『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』12-14巻 渡航著(2) あなたのために人生を捧げますということ

petronius.hatenablog.com

さて、空気の支配を受けないのが本当の友達という結果が出てきた時に、俺ガイルにはもう一つの構造が浮かび上がりました。というか最初から設定されていましたが、この問いが重要に浮かび上がってきたように僕には思えました。再度前回の記事の問題意識に戻ってみましょう。

2011年から2019年までの連載。事実上2010年代を支配した、大きな作品だと思うんですよね。僕はこの作品を見るときにずっと、2つの大きな問題意識を持ってきました。まだまとまっていないので適切な言葉かわからないのですが、

1)リア充と非リア充の対立をどのように超えるか?

2)雪ノ下雪乃という女の子を救うこと-ラブコメは学園を超えられないので家庭の問題には踏み込めないのをどう超えるか?


2010年代の問題意識をもっと抽象化すると、やはり「充実していない」ことになるんだろうか。リア充と非リア充の対立、非モテの問題、「自分は主人公じゃない」「主人公特権を疑問視して剥奪したがる」と言った傾向は、もう一段上のレイヤーがある気がします。この時期の僕のマクロの観察は、


1)日本を含む先進国は、「高度成長期が終わった」という言葉に始まり、「低成長時代が安定期に入った」という認識に進んでいます。


2)しかしながら同時に、中国を中心とした後進国と思われた国々の急激な発展により、南北問題(先進国の北と発展途上国の格差)は限りなく縮小し問題たり得なくなった。


ここでの結論は、マクロ的には、世界の問題は、じわじわと解決に向かっており、問題はないと思われる。気候変動や相対的貧困など、課題がなくなったわけではないのだが、それらはあまりに変動要因が大き過ぎて、既に個人がなんとか世界を救おうとするには、あまりに巨大になり過ぎており、想像力さえ及ばなくなりつつあり、基本的に天災に近い形で認識されるようになっている。


3)格差という言葉が、南と北という地域構造から、グローバルシチズンと取り残された人々という属性に別れるようになった。


4)基本的にリベラリズムが広範に浸透しつつある世界では、公平・平等が見かけ上そろいやすいので、最終的にはその人の内発性による自己責任という自由の問題に行き着く。リバタニアリズムやネオリベラリズムといわれる話ですね。


社会規模の問題解決が、大きな枠組みで深刻なカタストロフに向かわないこと、解決が容易ではない複雑かつ大規模になって人々に認識しにくくなっていることで、、、、要は、言い換えれば、勇者になったり英雄になったりする、自己成長の物語が、説得力を持たなくなっているんだよね。そんな中で生きることはサバイバルにはなる暗い残酷で厳しいのに、そもそも生きる気力や目的が見出しにくいというのが現代。


その中で、僕らの生活世界はどうなっているのか?


わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video


様々な角度で物語が描かれているのですが、一つは、『わたしは、ダニエル・ブレイク』のようなプラットフォームに依存すると、どのように人生がいざとなった時に破壊されてい(苦笑)のか、という来るべき世界への警告。これは、人間の幸せにとって重要な親密圏の絆が、アマゾンやFacebookUberでもなんでもいいのですが、市場原理によって形成されている巨大プラットフォームに依存させてしまうと、いつ何時破壊されるかわからない。また、少なくとも「親密圏の絆の形成」に対しては役に立たない、、、むしろ個々人を分断するメカニズムが働いているよと警告するものです。本当にそうなるかどうかはわかりませんが、ここで語られていることのコアのポイントは、「親密圏の絆の形成」が、個人の幸せ、人間の生活世界においては、最優先事項のものであり、それの形成、維持、発展に資さないものは、ダメだという感得です。


この話、どっかで聞いたことがありません?


難しいことで話したんですが、、、、、2010年代は、2008年のリーマンショックなど経済不況が起こり、先進国の特権的立場が崩壊して、相対性貧困が広がったこと・・・・もう少しくわいく言えば、グローバルシティズンとして生き残れる強い動機、内発性を持って、、、それを育てられる文化資本、、、ピケティみたいな感じですね、を持った人々のみが勝者になって、その他の「取り残された人々」は打ち捨てられた世界で、経済的にも文化的、、、魂の問題ですね、格差の底辺の位置する惨めの充実しない人生を送るしかないという感覚が、広く共有されたんだろうと思います。


