびれました。当時の帝国軍人、当時の日本人の持つ誇りと気概をまざまざと、感じさせられました。竹ノ内豊は、さほど器用な役者ではないので、非常に朴訥で普通の人に見える大場大尉を地味に地味に演じています。全く覇気とか妄想とかそういう類とは無縁の普通の人に。そしてこの抑制された演技があるからこそ、整然と並ぶ歩兵の行進のシーンに、偉ぶった奢りや妄想ではない、強い規律を感じさせるのだと思いました。

なぜこんなにもかっこいいのかな?と思ったのだが、それは、この竹ノ内豊演じる大場栄陸軍大尉が、人間として最良の判断を下し続け、何も恥じることも負けることもなく、上官の命令によって戦闘を停止した、ということに尽きるだろう。マクロの視点では大日本帝国は負けたが、ミクロの視点では大場栄大尉とその指揮下47名は、軍人としても人間としてもプライドを保持したまま戦い抜いたことが、事実として迫った来るからだろうと思う。その事実には、帝国陸軍軍人としてルールに従って、直接の上官からの命令伝達がない限り、最後まで(日本が降伏してさえ!部隊が玉砕していてさえ!)最後まで戦い抜いたという皇軍としてのルールを順守しきっていながら、民間人の降伏勧告を受け入れ、守るべき民間人を守り抜くという、人間としての尊厳も守りぬいているという二重の「屈服のなさ」が、素晴らしいのだ。これってフィリピンで戦後戦い続けた小野田少尉も同じなんですよね。上官の正式な降伏命令があるまで、一切の降伏を拒否する。もちろん、最後まで徹底抗戦を望む部下や、指揮に従わないやくざあがりの兵士(唐沢寿明)や、日本が降伏したことを信じない部下、民間人を守らない軍隊に対して憎しみをぶつける看護婦(井上真央)など、多種多様な人間を抱えながら、それでも規律と指揮を維持しきったそのリーダーとして、正しい行動を貫き通していることが、このかっこよさに凝縮されるんだと思う。

そして、大場の葛藤の最大の源と言えるのが、行動を共にする二百人もの民間人の存在だ。

軍隊が最大のプライオリティを置くべきは、敵を攻撃し殲滅する事なのか、自国民を守る事なのかという、軍人としての究極の選択を常に迫られるのである。

まあ大体において、歴史上では前者が優先され、特に日本軍は基本的に国民の軍隊ではなくて天皇の軍隊という思想が根強かったので、多くの民間人が犠牲にされたのは周知の通り。

大場も最初は民間人の面倒を見るつもりは無かったのだが、丸腰の彼らが攻撃目標にされた事で、思い直して保護する事にする。

このあたりの対応を見ても、基本的に彼は優しく、過剰に理念に囚われずに、目の前の状況で何をすべきかを判断できる、非常にロジカルな指揮官だったのだろうと思う。

とは言え、民間人を守りつつも米軍と戦えば、当然多くの無理が出てくるわけで、状況はジリジリと悪化し続け、遂に大場は民間人を米軍に投降させる事を決断する。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/

大場栄大尉の行動は、職業軍人としての究極のアンビバレンツ(二律背反)が、示されている。それは、軍人として


A)敵を殲滅するべきか?


B)無力な市民を守るべきなのか?


という二択だ。基本的に帝国陸軍は、天皇陛下の私兵であって、国民のための軍隊ではない。それ故に多くの市民を見殺し手にしやすかったということはよく言われる。しかしながら、大日本帝国は、現在の日本の基準から見ても十分に憲法があり議会制度が機能する近代国家であって、近代国家の理念として「同胞を守る」という絶対ルールは、もちろん常識として存在している。していなければ、近代国家として、、、リベラルデモクラシーをベースとする近代国家として資本主義のシステムが急激に浸透するはずがはずがない。このへんの近代国家としての日本の成り立ちや構造を俯瞰するには小室直樹さんの本が分かりやすいです。また基本的にこの時代の戦争のパターンは、自国の領土を植民地を獲得して広げてゆき、そこに国民を送り込み、その周辺を守ることで自国の資本主義システムんに組み込んでいくというパターンであって、その重要なポイントはそこに入植する自国の市民を軍隊によって防御することです。