僕はこの話を、高度成長が終わったので、「努力が報われない時代になった」という言い方をしました。「頑張っても報われない」がメインメッセージです。こうした頑張っても「自分自身が報われない」ような残酷な世界で、それでも生きる理由は何か?ということに対して、「貧困から絶望的に抜け出せない世界」に生きていても、実は「親密圏の絆にコミット」すれば生きる価値は十分に生まれるし、価値はあるというメッセージが裏に生まれてきました。逆に言えば、相対的貧困であっても、「親密圏の絆」が壊れたいたり、分断されていたり、得られる希望がないと、その地獄はたとえようもなく厳しくなるともいえる。基本的に、近代社会は、分業且つ分断で自己責任の時代なので、コミュニティ(親密圏の絆)、言い換えれば基礎の家族などは、自然発生的にはうまくまわらない。この「壊れているさま」が2000年代は、激しく注目されてきたように思えます。そもそも、親密圏の絆が自然発生的になく孤独でボッチで生きているのが、我々の基本スタートラインなのですから。


この話が、10年代の日本の中では、主に2つの階級闘争的な二元論にして、表現された気がします。


一つは、世代論です。要は、高度成長期を生きた逃げ切った団塊の世代の人々と、その子供の団塊のジュニア以降の世代の対立です。団塊の世代という老害と、それに踏みつけられ搾取される若者世代です。ニート問題とかはこれでしたね。搾取と支配の物語。自立と依存の物語。親世代に搾取されるアダルトチルドレンの物語。

petronius.hatenablog.com


もう一つは、魂の格差問題。要は自己責任論です。いろいろなものは揃っているのだから、「自分自身の内発性、動機を高めて」生き残れ、という例の話です。この時には、言ってみれば、強い動機を持つ人と、そうでない人に世界が二分されます。これを学園ラブコメに展開したのが、リア充VS非リア充、モテVS非モテだったと思います。これは、勝ち組とか負け組とか、世の中のあらゆる価値を至上の評価、「損か得か」で計量して判断しようとすると、生まれる二元論の罠です。経済的に勝っていても、魂は地獄というケースは十分にありうるので、実は、この分断の設定は、ほんとうは単純じゃないけど。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


これらの問題意識は、当時の局面局面では、非常に正当性があったし、現実にミートしていましたけれども、既にこの風景は、2010年代の10年間を過ぎて、古臭くなりつつあるように思えます。それに従って、物語での表現も変わってきている気がします。


ただ大きな枠組みとして変ってていないのは、2000年代、2010年代に大きなパラダイム転換があって、人々が生きている環境の過酷さが格段と跳ね上がっていて、その前提条件として「頑張っても報われない」中で、どうやって生きていけるかというサバイバルの問題意識が強く前面に出てきています。これは、その前の高度成長時代の、希望をベースに頑張って報われるという楽さとの「落差」で表現される時に、最も見事な輝きを帯びるようです。


あまり難しいこと言っても仕方がないのですが僕の思考の履歴は、こういう背景の違いがあって、その中で、学園ラブコメはどうなっているのだろうか?、そして、これを読む中高生の若者はどういう問題意識を持っているのだろうか?、この物語の世界の中にいるヒッキーたちは何に苦しみ喜んでいるんだろうか?というのを考えるのに、こうした隠れた背景は、重要な思考のスタートポイントだと思うんですよね。


そして最初の問題意識。ヒッキーは、充実していない、、、、こと自体は、実は、既に彼は諦めているような感じがあります。これ、ワタモテでもそうなんですが、主人公の自意識の空転具合や、やる気のなさの斜に構えた姿は基本に思えます。最初の記事で語ったように、このやる気のなさ、不遇感を、学園ラブコメ形の物語は、恋人といれば幸せになれると考えましたが、その恋人の数が際限なく増えていくハーレム状態に至って、どうも恋人がいても、世界が閉じるだけで、あまり幸せになれないことに気づきました。恋人とのドラマトゥルギーは、ロミオとジュリエットのような対幻想、、、、自分を「全肯定する」か「全否定」するかという話になってしまうので、自分の居場所としては極端ケースすぎて、受け入れにくいんだろうと思います。


よく「ありのままの自分でいい」とか言いますが、恋が成就してしまえば、次に来るのは生活で、例えば、高校生のカップルならば、端的に「生活するお金がない」という問題に突き当たって、親に家族に支配されている構造から抜け出るのはほぼ不可能です。なので、このルートでは、日常生活のまったりした幸せと居場所、自由が感じられなくなると僕は思うのです。恋が激しければ激しいほど。「ありのままでいい」といっても、働かないと食っていけません。貧すれば、恋は簡単に輝きを失います。


いったん、こちらのルートの評価は置いておいて、じゃあ友達がいい、となりました。この学園世界で友達を探す過程で、友達を作るときに問題となる学園世界のルールと問題が提起されました。リア充やほんとうの友達は何か?という問題です。


リア充と非リア充の対立をどのように超えるか?


という定番の、リア充が恵まれているんではないか?、奴らを倒せばいいのではないか?、もし食いは奴らの秘密を知れればリア充になれるのではないか?という問いかけが、まずなされましたが、これらは全て失敗します。前回に書いたように、比企谷八幡葉山隼人の対立を通して見たそれは、リア充また空気の奴隷であり、結局は、不遇感を持って生きている同じ存在に過ぎないのだということが気づいてしまったからでした。そもそも敵じゃなかった。下手したら相互補完できるので、理解しあえれば同士になる可能性すら高い。属性が違うと、仲良くなるのは難しいのですが(笑)。


行き過ぎましたが、俺ガイルのこの意識の解決は、時代的でした。「奉仕部」という居場所を作る。その活動で学園の問題を解決していく過程で、リア充、非リア充に関係なく、学生生活は問題を抱えている者もで、全てにおいてキラキラしている人なんかいないんだってことが、問題解決のサブエピソードで、あからさまになっていくわけですから。比企谷八幡葉山隼人の対立の話は、男同士でしたが、由比ヶ浜結衣との関係が、友達と恋人の典型的な手順を沿っていて、この二人お似合いだなーとしみじみ思っていました。というのは、要は、クラスカースト最上位と最下位(笑)ラブコメになるわけですよね。お互いにとって共通の目標と居場所ができているうちに、それぞれの「違いの良さ」に相性の良さに気づいていくわけです。嫌ったら相性最悪ですが、好きになったらこれほど違う部分が魅力的なことはないでしょう。


八幡は、確かに空気の奴隷にならずに自分で動ける人ですが、それ故に一人ぼっちになりがち。ゆいちゃんは、空気が読め過ぎて、時々自分の意思か空気の奴隷かわからなくなってしまうけど、その敏感さこそが、仲間を大事にする繊細さでもあるんですよね。


この二人の相性が悪いはずがない。お互いの良いところに気付いて信頼できたら、一発で恋をしちゃうのは、当然だろうと思うんですよ。


ゆいちゃん強すぎ。ガハマさん最強と、LDさんが良く叫んでいましたね。


リア充の彼女が、ヒッキーに惚れていくプロセスは、それはそうだよね、との納得感。


と、ここまでなら、通常のラブコメの話で展開するんですが、ややこしかったのが、


2)雪ノ下雪乃という女の子を救うこと-ラブコメは学園を超えられないので家庭の問題には踏み込めないのをどう超えるか?

これも定番ではあるんですが、奉仕部が女の子二人で、三角関係のラブコメに設定されていたことなんですよね。ラブコメの面白さは、どちらも深い関係を気づいてしまうと、どっちを選んでも、最愛の次に来るような人を深く傷つけるので、選べなくなるって構造ですが、、、、この構造には、とても難しいものがセットされていた気がします。

というのは、奉仕部というのは、この時代の居場所をなくした不遇感から、その不遇感を解消しようというドラマトゥルギーで作られている場所です。ここでの文脈は、恋人ではなくて友達が欲しい、、、、「安定して帰属できる居場所と絆」の確保という問題が重要視されています。僕はこの話が、学園の外に出るとお仕事ものになると思いました。お仕事物も「居場所をどう確保するか」の話だからです。『ハイスクールクライシス』や『ニューゲーム』『冴えない彼女の育て方』の話でしました。学園は卒業という終わりが来るけど、お仕事は終わりがない問い感じでした。

petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com


しかし、あれはあれで、能力が必要!!という身も蓋物ない制限条件があるのですが(苦笑)、学園物では、あまり展開を進めないために、、、、言い換えれば高校生、中学生などの許される範囲内での居場所の確保が前提になりました。先ほど言ったように、恋が愛に進んで、結婚や、セクシャルなものとその果ての妊娠というのは、学生では財力がないので進みにくいのです。百合ものでもゲイでも同じです。世の中と戦って、生活圏を維持するには、金と能力が必須なのです。もちろん、財力と能力があれば、なんでもありになってしまいますが、それは普通の高校生には、共感できません。