日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する


まぁそんな細かいことを言わなくても、ようは職業軍人の使命と基礎は上記の、AとBにあってそれは連関しているんです。そして最良の指揮官として大場大尉は、この二つの矛盾で悩み続けながら、ゲリラ戦を展開し続けます。ゲリラ戦と言っても、まぁ逃げているだけで、ほとんどまともな戦闘はないですけれどもね。それでも、その行動に、職業軍人としての気高さと誇りを見出したからこそ、アメリカの海兵たちに畏怖を感じさせたんだと思うんですよ。どこでも当たりまのえ常識を貫くことが、極限状態にあってはかなり難しいということなんだと思います。唯一奇跡と言えないでもない部分は、帝国陸軍の慣習としては、民間人保護と敵の殲滅ならば、基本的には敵の殲滅を優先するはずなのですが、大場大尉は、ここでギリギリ悩み続ける部分ですね。とても思考がロジカルで、感情的な情緒論に流されないで、何が国への奉公として最も大事なことか?ということが終始、論理的に考えられていて、人間としてとてもまともな人だったんだなと思います。たとえば、サイパン島は、日本本土を攻撃するためのB-29の前線基地になった場所で、この場所でのゲリラとして徹底抗戦することは、たしかに陸軍部隊としては、絶対死ねないで、生きていきて、なんとして抵抗を続ける必要があると考えるのは、前線指揮官としてマクロの戦略を考えれば地理的条件からいって、非常に論理的だと思う。


■戦争映画でマクロの背景を持たないことのメリットとデメリット

この映画の舞台は、サイパンの戦い(、Battle of Saipan)以後です。この戦いは、大東亜戦争(太平洋戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦いで、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する日本軍第43師団を潰滅させ、サイパン島を占領したその以後の話です。

大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)
大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)

このへんのマクロ的な位置づけは、まったく書かれていないので、見るものは背景の情報保管が必要です。そういう意味では、まず第一に、この戦いの戦略的意義、この戦いに敗れてゲリラとして戦って、生き抜いてでもこの土地で抵抗を続けなければいけないマクロ的な戦略の意義が分からないので、その辺りはとても不満。もちろんこの映画の本質で「語りたいこと」はミクロの大場栄の行動であって、戦争のマクロではないのはよくわかるので、そこを不満に思うのはナンセンスではあるんですが、やっぱり戦争を知らない僕ら戦後の日本人としては、「そこ」の意味も説明してもらわないと、なんでそんなに必死で、狂ったみたいな我慢をしなければならないのか?という合理的な意味合いが???になってしまいます。当時に戦略爆撃機には飛距離に限りがあり、飛行場を置ける島を奪取してその周りの制海権、制空権を確保することが、日本本土への戦略爆撃を可能にする分かれ道になる!という戦略てい意義がなければ、こうした点になって孤立している島で陸軍部隊が玉砕までする意味がわかりません。そもそも帝国陸軍は、中国大陸の大平野で会戦をするための軍隊であって拠点防衛の思想も装備も戦術もまるでない軍隊であって、まったくそういうことを無視してまでやらなければいけなかった意義や背景を知らないと、物語のマクロの理由付けができなくなってしまいます。また、やはりこれは非常にミクロの話であり、まず上記に書いたように戦略的意義が感じられない。また、最初の少し描かれる日本の主力部隊は、ほぼ特攻に近い突入をアメリカ軍部隊に仕掛けて、部隊が全滅した以降「組織レベルでの戦闘」というのはなくなっており、そういう意味では、戦争映画としての「戦闘のカタルシス」というものはほとんどなかった。映画はそうはいってもエンターテイメントなので、これがないのは弱いと思うのだ。特に、僕らは、スピルバーグ監督の『プライヴェート・ライアン』やイーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』のような組織レベルでの戦闘を描けていないだけに、小粒な作品と感じてしまう。上の話に戻るんだが、戦略的位置づけも低く感じてしまう。そういう意味では、イーストウッド監督への返歌としては、見事な映画となっているが、戦争映画としての格としてはやや落ちてしまう。まぁ描きたいものが違うのだから仕方がないけれどもね。あとサイパンの戦いを描いた映画では、舛田利雄監督の『大日本帝国』が少しあったかな。これは、当時の日本を反映して左翼的イデオロギーの視点になってしまいますが。

プライベート・ライアン [DVD]

大日本帝国 [DVD]