なので、ヒッキーとゆいちゃんのパーフェクトカップル(笑)にとって、前提条件で「3人で初めた奉仕部という居場所を壊さないこと」が、とても大事なことになるんですね。これ自体は、よくわかる構造です。恋を進めないならば、せっかくできた奉仕部という「ほんとうの友達の関係性」が大事に決まっているじゃないですか。


でも、


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』青春ラブコメの「ラブコメ」の部分。


そんなの、こんな恋関係性の深い「友達」になって、恋に進むなってのは、酷な話です。


で、ヒッキーと雪ノ下雪乃のラブコメが展開します。が、ここに大きな落とし穴があった。この黒髪ロングヘアーで大人な姉様キャラって、口説き落とすには、、、恋や愛に話が進むには、ものすごい難しい高難易度攻略キャラなんです。学生の身分では、とても落とせない心の闇が広がっている(笑)。

まんま小笠原祥子にも言えると思うんだよね。彼女の人生の問題点が、小笠原財閥の一人娘で直系であるということを抜きにしては語れません。いや、彼女の存在意義の過半を占めるといってもいい。それは何にも彼女自身に救いをもたらさないが、彼女の「人格」はこれによって形成されているし、彼女が「一人娘」である限り、この血の呪縛から逃れることはできないんですよ。



彼女という人格にとって、「本質的な自由」を得るためには、ここを乗り越え解決しなければならない。しかし、これは個人の気持ちではどうにもならないほどの、マクロの縛りなんですね。


そして、当然「このこと」が深く理解できるのは、身内だけなんだよね。ちょっと詳細は忘れてしまったけれども、一時期はフィアンセだったことを考えると、幼少時から柏木優は、小笠原財閥を継ぐ覚悟を求められていたわけで、一番その「意味」が分かっているのは、彼なんですよ。このドラマツゥルギー、いいかえれば、小笠原財閥の後継者問題と家の業を主軸テーマに考えないと、小笠原祥子の救済が描かれなかったも同等なんですよね。ただ、これが、穏やかな癒しに満ちているマリみてシリーズでは、非常に取り上げにくいテーマであることは間違いない。少なくとも、主要な読者層を置いてきぼりにする可能性が高い。だからこれを避けたのは、決して間違いであったとは思わないですが、僕は、「そういうもの」が好きなので、残念に思ってしまうのです。

ただちょっと考えてもコバルトでは描きにくいテーマですよねぇ。確かに。家の問題ってのは、もう年齢層高い話で、すっごくしがらみが大きいし、そもそも血を残すことが重要なんで、はっきりいってセクシャルなものを避けては通れない。優君が、祐巳ちゃん(仮にその弟でも(笑))が好きならば、それこそドロドロですよねぇ(苦笑)。

同時に僕は思うのだけれども、この手の百合関係には心を閉ざした大金持ちの娘ってよく出てくるんだが・・・見事に、その類型ですよね、祥子って。ロングヘアーに黒髪で、ツンツンキャラ。そして、家に縛られているということは、この手のキャラは、とっても「心を閉ざしている」傾向が強い。かつお金持ちの家の、しかも良い遺伝子を持っている場合は、年齢以上に大人びて(家のあり方がその人を年齢以上に大人として振る舞うことを要求する)、且つそれを支えるだけの頭の良さがあるので、内面が複雑に屈折する場合が多い。


petronius.hatenablog.com


一言で言うと、ゆいちゃん強過ぎ、でも、ゆきのんがヒロイン。と言うこと(笑)


彼女を救済するには、ラブコメものにおいてこの手の有能ヒロインの背後にある「家庭の問題」まで踏み込まないとダメなんです。けれども、それは、学校生活における居場所をの破壊につながる行為なんですよ。「学園カーストの空気」をテーマにおいて、リア充を敵視した物語においては、これは難しく、かと言って社会人編あ、お仕事物的にジャンルを超えて「社会人編」まで描くのは、邪道。だって、学園ラブコメってタイトルあるんだもの。『ホワイトアルバム2』ではダメ。これも一つの巨大な系なんですが、既にホワルバ2で踏破されているし、やっぱり、学園を舞台に、解決策が見たい。だって、学園の世界で充実を探す物語なんだもの。俺ガイルは。お仕事系に展開した作品とは違うルートが見たい!。


ホワイトアルバム2 PV2


そこで、マリア様が見てるの問題に戻るんです。構造はこうです。


ゆいちゃんとヒッキー、ゆきのんは、「ほんとうの友達になれた」。この希少な「居場所」を壊したくないから、このままでいたい。


でも、三角ラブコメの定番で、お互いを好きになってしまったので「このままではいられない」。


この「このままでいたいのに」「ここままではいられない」と言うのは、「ほんとうの友達」になった分だけ、ゆいちゃんが特にゆきのんに対して「公平でその人にとって幸せであって欲しい」と言う意識が働くだけに、より強くなります。


ここで課題設定は2つ。


1)学生では解決つかない、雪乃の家庭の問題まで含めてどのように、「高校生の間に(=今)」解決するか?


2)それによって、雪乃のストッパーが外れてしまったら、ヒッキーは、誰を選ぶのか(もしくは二人はどうするのか?)


これが、ものすごく答えにくいものであるのは、当初からわかっていました。一つは、雪乃自体が身を引いている感が強いのは、彼女の家庭の問題というのは、あまりに重く大き過ぎて、学生が解決できるような問題ではないから。そもそも不可能だと思っている。だから本人に解決する動機が弱い。なぜなら、ゆきのんにとって、家庭の問題を本気で解決してもらうのって、ほとんど「ヒッキーを選ぶ、選ばれることになる」から、、、それはすなわち、ゆいちゃんを切り捨てることになるので、「ほんとうの友達になれた」「限りなく最も人生において大事な心の拠り所、居場所」を破壊することに他ならない。



ゆきのんのお姉さんの雪ノ下 陽乃が、いきなり共依存などという、訳のわからない言葉を出しているが、、、、これ自体は、そもそも当てはまらないに、だからどうだっておもうんですが、、、彼女の言いたい意図は、わかります。要は、


ヒッキーに協力してもらうのって卑怯じゃない?(笑)(自分にはいなかった)。


というのと、


問題の大きさから言って、人生をかけて向き合うこと(家の後継者問題・職業の話)なので、高校生のボーイフレンドに頼む話じゃないので、永続性がない。


12-14巻は、全体的にかなり混乱しているし、表現も曖昧なものが多いのは、作者自身が、2010年代の代表作品であるこの作品に、同決着をつけるかが、ゴール地点は見えつつも、それでいいのか、という自問自答が激しく繰り返されているのが文章の密度からか垣間見えます。


僕は、前の回で、一色いろはの生徒会長立候補を手伝うのは、それは悪手だよ、と思いました。


petronius.hatenablog.com


それは、「生徒会のお仕事と居場所」が、ヒッキー、ゆきのん、ゆいの3人の学生生活における最も安定した「居場所になる」し、「変わりたい」けど「変わらないまま」でいられる学園三角形ラブコメの基本構造だからです。それでいいのに、なぜ、わざわざ、「それ」を壊すような行為をする訳???と。雪乃の目標は、優秀なお姉さんを超えて、政治家である父親の職業を継ぐことだとすれば、このキャリアは、必須のものだったはずです。それをわざわざ執行部になって、ゆきのんの武器を減らすのは、愚の骨頂です。こんな「わざわざテンプレートに逆らう」のだから、それ以上の何らかの落ち着き先、解決策があるんだろうな?と読者は思ってしまうじゃないですか。いや実際、その先は考えていたんだなーと感心しました。


12-14のプロム編は、これらの問題を限りなく全て同時に解いています。いや、さすが、と思いましたよ。


まず大きいのは、これが「学園ラブコメ」だってことの意義を忘れないで、雪ノ下家の「家庭の問題」を全て高校生の次元で対処している。なので納得性がある。もう一つは、にもかかわらず、家の問題を抱えた子を攻略するのに、「家の問題と人生そのものまで踏み込んで」解決しようとする問題を全てちゃんと明示していること。この場合高校生であるヒッキーには、打てる具体的な手が、ほぼ完全に皆無に近いことを、その絶望をちゃんと示している。葉山くんは、だから何もできなかった。とらドラの時から、ずっとこの選択肢の問題は考え続けていましたが、目が覚めるような鮮やかな解決方法だったと思います。

petronius.hatenablog.com


ヒッキーの空気を読まないではすまない、常識や社会のルールの押しつけに対して、その前提をひっくり返す行動を示していること。ゆきのんのお母さんとの交渉ね。


家の問題をクリアーして、ゆきのんをその苦悩から解き放つことは、ラブコメにおけるほぼ不可能に思われていた攻略をやってのけたこと。それがすなわち、事実上の「あなたの一生に関わります宣言」が必要なでプロポーズになっていること。だから、あの暗くジメジメしていた(笑)ゆきのんの、この問題が解決した後の、可愛さったら、破壊的です。人間、心を支配する苦悩が取り除かれたとき、それを共有してくれる人に出会った時に笑顔が、どれほど美しいか、よくわかります。これ葉山くんが、まさにやろうとしてできなかったことだから、すなわち、リア充に打ち勝った話にもなっていて、まさに俺ガイルの基本系でもあるんですよね。既に作者は、そんな二元対立古いって切って捨てていますが。


ゆきのん、そりゃあ、あんな固くて孤高の子が、腰砕けになるほどメロメロになると思うよ。


だって、あなたに僕の人生を捧げます、と宣言して、それを行動に起こして、リスクをとって周りを変えてしまうんだもの。


こんなの見せられたら、、、、そうこれは、既に恋の次元じゃない。愛に足を踏み入れていると僕は思う。だからとても美しいものを見た、とグッときました。映画アメリアの旦那さんの時に思ったお話。好きな人のために、すべてを捨ててサポートに回るということ。最近見ている、『ザ・クラウン』の王配の話もそう。男性が主で、女性がサポートであれば典型的な話なんですが、いまの時代は、たいてい主が女性になるところが、時代的だと思う。


petronius.hatenablog.com


僕は、恋と愛の違いを考えるときに、時系列的に少なくとも「愛には責任が発生している」と考えているようです。これは僕の勝手な価値観(笑)ですが。「好きな人を本当に愛する」というのであれば、責任を持つこと、その心の問題の本質に深くかかわって、できうるならば救済までかかわること、そうありたいと願い、人生を捧げること、それが「恋」という一時の熱情ではないものであることを示すこと。


だから、学生には不可能なんです。ほとんど。


具体的なケースで考えると、相手を養えるだけの金がないとダメだ!と言っているわけですから(笑)。なので問題の構造は、明白。お金がない、物理的な権力がない状況で、愛を実現するための方法を、、、何らかの「家庭にまで踏み込む救済」を、どのように納得感をもって実行に移せるか、です。そうか、そういうことだったのか、、、と、ヒッキーのプロム開催の手順や、ゆきのんの母親を交渉テーブルにつかせるまでのはったりには、感動しました。もちろん、はったりです。所詮は。しかし、人の説得は、うそをついたりうまいはったりを言えればいいわけではありません。現実は、そんな甘くはありません。権力は、たいてい暴力と金でしか動きません。しかし、、、、、その本質は、このうそをつくまでのプロセスに、本気を示して、リスクを取り巻くなったことでしした「覚悟」がゆきのんのお母さんと、お姉さんに感染したことにあります。この感情の本気の覚悟の感染のプロセスが、ほんものだったからこそ、保留状況を勝ち取れたのです。ヒッキー素晴らしい。なんてかっこいい男の子なんだ!。抱いて!。いやマジで、僕こんなの好きな相手に見せられたら、抱いて!(笑)って思うと思う。もう、付き合う付き合わないとか、そういう細かいことはどうでもよくて(笑)。


・・・・・ここまでの射程距離で雪乃の問題を解決していながら、学生の範囲を一切出ていない、社会人編までもいかないで解決に持って行ったのは、見事としか言えない作品でした。


そしてすごいのは、、、、


学園ラブコメとして、これすべてがリセットされて、寸止め状態に戻っているんですよね。


なので、形式的には、ゆいちゃんとゆきのんとヒッキー、、、しかもいろはまでワンチャン残している(笑)。この後長い人生、なにがあるかわからない構造になっているじゃないですか。


もちろんゆきのんは、千葉で政治家目指すでしょうし、ヒッキーも手伝うでしょう。でも、その手伝い方は千差万別だし、この覚悟を実行力と示している時点で、もう別の可能性を10年後とっていても、おかしくはないんですよ。何というか、覚悟によってフリーハンドと状況を獲得した訳だから。


これ、見事なエンターテイメントとして王道で終わっていますよね。だって、形上は、誰も選んでいないのだから。誰もが納得のハッピーエンドですよ。かといって、事実上ゆきのん、えらんでるし、えらんでもらっているじゃないですか。


エンタメとして、高校生のうちに、家庭の問題に切り込む方法を示したことでも、この問題意識がないとダメなんだ!と学園ラブコメに埋め込んだこと、、、、これらの作品が「ほんとうの友達を求めての居場所確保」に青春ものであるということをちゃんと弁えて大前提にしていること、、、、などなど、本当に時代の結晶のような作品です。


しかも、全てにオチをつけていながら、エンタメとしての王道感を失っていない。


納得の結末でした。


この2010年代を代表するライトノベルにしてアニメは、居場所を失った不遇感を、どうやって取り戻すかの、見事な具体的な方法を示しています。抽象的答えだけでなく、エンターテイメントとしての王道感を失わずに。


リア充や非リア充やモテ非モテは、虚偽の問題構造。ほんとうは、同盟者になれる「自分が持っていないものを持つ重要なパートナー」。


ほんとうに重要なのは、学園カーストの一時的な身分や役割ではなくて、空気や常識の奴隷にならない自分の意志を通せる意思と行動力。


ほんとうに大事なものを獲得するためには、孤独を通り抜ける必要がある。


「ほんとうの友達と居場所(親密圏の絆)」を確保した後は、さらにもっと深く関係が深まる契機になって、さらに苦しみ悩む。


けれども、深く掘り下げられた関係性からは、様々な未来の可能が豊穣に眠っている。それを前に進めるのは、深い根気と、自分を貫く行動力と意志(あ、反復だ)。


です。だって、プロム編でつちかわれた、先輩、後輩、友人、恋人あらゆる関係性は、既に「本物」です。それは、ヒッキーたちの人生を、さらに豊かにしてくれる価値がある絆になるにきまっています。


そして、千葉で政治家になろうとしているゆきのんには、それにかかわる、ヒッキーには、計り知れない「将来のお仕事」のアセットとなるでしょう。


最後に、千葉という空間に、、、、仮に価値があるものが何がないとしても(そんなことないけど)、、、、彼らの青春時代にかけた膨大な試行錯誤の時間と関係性の「本物」が、そこを唯一無二の故郷することになるでしょう。グローバルでリベラルな現代の問題意識は、言えれ変え可能性。いいかえれば、「ここでなくてもいい」です。どこに行ってもいい。けれども、故郷には、オリジナルな刻印が欲しいです。だって、人間は、そういう生き物だもの。自分の唯一性を感じたいじゃないですか。千葉に、あなたは感じませんか?この物語を読んで?。僕は、感じました。ヒッキーたちがいる千葉って、素敵だな、と。


素晴らしい、青春のお話だと思いませんか?


ヒッキー自体は、いわゆる非リア充の、自意識空転系のぼっちな若者でしたけど、、、、そして、その属性や本質はあまり変わっていませんが、、彼を取り巻く関係性はすべて、本物になっていますよね。学園ラブコメのテンプレートを使って、2010年代に、充実する学生生活の過ごし方を、充実するために本当に何が必要か、ということが、ちゃんと伝わっていると思います。そして、その時あげられた問題意識、自意識の空転は悪か?、いや、自意識強いのは行動に移せれば空気の奴隷になり下がらない価値がある。リア充は、へたしたれら相性最高。だって、お互い持っていないものを持つパートナーになれる可能性が高い。仲良くはなれないけど(笑)。本気でかかわった、つくった居場所は、生涯価値のある「本物」を提供してくれることになる。そして、ヒッキーのように、学園カーストの不遇な世界で何かを為そうと思ったら、「空気や常識に従属しないしと行動力がいる」こと、「普通じゃないことをひっくり返すには自己犠牲も含めたアイディアが一ひねりもふたひねりもいること」、「物理的にどうにもならないことでも絶望を知り、ゲームのルールを見通して、覚悟を示すと人を動かし感染して状況をひっくり返す可能性は十分にある」などなど、めちゃくちゃ生きるヒントあふれていると思う。


ここまでやったら、生きるに値する親密圏の絆がある世界を生きることになるよ。


いやーいい小説だった。


良かった、書き上げられた。誤字脱字、論理とかめちゃくちゃだろうとは思うけど、、、いつものごとく。でも、書きたいことは吐き出せた!


渡航さん、素晴らしかった!素晴らしいも物語をありがとうございました!


10年近く追って好きだったかいがあります!



Academia/最近の動向+後半・俺ガイル最終巻感想 2019/12/07